戻る
季節のことば 時の記念日 十日(火)

 4月に十一日のメートル法(度量衡)記念日と六月七日の計量記念日を紹介しましたが、今月は時の記念日を紹介します。
 時間厳守は現代社会の常識とはいえ、地方や地域の名前を付けて、例えば『徳力時間』などと呼ばれるものがあります。
 それらはたいていの場合十分とか三十分、或いは一時間位遅れる方が多いようで、例えば十時集合が実際は十一時になるなどです。
 この記念日は大正九年に、時間の尊重・厳守により、生活の改善・合理化をしようと生活改善同盟会が実施したとされています。
 ご主旨ごもっともと頭の下がる思いです。
 日本書紀に大化の改新を行われた天智天皇の十(671)年、四月二十五日に水時計を使って初めて時を打ったと載っています。
 この日を今の暦に直すと六月十日になり、天智天皇を祭神とする近江神宮(滋賀県大津市)では、毎年この日に漏刻祭が行われるそうです。
 近江神宮は別に言霊の神社としても有名で、本教の御教祖も祭神として祀って下さっているようです。


背景色が選べます!


                                                          2008−6

平成20年6月号 第1132号

        

H.20. 6月号

自然(おのずから)(みち) 管長 巫部(かんなぎべ)(さち)(ひこ)

(こん)(にち)(さま)と無信仰の歴史

(神理教を“本教(ほんきょう)”と記します)

神理幼稚園の登園・降園時の挨拶

 神理幼稚園の登園時の挨拶は、『(こん)(にち)(さま)、有り難うございます。()()も元気です。(きょ)()も一日、仲良く楽しく元気に過ごせますようお守り下さい。』

降園時の挨拶は、『今日様、有り難うございます。

今日も一日、仲良く楽しく元気に過ごしました。

明日も仲良く楽しく元気でありますようお守り下さい。さようなら。』

 毎日この言葉を元気一杯に(とな)えますが、前四代管長様が十年ほど前に神様≠ゥら(こん)(にち)(さま)≠ノ変えられました。

「神道とキリスト教などを除けば神という言葉を使わない宗教を信仰する家庭もあるから、今日様の方が広く使える」という理由でした。

しかし神道を大切に思う家庭や本教の教信徒でも、『今日様』って一体何?と感じるようでした。

ましてや保護者には色んな信条・思想の方もおられ、『また何か新しい宗教?』と疑う雰囲気もありました。()()に聞こえる言葉は、返って神理教や神理幼稚園を一般社会から遠ざけないだろうか、と不安に思う教職員もいたようです。実は筆者も、

『別に今日様≠ナなくても、同じ意味ならば神様≠フ方が通りが良いではないか。

時期を見て神様≠ノ戻させてもらおう』と考えていた時期もありました。

 

今日様は昔ながらの言葉

 昨年神理幼稚園の副園長をしている義父が、平成十九年四月二十六日の読売新聞一面の編集手帳を持ってきてくれました。

 俳優の小沢昭一さんを取り上げた話でした。

 (ばっ)(すい)すると、

【…作家関容子さんの対談集「再会の手帳」の中で小沢さんが語っている。

その回想に添えられた小沢さんの言葉がいい。

「言わば今日様に捧げるって事で…」。

その日一日を守ってくれる神様、おてんとうさまー「今日様」という昔懐かしい言葉に久しぶりで出会った。

夏目漱石の「坊ちゃん」にも下宿のおかみさんが「それぢゃ今日様に済むまいがなもし、あなた」と語る場面があった。

以前は誰もが耳にもし、口にもした言葉だろう…】とあります。

昔から普通に使われていた言葉が(すた)れ、今では奇異に聞こえるというのはどうしたことでしょう?

50才を越える筆者自身もそんな話を聞いて、

『ああ、そんな言葉を聞いた気がする』という程度です。とはいえ、そう簡単に切り捨ててよい言葉でもなさそうです。

 逆にもう一歩進んで、懐かしいという人がいる間にこの言葉の復権は出来ないものでしょうか。

 

