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                                                          2008−3

平成20年3月号 第1129号

        

H.20. 3月号

自然(おのずから)(みち) 管長 巫部(かんなぎべ)(さち)(ひこ)

 人生の坂 三つ

 

(神理教を“本教(ほんきょう)”と記します)

人生の三のつ坂をご存じですか

 先日小さな講演会に行った時、講師が参会者に問いかけました。

「皆さん、人生には三つの坂があると言いますが、ご存じですか?」

 筆者はこの話に感心して、早速本院の新年祭の教話等で使わせて頂きました。

 読者の皆様はご存じでしょうか?

 私が問いかけた時、ご存じの方も幾らかおられたようですが、遠慮して黙っておられる様子でした。

 まあ、落語の謎かけではないのですから、参会者に答えを言われたとしても、座布団を取られることはないのですが…。

 

驚きのインターネット(余談)

 パソコンに(つな)いであるインターネットで調べてみると、あるわあるわで驚きました。

 一般常識やそれに(るい)することは、辞書などよりよほど多く且つ詳しく載っているようです。

 近年『現代用語辞典』の(たぐい)のものが廃刊になっていると聞きましたが、インターネットの普及は物や情報の流れを大きく変えるもののようです。

 旅行の情報や料理のレシピを始め知りたいことは、ヤフーやビッグローブという検索エンジンといわれるものに書き込むだけで答えが返ってきます。

 人の名前も人名辞典に出てない身近な人まで乗っていることがありますし、百科事典的な使い方も出来ます。

 

二つの坂

 余談が長くなりましたが、一つは登(上)り坂、となるともう二つは降(下)り坂とのことでした。

 運勢の良くなることが上り坂とすると、悪くなることは下り坂といえます。

 実際の人生でもいつも感じられることでは無いにせよ、結婚や誕生を始め学校での成績や会社での業績が伸び昇進をする時など上り坂を感じる事でしょう。

 若い時には肉体的な成長がそうでしょうし、年を取っても精神的な充実は有り難く思うものです。

 反対に近親者の病気や死には気が()()りがちですし、ましてや自分の病気や成績や業績の悪化は下り坂かもしれません。

 老いて足腰が弱ったり、便りにされず足手まといを感じたりすると下り坂を感じることでしょう。

 

三つ目の坂

 さて、三つ目の坂とは何でしょう。

 上がりと下りは気が付きやすいものの、三つ目は知らない人には当然ながら気付きにくいものです。

 (へい)(たん)な道は坂とは言わないし、考えてしまいます。

 答えを知っている筆者は、家族に聞いてみました。

「三つ目は何だと思う?」その答えを一人は、「お父さん、それは“真っ逆さま”ではないですか?」

と応えました。

 なんという恐ろしげな答えでしょうか。

 確かに“さか”は付いているものの、そんなに(ひど)い坂が人生にあるなどと思いたくもありません。

 時間をおいて別の家族に聞くと、「分からない、なんだ?」というので、「それは“まさか”だ」と答えを告げました。

 そして、「上り下りの坂道や平坦な道もあるだろうが、人生何があるかわからない。

 保険の宣伝ではないが、空から物が落ちてきたり突然の病気に襲われたり交通事故にあったり、色んな事がある。

 だから普段から何事にも対応出来るように平常心を(つちか)っておかねばならない」等と、一応親らしく説教などを垂れていると、突然、「えっ!お父さん“まさか”というのは、そんな悪いことなの?私はまた、宝くじが当たるとか、サッカーの選手に選ばれるとか、良い方のことかと思ったよ」と言うのでした。

いつも人生は上り坂の途中だと思っている筆者も、この言葉には驚きと共に自分の不明を感じ、一瞬下り坂を感じてしまったものです。

 一方に気が付くと他方には気付かない、なんと発想力の乏しくなっていることかと反省しきりでした。

 また、筆者よりももっと脳天気な家族がいることに安心し、同時に心配にもなるのでした。

 

使い道

三つ目の“まさか”という言葉は人目を引きつける言葉でありながら、()()()しの観もあります。

まさかの幸運は急な上り坂であり、まさかの不運は急な下り坂ですから、正確に分類すれば三つ目とは言い難いようです。しかし言葉に()(こと)(だま)があり、それが私たちの心を刺激し自分には思いの寄らない発想をもたらしてくれることがあります。

*言霊=神理教ではこの言葉を二つの役割に分ける。一つはその言葉が持つ霊的な力であり、二つは(ほん)(げん)(その言葉が本来持つ意味)である。

ここの場合は一つ目の霊的な力を指す。

 この話を初めて聞いた時に出る「へえ〜」とか「う〜ん、なるほど」という心を動かす力が、私たちを新しい気付きの世界に連れて行ってくれることがあります。家族への説教に戻りますが、“まさか”があるから少々の事には動じない平常心が大切で、平常心を保つためには目に見えない神や祖先の守りへの信頼・信仰が大切、と言うことにあります。

 

信仰の(けい)()

 目に見える物ばかりに便りがちな私たち現代人は、普段から信仰の(けい)()をしておかねばなりません。

 御教語の第八十七節に、『信仰と云えば、病気災難の時ばかりに、神の広前に来るけれども、その時は、その時々に(さまた)げらるる事ありて、心の急ぐものなれば、無事の時に神前に来たりて、信仰の稽古をなすがよい。』とあります。

(…慌てて神前に助けを求めて来た時には、じっくりと腰を()えた祈りが出来ないから、その場のしのぎだけで本当の意味での救いになっていない…)ことを教えられているのです。

 しかし昨今は、病気になれば医者に行き・精神的に不安定になればカウンセラーがいることから、信仰に思いが至らず、根本からの救いになってないことは残念です。

 読者の皆様には、本院や教会の神事を大切に、ご一緒に祈りの時間を持ちましょう。

 

上りと下り、どちらが多く感じるか

 皆様は今までのご自分の人生を振り返られて、上り坂・下り坂・平坦な道、或いはその両方同時の時もある中で、どの部分を多く感じられることでしょうか。

 精神的に落ち込んだ時には、一生下り坂ばかりに感じる人がいるかもしれません。

 しかし出口のないトンネルがないように、下り坂ばかりの人生はありません。

 下り坂もあるから、上り坂が一層楽しくなるのです。

 筆者自身はこの教えに気付き、祈りで始まる毎日を送る中で振り返れば、先ほども触れたように波はあっても全体に常に上り続けているように感じます。

 ただの脳天気や勘違いに過ぎないと思われるかも知れませんが、勘違いにしても長い間そうした気持ちでいられることはマイナスではありません。

 物心の付かぬ内から境内に住む幸運を得ながらも、教えに気付き祈りの日を送る前後ではまた大きく違うように感じます。

 一人でも多くの皆様とこの御神徳を分かち合え、安心の輪が広がることを祈ります。