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                                                          2008−5

平成20年5月号 第1131号

        

H.20. 5月号

自然(おのずから)(みち) 管長 巫部(かんなぎべ)(さち)(ひこ)

 徳の袋 2

(神理教を“本教(ほんきょう)”と記します)

徳の袋の穴を空ける原因(続き)

・何故他人の短所が見えるのか

 徳の袋のお話しは先月で終わる積もりでしたが、書き出してみると穴を空けたり引き裂いたりする話は結構沢山あるものです。

 読者の皆様も、きっと他にもご自分で気が付かれることが多いことと思われます。

しかし人は完全な生き物ではありませんから、他人様の事には気が付いても、自分の事には気付きにくいものです。

『人の振り見て、我が振り直せ』とはよくいったもので、他人の短所を見せつけられるのは自分の短所を神祖が伝えようとしている≠ニも言えます。

・信仰者が穴を空けることあり

 誰も自分で穴を空けようなど思わないものの、チョットした(おこた)りや気持ちの緩みでそうなるのは、もったいないことだし恐ろしいことでもあります。

 先月、祭官・教師でも穴を空けたり裂いたりしている、というお話しをしましたが、これは熱心な信者にも共通して言えることです。

 普段は熱心なのに、熱心だからこそ参拝しているのに、そこで穴を空けてしまうのは何なのでしょう。

 そんなことならば参拝をしなければ良かった、という気持ちになると、それはそれでもっと深い罪に落ちてしまいます。

参拝をしたからこそ教えて戴くことがある、という気持ちになれれば、もう一段階上の心境に入ることが出来ます。神祖は“お知らせ”を下さるもののそれは“(きた)(こらし)め”であり、決して仕返しのような罰ではないのです。

 

()(きょう)(かい)に、

一、教えの(とが)(びと)となることなかれ。があり、

 ()(うた)に、

願いても (しるし)なきこそ 験なれ

神の教えに (そむ)()てては (教えの百首)

があります。私たちは自分では信仰をしている積もりでも、気がつけば怠りの心などから、今まで上げたような教えの咎人≠ノなっていることがあります。そこで願っても験のない事実から、神祖の守りなど無く神祖などいないとあきらめるのではなく、神祖のご意志を知りなさい、と教える御歌なのです。

 まさに逆転の発想ですね。

 (きた)め”は罪の祓いであり、同時に間違った心の持ち方や(おこな)いを教えようとする神祖からの警報・知らせですから、(うら)みに思うのでなく感謝すべきなのです。私たちはこの“(きた)め”により軌道修正をして、自分の正しい参拝方法・生き方を会得します。

またそれを他人様にお伝えすることが、真の徳積みになることに気付きたいものです。

・参拝の作法は日常生活の元

そこで私たちが徳の袋の穴を空けないための心得を、もう少し付け足します。

 参拝しても一緒に上げる祝詞や唱え詞を口にしなかったり、小さな声しか出さなかったりする人がいます。これでは神徳不信を表明するために、わざわざ神前に来たようなものです。

 声を出すのが面倒なのか恥ずかしいのか、はたまた遠慮しているのか分かりませんが、無意識にそうなっていることに注意することが大切です。

 祭主の声を邪魔するような大声でない限り、しっかりと声を出すことが、言霊の力を発揮し祓いを行い御神徳を戴く自己決意の現れなのです。

これが出来ない人は、不思議と挨拶も出来ていない人が多いものです。自分はしているつもりなのに声に出ず、或いは聞こえないくらいに小さく、頭を下げるなどの動作も同じく無いか小さくなります。

 そうすると目上の人には(おう)(へい)に映り、目下の人には軽蔑されているように感じられます。

 先月お話しした参道を外れて近道をする人も同じで、他人の敷地を平気で横切ったりします。

 それを見た土地の持ち主にすれば気持ちの良いものではなく、また見てないところで他人様の物を減らないからと言って使う心が罪を作るのです。

 参拝の作法は日常生活の元ですから、これが出来ない人は日常でも自分が気付かぬうちに徳の袋に穴を空け、或いは罪を負っているものです。

 参拝をして尚かつお知らせを戴くからこそ、日常生活に気をつけるようになれるともいえます。

・祭官の日常作法

 くわえ煙草で参道を歩いたり、装束・神具・神饌物を扱ったりする人を見ることがあります。また 神前や境内でポケットに手をつっこんで歩く人を見ることがあります。神前にいることに芯からの喜びや畏敬を感じていればそうした行動はしません。

