季節のことば 210日と220日
9月1日・11日頃(今年は8月31日・9月10)

今年は5月に八十八夜(立春から数える)を紹介しました。
当たり前ながら九月に入るとまた約120日が加わった事となり、そう考えると月日の経つのは早いものです。
210日は貞享暦(1684)を作った渋川春海(天文暦学者)によって初めて記入された雑節です。
釣りをするため品川沖に舟を出そうとする春海を見た老漁夫が、「今日は210日、こんな時にはやめなさい」と快晴の空のかなたに浮かぶ一点の黒雲を指して言いました。
果たして午後から大荒れとなったということですから、これに感銘を受けて採用されたのでしょう。
210日も220日も稲の開花期で台風襲来の時期にあたることから、農家でも厄日として警戒しました。
漁業でも農業でも、警戒すべき日の覚え方として以前から使われていた言葉だと思われます。


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                                                          2008−9

平成20年9月号 第1135号

        

H.20. 9月号

自然(おのずから)(みち) 管長 巫部(かんなぎべ)(さち)(ひこ)

本教の教えから導かれる生き方

(神理教を“本教(ほんきょう)”と記します)

人は小さな(初めから)

 先月号で人はいつから神であるのか、についてのお話をしました。

 生まれ来ぬ先、つまり受精して命の火が(とも)ってからが人即ち神であるという教えをご紹介しました。

 決して死んでから神になるのではないのです。

 自分は神などではないと()()することはないし、反対に神であると()(そん)になるべきではありません。

人はその心の内容も体の形も神と同じであることを目指して(つく)られたものから、神と同質ながら極少量の霊魂と神と同じ形の体を持つ小さな神なのです。

人は母の(たい)(ない)(はら)まれてからが神であり、その理由から人としての生き方も(おの)ずから判明します。

ではこの教えから私たちはどう生きればよいのかについて、ご一緒に考えたいと思います。

 

進化には神の意志がある

先々()月も述べたように本教の教えは、人生を前向きに考えるものです。

()月は進化論と確率の話もさせて頂きましたが、もし人や生き物が進化するものとしても、その進化には神の意志が(かい)(ざい)すると考えます。

 科学の力で解明されつつある進化論と一線を(かく)す、進化に神の意志があるという考え方は証明しにくいものかも知れません。

 しかしここに仮説(万歩下がって)を置くと、全ての事が前向きな本教の教え(=人の生き方)に結びつきます。

昔の人が仮説を置くことなく信じてきた事を考えると、神道の考え方は人間が積み重ねた歴史の(えい)()ともいえます。

 私たちは生きる環境と心と体を神が与えて下さったことに気付けば、地球環境も心も体も決して()(まつ)に扱ってはならないことが理解出来ます。

 

霊魂は神からの借り物

 (れい)(こん)についての御教祖の教えを、二代管長伊豆彦様が昭和四(1929)年1月に解説した『()(みず)(まき)』の身のつとめの()(一部意訳)に、

(れい)は神からの(かり)(もの)であり、神の物(神からお借りした霊)は()(れい)にして(きず)のないものである。

疵のない借物は、また神に返す時に疵を付ける訳にはいかない。世間並みの考えを以てしても(その)(とお)りであって、借物には利息がいるものであり、利息を付けて返すのがよろしい。

元々()(きず)であった品物を返すのに、疵を付けたままで返してはいけない。疵がついたならば直すのが(よろ)しい。それでもこの疵は、人間の知恵や才覚では直すことが出来ないものである。だから一心にすがれば、神が直して下さるものである。

けれども無理は言わない方が良い。無理を言わなくても神に任せれば、丁度冬に枯れた木にも春になれば花が咲くようなものである。

無理をすれば木は(つい)に枯れてしまう。是と同じで、人の気が枯れるのを木枯れるとも言う。()()れれば((けが)れるの(ほん)(げん){その言葉の本来の意味}で神からの気が枯れる{行き渡らない})、身には(やまい)(()む・日=神からの気が止まる)・家には(わざわ)いが起こる。】とあります。

 

