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                                                          2007−6

平成19年6月号 第1120号

        

H.19. 6月号

自然(おのずから)(みち) 管長 巫部(かんなぎべ)(さち)(ひこ)

― 自力と他力で乗り切る

(神理教を“本教(ほんきょう)”と記します)

(つら)い時1・社会や周囲を傷つける

 生きていれば良いこともありながら、(つら)く苦しく感じる時もあるものです。

 心の通える人と同じ学校や職場などで付き合え、好意に囲まれて過ごせる幸運を得ることがあります。

 また反対に、自分と性格の合わない人と同じ学校や職場等で付き合わねばならないことや、周囲の悪意の中で過ごさねばならないこともあります。

 そうしたいわゆる逆境(ぎゃっきょう)にいる自分を感じた時、私達はどうすればよいのでしょうか。

 昨今(さっこん)世相(せそう)では自分の不幸を周囲や社会のせいにして、他人を殺傷(さっしょう)する事件が起こっています。

 本人は“大きな事”をしたとその場だけの自己満足をしているようですが、傍目(はため)にはこんなつまらない心の(せま)い行動はない、とあきれるばかりです。

 “大きな事”とは、世に役立つことの大きさを言うので、社会に迷惑を掛ける大きさを言うのではありません。

社会に害悪をなすことは、大小というより高低で(はか)ってその低さについて言うのです。

 こうした比較にも一定の基準が見失われつつある現状に危機感を覚えるのは筆者だけでしょうか。

 辛い時には、何をすれば良いのでしょうか。

 辛い時に周囲を傷つけて憂さ(うさ)()らすのではなく、それをどう受け止め・何を心の()(どころ)とすればよいのでしょうか。

 

(つら)い時2・自分を傷つける

 辛い時に反社会的な行動に出る人もいますが、その割合や数は少ないようです。

 多くは自分の内に()もって、自分を()()しまた自身を攻撃してしまうのではないでしょうか。

 周囲や社会に不満を持ちつつも、結果的に何も出来ない自分を責めてしまうことです。

 色んな要因が考えられながらも、自殺者が増えているというのは耐える力や、それを支える社会の精神的な包容力(ほうようりょく)の弱さが考えられます。

 自殺といっても心の底から死にたいなどと思っている人は皆無(かいむ)だと思われます。苦しんでいる自分を見つけ認めてもらいたい・心の中の辛さを吐き出したい・助けて欲しい、と願っていることでしょう。

 借金や生活の不安など目の前の辛さもさることながら、その辛さに(とら)われている先の見えない閉塞感(へいそくかん)や恐怖心の方が苦しさの主因となっているようです。

 その苦しさから逃れようと精神的に不安定になり、自身を傷つけたり死んでしまおうと考えつくのです。

 辛い時には、何をすれば良いのでしょうか。

 そうした末期的な精神状態に(おちい)り自分を傷つけるのでなく、私達は目の前の辛さをどう(とら)え・どう処理をすればよいのでしょうか。

 

辛くとも

 幾ら辛くてもまた末期状態な精神的となっても、社会や自分を傷つけずに済むことが出来ます。

 自分の心の何処かにある“熾火(おきび)”が見つけ出せれば、必ず生まれた時の心持ちに立ち返ることが出来ます。

その“熾火(おきび)”というのは、両親や祖父母また近親者との心の通った暖かい交わりの記憶です。

また夢中になって何かを行い楽しんだ体験や、人の役に立って感謝される喜びの記憶です。

「はっ!」とここに気付けば、その熾火に少しずつでも(まき)を加え、また明々(あかあか)と暖かい命の火を燃やして行けるのです。

そう考えると、普段から他人は他人・自分は自分などと割り切った考えをせず、近所や親戚との付き合いを大切にしておきたいものです。

また、この気付きは神祖から与えられるお徳ですから、普段から神祖と両親に感謝する心と、それに伴う行いが大切なのです。

普段からそうした心掛けや行いをしていれば、よほど薬などの影響がない限り、辛い思いも自暴(じぼう)自棄(じき)にはつながりにくいのです。

社会に害をなしたり自分の死を選ぶ人の多くは、精神的に閉じこもることから、自分の事しか考えられなくなるものです。世界を自ら(せば)めて、自分のみを守ろうとすると、自分自身さえ守れなくなるのです。

周囲の人との暖かい繋がりを思い起こしたいものです。

 

特攻隊の気持ち(健康な人も)

特攻隊の生き残りの人や、大病や大事故で死の(ふち)から戻った方の話しを聞くと、

「自分は一旦死んだ人間だから、恐い物が無い(分かる)。

だから何でも思い切り出来る。

自分のやりたいことをやって、世に役立ちたい。

他人に名誉欲などと陰口をたたかれても、何とも思わない」と言う方が多いようです。

死を選ぶ前に、一旦死んだ積もりになって生きる事を想像して欲しいものです。

『今生き返った(生まれ返った)からには、自分の出来る範囲で世の中にも役立つ。

世の中に役立つ中に自分が生かして戴ける』と受け止める気持ちに気付けば目の前が開けてくるものです。

 現代はお陰で平和であるだけに、健康な心身を持った人でも漠然とした不安や目的感の無さを感じる人が多いようです。

 今が病的な精神状態になってなくとも、こうした気持ちも踏まえて、普段からの血の通う人間としての心持ちや行いを振り返りたいものです。

『…。人間が生まれ変わるというのは、心を入れかえるのじゃ。…(御教語 第九十九節)』と御教祖は教えておられます。

 

害悪と迷惑の違い

自分を精神的に追いつめ閉じ込めてしまう人は、誠実な人に多いようです。

即ち、人に迷惑を掛けてはいけない・迷惑を掛けたくないと思い込む中で、自分の自由を奪ってしまうことがあるようです。筆者は、

『掛けられる迷惑は掛けてもよい・掛けるべきである』くらいに考えます。

『掛けられる迷惑』というのは、自分に“不得手(ふえて)(不得意・出来ない)”で相手には“得手(えて)(得意・出来る)”であることです。

 人は必ず得手・不得手を持っていて、お互いに活かし合うためにあるのです。誠実な人には、

「掛けた迷惑は直ぐに反さないといけない」と強く感じることから、返って自分を閉じ込めることになるようです。

 勿論、恩義を覚えておくのは当然ですが、そこを、

『ある時払いの催促(さいそく)なし』くらいに考えたいものです。

 境界線が難しく感じられますが、害悪はいけませんし迷惑とは本質的に別のものです。

 

現実が修行

難行(なんぎょう)苦行(くぎょう)()らぬもの』と御教祖は教えられますがその通りです。現実にはいかに修行の材料が多いことでしょうか。私達は一生を掛けて是に取り組む修行をしているのです。

 自分に取っての悪人もいますし、本当に悪意を持って害悪をなす人もいます。

『罪を憎んで人を憎ます』という言葉がありますが、自分の身は守りながらも、出来れば相手の心の立ち直りを祈る余裕を持ちたいものです。

 

自力と他力

 筆者は交渉事などするのに、まず相手方の御先祖に御願いをすることがあります。

 不当なおまじない(呪詛(じゅそ))ではなく、誠心が通じることで目先の(あらそ)い等不要な道に迷い込まないことを願うのです。

 目的を持って祈るのは自分(自力)であり、真っ当な願いを(かな)える力を下さるのは神祖(他力)です。

 祈りと共に努力をする事によって、辛さ苦しさがあってもそれは減じて行き、ついには喜びとなるのです。