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                                                          2007−9

平成19年9月号 第1123号

        

H.19. 9月号

自然(おのずから)(みち) 管長 巫部(かんなぎべ)(さち)(ひこ)

 柱になる

(神理教を“本教(ほんきょう)”と記します)

国の柱

表題の柱≠ニいう字は、神・霊または高貴の人を数えるのに用います。

例えば()()()(ぎの)(みこと)()()()(みの)(みこと)()(しん)とも(ふた)(はしら)ともお呼びしますし、戦争で亡くなった人を国の守りと(たた)えて何柱などと数えてお呼びします。

 今年七月の夏期講習会は三十三人の参加があり、朝の(みそぎ)から午前中の講義・午後の祭式・夕食後の(がく)や祭式の復習と皆熱心に修行されました。

 その朝夕の神拝式でお話しさせて頂いた一部を、肉付けしながら紹介します。

 先月述べさせて頂いたように、本教は神道の自然で平和な原理主義≠ナす。

 神道本来の教えは、人知の及ばない宇宙の創造から現代、また未来へ続く道を(おのず)(から)(かん)(ながら)の教えから()し測ります。

そしてこの世が存在する理由や人としての役割を理解することから、一貫した哲学や生活の知識が生まれてくる教えです。

神に与えられた目的を理解し、それを自然に受け止めてきた、という歴史が原理≠ネのです。

目的というのは、『私達が生きている(けん)≠フ世界に神の世を現出する努力を楽しむ。そして、目に見えない(ゆう)≠フ世界の祖霊を正しく神の世界に導き子孫を守る喜びを得る』という(けん)(ゆう)(いっ)(かん)した活動に生きる喜びを見出すこと≠ノあるのです。

 日本は建国以来、政治権力の(へん)(せん)の中でこの目的を(ばく)(ぜん)とさせながらも、常に天皇陛下を精神的な支柱としてまとまってきました。

日本の国の柱は天皇陛下、ということになります。

 

日本人の誇り

 しかし本教では天皇陛下を日本の国だけの柱とは考えません。

 七月の夏期講習会に合わせて、御教祖の初めての著書である『(あま)()()(むす)()(こう)』の直訳本、続いて意訳本を作成しました。

 この本にも、また本誌で直訳化している今月号の『教祖の道統』にもありますが、日本は神が定めた本系国≠ニあります。

 御教祖は私達に、「だからこそ日本人は自信を持ちなさい」、と勇気付けられているのだと受け止めたいものです。

 日本人に気付いている人は少ないようですが、二千年にわたり万世一系の天皇家は、世界的にも驚異と共に尊敬される存在です。

 

世界人類の柱

(あま)()()(むす)()(こう)』にも、

【日本は()()()(ぎの)(みこと)()()()(みの)(みこと)が地球に(こう)(りん)された(しん)()(こく)(神の世界の首都)です。

また天照皇大神は天皇を(おお)()()(地球の主宰者)と定めました】とあります。更に、

【この(あまつ)(かみ)(おお)()(みち)(かん)(ながら)(神の心のままに・自然に)伝えられたものです。

従って武力を用いて無理矢理に従わせるのではなく、言葉で明らかにこの道を理解出来るように説くものです】と教えられています。

仏教やキリスト教やイスラム教との教義が似ているようで全く違うように、その(せん)()の方法も全く違うものなのです。

世界に類を見ない万世一系の天皇は、世界の精神的な支柱としてあるべきことが神の御意志であると、本教では考えます。

誤解のないように繰り返しますが、このことを武力で世界征服の根拠とするような話ではありません。

 万世一系の天皇を精神的な支柱とさせて戴くことにより、世界は平和にまとまることが出来ることを指摘しているのです。

従って天皇陛下は国の柱でありながら、同時に世界人類の柱でもあられます。

 

神と人

 神道における神(仏)と人との間柄は、他教に比べると境界の低い大変近しいものです。

 人は神の分霊を戴いて生きていると考えますから、神と人とは質は同じで違うのはその量なのです。

 天皇陛下は人でありながら私達が尊敬する至上の御方ですから、戦前の(あら)(ひと)(がみ)≠ニの言い方は本教には今でも通用する言葉です。

 御教祖の御歌に、

(かむ)ながら 現れ出でし 人ぞ神

   人神に成れ  神に成れ人(人道百首)

があります。

 私達も、まず人でありながらも()(くつ)にならずに神の子孫としての自覚を持ち、自分に与えられた役割に思いを致したいものです。

 

教えの柱

柱≠ニいうと暗いイメージもあります。

 即ち人柱≠ネどという言葉で、大昔に橋の土台や堤の土手を(つく)るのに、魂を入れるといって人を生き埋めにしたことです。

 子どもの頃そうした話を絵本等で読み聞かされた時、恐くて眠れなかったものです。

 これも柱≠フ意味を取り違えた、悲しい過ちです。

人の柱≠ニいうのは、しっかりと地面に根ざしたように揺らぐことのない心の持ち主です。

筆者は神理教の管長として、巫部家の遠い御先祖や御教祖や二代・三代管長、そして父四代管長のように本教の人の柱≠ノなりたいと願います。

 本院にお帰りになる皆様が、感謝や喜びだけでなく、悩みや悲しみや苦しみを持って来られる。

 それを本教の柱としてしっかりと受け止め、神の力を取り次ぎ、(ほど)(なご)(いや)したいと思います。

 少々の(つみ)(けが)れを持ち込まれても、そう簡単には()ちたり抜けたりしない、強い柱でありたいと思います。

 生きた柱は私でも、歴代管長や教えの先達が幽界の柱となって支えて下さることを信じます。

 そこで、夏期講習会では受講生の皆様にも、共に本教の柱となって下さるよう御願いしました。

 直ぐにではなく、行く行くに力を付けながらで良いのです。

 例えば、大祭時に本院に帰ればいつも笑顔で声を掛け迎えて下さる枝光教会の福馬先生などのように、またいつも本殿祭に出られる教師の皆様のようになられればご自身の為にもなるのです。

 

教会の柱・社会の柱

 私達は誰でも幾つかの場面で柱に成りたい≠烽フです。

 それは本院のみでなく、より日常的には教会であり社会生活の中であり、ということす。

成りたい≠ニいうのは成ろうとして成れるものではないからです。

 いつも神に祈り・罪穢れを祓い・神の力を戴くことをしていなければ、成りたくとも直ぐに朽ち直ぐに抜けてしまいます。

 教会やその所属する社会に行けばいつも顔が見える、顔が見えれば安心する、という人になりたいものです。

 そこで先ずご自身が神徳を戴き、次に教会や社会の柱に成って頂ければ、社会に役立つ至上の喜びを得ることが出来るのです。

 

家の柱・揺るぎない柱

 そして何より大切なのは、ご自身の家の柱となられることです。

 深く揺るぎない柱と成るために、普段からの信仰を大切にし、神祖と共にあることを喜び、毎日の神拝を欠かさないようにしましょう。

 神拝は祭り、祭り≠ヘ神祖の前に(つら)なる≠アとです。ここから始めましょう。

 そして共に祈る時間を共有しましょう。