季節のことば 神無月

旧暦の十月を神無月といい、今の暦でも使われています。
日本中が神無月の中で、島根県だけが神有月というそうですが、それは十月に全国の神が出雲大社に集まるからだと言われます。
故四代管長様はよく冗談で、「出雲大社の策略に他の神社が負けたのだ」と言われていました。
確かに他の地域に神様がおられなくなることなどあり得ません。
神無月の名前の由縁は、他に『雷の無い月』とか新穀を使って酒を醸す『醸成月』がなまった、という説もあるようです。
筆者は秋の夜長に大祭で皆様と酌み交わすお酒が頂ける、『醸成月』説に一票を投じたいと思います。


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                                                          2008−10

平成20年10月号 第1136号

        

H.20. 10月号

自然(おのずから)(みち) 管長 巫部(かんなぎべ)(さち)(ひこ)

入り口(基本)(さと)(安心)とより深い悟り

 

(神理教を“本教(ほんきょう)”と記します)

入り口(基本)(さと)り・祓い

本年2月号(本教ホームページにも記載)で、

(さと)”の一つに“(はら)”を紹介しました。

 “祓い”は神道信仰の基本であり、初心者から(じゅく)(れん)(しゃ)まで、その気持ちになれば何時(いつ)でも何処(どこ)でも誰でも出来る御神徳の戴き(安心と気付き)方です。

祓えば戴ける・祓わなければ戴けない”ということに気付けば、次は祓う事に意識を向ければ良いのです。御教祖の御歌に、

(きよ)ければ 神は寄るなり ()き清め

祓い清めて 神祭りせよ (人道百首)

 とあるように、まず物理的に(しん)(ぺん)を清潔に整理し霊前を()(或いは()き)清めることです。

次に精神・霊的に祓い心を(しず)める事を行えば、神は寄り添って下さり、例え望まずとも御神徳が自然に戴けることに気付く事が悟りの一つです。

 本年5月号でもお話しした遺言(ゆいごん)第四十五条には、

『幸福を得ようとして幸福の(かた)ばかりを求めるより、人の不幸はどこから来るのかもよく探知して(おのれ)(つつし)めば、幸福は(おのずか)(きた)(現代訳)』とあります。

(幸せやお金や物や望みが得られるよう神に願うより、まず自分の周囲と心身を祓い清めなさい。

そうすれば特に願わなくとも、自然に望みは(かな)い幸せを得る事が出来るのですよ{意訳})ということです。私たちは神前・霊前に進むと、つい願い事ばかりをしてしまいがちですが、まず自分の身辺を清め祓いを行い心を鎮める事が大切なのです。

願ってばかりではなく受け止める態勢がなければ、御神徳は(そば)を流れ過ぎて行くばかりです。

御神徳は願わなくとも空気や水のように、常に流れ来て周囲に戴いているのですから、私たちはそれを受け止め受け入れる心掛けを実行するべきです。

これが入り口(基本)の“(さと)り(安心)”である“(はら)”です。

 

日常(普段)の祓い

 では日常(普段)の祓いの心掛けとは何でしょうか。

・日常の祓い1(物理的な(しん)(ぺん)と霊前の清め)

 まず身辺の清めは、自分の体を清潔にし・身なりを正し・周囲を(せい)(とん)る事です。

 身なりを正すといっても、決して高価で新しい衣服を身に着けることではありません。

 安価でもまた古くとも、清潔であれば良いのです。

 御教祖も着る物には(とん)(ちゃく)せず()(おり)(ひも)などは紙の“こより”を代用していたと伝えられます。

しかし医師の経験もあることですし、清潔には気を付けられたことでしょう。

(あり)()(がわの)(みや)(さま)面会に来られた御教祖の(せい)(ひん)さに驚かれたことが伝わっています。

 高価な物や新しい物を身に着けなくとも、身辺の清潔は確保出来るのです。

 次に霊前の清めは、家の神殿・出来れば本院・教会のご神前の清掃奉仕をされることです。

 家では毎日神棚の水を新しく替え、月に2回は御神酒や米・塩を替えます。

 新しくご(はん)()いた時は“お()き”などでお供えし、毎日お茶を捧げる事は御先祖が喜ばれる事ですし、榊は枯れないよう週に一度位は水を替えます。

 社会奉仕(ボランティア)は、これが出来た後に行う事です。

 これらは日本人が昔から行ってきた自然の事で、これを行わなくなってから、今の日本は変わってきているのではないでしょうか。

 目に見えない物は信じないという理性(まが)いの考え方が、私たちの考え方を返って(せば)めているようです。

 目に見えない神や御先祖の存在を感じてこそ、広い意味での判断が出来、無責任な無差別殺人など起こらないのです。

・日常の祓い2(精神・靈的な心の祓い)