“身のつとめの()”で伝えたいこと

 霊魂が神からの借り物だと言って、恩を着せているのではありません。

霊魂も体も自分のものと思い違え、粗末にしてはいけないことを教えているのです。

 利息を付けて返すべきとありますが、それはお金や物を捧げるということではありません。

 しっかりと信仰をして徳を積むことが、利息を払う事であると言っているのです。

 また(きず)がついたら直すべきとあるものの、本人に直せと言っているのでもありません。

 神に真剣に祈って罪穢れを祓うことが、疵を直す事だと伝えたいことに気付かねばなりません。

 無理を言わない方が良いというのは、私たちは自分ではそうしていると思ってなくともいわゆる“肩に力が入る”ことがあるものです。

 そこに本教の(おのず)(から)の道があるのです。

 神と波長を合わせるように長呼吸法を行いながら、いつも感謝と共に神を人生の(つえ)とさせて頂く気持ちになることが大切なのです。

 『()(みず)(まき)』では、人の生き方についてこのように前向きに伝えています。

 

(にご)る心・暗い心・迷う心((よこしま)(まがる))・恐れ

昨今親殺しや子殺しの事件が(ひん)(ぱつ)して()れたのか、テレビや新聞にさえ大きく取り扱われません。

 秋葉原や八王子での無差別殺人も、極端な事件とも言えなくなった観もあります。そうした事件を行う予備軍がたくさんいて、条件が合い機会があればいつ起こって不思議がないような気さえします。

犯人は先ほどの前向きな教えなど最初から頭にも浮かばないのでしょうが、それにしてもこのような事件が何故次々に起こるのでしょうか。

 親が子を大切に思い子は親を頼りにする、という感覚は今も昔も変わるはずがありません。

 本心から親殺しや子殺し、また無差別殺人をしようとする気持ちなどあるわけがありません。

 それなのに何故そうした事件が起こるのか。

 それは社会全体に神や祖先を敬う気持ちが薄れ、目に見えない物は信じないという風潮が進み、心の目が(くも)ってきたからです。

 心の目が曇りそして(にご)り、(まよ)う心が()しき行いを呼び寄せるのです。本教の(こと)(だま)の教えに『迷い=(まが)・呼び』とあるのはこのことです。本人達はそんなことをする気がなくとも、曲がった心から体が(あく)(ぎょう)動いてしまうのは恐ろしいことです。

 

清い心・明るい心・信じる心((ただし)(なおし))・楽しさ

しかし世の中は悲観するばかりではありません。

テレビや新聞には暗く悪い事件より小さく扱われていても、明るく善い話も探せばあるものです。

心が清明であれば、子は親の有り難さに気付き親は子どもを(いと)おしく思うのは自然の本能です。

目に見えない神や祖先の存在を感じることが出来れば、心の目は澄んできます。

心の目が澄みそして清く、親子や他人を信じる(迷いと反対)心が尊い神を呼ぶことになるのです。

 こうした人が増えてくると、意識しなくとも私たちの(なおし)の心が(ぜん)(こう)に動くのは楽しいことです。

 

生まれついての自由・正義感・秩序感

 自由と言って、何もかも好き放題にするのが自由ではありません。

本当の自由とは、私たちを生んで下さった父母・神祖と心を一つにすることです。

 人はその霊魂の質が神と同じ神の子であることは、何を(もっ)()(はか)ることが出来るでしょうか。

 例えば幼児を観察したり、自分が幼児であった頃の気持ちを振り返ったりすればわかることです。

 周囲の大人や子どもに()()(じん)行動や()(まま)があった時、落ちついた子どもは正義感や秩序感を誰から教わることがなくとも備え持ち発揮するものです。

 これらの感覚を自然に思考し行動に表したものが、本当の自由と言えます。

 

神のご意志でもある人の生き方・喜びと目的

 人の大元の先祖である神の心(ご意志)とは何か。

 それは、此の世を誰もが幸せを感じる(かみ)()とすることです。

そこで身近な行動は人の役に立つことで、これは例えば経済学で最高の喜びとされる自己実現よりはるかにい次元にあり()つ根本的な喜びです。

その役割は第一に祖先を(まつ)り家族を守る事であり、次に世に役立つことです。

その役割と喜びにさえ気付かず理不尽な犯罪に手を染める人が、(にご)る心…を持つ人です。

反対に家族や世に役立つ喜びを至上の喜びと知り味わう人が、清い心…を持つ人なのです。

世界中の多くの人がここに気付けば、御教祖も祈願された万国の平和となるのです。

神の目的を私たちの目的(神前奉仕・社会奉仕)として働き、私たちの命を輝かせましょう。

その力を発揮出来るように、普段から心身を清め(おこた)りなく神祖にお仕えすることを心掛けましょう。

決して難しいことではなく、行うか行わないかを誰に強制されるものでもありません。

それは私たちの心の内にあるのです。