季節のことば 冬の本言(その言葉の本来持つ意味)

今年も最後の月を迎えますが、近年は温暖化の温暖化の影響で寒さも和らいで来ました。
先月7日が立冬ですから、冬は十一月七日から二月三日の節分までとなります。
一般的な冬の語源は、『冷ゆ』・年が暮れ月日が経つ=『経ゆ』・寒さに『震う』・寒さが威力を『振るう』・動物
が出産する『殖ゆ』等あります。
 神道(古語)では冬の本言を『みたまのふゆ=御魂殖=恩頼』と教えます。
寒さや雪に閉ざされ枯れているようで、その実御神徳が充ち生命を増やす準備をしている状態をいうのです。
確かによく目を凝らせば、木々は早くも蕾をつけ、翌春の準備に取りかかっています。
私たちも負けずに自然に併せて、一年の充実期とし次の年の発展に備えたいものです。


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                                                          2008−12

平成20年12月号 第1138号

        

H.20. 12月号

自然(おのずから)(みち) 管長 巫部(かんなぎべ)(さち)(ひこ)

まさかの時  ―(あま)()()(そら)(くら)()てるー

(神理教を“本教(ほんきょう)”と記します)

神道・一般での3つ

今年の3月号で『人生の坂 三つ』のお話しをさせて頂きました。

上り坂と下り坂と“まさか”というのは、何か(きつね)()かされたような気がしますが、日本人は全般に3つに分けて考える事が好きなようです。

 例えば神道に(ぞう)()(さん)(じん)((あめ)()()(なか)(ぬしの)(かみ)(たか)()()()(ひの)(かみ)(かみ)()()(ひの)(かみ))(さん)()()((あま)(てらす)(すめ)(おお)(かみ)()()(のおの)(かみ)(つき)(よみの)(かみ))があります。

また“(しょう)()()(まつり)という言葉がありますが、これは1月〜4・5〜8・9〜12月と1年を3つに分けて、それぞれを1年と見なします。

そこで1・5・9月をその正月として、家や先祖のお祭りをするというものです。

 一般には月を(じょう)(じゅん)(ちゅう)(じゅん)()(じゅん)に分けたり、川を上流・中流・下流に分けたり、天気を晴れと曇りと雨に分けたりします。

古代の()(いか)には木の枝を(ほつ)()(なかつ)()(しず)()と分けて歌ったり、貴族の位を大納言・中納言・少納言に分けたりします。

また地名を(みち)(のく)(りく)(ちゅう)(りく)(ぜん)など分ける事もあります。人にとって3という数は、その内容を覚えたり理解したりするのに整理しやすいのでしょう。

 

本教での3つ

神道も含み本教でも3という数は色んなところで使われます。

霊魂の居場所として()(わか)(みや)(神の国)(うつし)()(今生きている世界)()(みの)(くに)(罪穢れを多く持った人が死後に行く(ところ))があります。

また現世にいる人の信仰の度合いとして(じょう)(こん)の信仰・(ちゅう)(こん)の信仰・()(こん)の信仰があります。

誰もが始めは下根から入るものの、病気災難が治れば御礼をして終わりではなく、病気災難を祖先の信仰への導きとして(とら)えるというものです。

中根・上根の信仰へと進み、お願いの信仰から感謝や報告や御先祖の霊魂の安定や社会の平和への祈り等、奉仕の信仰へと昇ってゆくものです。

またその徳の度合いにより死後の霊魂の位である(うわ)()(おお)(えの)(かみ)(なか)()大兄神・(した)()大兄神があります。

 高い位の霊魂の方が子孫を守る力が強く、子孫を守る力の強い霊魂はより子孫に役立つ事が出来る事から、その喜びも大きいということになります。

 この位も御先祖の霊魂としての努力だけでなく、現世にいる子孫が悪をなさず善をなし罪穢れを常に祓うこととの関係において上下するのです。

 他にも信仰の三原則(心掛け=感謝・奉仕・反省)や、教えを生活に活かす三行動((じっ)(せん)祭り・神前奉仕・教えを学ぶ)等多数あります。

 教師や信徒も信仰の進み具合により。大中少の教正や講義・賛教や輔教や信教があります。

 

