季節のことば 原爆記念日     8月6日(広島) 九日(長崎)

  昭和20(1945)年八月六日に広島、続いて九日に長崎に原子爆弾が、投下されました。その年の内だけで広島は当時約34万人中14万人、長崎は約24万人中の7万4千人の方々が亡くなられました。
  その後8月15日の終戦記念日と併せて、日本人にとって忘れられない日となりましたが、私たちは新たな気持ちでこれらの日に向かいあえているでしょうか。
  人は神の分霊と教えられ万物の霊長と自負するものの、量の少なさからか欠けている部分も多くあることを自覚せねばなりません。
  記憶力や記憶する書き物や機械を持っていて、それを生活に活かせるからといっても、決して活かし切っていないものです。
  例えば世代が替わった私たちに、体験してない戦争の悲惨さとこれを繰り返さない決意とが本当に伝わっているのでしょうか。
  信仰と同じで世代が変わっても受け継がねばならないのは、日々"吾心清々し≠フ心掛けと声に出すことを忘れないことです。


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                                                          2008−8

平成20年8月号 第1134号

        

H.20. 8月号

自然(おのずから)(みち) 管長 巫部(かんなぎべ)(さち)(ひこ)

人は死んでから神となるのか

(神理教を“本教(ほんきょう)”と記します)

高千穂神社のお()(ぐら)

5月に神理教の議会があり、今年は久しぶりに終了後に懇親を兼ねた研修旅行に行きました。

以前から(たか)()()()(ぐら)を拝観したいという希望があったものの、なかなか機会がありませんでした。

本院からバスで4時間くらい掛かるので、高年齢者の多い議会議員さん達には体力的に負担が多いという配慮もありました。

しかし『案ずるより産むが易し』で、思い切って実現してみると全員お疲れも出ず、無事に過ごすことが出来ました。

途中で阿蘇山の何百年も前の水が湧き出るという白川郷に立ち寄り、(かん)()の神水と有り難く戴いたからかも知れません。

また日本神話の原点である高千穂の幾つかの神社の神域で(しん)()()めたからかも知れませんし、その前に本院でお祓いを受けたこともあるのでしょう。

 高千穂神社では毎晩観光用の神楽を行っていて、それを拝観することが出来ました。

 三十三番の内の特に有名な四番を短い時間にまとめて見せてくれます。

 初心者にも分かるように説明があり、面白くて文化の香りが味わえる素晴らしいものでした。

 夜食事が終わって8時から始まるものでしたから皆さんお疲れと思いきや、「良かった、よかった」と興奮冷めやらぬ様子でした。

高千穂の神社

 翌日は昨夜伺った高千穂神社や(あまの)(いわ)()(じん)(じゃ)などを参拝する位しか時間が取れませんでしたが、ここでも素晴らしい思い出を作ることが出来ました。

どこも歴史を感じさせる大木に(おお)われた由緒ある建物や境内で神の気を感じることが出来ました。

一つの神社では宮司様が正式参拝のお祭りをして下さり、境内の案内も丁寧にして下さいました。

大祓も奏上して下さり、議員さん達が一緒に声を揃えるのを聞いて「驚きました」と言って頂きました。ユーモアと温かい人柄がにじみ出るようなお話しに、皆で笑ったり感心したりしました。

バスの中でもまた「良かった、よかった」言い合いながら帰ったものでした。

 

宮司様のお話

 筆者も皆と一緒に楽しく聞いたのでその場では強く感じなかったのですが、上手なお話しだけに耳に残っている違和感のようなものを後で思い出しました。

宮司様にお手紙を出してお聞きしたことですが、その部分を思い出しながら書き表すと、

『天皇家の御先祖はこの奥に住まわれていました。

人は死んで天に昇り、その中で特に功績の有った人のことを神様と呼び(まつ)りました。

それは天満宮の菅原道真や東照宮の徳川家康等も同じです。

天皇家の発展と共に他の地方では天皇家の先祖である天照大神などを祀る神社が出来ました。

多分この地に住む人々は、

「おい、天皇家のあの人が神になったぞ」と驚いたことでしょう。』

といって笑わせていました。また、

『神社には人の生き方などの教えはなく、それを教えるのが仏教やキリスト教、或いは皆様の神理教なのでしょうね』とお話しされました。

 筆者の心に残った違和感は、神社には教えがないというのもさることながら、

『人は死んで神となる』という部分でした。

 お手紙にも「神道である神理教には古くから伝わった教義があります」とお伝えしました。

人は死んでから神となるのか

・御教祖に伝わった神道の教え

 御教祖は人は神の分霊と教えられ、御歌にも、

生まれ来ぬ 先も此の世も 神なれば

    神にかへれよ 此の神の人  (奉祝祭百首)

