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2007−11
H.19.
11月号 世界平和の祈りの会で 1 (神理教を“ 世界宗教者平和会議 8月の初旬に世界宗教者平和会議の20周年記念行事が京都の キリスト教・仏教・イスラム教はもとより、ヒンズー教・ジャイナ教・アメリカのインディアンなど世界中の宗教が集まって、世界の平和について話し合いが持たれました。 まず宗教者が仲良くならないことには世界の平和はない、という趣旨の会です。イラク戦争などは、キリスト教やユダヤ教とイスラム教の宗教戦争だという見方もあります。 イスラム教と言えば、この会議でその時アフガニスタンで しかしイスラム教の指導者を含んでの声明は、宗教者の結束という面では意義があったのだと考えます。 平和の祈りへの参加宗教 4日の最終日に琵琶湖を見下ろす比叡山で『平和の祈り』が行われ、筆者はここに参加させて頂きました。 最初に挙げた宗教に加え私達教派神道、そして神社神道が次々に平和の祈りを捧げたのです。 キリスト教も旧教や新教があり・イスラム教もシーア派やスンニー派があり・仏教も禅宗から新宗教の教派まで、各宗教とも 一つの宗教の中でも、教派間の一層激しく憎しみに満ちた争いなどもありながら、キリスト教はキリスト教・イスラム教はイスラム教・仏教は仏教で、 とはいえキリスト教もイスラム教も、それぞれ原理主義(他の宗教・教派を認めなくなる)の教団の参加はなかったようですし、それは仏教でもその他の宗教でも同じ事です。 世界の宗教が一堂に会するといっても、各宗教にも色々と事情があります。 教派神道や神社神道にも同じ事が言えますが、出欠については原理主義のような積極的?な不参加ではなく、平和会議への意識や存在意義への解釈、また人間関係など複雑な部分もあります。 御教祖の万国平和 余談のように取り上げて恐縮ですが、世界平和について語るのならば、御教祖の万国平和祈祷について触れないわけにはゆきません。 御教祖は徳力山の造化大神宮において、明治32(1899)年7月1日より 20年前の第1回の祈りの会に先立つこと87年も前から、世界の平和に思いを向けられ実行されたのです。 今の私達の 自分を含む身近な家族・社会・国の平和は、世界の平和の中にあるという広い視点からのご認識であったことが拝察されます。 他宗教の方との会話 各宗教団体による“平和の祈り”が終わった後、琵琶湖の 外国人はインドの直ぐ南の島スリランカの仏教の僧侶・アフリカのキリスト教の枢機卿・スウェーデン生まれのスイスに住むキリスト教で世界平和会議の事務局次長さんの3人でした。 日本人3人にインド人・アフリカ人・ヨーロッパ人が各1人の計6人に加え、外人の方にはそれぞれ1人ずつの女性の日本人通訳が付きました。 まず通訳からにこやかに、 「ここにおいでの外国の皆様は、皆日本の神道に興味をお持ちだそうです。このテーブルの日本人は神道関係の方ばかりですから、是非お話しをして下さい」とのことでした。 ・キリスト教の方の質問 まず名刺の交換をしたのですが、恥ずかしながら他のお二人と違い英語の名刺を持っていないので、ローマ字で書き加えてお渡ししました。 そんな様子に親しみを覚えて下さったのか、 「教派神道は英語でなんというのか?」など尋ねられました。 英語の分かる神社神道の理事さんが、セクレタリーシントウと代わって応えて下さいました。 それで良いかと重ねて聞かれましたが、教派神道の連合会で正式に決めたことは聞いてないので、意味合いは近いようだが、個人では応えられない スウェーデン生まれのキリスト教の方は神道に強い興味があるらしく、次のような話をしました。 「私の生まれた北欧の国は自然が多く目に見えない物への しかしヨーロッパには神道がない」と少し寂しそうでした。筆者が、 「ヨーロッパにもギリシア・ローマ神話があるし、ガリヤ(フランス)辺りでもそうした歴史があると聞いている」と言うと、 「遺跡や伝説はあっても、もうヨーロッパの神道は死に絶えた」と言い、続いて、 「キリスト教の聖書に中にも神道の心と共通する物があると思う。今から私の思うところを言うから、共通するかどうか教えて欲しい」との事で、3〜4つくらいの質問がありました。 筆者は共通と思うとか少し違うかも知れないなど応えながら、この方は大筋で神道をよく勉強して理解していると感じました。 ・キリスト教や仏教と神道との違い 筆者からも少しお話しました。 「キリスト教や仏教と神道との基本的な違いは、食べることと性行為への見方の違いです。 例えば私達いわゆる神に仕える者が結婚をしたりお酒を飲んだり肉食をすると、宗教者がそれでよいの?という目をされることがあります。 キリスト教や仏教では、現実にあわせてとか世俗の僧侶だからなどの理由をつけて教派によって許されることがあっても、基本的には好ましくない或いは しかし神道では飲食や性行為は、許すとか許されるものではなく、行わなくてはならないことなのです。 即ち、飲むことは神と共に喜びを分かち合う為であり、食べることは健康の為であり、性行為は子孫の繁栄の為なのです」と話すと、 「私もその意味はよく知らなかったけれど、飲食や性行為が人としての自然の行為だと考えられているのは知っていた。実は私も神道になりたい」と、リップサービス(お世辞)かも知れないものの、言って下さいました。 ・原始的宗教と基本的宗教 神道はアミニズム(霊的存在が肉体を支配すると信じる宗教)とかシャーマニズム(霊と交信する呪術師の能力によって成立する宗教)と言われ、原始的だと軽蔑する見方がありました。 しかし同席の神社神道の理事の方(薗田稔氏)は、別の会での対談で、 『…海外の学者にも日本の神道をプリミティブ(原始的)ではなくプライマル(基本的)と解釈する人がいる』と言われてました。 言い得て妙だと思いますし、神道の考え方はこうした意味でも宗教の基本とも言えるものです。 日本に 今月はここまでにして、来月は仏教の方との話と通訳の方との話に続けます。 |
季節のことば 新嘗祭・勤労感謝の日 十一月二十三日 『勤労を尊び生産を祝い、国民が互いに感謝しあう』のが勤労感謝の日ですが、天照皇大神の故事にも伝えられる新嘗祭が元でした。 御教祖の教えにも『働くは側の人を楽にすること』とありますから、これを感謝しあうというのは理に適った行事です。 大嘗祭(ダイジョウサイ)と新嘗祭(シンジョウサイ)の違いをご存じですか。 新嘗祭は天皇陛下が天神地祇(テンシンチギ)に新穀をすすめ自らも食べる感謝の祭りで、大嘗祭は同じ趣旨ながら天皇の御代が代わった時に行われるものです。 嘗めるというのは舌で舐めるのとは違い、神やその恩恵の意義をよく味わうということで、私達もこの気持ちで神祖に接したいものです。 新嘗祭が十一月二十三日に定まったのは、明治に入ってからです。 本院ではこの日に有志の皆様から新米を奉納頂き、新穀感謝祭を執り行います。 |