季節のことば   太陽暦採用記念日九日(今年は日曜)

明治5(1872)年11月9日に、その年の12月3日から太陽暦を採用する事が決定しました。9月号で紹介した渋川春海 (シュンカイ)の貞享暦(1684)から188年後のことです。
神理教でも相性等を調べる時、生年月日から命の初めである孕み月を逆算し、更に旧暦(太陰太陽暦)を見るというややこしい事をするのはこのためです。
しかし、旧暦の3年に一度の閏月を置くことで、年に2回正月が出来る不便さが解消されました。
この時から1年354日が、今の365日になりました。
決定から一月も経たない明治5年の12月3日が、いきなり翌6年の1月1日となったのですから、当時の日本人はさぞ戸惑ったことでしょう。
明治の激動期だからこそ出来た事かも知れませんが、神理教も現代社会により役立つ為には、このくらいの意識転換をものともしない勇気が必要なのだと思います。


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                                                          2008−11

平成20年11月号 第1137号

        

H.20. 11月号

自然(おのずから)(みち) 管長 巫部(かんなぎべ)(さち)(ひこ)

日本の民族主義(ナショナリズム)

(神理教を“本教(ほんきょう)”と記します)

奉仕の精神

今年の8月26日にアフガニスタンで起こった伊藤和也さんの()()(さつ)(がい)事件は、ご家族や関係者は元より、善意ある多数の人々の心を痛めました。

テロとは政治的目的を実現する為にとられる殺人などの恐怖手段、またはそれを基礎とする立場…、と辞書にあります。()(しょう)の奉仕精神で(ふっ)(こう)を援助しようという人達を殺し(きょう)(かつ)してまで目的を()たそうとするのは、明白なテロです。

今回のテロ行為について、(いきどお)りと同時に何故?という疑問も強く()き上がりました。人を殺して心が苦しくない程の、強烈な思いがあるのでしょうか。

伊藤和也さんの属していた奉仕団体ペシャワールの会は、中村哲という医師を代表にパキスタンとアフガニスタンで活動を行っています。

戦争や自然災害で()(へい)した国を、元の自然も生活も文化も豊かだった時代に戻す手伝いが出来れば、ということのようです。

中村哲さんがその活動を始めたのは、

『義を見てなさざるは勇無きなり』の気持ちからだと聞いています。この場合、

『困っている人を見て助けないというのは、人間の本性を忘れたことだ』の意味だと思います。

 

テロの理由→主張したいもの

この会はテロ行為を行う人達の当面の敵である政府を、軍事的に応援する外国軍とは違います。

あくまでその国の人の為の(自活出来るようにする)活動を、純粋に手助けしようとしている会です。

その国の人の為に行っている事ですから過程や結果に置いて、その国のテロ行為を行う団体や人にも同じく役立っているはずです。

昔の植民地政策のようにまず宗教や文化や福祉を持ち込み、その国の人々を安心させ(かい)(じゅう)してから(しん)(りゃく)する、という下心がある活動でもありません。

侵略の手先などの心持ちでない事は、テロを行う人も分かっているに違いありません。なのに、何故反対するだけでなく、殺人まで犯すのでしょうか。

自分の国に(えき)しようとする善意の支援者を殺してまでの恐怖手段に訴えて、一体何を主張したいのでしょうか。

 

主張したいもの→民族主義(ナショナリズム)

事件の数日後の新聞に犯行声明のようなものが(あつか)われていて、それには、

『アフガニスタンから全ての外国人が出て行くまで、こうした事を続ける』というものでした。

 善悪は別にして、その理由はとても単純で分かりやすいものだと思います。

 殺し合いや憎しみ合いの繰り返しの中で、体も心も傷つき()(へい)しきった時、人はこうした単純明快な理屈にまず帰る場合もあることでしょう。

 そして、その理屈だけを信じ他のものを排除しようとする心や行為が、自分の目先の安心と頼る一本の柱になるのかもしれません。

次に寛容や受容の精神が育つのが健全であるところを、強い憎しみや憎しみを植え付ける組織がその芽を()み取ってしまうことがあります。

 それは落とし穴のような物です。そうなるとそこに踏み(とど)まってしまい、自分と違う人を(はい)(じょ)するという(かたよ)った感情に()(かた)まってしまうのです。

 同時にそうした単純な心に導き、その人達を使って死も恐くないという道具に使おうという人や組織があるようです。

もしかすると、その人達をテロの道具に使う人達でさえ正気ではなく、単純な民族主義のブラックホール(暗い心の根源)となっているのかもしれません。

こうした人達は同じ民族であり同じ宗教の人間間だけが信じられるもので、異民族または異宗教の人間は(はい)(じょ)されるべきと考えるのです。(いっ)(たん)この考えに落ち込むと、(いく)ら善意を持っていると理性が理解しても、本性がそれを否定するのですから、異教徒の外国人など受け入れようがないのです。

