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2006−3
H.18.3月号 ― (信仰のとらえ方) 私は信仰をしません 元の神理幼稚園のお父様とお話しする機会がありました。 神理幼稚園は創立が昭和28年6月ですから、もう53年目を迎えます。 このお父様も70歳に近く、卒園されたお子様も40歳前後になられていることでしょう。 お子様が神理幼稚園に通われていた時に奥様が大病を 「食事や洗濯などとても苦労もしましたが、今は妻も子どもも皆元気です。 今から思えば、よい勉強でした」とのことです。 この方は他にも生涯を通じて大変苦労された体験をお持ちのようで、ご自分の信念を貫く努力をされて今があるようです。 そこで、お話しされた場所が本院の境内の中、ということもあったのでしょう。“ふっ”と、 「私は信仰をしません。妻は別の信仰をしているようですが、それがなにか知りません。 私の家は仏式で葬儀を行いますが、仏教を信仰しているわけではありません」というお話しをされました。 ご自分の信念に基づく納得いく人生を送ることに成功した中で、“信仰は不要であった(信仰に頼らず生きて来られた)”ということなのでしょう。 その場は別の議論の最中だったので、筆者は何も言いませんでした。しかし、 個人と神理教(本教)の信仰観の違い 『あなたが思っている信仰と私(本教)が思っている信仰とは違う』と筆者は感じました。 信仰は人によってとらえ方が違うものですが、この方が比較するべき信仰を知っていれば、そんな気持ちにはならないだろうに、と思ったのです。 本教の この方は、 『自分はありとあらゆる苦労をしたが、何があった時にも神や仏にすがるということはしなかったぞ!』という強い お気持ちはよく分かります。 すぐに他人任せで無責任な考え方をする人が目立つ今の世の中で、こうした方がいることは心強いことです。世の中まだまだ捨てたものではない、という気持ちにさせてくれるものです。確かに、 信仰は心の弱い(困った)人だけのもの? 他人任せで無責任な考えが進んで行くと、やがて神や仏頼みとなる、という考え方もあるでしょう。 そうした弱い考え方をする人たちの行き着く先が信仰である、というとらえ方をしているのかも知れません。 それは決してこの方だけではなく、世間一般に行き渡りつつある考え方かも知れません。けれども、 信仰は心の弱い(困った)人のためにだけにあるものなのでしょうか。 筆者には、他人任せで無責任な考えが、そのまま神や仏頼みになるとも思えません。 神や仏を認めようとする心があるからこそ、無責任に投げ捨ててしまおうなどという心にならないのです。こう考えると、無責任と神や仏頼みは矛盾している、とさえ言えます。 私(本教)が思っている信仰 御教祖は、次の御歌を 神なしと 言へる人にも 神の {神などいない、また神に頼ることなどないという人にも、神は太陽のように その神の気が全ての人の 筆者は、こうして愛情を降り注いで下さる神や祖先や父母に感謝の気持ちを持つことが信仰だと信じます。そこにより力強い自信が湧いて来るのです。 信仰を御願いしなければいけないもの、御願いせずにはいられない人が行うもの、と思い込むのが私(本教)の信仰との違いです。こう言ってしまうと、 「私でも、少なくとも父母や祖先には感謝をしていますよ。それを信仰というのならば、私も信仰しています」ということになります。 筆者に言わせれば、 1.ご自分が信仰していることに気付くべきである。 2.もし気付いたのならば、それを 上根の信仰 御教祖は信仰を、下根・中根・上根に分けて説かれています。すなわち神頼みの信仰が下根、感謝と奉仕が上根とすれは、中根はその間です。 私たちは、下根から始まるものの最後は上根の信仰に進むことで、より |