 精神・霊的に祓い心を(しず)める、といってもそんなに難しい事ではありません。

 4・5月号の“徳の袋”や先9月号の“生き方”等でお話しさせて頂きました。

 また日常の心掛けである七罪八徳は5月号で紹介しました。七罪が御教祖の遺言(ゆいごん)四十五条でいう『…人の不幸はどこから来るのかもよく探知して(おのれ)(つつし)め…』であり、八徳が“(はら)”です。

この部分の話は他とも(ちょう)(ふく)するのでここでは(くわ)しく()れません。ただ神棚の水を替えた時に、清祓一本でも真剣に上げることや、いつも“吾が心清々し”を(とな)(こと)(だま)の力を戴く等は大切です。

 

より深い悟り

松本清張は小説『神々の乱心』の登場人物に、

「神仏に一身を任せれば病気も(なお)る家も(はん)(じょう)する等、総ての宗教は(げん)()()(えき)から信者を(かく)(とく)する。キリスト教の奇跡談・仏教も同じである」と言わせています。多くの宗派は現世利益が同時に悟りも得るかのように、人の(よく)(しん)(こう)(みょう)(そう)()して(せん)()します。

そうではなく、悟り(例えば祓い)の境地が自然と現世利益も戴ける事をこそ悟るべきなのです。

人皆の現世利益は神の希望でもあるのですから。

・教育技術主体の教育と気付きを(うなが)す教育

 数日前、私立小学校の理事長・校長をされている方と話をしました。

 教育の世界ではほとんどの学校が(ぜん)(じん)(きょう)(いく)(うた)(もん)()にしますが、その手法は様々です。

学力・体育・音楽等の教育技術の向上を通して、人格の形成を目指すと訴えます。しかし中には学力・体育・音楽等に重点を置き過ぎて、真の人格育成とのバランスに於いて疑問符の付く学校もあります。

この方が言うには、疑問符の付く学校もあるというより、疑問符の付く学校の方が多いと(なげ)かれるのでした。更に(なげ)くと言うより(たっ)(かん)の境地を持ちながらも、児童本来の秩序感や正義感を持った性格を自然に育てる()(とも)教育への関心が薄いとのことです。

達観というのは、真の教育について世の関心があまりに薄い事から児童が集まらない事についてです。

いわゆる目先の受験への(人格はさておいて)強さを強調する学校が()()るのです。

(げん)()()(えき)の宗教と気付きを(うなが)す宗教

 宗教の世界でもほとんどの宗派が悟りや平和や幸福を(うた)(もん)()にしますが、その手法は様々です。

修行・祈り・願い事の達成等を通して、霊格の形成と平和や幸福を目指すと訴えます。

しかしこれも中には修行・祈り・願い事の達成等に重点を置き過ぎて、真の霊格育成とのバランスに於いて疑問符の付く宗派もあります。

筆者に言わせれば、疑問符の付く宗派もあるというより、疑問符の付く宗派の方が多いと(なげ)きたくなるところです。更に筆者も歎くと言うより達観の境地を持ちながらも、人本来の幸せや世に役立つ喜びを日常の信仰生活から自然と(きず)き上げる()(とも)宗教への関心が薄いと感じます。

 達観というのは、真の宗教について世の関心があまりに薄い事から信徒が集まらない事についてです。

 いわゆる目先の現世利益(霊格はさておいて)を強調する宗派が流行るのです。

 一言付け加えさせて頂いたのは、その理事長・校長でさえこんなに近くにある本教にまだ関心が薄いのではないか、ということでした。

まあ私たちは教育や宗教等、目先の受験合格や()()(やく)等目に見える得が無い限り、教育や宗教の(かく)(しん)関心を持ちにくいのかもしれません。

しかし教育者が宗教に、また反対に宗教家が教育に共通点を感じず関心も持たないのでは困ります。

 教育の原点は、()(とも)な宗教であるべきです。

・真の教育と真の宗教(誠の悟り)

 この理事長・校長と筆者との教育についての共通認識は、次のようなものです。

その学校の基本理念である人間教育とその手法である環境が達成された時、結果的に受験にも打ち勝つ強い精神力や学力が人格と伴に育つことです。

実際にその学校の兄姉校では、相当数の人格と学力の両立した人材が育っているようです。

難関の学校を卒業し大企業に就職しても、家庭が壊れたり事件を起こしたりでは、何にもなりません。

 筆者は宗教についても、強く共通点を意識します。

 本教の基本理念である“誠の悟り(真の安心)”とその手法である“(はら)”が達成された時、結果的に現世利益が戴け役立つ喜びが霊格と伴に築かれます。

そこに本教の存在理由が有ります。大元の神や教えへの気付きを(うなが)し、元から正す教えが永く大きな御神徳が戴ける事で、これが“より深い悟り”です。

 決して数多くの教信徒を望むのではなく、よりい霊格を築こうされる教友と、(けん)(ゆう)(いっ)(かん)した人生の喜びを共に分かち合いたいと念じます。