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2006−2
H.18.2月号
―何を求めるのか(教信徒と本院の変質) 祭事に付いて思うこと 春秋の大祭を始めとする祭事を奉仕しながら思うことがあります。 今年で御教祖が昇天されて百年になるものの、 『教祖御在世の祭事は、いったいどんな雰囲気で行われていたのだろう?』というものです。 祭官奉仕する私たちも四代から六代くらい 筆者は、祭事に奉仕していて次のように思いました。 『今と昔の祭事の様子は、全く同じだったのだろうか。 同じ子孫同士で同様の祭事を行っていても、その雰囲気は現代と大きく違っているのではないかな?』 百年前の祭事・参拝者 現在の大教殿は大正八年の建立ですから、教殿はもっと小さく狭かったはずです。 当時の教信徒二百万人を越える教団で、そこに 筆者が推測するに、百年前の参拝者の心は今よりもっと激しくもっと熱かったのではないでしょうか。 病気や災難を 百年前の祭事・祭官 すなわち、感謝・願い・期待が 御教祖を始めとする祭官の気持ちも、同じくもっと激しくもっと熱かったことだと推測します。 こうして感謝と願いと期待をもってお参りしてきた方々の気持ちになんとか応えてあげたい、と欲したことでしょう。 そしてお参りの方々になんとか安心の境地に入って頂きたいという強い思いがあったのではないでしょうか。 また、ここで願いが適ったとして、また元の不幸に そうした参拝者と祭官の思いがまた混ぜ合わされて、なんとも不思議で幻想的な空間が形成されていたのではないでしょうか。 現代の祭事・祭官 現代の大祭などの祭事はどうでしょうか。 もしかすると、祭官や主催者は手際よく祭事を進めることに意識が向きすぎて、参拝者の心に思い至る余裕が少なくなっているかもしれないことを また、手慣れた祭式に心が緩んだり終了時間が気になって、例えばぞんざいな祓い行事を行ったり、腰の入ってない頭だけの拝礼などしていないでしょうか。 行事の多忙にかまけて参拝者の希望や不安に心が届かず、つたない接待や案内をしたり心ない言葉使いや行いをしたりしていないでしょうか。 懸命に行う心があれば多少の失敗は許されるであろうものを、その心さえ気が付けば忘れていることはないでしょうか。 そして、何よりも参拝者の感謝・願い・期待を受け止めようとする強い思いを、祭官が皆で共有出来ているでしょうか。 現代の祭事・参拝者 参拝者も全てでないにしても、代が変わるだけで変質している部分があるように感じます。 その御先祖が感謝・願い・期待の熱い思いで参拝していたものがどう変わって来たのでしょうか。 例えば参拝の理由が、“祖父母や父母が行っていたものだから”というもので そうなると、“参拝してあげる”とか“清掃奉仕をしてあげる”という気持ちになります。 そうするとしまいには“してあげたのに神も主催者も応えてくれない”という不満の心が残ります。 主催者や祭官にしても、懸命の気持ちを共有出来ずに、“お祈りしてあげたのに、感謝の気持ちもない”と言うことになります。 極端な話しになりましたが、こうなると人類が過去に犯してきた過ちを繰り返すことになってしまいます。 信仰の発展 私たちの御先祖は、感謝・願い・期待をもって参拝・あるいは祭官奉仕をしましたが、私たちはそれが最終目的ではなく、次の段階に進むべきです。 信仰の大切さが伝わり、参拝するだけでなく神前奉仕をし、神前奉仕をするだけでなく教えを学ぶ、大切さに気付かねばなりません。 教祖神御昇天百周年 祭典の式次第や祝詞や家の名前は同じでも、気が付けば中身というかその本質が大きく違っていた、ということにならないようにしなければなりません。 今年四月は教祖神御昇天百周年を迎えますし、今月は十六日十一時より生誕祭を行います。 私たちは参拝者として祭官として、こうした祭事に |