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                                                          2007−5

平成19年5月号 第1119号

        

 

H.19. 5月号

自然(おのずから)(みち) 管長 巫部(かんなぎべ)(さち)(ひこ)

― 燈台(とうだい)(もと)(くら)し 

(神理教を“本教(ほんきょう)”と記します)

 

暗夜(あんや)の燈台

 教祖御昇天の明治三十九年十一月に、『神理教布教参考書』と『暗夜の燈台』の合本が発行されています。

 御教祖の存命中から準備が進められていたのでしょうが、御昇天四十日祭の日の刊行とあります。

かなり速度を上げて作られたと推察されると共に、 本教先人達の気力に圧倒される思いがします。

 それには第二世大教主(管長)(かんなぎ)()()()()()(ひこ)()(しの)(みこと)(御教祖長男)と、筆者の祖父である新大教主(連枝(れんし))佐野高嶺(たかね)大人命(御教祖次男)と、編者(氏名不記)の三名の前書きがありました。

 それぞれがこの素晴らしい教えを何とか残し、多くの人に活用して頂こう、という意欲に溢れています。

『暗夜の燈台』については故瀬戸政光総監のまとめられた『神理の声(人体(じんたい)本言考(ぼんげんこう))』とを比較分析した資料をほぼ完成しています。

 近い将来、本教教師の皆様に活用頂ければと準備を進めています。

 

二代管長様のお言葉

 三人の中でも、二代管長様の前書きは、

(たか)(まの)(はら)に登る近道は徳力山にあり

徳力山に登るは教祖の()(あし)(あと)

踏むのを最も便利なりと信ず

 明治三十九年教祖昇天第四十日祭

    神理教第二世 大教主巫部佐野伊豆彦

と短くまとめられています。

()に落ちる”という言葉があります。

「なるほど!そうだったのか!」と心の底から合点(がてん)が行くことです。

筆者は最初にこの前書きを見た時には“落ちた”と思っていたのですが、気力への刺激に意識が行き過ぎて、振り返ると心の底から“落ちて”いませんでした。

 

燈台(宗教)の新旧や性能の差について

父四代管長は、この年代の人の特徴なのか私達子どもに、

「信仰をせよ」と言われた記憶が筆者にありません。

筆者が子どもの頃、

「夜便所に行くのが恐い」と訴えると、

「 “我が心清々し”を繰り返し唱えればよい」などと教えて下さる程度でした。

 筆者は幼少時から学生時代に、沢山の方がお参りに来られ熱心に御祈願される姿を見ながらも本教を、

「心の安らぎや願い事のためにある、沢山の宗教団体の一つだろう」くらいにしか(とら)えていませんでした。

『例えば、人に心の道を照らし、行く先を明かりのように教え伝える燈台のようなものであろう。

宗教は実際の燈台がたくさんあるように、日本中・世界中にたくさんあるのものだ。

宗教も燈台のように質に新旧や性能の違いはあっても、本質的にそんなに違う物ではない。

本教はそのような宗教の一つであろうし、他の教えも本教と変わらないだろう』くらいに考えていました。

またそれ以前に宗教は“人を迷わせる部分”もあり、“必要な物”とさえ考えつきませんでした。

学生時代に父に手紙を書いて、

『自分は神理教の多くの方々の誠意で成長出来た有り難さ』を伝えたことがあります。それでも、それ以上には考えが及ばなかったのでした。

 しかしこの考えは本院に帰って本教の学びを深めるとともに大きく変わってきました。

 

何故偉大かについての大きな誤解

 変わったという前に、自分が大きな誤解をしていたことに気付いてきたのです。

 例えば幼小より御教祖が偉大なことは聞かされていましたし、それは認めていました。

 何故偉大なのか。それは、

『沢山の人を安心させられたから・沢山の教信徒が集まったから・医者であったから・国学者であったから・大量の教書や御歌を残したから・門司港の開発に貢献したから・私利を省みない高潔な人柄であったから』、等の部分にしか目が行ってなかったのです。

確かに一つ一つは尊敬に値しますし、ましてやそれらをまとめて行われたことは驚異でもあります。

しかし、これらは御教祖の業績からすると末端に過ぎません。

何にましても特筆するべき偉大さは、忘れ去られそうになっていた人間本来の教えを復活・大成・開示されたことにあるのです。

そうしたことに気付かぬ筆者は、熱心な教信徒の方を見るとほほえましくは感じるものの、どちらかというと()めた目で見ていたのでした。

この見方は今となっては恥ずべきものです。

 

真の燈台(宗教)

本教の教えは『主祭神の考え方・人間本来の宗教であるという歴史・霊魂観・言霊学』から派生し『神術・祭事・人体本言・性格・家相・墓相』等と使われます。

また『神祖との関わり方・人としての生き方や喜び』等の教えは、日常に活かすことが出来ます。

私達の日常は決して(つら)い苦しいものではなく、そういう場面があったとしてもそれが本当の修行の場と、前向きに受け止めることが出来ます。

神は私達に罰を与えるのではなく、生活を通じて人を幸せにしようという神の心に気がつけば、本当の幸せへの道を教えようとされていることに気付きます。

 本教は人生の真の燈台といえます。

 

燈台(もと)暗し・もったいない

「宗教などどれも同じで、安心が出来ればよい」というのは乱暴な考え方です。

 本教が数ある燈台(宗教)の一つ・御教祖が数ある偉人の一人、と思うのは間違いです。

 本教は他に比べるべくもない最高の教えであり、御教祖はその教えを大成された最大の偉人なのです。

本当の安心とは何かを見つめ、その為に何を心掛ければ良いのか道筋の立つ教えが他にあるでしょうか。

 私達本教人は世界にも希有(けう)な運の良い人間であることに気付くべきです。

 普通の幾分まともな宗教の近くにも、私達と同じく近くにいるのにその活用が出来てない人もいます。

 しかし、他に比べものにならないほど力強く発光している本教の真下で、もしその本当の素晴らしさに気付いていないとすると、もったいないことになります。

 否、正しいからこそ道を外した時のお知らせも強く受けることもあります。

 真の燈台(宗教)(もと)に居ることに気付き、この太く素晴らしい教えの活用に伴に意識を向けましょう。

 

我が心清々し、と長呼吸法(ちょうこきゅうほう)

 そこで、教えの活用の第一歩は何でしょう。

 広く厚い本教の教えの中で人によって違うでしょうが、筆者は父に教えられた“我が心清々し”と『暗夜の燈台』に伝えられる“長呼吸法”をお勧めします。

 皆様は最初に“我が心清々し”を唱えられた時のことを覚えておられるでしょうか。

 筆者は、この言葉の不思議な力に目が(くら)むような覚えをしたものです。

 この言霊の力を言葉でまた心で唱え味わうことが、安心の原動力となります。

 また本教に伝わる長呼吸法も気を鎮め体調を整える上で大切です。

 出来るだけ神気を吸うために、その前に出来るだけの息を吐くところに秘訣があります。

 私達は日常の生活に追われて、なんと慌ただしく体を動かし慌ただしく息をしていることでしょう。

 自ら自分の命を縮めているようなものです。

 日常生活を行いながらの修行、心と体の健康法として活用して行きましょう。

 この二つの簡単な心掛けで、きっと神祖のお徳も戴けるし、毎日が穏やかに過ごせ、他人の話も聞き取れることから人格も生活も向上することと信じます。