 祭官・教師なのに他の皆様の悪い手本となれば、徳の袋を裂き大きな穴を空けることになります。

 筆者はこうした人を見る時、「ああ!お徳が抜け落ちている」と感じます。

 

徳の袋の穴の(つくろ)い方

 次に徳を貯めるよりも、徳の袋の穴を(つくろ)うことが大切です。いくら入れても出て行ってしまっては、入れるかいがありません。

(しち)(ざい)(はっ)(とく)との比較

 本教では『七罪八徳』の教えがあります。

 七罪即ち、(たい)()(どん)(ふん)(まん)(ゆう)(えん)があり、()()述べましたが先月今月の穴空けやかぎ裂きは、この中にそれぞれ分類されます。

 またこれを(つぐな)(つくろ)うのは八徳即ち、(けん)(こう)(せい)(じつ)(いん)(とく)()(しゃ)(ろう)(えき)(あい)()(こっ)()()(はく)となります。

 しかしここでは、七罪も身近に探したのですから八徳も具体的なものをお話し出来ればと思います。

 破れたり大小の穴が開いたり()()(いた)んだ徳の袋を繕うにはどうすればよいのでしょうか。

・本気・真剣の信仰

 今まで述べてきた行いをする人が(こころ)()の悪い人かというと、実はそうではありません。心根が悪いどころか本来優しい人が多いので、その優しさが言葉や動作をぎこちなくさせている時があります。

ただ言葉や動作が少ないことから人に(うと)まれ、疎まれることから罪を(かぶ)って心が暗くなり、暗くなることから面倒になったり居直ったりするのです。

ではどうすれば良いのでしょう。

 私たちは昭和20(1945)年以来国内で60年以上も戦争のない平和な社会で、気合いが緩んでいるのかも知れません。先ず先祖が歩んできた信仰に目を向け、次に本気で真剣に信仰をするべきです。

 遺言の二十三条に、【神の前に(れい)(けん)なきを悲しむ人、信仰の利なきを説く者あれど、是本気の信仰ならざる(ゆえ)なり。…】とあり、本気で真剣な信仰を教えています。

 時間は少なくとも清祓一本でも吾が心清々し≠竍天在諸神守り給え幸はい給え≠セけでも、真剣に唱える時間を取ることが徳の袋を繕うのです。

・心を入れ替える(生まれ返る)

また、教語の第九十九節に、【人間の霊魂は、再び人間に生まれ変わるのではない。人間が生まれ変わるのは、心を入れかえるのじゃ。…】があります。自分の心や行動に間違いを教えられたり見つけたならば、生まれ変わったつもりで勇気を持って心を入れかえねばなりません。

 

徳を招き貯める

最後に、その袋に徳を招き貯める方法は何でしょう。徳の袋に穴を空ける→徳の袋を繕う事に比べれば、徳を招き貯めることはあっけないほど簡単です。

遺言の第四十五条に、【幸福を得むとして幸福の方をのみ求めむよりは、人の不幸は(いずれ)より(きた)りしかを、よく探知して(おのれ)を慎みなば、幸福は(おのずか)(きた)るべし。】があります。

 目的や根拠のない・ただ惜しい欲しいだけの、他人任せの希望は実現しません。

 即ち徳の袋に穴を空けることをせず、徳の袋を繕うことを行えば(おのず)(から)徳の袋は(ふく)らむのです。

 それに加え、信条二十八条にあるように、【(わざわい)(はら)はねば入り、福は招かざれば来たらざる事を知るべし。】で、自ら招く気持ちも大切です。

 一つはご自分が教師・信徒であるないに関わらず、身の回りの人を本院との縁を(つな)いで差し上げることも大きな徳を招き貯めることになります。

 次に『(ちょう)()(きゅう)(ほう)』も大切で、折角本院や教会に参拝してもこれを行わないのは片参りのようなものです。本院・教会のみでなく、ご家庭の神殿また日々の生活の中でも是非行いましょう。