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                                                          2006−8

平成18年8月号 第1110号

        

H.18.8月号

自然(おのずから)(みち)  (さち) (ひこ)

―家庭の信仰の永続の為に

 

社会問題・家庭の話題

 7月5日の早朝に、北朝鮮がミサイルを打ち上げたというテレビ報道がありました。

 当日はサッカーのワールドカップの試合が午前3時頃からあり、受験勉強そこのけでテレビを見ていた次男が最初に気付いたようです。

 しかし筆者にとっては大変な事件でも、中学3年生の次男にも高校3年生の長女にも、差し迫った問題と(とら)る感覚が少ないようです。

 その後テレビや新聞での報道振りを食卓で一緒に見ても話題にしても、盛り上がらないのはどうしてだろうと考えました。

 多分学校で友達同士そうしたことは話題にならずに、自分たちの受験やサッカーや流行の服装について話し合われる程度なのかも知れません。

 また中学校や高校でも朝の集まりや社会の授業で、そのことを話す校長や教師がいないのかな、と思いました。

 普通の子どもならば、もし学校で社会の事件について話があれば、食卓で『自分はこう聞いた』など言いそうなものです。

 

社会問題・学校の話題

 何故今の子ども達は、社会に起こる事件にこんなに無関心でいられるのでしょうか。

 一つは、学校の教師が無関心でいても、生活に支障がないと思い込む感覚の環境が考えられます。

“対岸の火事”という言葉がありますが、『自分は戦争に反対なのだから、そうした問題は賛成する人なり当事者に(まか)せておけばよい。

自分たち部外者が心配してもなんの影響力もない』などと、学校の教師が無関心でいるのではないでしょうか。

朝鮮半島の問題はイラクやインドよりも近しい問題ですし、ましてや日本に原子爆弾を飛ばすというのですから尻に火のつくような由々しい問題です。

口角(こうかく)(あわ)を飛ばして「大変だ!」とその理由を説明する教師がいないと、日本人は将来社会どころか世界情勢にも(うと)い、鈍感(どんかん)な国民になってしまいます。

 二つは、社会問題よりも大切な社会勉強は、現代社会よりかなり手前の歴史であり、近年の歴史は入試試験に出る確率が圧倒的に低いようです。

 なぜ低いかというと、多分善悪の解釈が定まってないため、特に公立校などは偏向(へんこう)教育(きょういく)の主導と言われることを恐れるのだと思います。

 百年くらい立たないと善悪の定説が出来ないことから、試験に出ないので必要を感じないとすると、それはそれで恐ろしいことです。

教育者と言われる人は、自分なりの見識を持ってこの辺りの判断基準を持っているべきです。

教育者はただ知識を伝えるだけではなく、子どもが本来持つ秩序感覚に教師の持つ判断基準を示して、比較検討の目安を与えるものだと考えます。

 

なぜ歴史を学ぶのか

 今も裁判が続いているオウム真理教の信者達には、いわゆる難関・有名大学の出身者が多くいました。

 優秀な頭脳を持っているので、社会・経済・歴史にも通じていて有識者と言われる人たちでしょうが、そこに落とし穴があったようです。

 その落とし穴とは何かというと、一つに現代史の欠如(けつじょ)があげられると評論されるのを聞きますし、筆者は神話の欠如もあげられると考えます。

試験に出ない現代史を軽視したため、現実社会での生活が経済や歴史の流れと結びつかないのです。

また、神話を学んでないから日本人や国土の成り立ちについて、心の基盤が薄いのです。

筆者は子どもに、「なぜ歴史を学ぶのか分かる?」と聞くことがあります。

 その大切な一つは、歴史上の行いや考えの賢愚(けんぐ)を比較しその結果を確かめて、自分の生活や社会に役立てることにあります。 ここを見失い試験の合格や資格の取得のみに目が行くから、大きな事件や事故が起こるのではないでしょうか。

 本教の教え(神理教布教参考書・明治三十九年に暗夜之燈台と合本にて発行)には、『(もと)を軽んずるな、末のみ重きを置かば(おの)ずから(くつがえ)る』とあります。

 歴史を学ぶ大きな理由の一つは、歴史を現代生活に活かす能力の育成にあるのだと思います。

 

家庭と学校が連携した話題

先ほどは学校の教師は生活に影響がない時事に無関心と述べましたが、それは私たちの家庭にもいえることです。

今の子どもは、考えようによっては可哀相(かわいそう)です。

学校に時事に興味を持つ環境がないように、家庭も社会や世界情勢について天下太平の鈍感生活の中で過ごす子どもが多いのではないでしょうか。

気が付けば我が家の子ども達も、新聞を読まないし時事に興味が無いようです。

社会をより良く変える基盤は家庭です。

私たちは、自分たちのためにも社会のためにも、まず我が家での会話を大切にしましょう。

 

昔の日本・地域の話題

 以前東南アジアや韓国に行った折り、数えで五十二歳の筆者の目に飛び込む夕方の情景(じょうけい)は、懐かしさを感じるものが多くありました。

 番台を道端(みちばた)に出し、片あぐらをかいて座って話し込む人たちや、知り合いがいないかと視線をさまよわせながら街の夜道を歩く人たちがいます。

 かつて日本にもそんな情景がありました。何をしているのかというと、自分でそれに気付いているか否かは別にして、情報を集めているのだそうです。

 近所の人の動向や社会問題ひいては世界の情勢まで、自分が知り得たことを伝えたり人から聞いたり、意見を交わすことが楽しいのです。

 口伝えの情報には間違いや勘違いもあるので、そうしたものを見抜く力も必要や本人の自力に応じてついたことでしょう。

 こうした環境から子ども達も自然に情報を出したり仕入れたりすることを学び、他人との心の触れあいを楽しむことが出来たのだと思われます。

 生きて行く上で、社会問題を知らないことは取り残されることですから、無関心でいる訳にはいきませんでした。

 

信仰の話題

 家庭・学校・地域と考えてくると、大切な話題は社会や世界情勢だけでなく、家庭の信仰についても同じことが言えるようです。

 広島のブロック研修会の体験発表で、この神理誌にも寄稿下さっている中山勇先生が、

「信仰は子孫に受け継がれるべきで、そのためには家族の内の一人が信仰するのでは足りない。

 夫と妻と二人が信仰しないと、信仰の素晴らしさを子どもが実感出来ない」と言われました。

御先祖やお墓参りや今月の穂見祭(ほみさい)(お盆)お供えの話など折に触れて話題にすると伴に、まず夫婦で手をあわせ家族に信仰に進めることが大切です。