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                                                          2008−4

平成20年4月号 第1130号

        

H.20. 4月号

自然(おのずから)(みち) 管長 巫部(かんなぎべ)(さち)(ひこ)

 徳の袋 1

 

(神理教を“本教(ほんきょう)”と記します)

目に見えない徳の袋

 人は誰でも目には見えない徳の袋を持っているのだと思います。その袋からある時は出して使い、またある時は()めてゆくのです。

 現代人は目に見えないものが信じられなくなり、目に見えるものにしか心が向きません。

 そこでこの徳の袋について何の気持ちも抱かなくなった人は、私たち本教人の中にも増えてきているのかも知れません。

 

知恵の袋

 現代人は徳の袋より知恵の袋を大事にする傾向を感じます。

 徳の方が大切だと頭で考えたり口に出したりしていても、現実は徳よりも知恵を優先するのです。

 それは子育てで精神的な成長の方が学力の向上より大切だと思ったり言ったりしていても、現実では目先の学力重視の学校を選ぶのと同じです。

 本教の()(こん)(ろん)では()()(つかさど)(たましい)(くし)(みたま)≠ナ、この魂の働きがないと生きる(すべ)を学べないものの、働きすぎると()()()になる等と教えられます。

 知恵というのは響きが良いものの使いようが大切で、悪事を働くために知恵を使ってはいけません。

 また悪事ではないものの、人より知恵があると損得勘定も人より早く、いつも自分に徳になる方を先に選ぶことから、結果的に他人に損を与えることもあります。

 そうなると労力は減り一旦お金や物は増えるものの、徳の袋がしぼむことでお金や物も減り元も子もないことになります。

 筆者の母方の祖父は神社の神主をしていましたが、母や叔父伯母達に人生を教えるのに、

「知恵とチンチンは要る時に出せ」と言っていたと聞きます。

 上品な言葉ではなく申し訳ないのですが、味のある言葉だと時折思い出します。

 目先の利益を得るだけで他人の(うら)みを買うような小知恵は返って邪魔になる、ということのようです。

 御教祖のように幼少時から優れた知恵で見分けた得を他人に譲り、自分は知恵で工夫をしていくらかでも追いつく、という位が理想です。

 目先では損をしているように見えても、実はより大きな徳であり引いては得を得られる、という知恵の使い方をしたいものです。

 相手の得が自分の徳であると同時に最後には自分の得にもなるという、より大きな視野で物事を見る(すべ)なのです。

 このように、知恵は徳を貯めるために使うもので、人を出し抜く為のものではありません。

 

徳の袋の()まり具合

 徳の袋に気付いてはいても、薄くぼやけてしか見えない人が多いようです。

 そうなると気が付かぬうちに出すばっかりになっていて、入れることをしないまま空っぽになってしまいます。またいつもドンドン入れているつもりなのに、本人の気付かぬ穴が空いていて、本人は貯まったつもりでもスッカラカンということもあります。

 恐ろしいことです。穴の空いたことに気付かずにバケツに水を貯めようとするようなものです。

 自分は今徳を使っているのか、また貯めているのか、そしてその差引で貯まった分が穴から抜け出てないか確かめる気持ちを持たないといけません。

 自分のことはいざ知らず、周囲の人を見ていて、

「ああ!徳が抜けている」と感じることがあります。

 

徳の袋の穴を空ける原因

 先ず徳を貯めるよりも、徳の袋に穴を空けないことが大切です。

 貯めようにも自分で穴を空けていては、貯まりようがありません。

私たちはどうしたことをして徳の袋に穴を空けてしまうのでしょうか。

小さな穴から大きな穴まであるようです。

・尊前を(けが)すこと 装飾品

 気づかぬうちに私たちは、神や祖先の尊前で不敬を犯しているものです。例えば尊前で手を合わせる時、指輪や時計をするのはいかがでしょう?

