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2008−12
H.20.
12月号 まさかの時 ― (神理教を“ 神道・一般での3つ 今年の3月号で『人生の坂 三つ』のお話しをさせて頂きました。 上り坂と下り坂と“まさか”というのは、何か 例えば神道に また“ そこで1・5・9月をその正月として、家や先祖のお祭りをするというものです。 一般には月を 古代の また地名を 本教での3つ 神道も含み本教でも3という数は色んなところで使われます。 霊魂の居場所として また現世にいる人の信仰の度合いとして 誰もが始めは下根から入るものの、病気災難が治れば御礼をして終わりではなく、病気災難を祖先の信仰への導きとして 中根・上根の信仰へと進み、お願いの信仰から感謝や報告や御先祖の霊魂の安定や社会の平和への祈り等、奉仕の信仰へと昇ってゆくものです。 またその徳の度合いにより死後の霊魂の位である 高い位の霊魂の方が子孫を守る力が強く、子孫を守る力の強い霊魂はより子孫に役立つ事が出来る事から、その喜びも大きいということになります。 この位も御先祖の霊魂としての努力だけでなく、現世にいる子孫が悪をなさず善をなし罪穢れを常に祓うこととの関係において上下するのです。 他にも信仰の三原則(心掛け=感謝・奉仕・反省)や、教えを生活に活かす三行動( 教師や信徒も信仰の進み具合により。大中少の教正や講義・賛教や輔教や信教があります。 まさかの話 3月号では“まさか”を突然の不運としか考えてなかった筆者に、突然の幸運と考える家人の考えを聞き、そんな考え方もあったかと恥じたことをお話ししました。 “まさか”というのはその言葉の通り、思いもよらない事が起きることです。 本教においては例えば、よく次のような話を耳にします。 大変な交通事故にあった→車は大破、乗っていた人は道路に投げ出された(或いは車と一緒に 又、周囲に人や車の交通量が多いにも関わらず、誰にも被害を掛けなかった、等です。 これは大病をして神に祈願して治ったのとは違い、突然の不運にあったものの、幸運?も戴き一命を取り留めたというものです。 不運の“まさか”と幸運の“まさか”が一度に来たのですから 一度に大嵐が来て、そのまま 祈願をする 「本人かその御先祖のお徳があったから、お守り戴いたのよね。感謝しないとね。良かったよかった」と言い合うものです。 それでいいの? そうした言葉を聞きそうした雰囲気を味わう時、筆者は『良かった』の胸をなで下ろすような気持ちがすると共に、 それは『感謝しないと』で終わり、また本当に神前で感謝してもまだ足りない事に気付いてないのでは、と感じる時です。 テレビドラマの『 筆者も高校時代等、今日の 事故にならなかったから運が良いと思い込んで学校に行くものの、良い思いをした記憶もありません。 自慢した友人に思った以上にあきれた顔をされたのと、突然に感じた恐怖感から止めたのでした。 後で考えれば人の迷惑も先祖や親の迷惑や心配にも心に掛けない大馬鹿者であったと、冷や汗どころか思い出すのもおぞましい行いでした。 大人に言わなかったから注意も受けずに済んできたものの、友人のあきれた顔や突然の恐怖感も御先祖から戴いたものと後で気付かされました。 本教を学んで一層思う事は、自分は折角貯めて戴いたご先祖からのお徳を、この時 お金や物だけでなく、先祖の徳という目に見えない財産があることに気付かなかったのです。 お金や物ではないにしても、先祖の徳を使い果たそうとする そこで事故に これも本教においての気付きであり 一つ目は突然の事故があっても無事あるいは軽傷で済んだのは、御先祖が積んで下さった徳のお陰だということです。 徳の無い人はそうした大事故どころか、 そこで先に 二つ目は突然の事故にも救われた事は有り難い事だけれど、同時に自分の命が救われるほど大量の御先祖の徳を使ったと言う事です。 となれば、我が家の現在の目に見えない徳は底を突いている事も考えられるのです。 もしかしたら借金をしているかも知れません。 現代の問題になっている飲酒運転等、捕まらなかった事故にならなかったから運が良い等は、とんでもない思い違いです。 事故がなかったこというで、ご自分と家の徳を そうした事への気付きであり悟り≠ェ大切です。 三つ目は お金や物は増えれば増えるだけもっと欲しいと思うものですが、人は『起きて半畳、寝て一畳』でいつも身に着けているわけには行きません。 権力というものがあるにしても、そうしたものも生きている間だけの事で、 現世の栄華だけで充分で 顕幽一貫して使う事の出来るお徳を天津御空に蔵を建てる程に貯め、先に そしてご自分だけでなく御先祖も教内の人も外の人も皆神の分霊として活き働き、此の世を誰もが楽しめる神の世として行きたいものです。 |