(精子と卵子が受精したならば、母のお腹の中も出産してからも人は神なのです。だから自分が神の分霊であることを自覚し、罪穢れを祓って神の心持ちに立ち帰ることを心掛けなさい。)とあります。

御教祖は神道にこそ、人に生きる道を指し示す真の教義があると教えられています。

日本人古来の文化や精神を探求する(こく)(がく)と、巫部家に伝わった古神道を併せて研究すると、人は生まれながらの神であることが明確に分かるのです。

・年齢の数え方(満≠ニ数え)

 最近の日本人は年齢を生まれた年月日からの満≠ナ数えて当然と思い込んでいるようですが、数十年前までは皆数え≠ナ数えていたものでした。

 数え≠ヘ、例えば今年は昭和で数えると83年ですから、昭和52年生まれの人はそれを引くと31でこれに1を足した32才となります。

 現代人は一つでも若く数えたいらしく、数えで言おうとすると目の色を変えて拒否する人もいます。

 昨年神理幼稚園を見学に来られた韓国の教育者は、年齢を数え≠ナ言われていました。

 筆者はこれが本来の数え方だと考えます。

 またこの数え方は生命の認知について科学的であり、同時に(いの)()に優しい考え方でもあるのです。

 即ち精子と卵子が受精した時が命の始まりであり、だからこそ()(たい)などは行うことではないことが、この理解より(おの)ずから納得出来るものだからです。

 性を楽しむのは人の本性と考えて良いのですが、そこに派生する生命に対しても責任を負う事を考えねばならないのです。

・人の(ほん)(げん)(その言葉が持つ本来の意味)

また人≠フ(ほん)(げん)(その言葉の持つ本来の意味)()足り(タリ)(トド)まり≠ニ教えられます。

日は火にも通じ神の霊にも通じることから分け戴いた神霊が満ち足りて止まったもの≠ェ人であるのです。従って古神道神理教では、人は母の体に生を受けてからは神であり、死んだ後に神となることはないと考えるのです。

ダーウィンの進化論と一線を(かく)す本教の教え

 ダーウィンの進化論では人の祖先は猿≠ナあったとか、最近ではDNAを調べナメクジウオ≠ゥらの別れだと研究されている等聞きます。

しかし御教祖の教えはそれらを(いち)(がい)に批判するものではありませんが、一線を画するところがあります。『本教大意』に、

【人の(からだ)は親の(うみ)たるものなれども、(その)(もと)(もと)(うぶ)()()をさかのぼれば人は(ことごと)(しん)(そん)にして、(こと)(たま)(しい)は今も(むす)()の神より賜り、體は(そだて)(なすの)(かみ)(育て成すの神=(くに)()(とこ)(たちの)(がみ)から(あや)(かしこ)(ねの)(かみ)までの()(はしら))(つくり)(おり)(たま)えるものなれば、…】とあります。

 人の心(霊魂)は親を通じて神の分霊を戴くことから神の子孫であり、人の体は天在諸神の内の十柱の神から造って戴いた、と信じます。

 死んで神となるのではなく、人は初めから神の御意志を形に表すものの代表として、言わば天皇家を本家とするものの(あら)(ひと)(がみ)の一人として生まれ出たと考えるのです

 進化とは、()(でん)()(とつ)(ぜん)(へん)()による変化が()(ぜん)(とう)()(良い資質を持った生命が生き残る)されたもの、という研究もあるようです。

また反対にそんな行き当たりばったりのような確率を計算すると、とても今の人間のような高度な生物に行き着かない、という研究もあるようです。

ここを本教で解釈すると、人は神なる自然の子孫ですから、例え最初が原始的な生命であったとしても、神の御意志の元に人が出来たと考えます。

進化があったにしても人は生命誕生の最初から、今の人となる目的のもと( *)成ったのです。

*成る≠フ本言(その言葉が本来持つ意味)=根・在る。

  最初から人を産んで現世を神の世にするという、神の御意志や決められた根≠ノなる道筋があったこと。

もっと言えば、人はその心も体の形も神と同じであることを目指して(つく)れたものと信じるのです。

人は神と同質の霊魂の極少量(神の分霊)と、体という実体を持つ小さな神なのです。

人は生まれながらにして神であり、その理由から人としての生き方も(おの)ずから判明します。

 

本教の教えから導かれる生き方

ではこの教えから私たちはどう生きればよいのかについて、来月号に譲りたいと思います。