 それは自分が神や祖先の気持ちになって反対側から見たつもりになるとお分かりでしょう。

 目の前に金属や石の飾りの付いた指輪や汗の着いた時計を拍手をするといって突き出されるのは、気持ちの良いものではありません。

 これは尊前に(とが)った刃物や石を突き出さないという昔からの礼儀の延長で、また礼に欠ける派手な服装や(つつし)みのない心や不潔な身体で参拝しません。

・尊前を汚すこと 道筋の心掛け

 参拝途中の寄り道や参道での道を外した近道なども、敬意の表れに障害となります。目的が参拝ならば、行く道は心を清めることに集中すべき参道ですから、心移りの起きる寄り道をしません。

 本院や教会や神社でいきなり清める訳ではなく、行く途中の道も大切な祓いの場なのです。

 本院や教会に着いても定められた参道を歩まずに斜めに外れて近道をしたり、教殿の正面ではなく廊下側の戸が開いているからといって理由無く横入りをしたりしないものです。

 また本院や教会の参道は特別な神域ですし参道を歩くことで祓われるのですから、多少の荷物くらいで車や二輪車で乗り入れることはしません。

 伊勢神宮が日本の心の故郷ならば、本院・教会は霊魂の故郷です。私たちの日常の敬意は必ず初めての参拝者や外部の人にも伝わり、人がいないからという理由等で参道に車が入ることはなくなるのです。

・尊前を汚すこと 祭官

 本教の教師でも気付かぬうちに徳の袋の穴を空けていることがあります。例えば参拝者に清潔を教えるべき立場でありながら、燈台元暗しで自分は汚れた白衣や足袋や破れかけた(ぞう)()を使う等です。

 暑さ寒さしのぎに祭事がないからと言って、およそ祭官らしくない服装で過ごすのも同じです。

 しっかりした神社ではトイレに行く時、小は(はかま)(はず)し大は白衣と()()も取ります。伊勢神宮などは大の後は、古来からお湯で(けっ)(さい)をします。

 袴のままで小が出来るなど、本人は自慢の積もりかも知れませんが、知っている人からは笑われてしまいます。振り掛け?≠ェ付いている可能性のある袴を着けて神前奉仕をしよう、という心掛けはいかがなものでしょうか。

 また一緒に拝む人がついて行けないような早口の大祓や心の()もってないように感じられる祝詞、ぞんざいな拍手や祓い行事、手をつくだけの(はい)や首だけの(ゆう)は不敬の極みです。

 参拝者からも苦情がきますし、参拝者に徳を分けるべき祭官の徳の袋が裂けてしまいます。

 本人にそのつもりが無くとも、悪い形が心を(けが)し汚された心がもっと悪い形を作ることになりますから、いつも見直しの心を持つことが大切です。

・形だけの信仰

 御教祖の『遺言』第八十三条に、

【我が道に入り改式までなしたりとも、()(ごころ)に道を守らざれば、神の見る(ところ)(なお)()(どう)を信ずると(なん)(えら)ばむ。…】とあります。

(本教を信奉し(しゅう)()を神理教に改式{改宗・改教・帰教ともいう}までしたからといって安心してはいけない。形だけに満足して日頃の生活に教えを活かさず、信仰の道を守らなければ、神はまだ他の教えを信じている異教徒に分類され…)徳は得られないということです。

 形だけの信仰は霊感商法やスピリチュアルブームに乗っての占いなど、教えに基づかないその場しのぎの当たりはずれに()らわれることです。また修行を積んだ人や教団にお金を払うなど、他人から買えるはずのない運命を買うような(おろ)かなことです。

 そうした出来るはずもない人任せの信仰から様々な事件が起こり、本来の宗教への不信感となっているのが現状なのは残念なことです。

 

 あげれば切りのない徳の袋の穴をあける原因はこのくらいにして、次回はその穴を(つくろ)い徳を貯める方法をご一緒に考えたいと思います。