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                                                          2008−1

平成20年1月号 第1127号

        

H.20. 1月号

自然(おのずから)(みち) 管長 巫部(かんなぎべ)(さち)(ひこ)

 猿の惑星

(神理教を“本教(ほんきょう)”と記します)

年頭のご挨拶

 平成二十年のお正月、どなた様もおめでとうございます。

 今年も大きな御神徳を戴かれ、健康で豊かな年になりますようお祈り申し上げます。

 

ギリシア神殿

先日テレビを見ると、ヨーロッパのギリシア神殿の様子が映っていました。

 歴史や美術の教科書から想像していた以上に壮大で力強い建造物のように見えました。

 当時のギリシア人が精神的に高い営みをしていたことの(あかし)であるように感じました。

 それは11月号でも述べましたが、決してプリミティブ(原始的)な宗教でなく、宗教のプライマル(基本的)な神道的な要素を踏まえた信仰であったように思えます。

 保存改修工事をしているようでしたが、それを横目に沢山の観光客で賑わっていました。

 少し離れたところからの映像にも、まさに大きな角砂糖にアリが(むら)がるように、何千人もの人が丘の上の神殿の(うち)(そと)をうごめいている様子が見て取れました。

 筆者はその時、紀元前5世紀(約二千五百年前)の神殿を間近にした観光客は、どんな思い・感慨を持って見るのだろうと考えました。

 

信仰のない人にとって

 信仰のない人達にとって、この神殿から感じられるのは史実との関わりや、古代にもこうした高い文化があったことへの芸術性への思いなどでしょうか。

これも悪いことではないものの、筆者には悲しいまでの(むな)しさを感じさせます。せめて、

『どんな信仰だったのか』位思いを寄せて頂きたい。

 虚しさというのは、文化だけではなくそこに垣間見える高質な精神文化に気付くことがないままに通り過ぎて行く人達・時代というものに対してです。

 長い年月を掛けて積み重ねられた気高い精神文化は跡形もなく神殿の廃墟だけがそこに(たたず)み、信仰に関心のない人達が場所によっての神聖さの段階も考えず無造作に歩き回っている。

 神殿という名前から、建てられた目的は知っていてもその内容には心が動かず、関心は目に見える建造物にだけしか行かないというものです。

 それは筆者には、例えば文化に於いて積み上げられた高い水準のコンピューターや飛行機を見ても使うことの出来ない生き物と同様に見えます。

 まさに、昔映画で見た『猿の惑星』が実は地球の未来で、そこに住む進化した猿やその猿に使われる退化した人間達の有様と重なって見えたのでした。

 本質である積み重ねられた高い精神文化の象徴また証拠である神殿を見ても、目に見える史実や芸術にしか関心を持てない、精神的に退化した人間達の様子を見せつけられた気がしました。

 物質にしても精神にしても、その文明・文化が知性ある生き物の前で廃墟になる状態は、もどかしくも(むな)しいものです。

 

信仰のある人にとって

 ヨーロッパで信仰のある人達といえば、新旧の違いはあってもキリスト教が大部分で、残りはイスラム教やユダヤ教でほとんどが占められるように思われます。

 そうした信仰を持つ人達にとって、ギリシア神殿での信仰は()(せつ)で原始的なものに思えるかも知れません。

 ()(せつ)で原始的だったから、キリスト教を迫害したり、祭官の腐敗があったのだと思い込む向きもあるのかも知れません。

 しかし他教の迫害や神官・僧侶の腐敗は、例えばキリスト教でも起きているわけで、宗教の優劣とは本来別の問題です。

 それは個人または社会全体の自己管理能力と意識や、時代の流れや(よど)みの要素の方が多いのです。

 多神教から一神教に進化したと思い込んでいるこれらの比較的新興の宗教は、実は先ほど述べた宗教のプライマル(基本的)な部分まで捨て去ってしまいました。

 新しい物を入れようとする(ざん)(しん)な気持ちは良いものの、旧弊(きゅうへい)を憎む余り古くから伝えられた信仰本来の基本までも捨て去ってしまうという、取り返しのつかない過ちを犯したのです。

 そうしたより高い信仰形態を持っていると勘違いをしている人達も本当の信仰を知らないことは、『猿の惑星』の住人が使い方のわからない昔の文字を見るような物かも知れません。

 こんな気持ちの何千人もの人達に年中出入りされては、ギリシア神殿の神様達もどこかに逃げ出してしまわれることでしょう。

 

私たちはどうか

 さて、人様のことをここまで言ったならば私たちはどうか、ということになります。

私たちは大祭その他の祭事に、何の思いを持って帰院参拝しているのでしょうか。

 私たちは今、神の国日本の古来の神官やギリシア神殿の祭官や信者達が持っていたような気高くも(あつ)い祈りを捧げているのでしょうか。

平成18年2月号で触れたことですが、例えば大教殿が完成した大正8年の大祭に座っておられた先人達と今の私たちは、たとえ血が繋がっていても熱意や信仰心は同じでしょうか。

何人かは同じでも教殿全体に(かも)し出されていた宗教的な情緒や雰囲気は、今も変質していないでしょうか。

 本教の教えが正しく伝えられ、それが生活に活かされる理解と共に受け止められているのでしょうか。

 気が付くと少しづつ退化していって、ギリシア神殿に(むら)がる現代人のように、大教殿に()れるだけの存在に成り下がっていく危機感は常に持っていたいものです。

 猿の惑星のように、文化もさることながら精神的且つ信仰の文化がただの歴史の()(ぶつ)のようになってしまってはいけません。

 日本の神殿は木造であることから、ギリシアの石の神殿のように形も永く遺すこと出来ません。

 

人類本来の教え

 しかし日本には国民の心の中に神道の精神がまだ宿っていますし、本教の私たちにとっては至高の宝である教えが御教祖のお陰でしっかりと伝わっています。

宗教のプライマル(基本的)は何かというと、『敬神尊祖』の言葉に尽くされます。

自然や祖先を尊ぶというもので、これを捨て去った宗教にはないものです。

本教の教えはこの基本を踏まえ、更に古来の教えを伝えて(れい)(こん)(こと)(だま)(じん)(たい)(ぼん)(げん)(ちん)(こん)(きん)(えん)()()()()など教義や神術を体系的に(あらわ)したものです。

 私たちはこの教えを使わせて戴いて幸せな生活を保つと共にこの教えを守り継ぎ、同時に日本人がこれ以上神道の心を薄れさせないように、まず自分が安心し周囲の人にも伝えたいものです。

 この教えは決して日本独自の民俗宗教ではなく人類全体の教えですから、世界中の人達に役立てて頂くのが良いのです。

 初詣もこの教えと御神護を神の心に帰り戴く気持でお祈りされると、御神徳も一層増す事でしょう。