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                                                          2005−7

平成17年7月号 第1097号

        

巻頭のことば


春に蒔いた種が、青々と育っている。
やがて実をつけ食卓を飾るであろう。
私たちの現在は「実」(み)である。そして、同時に「タネ」を蒔き
ながら生きている。その「タネ」は善もあり悪もある。
その「実」は明日出来るかもしれないし、
孫の時代に「実」となるかもしれない。
要は。美味しく大きな「実」はどうしたら出来るかと
いうことを考えねばならないということである。
善のタネ蒔き。今日も明日も。





               
                かんなぎべ  たけひこ
  神理教管長   巫部  健彦
               みいつ
   高光る 神の御稜威を 仰ぎつつ  
             
      進み行かばや 道の友どち

 俗に「旅は道連れ、世は情け」と言い伝えられて来ました。道連れ=同行者がいれば、相互に助け合う事もできて何かと心強いものがあり、同様に、人生を生き抜く上でも、情け=思い遣りの心を持った知り合い人がいれば、何かと心丈夫だ!という教訓であります。

 古めかしくて、今後に言い伝えられる可能性は少ないと思われますし、現代を生きる人々の生活実態や試行錯誤とも懸け離れて無縁!とさえ申せそうでありますが、異常な出来事が続発する現代を生き抜く上では、問い直すべきものが有るようにも考えさせられます。 

 即ち、情け=思い遣りの心を基盤とした集団生活が保持された為、人類は厳しい生存競争を克服出来た!という示唆を見逃してはならぬと思います。困苦を克服排除する中で「情」が培われ、やがて「情」を基盤とする集団生活が展開されたという事であります。

 しかし戦後には、その定着していた基盤が失われました。責任の分担や義務の遂行が、生活の安定と向上に不可欠な事は自明の理!であるにも関わらず、我が国の場合、直ちに治安の乱れを招かなかったのは、たまたま暮らし向きが向上する条件に恵まれた為!と申せます。

 しかし、たまたまの好条件が永続するはずもなく、そうした基盤の変化という成り行きに気付かぬままの状況が続けば、治安の乱れが生じるのは必至でありますし、しきりに強調される個人の尊厳や人権の尊重が保障される社会など、全く論外の妄想と言えそうであります。

 こうした治安の乱れや妄想を招いた直接的要因としては、差し当たり欲しいと望む物については「金」さえあれば取得できる!という社会環境を反映して、「金」さえあれば総ての物事が意のままになる!と思い込む人が、急速に増加した点が指摘出来そうであります。

 我々としては、「金」を道連れとしても、得ることの出来ないものが意外に多い点に気付くべきでありますし、「情」を道連れとすれば、安心も添えられつつ、意外に多くのものが得られる利点を確認せねばならぬ様であります。いずれにしても、心が和み安らぐ時と場を共有できる道連れ!を、改めて模索する努力も試みながらの前進に心掛けたいものであります。

 



H.17.7月号

自然(おのずから)(みち)   (さち) (ひこ)

 

妖怪・妖魔とならぬには

怪談(かいだん)

 7月に入ると、テレビの話題や本屋さんの書棚に多くなるのは怪談物です。

 小泉(こいずみ)八雲(やぐも)(ラフカディオ=ハーン)の『怪談』、という作品の一話を思い出しました。

一生懸命に修行を続けた仏教の高僧が、ふとしたことがきっかけで死後妖怪(幽鬼(ゆうき)になる、という話でした。

 神道と仏教の比較ということではなく、私たちにも共通する現代の怪談でもあるな、と思ったことです。

 例えば映画や小説の『陰陽師(おんみょうじ)』などで見る派手(はで)(たた)りやそれを(はら)奇抜(きばつ)修法(しゅほう)などは象徴(しょうちょう)としても、不思議といわれるものは(かみ)(ことわり)の中に存在するものです。

物語を覚えている範囲内でお話ししますと、

『昔、人里離れた山寺に、一人で修行を重ね程々の(さと)りを開くことが出来、世に高僧と(たた)えられるようになった人がいました。そしてなおも修行を続ける内に、ある時食べ物に執着(しゅうちゃく)覚えるようになってしまうのでした。

自分でそれは良くない事だと思いながら、思えば思うほど益々執着(しゅうちゃく)(しん)(とら)われ、理想と現実との(いた)(ばさ)みに苦しむ内に病気を得て、人知れず死んでしまうのです。

