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                                                          2006−12

平成18年12月号 第1114号

        

H.18. 12月号

自然(おのずから)(みち)     (さち)(ひこ)

―素晴らしい信仰家

 

政治家と政治屋

政治の世界では、『政治と政治の違いは…』などと言われます。政治は世の為人の為に自身の利益を捨ててでも公共事業に働き、他人の喜びを自分の喜びと出来る人です。

 広く長い視野に立ち目先の損も、長い人生また子や孫や子孫の幸せを見守る得(=幸せ)のある事を知る、いわゆる徳のある人です。

 政治は目の前の損得に心を惑わされ、その権力を利用してお金や財産を()やそうとする人です。

 神理教の祝詞(のりと)神理(しんり)賀詞(がし))にも、『…目先の利益(くぼさ)に迷い、善事(よきこと)を知りて勤めず、()()(なき)(みち)(わざ)(おち)()り、(こころ)にも()らで(おか)しし(つみ)(とが)(あま)()有らなむをば…』とあります。

(…人生や世の中を大所(たいしょ)高所(こうしょ)から見ることを忘れ、自分の視野を狭め周囲を見渡す余裕も失い、判断の基準が低く甘いことから、結果的に目の前の利益に飛びついてしまう。金品の多寡(たか)に関わらず、つまらない利益にこだわり周囲と争うなどして、大切な信用や心の安らぎを失ってしまう。

 善いことと分かっていながら、心の目に(かすみ)が掛かったような状態で、周囲の人のみでなく自分の為になる行動も起こすことが出来なくなる。

 善いことをしようと思っていても、小さな利益を不当に得ることから依存症のように離れることが出来ず、悪逆非道に墜ちてしまう。

 本当の心は立ち直ろうとしているのに、罪が罪を生み心は暗くなり、体は重く地に沈むような思いをする…)という事です。

 

御先祖の苦しみ・権力

 権力というのは恐ろしいもので、良い方に使えば素晴らしく世に役立つものの、その快感に酔い我を忘れると、世の中に大損害を与えるのみでなく自身や家を滅亡(めつぼう)させることになります。

 今世間を騒がせている汚職で捕まった政治屋も、もしかしたらまだ見つからないけれど現在汚職をしている政治屋も哀れに感じます。

 何で捕まったのだろうと不埒(ふらち)な考えを持つ人もいるでしょうが、今も行っている人も含めて多分、

『もう止めよう、と思っているのだが止められなかった、または止められない』という苦しさを味わっていることでしょう。

 お酒や博打(ばくち)への依存症は、その御先祖にそうした方がいるからだと言われます。

筆者はその人達の御先祖も同じような汚職をして、今だに救われ(霊魂が安定して)ていないのだと考えます。御先祖が苦しんだ罪を、子孫が繰り返しているのです。

 

宗教家と宗教屋(拝み屋)

 宗教の世界でも、『宗教と宗教の違いは…』と言われます。宗教は祈願者の至福(罪の解除と霊魂の安定と現世の最善)を祈ると共に、その至福のための日常の信仰の在り方を教え伝える人です。

 本来の宗教は祈りを通じて無償の奉仕を最上の喜びとする姿に周囲の人から尊敬されてきましたが、それだけではありません。

広く長い視野に立ち人の本当の幸せを、政治家にもましてはっきりと理解し自分と子孫と社会全体までの幸せを見通した得と徳を知っています。

 宗教は拝みなどとも呼ばれ、『拝み屋にろくな死に方をする人はいない』などささやかれるのを聞くことがあります。

 人は皆古来から目に見えない力を畏怖(いふ)し、またすがるような気持ちでその力を戴こうと宗教家に願ってきました。ある人は病気の平癒や交通安全や厄祓いを願い、ある人は迷った事を判別して戴こうとします。