まだ浅い無信仰中心の歴史

『宗教離れ』が(なげ)きの言葉のように聞こえたのは何十年も前で、今は現実を冷静に見つめる言葉として使われているようです。

 異論もあるでしょうが、筆者は日本に信仰が失われた(信仰する人の割合が大幅に減った)のはこの数十年のように感じています。

 またこれも異論があるかも知れませんが、親殺しや子殺しを始め異様な事件が増えたのも、この数十年のように感じます。

 以前、西欧の経済先進国でもその縮小期(バブルがはじけた時)に異様な事件が連続して起こった話をさせて頂いたことがあります。

 これにも関連しますが、この数十年とは言えない場合(例えば1800年代中頃の西欧先進国)、大都市を中心とする経済的に発展した地域と言い換えることが出来そうです。

 決して経済の発展を悪物扱いするつもりはありませんが、経済の発展と無信仰化は比例する部分があるように思えるのです。

 そこで日本が無信仰(割合が多い)時代に入り、異様な事件が続くのはこの数十年(江戸〜昭和の大都市を除けば)に限られるように思うのです。

 

人類誕生以来の信仰の歴史

人類はその誕生以来、何百万年の歴史を持っている中で、敬神尊祖≠ニいう基本的な信仰は常に持ってきたと確信します。

日本人に無信仰を自称する(占いは信じても)人の割合が増えたのは、逆から言うと何百万年の歴史の中で(大都市では若干あったかも知れないものの)ほんの数十年ではないでしょうか。

しかし長い歴史の中で0.01%にも満たない年月の無信仰でこれほど社会や人心が荒廃するとしたら、恐ろしいことです。

 是非信仰という人類の良い習慣の復権を行い、世の中を良くして行きたいものです。

 

神理幼稚園の保護者への挨拶

 神理幼稚園に通われる家庭の中で本教の教信徒はごく一部です。

 開園当初は地域の要望に応えて作られたものの、本院の周囲には教信徒が多く住まれていたことから、教信徒の割合も多かったようです。

 しかし、時代が変わり畑や田んぼが団地や住宅地になったことで、沢山の人が入ってきて教信徒のご家庭が他へ移ったこともあります。

 そこで今年は神理幼稚園で次のような挨拶文(抜粋)を配らせて頂きました。

・宗教・信仰について

【本園は(宗教法人)神理教本院の境内にありますが、神理教を含めて特定の宗教を押しつけません。

 信仰は先入観や(へん)(けん)のない限り、家族や祖父母との(つな)がりの中で自然に湧き起こる気持ちや行動だと考えるからです。また神理教は日本人が古くから信奉する神道の一派で、“来る者拒まず、去る者追わず”の教風を保っています。

 従って何の信仰をお持ちの方でも入園は可能であると同時に、出来れば保護者の方にはご自分なりの信仰≠お持ち頂きたいと願っています。

 信仰は難しいものではなく日本人が昔から行ってきた良い習わしで、親や先祖を敬い神や自然を尊ぶ気持ちを拝礼の形に表せば良いのだと考えます。

 保護者様同伴の登園時など、境内の神社に感謝の気持ちを持って、手をあわせ頭を下げる習慣をつけてあげれば、自然に心も豊かに育つと信じます。

 園児達には目に見えぬ自然・先祖から見守って戴いている、という宗教的な情操が境内の雰囲気に感じられ・育ってもらえればと思っています】

・今日様について

【数年前から朝夕のお祈りの言葉に『今日様』という言葉を入れていますが、保護者の皆様にも理解頂けるようご説明致します。

『今日様』とは各ご家庭で祭祀(さいし)している神仏また御先祖である、とお考え下さればと思います。

 今日(こんにち)現在(げんざい)を生きることが出来るのは、親から祖父母へと(さかのぼ)る代々の先祖があればこそ、又家族・友人・知己がいればこその事でもあります。

 つまり『今日様』とは、“自分の現在の状態を安全に保ち、あるいは支えて下さるもの全て”を意味する言葉と理解頂ければ幸せで、お子様へもお話し頂きたいと願っております】と説明させて頂いています。

 

御教祖の今日様と無信仰時代の幕引き

 御教祖の(おぼえ)(がき)≠「わゆる七罪の後に、

(こん)(にち)(さま)は、(てん)()(おや)(がみ)(さま)にして、(こん)(にち)(いち)(じつ)あるは、今日様のお陰なり。願はくは(さん)(おん)(神と天皇家と祖先)(ほう)(ふく)のために、今日一日を嬉しく楽しく過ごしたきものなり。】があります。

 これらを考え合わせると、第二次世界大戦以前は大都市の一部の人達を除き、ほとんどの人が信仰を持っていたことが推察出来ます。

 私たちの住む社会から信仰が失われて行く状態は、環境問題もあいまって人類の危機といえます。

 私たちの家族・社会そして日本から本来の幸せが得られると同時に世界に貢献出来るように、少しでも早く無信仰の歴史を閉じたいものです。