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2007−4
H.19.
4月号 ― 天造の教え 『千の風になって』 千の風になって、の美しく心に響く詩句 昨年より『千の風になって』という歌が人気曲の上位に入り、更にその詩が心を インターネットでその それには、人は亡くなった後も、【…私は千の風になって、あの大きな空を吹き渡っています。 秋には光となって畑に降り注ぐ。 冬にはダイヤのようにきらめく雪になる。 朝は鳥になってあなたを目覚めさせる。 夜は星になってあなたを見守る。…】とあります。 この詩は“ 私は そして秋には 私に会いたい時は、静かな朝に起きて来て下さい。 私は沈黙の上昇気流となって、弧を描く鳥たちと共にいます。…】とあります。 いずれにしても短い詩句の中に、奥深いものを感じさせ 神と感応したような詩句 およそ詩句というものは、才能とその詩句が世の中の人の心にあう時期を得れば、世の役に立つ素晴らしい働きをします。 筆者がこの詩句を見つけたインターネットの掲示板には、この詩への賛辞が数多くありました。 また、近親者の死や孤独な苦しみを持つ人達が、この詩から勇気を与えられ立ち直ったことへの喜びの言葉が寄せられていました。 世の中に役に立つといって、こうした形で立てるのは至上のことですから、
“ またこうした詩の心の境地となるには、よほど優れた感性や発句に至る奇跡的な出会いのようなものがあったのかも知れません。 詩句のそれぞれに、神に感応しないと出ないような言葉遣いを感じます。 筆者が何故このように感じたのかというと、本教の 本教にこのような感動的な詩句に併せての教えが少ないのが残念ですが、この詩は本教でいう 『 御教祖の四魂論の一部に、 【 この奇魂は またその魂の心は一つでありながら、 そして、寝ている間に体から離れて そしてその事を、人間の中心の魂である 世の また日本書紀を引用されて、 【 こうしたことを比べ合わせ、『千の風になって』の詩句は奇魂のことを 光や鳥や星や上昇気流など、まさに私達の奇魂が、 本教では奇魂は、一人一霊が持つ四魂のうちの一つの魂ながら、千万に別れると教えます。 生きている時は夢となって神と祖先に通い、亡くなった後は、家の名を分ける兄弟がいればそれぞれの家門に別れてその家の霊殿に鎮まるのです。 霊魂全体を広く見る目 奇魂も そう考えると『千の風になって』の詩句は、神に通じるような感性を持ちながらも、全体を見て謳っているものではありません。 その一つの部分に岩をも射通すような鋭い感受性を集中させながら、霊魂全体のことを言っているわけではないのです。 筆者はこうしたことを指摘して、この素晴らしい詩句をけなそうなどとしてはいません。 一つ一つの部分に敬意を持ちながらも、全体を広く見る目と心を忘れてはならないことを言っているのです。一つの部分に目を奪われて、その美しさや素晴らしさに心を 例えばこの詩句の始めに、 『私のお墓の前で泣かないで下さい。 そこに私はいません。』がありますが、この詩句の美しさの余りにこの部分に囚われると、過ちを犯すことになります。 お墓には骨が鎮まり、その骨には四魂の一つである荒魂が鎮まっているのです。 荒魂は、人が 本教の教えでは、光や鳥や星や上昇気流などに行き通う奇魂もありながら、『お墓にも私はいる』のです。 でも先ほど紹介したインターネットの掲示板にはこの詩句を持ってお墓参りをする人もいるようで、そうした人は安心です。 読者の皆様も、周囲の方がこの詩句のこの部分を勘違いして、お墓には何もないなどと思わないようにお伝え下さい。 学識者の勘違い 私達は、普段からこうした勘違いをよくします。 部分を詳しく知って全体を見ない、いわゆる『木を見て森を見ない』人は、学識者と言われる人にありがちです。 成績の良い人と頭の良い人は違う、というのもこの辺りのことを言っているようです。 物事を進める上でその部分は正しい理屈をこね回しても、実は保身や失敗を恐れての理由作りであった、ということもあります。 霊能者の勘違い 筆者のような仕事も、霊能という言葉に落ち込むことがあります。 その部分が正しくとも心が伴わなず物事の全体を見通さない霊能は、他人のみでなく自分をもだます結果になることがあります。 天造の教え 学識も霊能もその人の持つ知恵・霊性という能力でありながら、その使い道を誤ると人生の大怪我をします。 その部分的な能力にこだわりその威力だけを誇ると、人の小さな理性に限定される“ 誰が与えて下さったのか、何のために使えばよいのかを感謝と祈りと共に使うことが、神の心“ |