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2008−11
H.20.
11月号 日本の民族主義(ナショナリズム) (神理教を“ 奉仕の精神 今年の8月26日にアフガニスタンで起こった伊藤和也さんの テロとは政治的目的を実現する為にとられる殺人などの恐怖手段、またはそれを基礎とする立場…、と辞書にあります。 今回のテロ行為について、 伊藤和也さんの属していた奉仕団体ペシャワールの会は、中村哲という医師を代表にパキスタンとアフガニスタンで活動を行っています。 戦争や自然災害で 中村哲さんがその活動を始めたのは、 『義を見てなさざるは勇無きなり』の気持ちからだと聞いています。この場合、 『困っている人を見て助けないというのは、人間の本性を忘れたことだ』の意味だと思います。 テロの理由→主張したいもの この会はテロ行為を行う人達の当面の敵である政府を、軍事的に応援する外国軍とは違います。 あくまでその国の人の為の(自活出来るようにする)活動を、純粋に手助けしようとしている会です。 その国の人の為に行っている事ですから過程や結果に置いて、その国のテロ行為を行う団体や人にも同じく役立っているはずです。 昔の植民地政策のようにまず宗教や文化や福祉を持ち込み、その国の人々を安心させ 侵略の手先などの心持ちでない事は、テロを行う人も分かっているに違いありません。なのに、何故反対するだけでなく、殺人まで犯すのでしょうか。 自分の国に 主張したいもの→民族主義(ナショナリズム) 事件の数日後の新聞に犯行声明のようなものが 『アフガニスタンから全ての外国人が出て行くまで、こうした事を続ける』というものでした。 善悪は別にして、その理由はとても単純で分かりやすいものだと思います。 殺し合いや憎しみ合いの繰り返しの中で、体も心も傷つき そして、その理屈だけを信じ他のものを排除しようとする心や行為が、自分の目先の安心と頼る一本の柱になるのかもしれません。 次に寛容や受容の精神が育つのが健全であるところを、強い憎しみや憎しみを植え付ける組織がその芽を それは落とし穴のような物です。そうなるとそこに踏み 同時にそうした単純な心に導き、その人達を使って死も恐くないという道具に使おうという人や組織があるようです。 もしかすると、その人達をテロの道具に使う人達でさえ正気ではなく、単純な民族主義のブラックホール(暗い心の根源)となっているのかもしれません。 こうした人達は同じ民族であり同じ宗教の人間間だけが信じられるもので、異民族または異宗教の人間は こうした民族主義が、善意の奉仕者さえ殺してしまう原因なのでしょう。悲しくも厳しい現実です。 宗教者のテロ ターリバーンという言葉は『(神)学生』、アルカーイダは『異教徒から侵略を受けたことへの そうした宗教者でもある人達が、理由があるにしろ行ってはいけない殺人を犯すのは何故でしょうか。 ましてや宗教の教えを利用して自爆テロを 私たち神道者に言わせると、 そこで宗教者が寛容の芽を摘み取り、宗教団体が憎しみの芽を育てる組織となることがあるのです。 これらの国で絶大な信頼と尊敬を集める少数の宗教者の言動が、 宗教者の中でもごくわずかの、原理主義をはき違えている人達の言葉に 原理主義といって自分たちの宗教のみを正しいとする考え方は否定しませんが、他の人は殺しても良いという考え方は、本来の宗教に存在しません。 それぞれの宗教にとって受け止め方は違っても、異教徒も人は同じ神の子・ 民族主義から個人主義への危険性 民族主義(ナショナリズム)というのは、分裂している民族の統一をはかる型と、外国の支配からの解放・独立をはかる型の2つに大別されます。 今回の事件での民族主義は後者でありながら、同時に他の民族を一切拒否するという しかしもしこの人達の考える民族主義が達成出来たとして、その国が本当に幸せになるのでしょうか。 そうした囲い込みにこだわると、多分次は自分たちの宗派や地方→自分たちの部族や地域→自分たちの家族→自分だけ、というふうにどんどん単位が小さくなって行くのではないでしょうか。 共通の神も色んな派に別れるように区切られ、ついには自分の神以外はないという、現代人にありがちな感情に 筆者は先ほど述べた原理主義と同じで、民族主義自体が決して悪いのではないと思います。 自分の国を強烈に愛する事を忘れたような私たち日本人は、彼等の 日本人の民族主義(ナショナリズム) 外国の民族主義はアフガニスタンに象徴された全外国人の 平成19年8月号に他教の原理主義と神道・神理教の原理主義を比較したことがあります。筆者は民族主義の考え方も同じだと思うのです。 日本本来の民族主義は、日本民族を大事にしながら他民族も親戚のように思うことです。 毒蛇や毒虫も含む多様な種から生物の調和が保たれるように、五色の人種がある時は互いに悪と思えても、揃って存在する事で調和が保たれるのです。 こう考えると、古神道は古いけれど現代において新しく広い視野から世界を見通していると言えます。 |