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                                                          2006−5

平成18年5月号 第1107号

        

H.18.5月号

自然(おのずから)(みち)  (さち) (ひこ)

(さと)りと日々の心構え1ー

(しょう)老病死(ろうびょうし)・祈る、とは

 

悟り(道理・真理を知る)は特定の人だけのものか?

私たちは時折(ときおり)((*)(1))りを開く”という言葉を使いますが、悟りが自分で開けると思っている人は少ないことでしょう。

*1(さと)り<【一般】物事の道理を明らかに知る、など。【仏教用語】迷いが解けて真理を体得する。>

 悟りという言葉は仏教で使われる時、一つは釈迦(しゃか)生老(しょうろう)病死(びょうし)の苦しみの恐怖から逃れるために目指したもののようです。

そして難行苦行をして真理を知ることが出来、迷いが解け恐怖から放たれた、ということのようです。

 このような言い伝えもあり、多くの人は真理を知るためには難行苦行が必要、と思い込むようです。

死を目前にするような難行苦行の結果、真理(或いはその一部)を知ったと思う人もいるようです。

真理は苦しみからのみ生み出されるもので、楽しみからは生み出されないものなのでしょうか。

そして、その真理を得ることはそのように難しいことなのでしょうか。

筆者は真理というものは、実は身近に存在する誰にも見えているのに気付かないだけ、ではないかと思うのですがいかがでしょう。

 

難行苦行は要らぬこと

難行苦行という言葉があるために、大部分の人は、真理を知ることをあきらめているのではないでしょうか。本当に難行苦行をしないと、真理を得ることが出来ないのでしょうか?

神理教の御教祖は『難行苦行は要らぬこと』、と教えておられます。

 必要な難行苦行は、神の道(真理)を知った後の現実の家庭や社会問題への前向きな行動、ということのようです。

 勿論、現実の対処だけでなく祈りも大切な行動ですが、難行苦行と祈りとは違います。

 なぜ御教祖は『難行苦行は要らぬこと』、と教えておられるのでしょうか。

 それは、御教祖が神理教を開示した時点で、悟りは既に開かれているからです。

 本来の宗教は哲学とも観点を異にしながら、より深い世界の見方・人の生き方を体得するものです。

 悟り・真理は哲学でも達し得ない物があります。

 

(さと)りは(すで)に開けている1・生老(しょうろう)病死(びょうし)

 例えば釈迦が必死の修行の中から(つか)んだという生老(しょうろう)病死(びょうし)への悟りにしても、本教の言霊(ことだま)の教えを活かせば難行苦行をせずとも悟りは開けます

(しょう)

(しょう) 生きるで、その本言(ほんげん)(その言葉の持つ本来の意味)は(いき)()であり、大元の神の気が赤ん坊に入ることです。

 霊魂(たましい)造化(むすひ)の神から(たまわ)ることで、何の苦しみでありましょうか。有り難く、おめでたいことです。

(ろう)

(ろう)”は()いるで、年齢を重ねることは知識や経験も豊富になり、神と祖先の道を踏みしめることで安心の境地に近づきます。

 現世を楽しむと共に徳を積むことで、子孫を見守り救うという至高の楽しみを得る準備をしているのです。

(びょう)

(びょう)”は(やまい)で、その本言(ほんげん)()む・()(=()であり、神からの()()()が止まるということです。

 それはいわゆる(ばち)ではなく、神と祖先からのお知らせですから、病気の原因を反省し先祖や自分の犯した罪を知り、気が通るようにすることです。

教書の『人体(じんたい)本言(ぼんげん)(こう)』で自分の過ちを探り、それ以上の間違いを犯さないようにとの神祖の心に感謝します。

病気から逃れようとする前に、病気も感謝の元であることの教えなのです。

()

”の本言は()()()ぬるであり、風(=水)と火が()る(神の国に帰る)ということです。

()(げん)(もく)()()(ごん)(すい))の内の中心である水と火、即ち神=霊魂が神の国(()若宮(わかみや))に帰り昇るのです。

生きている世界での別れこそ悲しいものの、神の世界に帰ることが出来るのは喜びでもあります。

 これらを苦しみとしたまま悟った!というのは一体どんな悟りなのか興味があります。

 人としての楽しみを活かすべきと教えられた私たちには、多分難しくて理解出来ないものなのかも知れません。

 

(さと)りは既に開けている2・祈るとは…

 いつも挙げる御教祖の御歌で恐縮ですが、

『祈るとは 願うにあらず 我が心

明かりの入るを  言えるなりけり』

があり、これも悟りの一つです。

 私たちは、病気や災難など困ったことがあれば、神前に足を運んで困った部分のみについての除去をお願いするものです。それでも神前に足を運ぼうとしない人よりましです。

しかし目先の災難に心を奪われず、神の明かりを心に入れることが実は救われることの近道であること、を教えるものです。

 ここでの真理は、

【願わずとも神の明かりを心に入れ、神と一体になれば願いは適います。

 目先の願いが適ってなくとも、受け入れると心が安らぎ、適った以上になることさえあるのです。

願って(かな)うこともあるが、大切なのは願わなくとも適っているという生活が出来ることです。

そのためには、災難のある度に願うなどという小さな考えを捨てて、神の明かり(=心・大霊)を心に入れ、神と一体になる心持ちになることです。

元々私たちの持つ霊魂は、神に分けて頂いた分霊なのですから。】となります。

このように、神理教の教えには真理が沢山散りばめられています。

 それを、先人に教わり教友と分かち合いながら、心持ちや行動に移すことが、本教の悟りを開く(活かす)ということなのです。

 自分だけのためではなく、世のため人のために役立てる喜びを楽しみとしたいものです。