こうした民族主義が、善意の奉仕者さえ殺してしまう原因なのでしょう。悲しくも厳しい現実です。

 

宗教者のテロ

 ターリバーンという言葉は『()学生』、アルカーイダは『異教徒から侵略を受けたことへの(けい)(しょう)』ということで、共に宗教的な意味があります。

 そうした宗教者でもある人達が、理由があるにしろ行ってはいけない殺人を犯すのは何故でしょうか。

ましてや宗教の教えを利用して自爆テロを(すい)(しょう)し、死ねば神の世界に行ける等と教え考え違いをさせてしまうのは何故でしょうか。過去の日本にも死ねば極楽・神風特攻隊等痛ましい歴史がありました。

私たち神道者に言わせると、(にく)しみの余り(つみ)(けが)れに染まり、本来の正しいものを見る心の目が(にご)っているとしか言いようがありません。濁れば神道者も落ち込む(かん)(せい)(落とし穴)です。

(にく)む≠ニいう感情も悪を区別する為に神から与えられたものでありながら、それが行き過ぎて自分や他人を傷付けてしまってはいけません。

(つみ)(自分の心を憎しみで包み隠す)となり、(けが)(神と先祖から戴くべき気が枯れる)となります。

そこで宗教者が寛容の芽を摘み取り、宗教団体が憎しみの芽を育てる組織となることがあるのです。

これらの国で絶大な信頼と尊敬を集める少数の宗教者の言動が、(じん)(だい)な被害をもたらしています。

宗教者の中でもごくわずかの、原理主義をはき違えている人達の言葉に(まど)わされるのです

原理主義といって自分たちの宗教のみを正しいとする考え方は否定しませんが、他の人は殺しても良いという考え方は、本来の宗教に存在しません。

それぞれの宗教にとって受け止め方は違っても、異教徒も人は同じ神の子・(いつく)しみを受ける者・守られる者と考えるのが自然で理性ある教えです。

民族主義から個人主義への危険性

 民族主義(ナショナリズム)というのは、分裂している民族の統一をはかる型と、外国の支配からの解放・独立をはかる型の2つに大別されます。

 今回の事件での民族主義は後者でありながら、同時に他の民族を一切拒否するという(から)()もる考え方です。

 しかしもしこの人達の考える民族主義が達成出来たとして、その国が本当に幸せになるのでしょうか。

 そうした囲い込みにこだわると、多分次は自分たちの宗派や地方→自分たちの部族や地域→自分たちの家族→自分だけ、というふうにどんどん単位が小さくなって行くのではないでしょうか。

 ()は国民が(しいた)げられる独裁国家成立となり、(やみ)(くも)(ふん)(そう)()()(ぎわ)(がい)(こう)(など)の危険が生まれるものです。

 共通の神も色んな派に別れるように区切られ、ついには自分の神以外はないという、現代人にありがちな感情に(おちい)ってしまうのです

 筆者は先ほど述べた原理主義と同じで、民族主義自体が決して悪いのではないと思います。

 自分の国を強烈に愛する事を忘れたような私たち日本人は、彼等の(へそ)のゴマでも輸入して(せん)じて皆で一緒に飲みたいくらいです。しかし受容や寛容の精神が育ってない民族主義は、どうにも頂けません。

 

日本人の民族主義(ナショナリズム)

 外国の民族主義はアフガニスタンに象徴された全外国人の(はい)(じょ)というもので、そうした動きはヨーロッパの先進国や現代日本にも存在します。国益の分配は自分たちの民族だけに限りたいというもので、この考えも最後は自分だけ、ということになります。

平成19年8月号に他教の原理主義と神道・神理教の原理主義を比較したことがあります。筆者は民族主義の考え方も同じだと思うのです。

日本本来の民族主義は、日本民族を大事にしながら他民族も親戚のように思うことです。(こと)に本教は世界と(いつ)(いろ)の人種は()()()()()()()(みの)(みこと)から()まれたという教えがあります。だから日本を愛するように、他国とも同じ神の子孫として喜びを分かち合えるように工夫をするべきということになります。

毒蛇や毒虫も含む多様な種から生物の調和が保たれるように、五色の人種がある時は互いに悪と思えても、揃って存在する事で調和が保たれるのです。

こう考えると、古神道は古いけれど現代において新しく広い視野から世界を見通していると言えます。