 その取り次ぎをする宗教者も、ある意味で権力者なのです。

 宗教・拝みなどと言われる人は、その権力を利用して法外なお金を請求したり自分に都合の好いお知らせを、(いつわ)って伝えたりします。

 また気持ちは優しく純粋で、祈願者の至福を祈る人であっても、祈願者に日常の信仰の在り方を伝えることもせず、自分自身の祈りや祓いを怠っている人を宗教とは呼びません。ただ祈願を聞き神仏に願い、治ったからと言って金品の授受をするだけの人は、宗教ではないのです。

 

徳と利益の優先順序

 先ほどから小さい利益とか大きな利益とか説きましたが、誤解のないようにお話しします。

世の為人の為に尽くすのは、より大きな利益を得る欲得の為、と考えるのは間違いです。

 私たちは至福の自分の幸せというものを求めて良いし、また至福の幸せを求めるべきなのです。

 本当の幸せというものは、家族や社会引いては世界中を幸せにする力となるものです。

 自分だけの至福の喜びのようでも、質の高い喜びは、多くの人で分かち合える喜びとなるのです。

 まあ政治家や宗教家の働きは、見返りのない奉仕と思って行うくらいが良いのかも知れません。

 見返りが有ると思えば無いし、無くてよいと思って行えば思った以上の喜びを得ることがある、ということでしょうか。見返りを期待しない奉仕は、心を磨く修行をしていると共に目の見えない徳を積んでいることに気付くことが大切です。

 得る物がお金や物でなくとも、お金では買えない豊かな心であったり、その豊かな心を持ったからこそ自然と戴けるお金や物であったりする、ということでしょう。自分と家族の生活のために欲得づくで懸命に行った働きが、実は世の為人の為になっていた、ということがあります。欲得の情も神から戴いたもので、使い道があるのです。

 働きの本言(ほんげん)(その言葉が本来持っている意味)は『(はた)(らく)』で、自分の為に働いているつもりでも実は周りの人も楽にしている、という教えです。

『ハートサイズ(心の大きさに合わせて)』という言葉を聞いたことがあります。

『起きて半畳・寝て一畳』という自分の容量を知る心持ちを保てる時に、世の為に大きな働きが出来、それを喜びとなせるのです。

 

信仰家と信仰屋(拝まれ屋)

筆者は信仰する人にも信仰と信仰の違い・区別があると思うのです。信仰は本当の教えを知り、その教えを自分の生活に活かす人です。

 また自分が活かせた教えの一つでも、周囲の人の為に伝えられる人です。

 例えば『普段私たちが意識せずに(とな)えている“わが心清々し”は、初めての時に新鮮な衝撃に感じたから』と周囲に伝える方もおられます。

 信仰も、金品を持ってお客のように参ってあげる、という権力を振るう人です。そうした権力をかざしてあちこちを彷徨(さまよ)うことになります。

 拝まれさんになってはいけません。

 宗教者は自分を神と思い違えず、信仰者は宗教家を神と慕わねば始まりません。皆様、私たちはまず、素晴らしい信仰家になりましょう。


季節のことば
 お歳暮

 
現代は夏のお中元と同じように、年の暮れに普段お世話になった人や目上の人に感謝の気持ちで贈るようになりました。
しかし元々の意味はこれもお中元と同じですが、夏・冬のこの時期は御先祖の霊と親しむ、というものでした。
子孫が先祖に食物をお供えし、自分達も一緒に食べるのが中元や歳暮を贈る元々の意味なのです。
同時に、生きている親や祖父母の健康を祝い、餅や魚を持ち寄ったなごりが、サケやブリを送る習慣に残ったのです。
日本特有の習慣といわれる夏と冬の賞与は、昔の商家の心配りが今の企業に伝わったもので、御先祖へのお供え料が元々の趣旨でした。
春分・秋分・盆・正月の四つの時期は御先祖や両親・祖父母と一緒に過ごし、賞与は一番に先祖へのお供えに使いたいものです。