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                                                          2005−8

平成17年8月号 第1098号

        

 

H.17.8月号

自然(おのずから)(みち)   (さち) (ひこ)

心のお化粧

電車や地下鉄でのお化粧・尻や下着出し

 近年、若い女性が電車や地下鉄の座席で化粧をすることが話題になっています。

 座席のほとんどは通路に向いていますから、化粧の様子はその車両の多くの人に見られる事になります。

度胸のいることだと思うのですが、当人達は余り意に(かい)していないようです。

 電車や地下鉄の多い都会ではそんな場面が多いのか、それを注意した中高年の女性がホームから突き落とされる、という事件もテレビや新聞で騒がれました。

 本院の前を通るモノレールの中でも見かけることがありますから、日本中にその傾向があるのでしょう。

 腰の低いズボンや(たけ)の短いシャツを着て、お尻やお腹や背中の一部を人目にさらすという人も増えています。

 若い男性も、下着の一部をズボンから出して歩く姿が目に付きます。

 少し前では考えられないことでしたが、欧米では春を売る職業の人たちが自己を売り出すために行うことがあるそうです。

 しかし、マナー(礼儀)の点から言えば、世界的にみても失格です。

 人前でのお化粧や尻や下着出しの原因

どうしてそうした社会現象が起こるのか、また何故恥ずかしいという感覚が()かないのか不思議に思われる方も多いことでしょう。

 一つには、お化粧や尻や下着出しもファッションというか、流行がそうさせることが考えられます。

 みんなで行えば恥ずかしくない、ということなのでしょうか。

 もう一つには、学者の説に前頭(ぜんとう)(よう)の一部が欠如(けつじょ)あるいは機能(きのう)していないからだ、と聞いたことがあります。

 前頭葉の機能が低下すると、恥ずかしいという感覚が麻痺(まひ)するのだそうです。

 それには食べ物や環境の影響もあるようです。

 そうなるとマナーや服装だけでなく、自分では気付かないものの、既に私たちの心や体の幾つかの面に障害が出ているのかも知れません。

 恐ろしいことですが、何か対処(たいしょ)の方法はないものでしょうか。

 心のお化粧

 環境問題はひとまず置くとして、男性も女性も外面だけでなく“心のお化粧”を内面から心掛けられてはいかがでしょうか。

 電車や地下鉄で化粧品や鏡を取り出すのではなく、(てい)()十一条の(しち)(ざい)(こん)(にち)(くん))・(はっ)(とく)()(きょう)(かい)などを、取り出すなり思い起こされてはとお勧めします。

 神理教(以下本教とします)は根幹(こんかん)となる霊魂(れいこん)(かん)言霊(ことだま)の教義を通じ、人の生き方や死後の在り方を分かり易く伝える教えがあります。

 七罪や八徳などは、こうした根幹となる教義からすると末端の日常に活かすための教えかもしれません。

 しかし、本教の創立紀に往事の教会で鎮魂禁(ちんこんきん)(えん)などの救いを戴きながらも、教えとして一番の驚愕(きょうがく)であったのは、七罪・八徳などではなかったかと推測します。

 明治の中頃に約四千万人の日本の人口の中で、独立のために成人だけで二百数万人の署名が集まったということは、決して御神徳だけでなく、分かり易く衝撃的な教えがあったからです。

現代の私たちには耳慣れた七罪・八徳ですが、当時の方達には新鮮な驚きを持って迎えられたと思われます。

七罪の教え・八徳の(ほど)

(すなわ)ち当時の方達は、七罪の教えを聞いて、

「そうか、自分は気付かずにこんな罪を犯していたから、こうした病気災難にあったのか!これからは気を付けよう」

 また、八徳の教えを聞いて、「そうか、こうした徳を積めば、自分や自分の先祖の罪を解くことが出来るのか!早速やってみよう」と得心(とくしん)の行く思いをされたことと想像します。

 七罪などは(おこたり)(いつわり)(むさぼり)(いきどおり)(たかぶり)(うれい)(うらみ)をリズムでタイ・サ・ドン・フン・マン・ユウ・エンと覚えれば簡単です。例えば、

『人は(ゆる)むことがあり、あっても良いのだけれど、それに(おぼ)れて離れられなくなってしまえば“怠”という罪になる。自分はこの怠という罪に()まっていないか』というふうに見直すだけで心のお化粧となるのです。

 先月号のお坊さんが幽鬼(ゆうき)妖怪(ようかい)となる話でも、

『食べることを楽しむことは、神から戴いた正常な感情である』ことに気付けば、後ろめたく思う必要などはないのです。

『人は食べることを楽しむものであり、そうして良いのだけれど、それに必要以上の執着を持てば“貪”という罪になる。

もしこの罪に囚われても八徳を持って(ほど)かせて頂こう』という気持ちになれば、幽鬼・妖怪になることはないのです。

八徳は健康・誠実・陰徳(いんとく)施捨(せしゃ)・労役・(あい)()(こっ)()()(はく)があります。

例えばこの場合は、八徳の内の克己で自分を押さえ込むのでなく、自白を使う方法が考えられます。

神前に自分の犯したと思う“貪”を報告すると共に、その解除を願います。

現代であれば教会長や教師に話したり、体験発表を行ったりするのも自白といえます。(やく)(ばら)いと同じで、良いものでも悪いものでも一旦共有し分かち合い、神の力も戴いて祓い散らすのです。

真の美しさ

 人前で目に見える部分の化粧をしても、夕方までには()がれ落ちます。

 しかし、心の化粧を行えば少し時間がかかっても最後は顔に表れて、人としての本当の美しい顔や姿を得ることが出来るのです。

 七罪・八徳の教え以外にも御教誡や御教語を始め、心の鏡・お化粧の材料は本教にたくさんあります。

皆様、この素晴らしい教えをもう一度見直し、共に感動を分かち合いましょう。