まさかの話

3月号では“まさか”を突然の不運としか考えてなかった筆者に、突然の幸運と考える家人の考えを聞き、そんな考え方もあったかと恥じたことをお話ししました。

 “まさか”というのはその言葉の通り、思いもよらない事が起きることです。

 本教においては例えば、よく次のような話を耳にします。

 大変な交通事故にあった→車は大破、乗っていた人は道路に投げ出された(或いは車と一緒に(がけ)から(てん)(らく)した)→しかし(ほとん)()(きず)だった。

 又、周囲に人や車の交通量が多いにも関わらず、誰にも被害を掛けなかった、等です。

 これは大病をして神に祈願して治ったのとは違い、突然の不運にあったものの、幸運?も戴き一命を取り留めたというものです。

 不運の“まさか”と幸運の“まさか”が一度に来たのですから(すご)いものです。

 一度に大嵐が来て、そのまま(かん)(ぱつ)を入れずに晴天が来るようなものです。

祈願をする(ひま)もなかったのですから、ただ運が良いという人もいるでしょうが、本教人としては神と祖先のお守りと言う他ありません。そんな時、

「本人かその御先祖のお徳があったから、お守り戴いたのよね。感謝しないとね。良かったよかった」と言い合うものです。

 

それでいいの?

 そうした言葉を聞きそうした雰囲気を味わう時、筆者は『良かった』の胸をなで下ろすような気持ちがすると共に、()()(かん)(おぼ)える事があります。

 それは『感謝しないと』で終わり、また本当に神前で感謝してもまだ足りない事に気付いてないのでは、と感じる時です。

 テレビドラマの『(びゃく)()(こう)』で話題になった東野圭吾氏の小説に『あの頃ぼくらはあほでした』という題名を見かけました。

 筆者も高校時代等、今日の(うん)(だめ)しと勝手に思い込み、目をつぶって交差点に自転車で突っ込むような命がけのあほな事を何回かした記憶があります。

 事故にならなかったから運が良いと思い込んで学校に行くものの、良い思いをした記憶もありません。

自慢した友人に思った以上にあきれた顔をされたのと、突然に感じた恐怖感から止めたのでした。

 後で考えれば人の迷惑も先祖や親の迷惑や心配にも心に掛けない大馬鹿者であったと、冷や汗どころか思い出すのもおぞましい行いでした。

 大人に言わなかったから注意も受けずに済んできたものの、友人のあきれた顔や突然の恐怖感も御先祖から戴いたものと後で気付かされました。

本教を学んで一層思う事は、自分は折角貯めて戴いたご先祖からのお徳を、この時(ずい)(ぶん)(ろう)()したものだということです。

お金や物だけでなく、先祖の徳という目に見えない財産があることに気付かなかったのです。

 お金や物ではないにしても、先祖の徳を使い果たそうとする(ほう)(とう)(むす)()だったわけです。

そこで事故に()っても無事で済んだのは御先祖の(せき)(とく)のお陰と感謝しなければならないものの、もう一つ気付かねばならないことがあるのです。

 

(あま)()()(そら)(くら)()てる(三つの気付き・(さと)り)

 これも本教においての気付きであり(さと)り≠ニもいえます。

一つ目は突然の事故があっても無事あるいは軽傷で済んだのは、御先祖が積んで下さった徳のお陰だということです。

 徳の無い人はそうした大事故どころか、()(さい)(つまづ)きでも取り返しの付かない怪我となり、精神的・経済的な負担となることがあるのです。

 そこで先に()げた信仰の三原則のひとつでもある“感謝”をすることです。家の神棚、また本院や教会に足を運んで御礼の祈りを捧げましょう。

 二つ目は突然の事故にも救われた事は有り難い事だけれど、同時に自分の命が救われるほど大量の御先祖の徳を使ったと言う事です。

 となれば、我が家の現在の目に見えない徳は底を突いている事も考えられるのです。

 もしかしたら借金をしているかも知れません。

 現代の問題になっている飲酒運転等、捕まらなかった事故にならなかったから運が良い等は、とんでもない思い違いです。

 事故がなかったこというで、ご自分と家の徳を(ろう)()しているのです。

 そうした事への気付きであり悟り≠ェ大切です。

 三つ目は(あま)()()(そら)(くら)()てる事です。

 お金や物は増えれば増えるだけもっと欲しいと思うものですが、人は『起きて半畳、寝て一畳』でいつも身に着けているわけには行きません。

 権力というものがあるにしても、そうしたものも生きている間だけの事で、(けん)(ゆう)(いっ)(かん)して物事を見る(ほん)(きょう)(じん)には(いっ)(しゅん)(えい)()にしか()ぎません。

現世の栄華だけで充分で(かくり)()の幸福など関係ない、と(こう)(げん)する人も増えてきたようですが(さび)しい考え方です。

 顕幽一貫して使う事の出来るお徳を天津御空に蔵を建てる程に貯め、先に()げた(おわ)()(おお)(えの)(かみ)先祖と共に昇るという良い意味での欲を持ちたいものです。

 そしてご自分だけでなく御先祖も教内の人も外の人も皆神の分霊として活き働き、此の世を誰もが楽しめる神の世として行きたいものです。