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                                                          2007−8

平成19年8月号 第1122号

        

H.19. 8月号

自然(おのずから)(みち) 管長 巫部(かんなぎべ)(さち)(ひこ)

 神道の原理主義とは

(神理教を“本教(ほんきょう)”と記します)

(きん)(しん)(ぞう)()

 近年の戦争や無差別テロを見ていると、政治的な目的を持ちながらも、宗教に問題を根ざすものが多いようです。

 十一世紀末から十三世紀後半に行われた十字軍などは宗教間の対立といえますし、それは現代のイラク戦争も同じという見方もあります。

 しかし身近でも時折見られるのは、同じ宗教内のしかも同じ宗派内の、(なお)言えば同じ教会やお寺また身内でのより激しい争いの様子です。

 例えば独裁政権を追放した後のイラクでは、皮肉にも(かえ)って社会が混乱し、同じ宗教内のスンニー派とシーア派が激しく争っています。

 近い間柄になるほど、残虐で執拗な争いが泥沼化してゆくように思うのは筆者だけでしょうか。

 他人より親子兄弟や姉妹同士の争いの方が激しいことを近親憎悪といいますが、それは宗教の世界にも当てはまるようです。

 なぜ敵対する派でない人も集う市場を無差別に襲うのか、なぜ派は違っても同じ宗教の寺院まで破壊してしまうのでしょうか。

 平常心を失っているとしか思えませんし、もし平常心で行っているとすると、それはそれで恐ろしいことです。

 

死ねば天国・極楽?

 アフガニスタンやイラクでの戦争で、『ジハード(聖戦)』という言葉がよく聞かれました。

 ジハード(聖戦)とは信仰のための戦いで、その戦いで死ぬと天国に行けるというものです。

 そこで『自爆テロ』を認める風潮が生まれたようです。

 日本でも第二次世界大戦の時、戦闘機や潜水艦で自爆攻撃を行う『神風特攻隊』がありました。

 筆者は自爆攻撃に『神』の名前を使うのは不愉快に感じますが、当時は抵抗しがたい時代の風潮があったのでしょう。

 余談(1)ですが、その大戦中に本教の神理誌が発禁になったことが伝わっています。

 それは当時の本誌の論調に、『恐れ多くも天皇陛下を戦争(すい)(こう)のために利用するのは良くない』があったからだそうです。

 配った物も全て回収して焼却処分を申し渡されたそうです。

 これも余談(2)ですが、筆者の母方の祖父は神社の宮司をしていましたが、神社の鉄を戦争に供出することを拒否して()(めん)されています。

 母や叔父達は学校で『非国民』と呼ばれて(いじ)められたそうです。

 これらは本教と母方の家の誇らしい歴史だと感じています。

 話しは戻って平安後期の僧兵に始まる仏教と武士との勢力争いの中で、

「死ねや死ねや、死ねば極楽ぞ!」の掛け声と共に敵陣に駆け込む様子がジハード(聖戦)に重なります。

 信仰に尽くして他に害されて死ぬのならばともかく、他を害する経過での死はうなずけません。

 

(こう)うつ(ざい)タミフル(インフルエンザ薬)

 テレビで日本在住のイスラム教の信者さんから、そうした過激な人の割合は大変低いのだと聞くと安心します。

 また日本の仏教を信奉する人を見ても過激な人を沢山見かけることはありませんから理解も出来ます。しかし自分の命を捨ててもよいと(てん)()出来る教義は持ちたくないものです。

 年末年初の寒い時期に、インフルエンザの薬であるタミフルが(じゃく)(ねん)(そう)(さく)(らん)を与えることがマスコミを騒がせました。

 最近は(うつ)(びょう)を改善する(こう)うつ(ざい)が、(かえ)って自殺を促進することがあるのが報道されました。

 薬で気持ちを高めて興奮状態に導くことが、逆に死も何も恐くない、という気持ちにさせるようです。

宗教・信仰も使い道ですが、このように使われてはいけません。

 

(げん)()と死後の関係

 (うつし)()(現世)を神の世にする努力を楽しみ充実した生を送ることが、(かくり)()(死後)で神の世界へ行くことが出来て子孫を守る楽しみを得られるのです。

 それなのに、来世だけに重点を置いて自分だけでなく、無関係な人までも殺傷することは(かたよ)った考えであり、正しいことだとは言えません。

御教祖は『(すい)()の巻』の霊肉一体の理≠通して健康な体に健全な(れい)(こん)が宿ることを教えられ、自分の体を大事に(いとお)しむよう教えられています。

また身のつとめの理≠フところで、霊魂は神からの借り物であるから、お返しする時にはよりきれいに(みが)いてお返しするものだと教えられています。

 殺傷される人や自分の霊魂や体を(いた)ましめるのは、自然なる神の道に反しています。

 

原理主義

 他の宗教では『原理主義・運動』というものが過激に思えますが、それは一体何なのでしょうか。

 この言葉を最初に使ったのはキリスト教で、聖書を真実として信じる立場から近代の合理主義を(はい)(せき)しようとする運動だったようです。

 それはイスラム教にも同じくコーランを信じる原理運動があり、仏教にも形や名前は違っても同様の運動があるようです。

 近代の科学や合理主義を見直すのはよいとして、他の考え方や宗教の排斥や攻撃等と過激になるのはどうしてでしょう。それはそれらが皆人が造った教え、即ち人造教だからです。

 人が造った教えは、古い(いん)(しゅう)を批判して出来上がった合理的な宗教に見えるものの、大小の違いはあれ自然の教えに反した部分があるのです。

 大きく違うほど見た目は立派に見えるものの、人造の原理を追求すればするほど太古から存在した自然に逆らうことになります。

 そこで自己の宗教内で他派の矛盾を(きょう)(ごう)(大きな声で批判)しあったり、それが物理的な攻撃な()(かい)(なり)(わい)とするようになるのです。

 

神道の原理主義

 さて、神道に原理主義はないのでしょうか。

 古事記や神典に原理を求めるのは難しいかも知れません。筆者は古来の教えを伝える本教こそが神道の原理主義だと考えます。

 しかし神理教は幾ら原理を(きわ)めても、他教を腕ずくで攻撃することはありません。

 余談で述べたように他と自分を比較する冷静な目を持ちながらも、しっかりとこの教えを理解していれば、戦争や破壊などはありえません。

 (もと)()(おしえ)である神理教は人が小さな理性で造り上げた物ではなく、天造の教えなのです。

 共に自信を持って進んで行きましょう。