死んだ後その霊魂は迷い、食べ物に執着する心が形に表れて虫や動物を見境なく口にし、ついには人を襲うようになる』というような物語でした。

 悟りの浅い僧が調伏(ちょうぶく)(法力により相手を降参させる)に行っても反対に食べられてしまいます。最後は更に高僧のお経によって成仏するという結末でしたが、

『どこまで高い修行や悟りの地点に達したら、妖怪とならずに済むのだろう』

『もし妖怪になった高僧を救った更なる力を持った高僧が迷いを持ち妖怪になっ

たら、さぞかし恐ろしいだろうな』と、子どもながらに不安に感じたものです。

では私たちの心はどういったことが原因で、妖怪となってしまうのでしょうか。

神理教(以下本教と記します)では、執着や迷いの原因の一つを罪穢れとします。

 (つみ)(けが)

罪は、本教ではその本言(ほんげん)(その言葉の本来持つ意味)を“(つつ)み・(かく)す”と教え、人に言えないことや良くない思いを心の内側に包み隠す状態を言います。

また残念・無念といういわゆる遺恨(いこん)を持ちこだわり続けて、そこから心を離せないようになるのも罪であり、食べ物への必要以上のこだわりも同じです。

穢れは、本教ではその本言を“()()れる”と教え、心=神の分霊(ぶんれい)である霊魂(れいこん)が罪に(おお)われ神と祖先からの徳を受けることが出来ない状態を言います。

“残念・無念”も“お陰で・有り難い”などと対照に神様から戴いた誰もが持つ正常な感情で、その他の様々な感情と共に自然に存在するものです。

“残念・無念”という感情自体が悪ではなく、“残念・無念”から離れられない状

態が罪・穢れであり(あし)(明かり・去り=神が心から去る状態)なのです。

 神道では食べ物を楽しむ心は健康のためでもあり神から頂いた感情の一つですから、決して悪い物ではありません。

食べ物などへの楽しみを悪と思い堕落(だらく)受け取るから、これを大らかに楽しめず引け目を持ち、“包み隠す”という罪の心が生じるのです。

妖怪・妖魔になるとは

現実に『死後妖怪になる』などは、物語や想像を楽しむ話にしても、

“残念・無念”に(とら)われ罪穢れとなり神祖の徳が戴けず、生死に関わらず苦しみが苦しみを・迷いが迷いを呼び他を害する在り方を、妖怪になると言うのです。

 そう考えると、少々の“残念・無念”はこだわって(うら)みとするよりも、神にお任せして祓い散らす方が結果的に得になるのです。

(ぼく)(せき)(すい)()()く』という言葉が本教の祝詞にあります。

この言葉の通り、死後行くべきところに行かない霊魂が木石水土に取り憑くということです。

そうなるのは、現実への執着から此の世から離れることが出来ないことや、罪を犯していることを自覚して黄泉(よみ)の国で()らされることを恐れるのが原因です。

生前に教えを得ず、死後も子孫を守る楽しみという目的を持てない霊魂は、小説『怪談』の高僧と同様に生きている人にも災いを与える存在となり下がります。

 本教では木石水土に憑き『守り神無き人に取り憑く』ことを、『妖魔の()()ちいる』などと言います。神祖の守りがなく信仰の薄い人が、木や石を持ち帰ったり家を建てたりした時に病気や災難に()うというのがそれです。

 また、生きては知識や財産がなく死しては子孫を守る力もなく、子孫の苦しむ(さま)をなす(すべ)もなく(くや)しく見守る状態を『地獄に()ちる(黄泉の国に(つな)がれる)』というのです。

 神や仏を後ろ(だて)にしていても、自己の力で難行苦行(なんぎょうくぎょう)(おこな)い自分自身で悟りを開こうとすれば、いくら高みに登っても陥穽(かんせい)(ふとしたことがきっかけで魂の迷い人となる)に(おちい)ることがあります。迷いの本言は“(まが)・呼び”といいます。

 悟りが深ければその分多くの人を救うことが出来る反面、陥穽に陥った時の害も大きくなります。

人の生き方

 人は本来生きている時はその生を楽しむと共に、自分を守って下さるご先祖の

祀りを大切にし、その霊魂の安定を大元の神に祈るものです。また自分の幸せをご先祖に報告することが、ご先祖の霊魂の安定となるのです。

 人は死ねば大元の神の許に行き生前(せいぜん)善行(ぜんこう)()めて戴き、子孫を守る喜びを得るものです。死は決して恐くてつらいものではなく、子孫の繁栄を守る力が発揮出来る役割を()たせることを喜びとします。

 死の前にこのことに気付き、自分の力が発揮出来るように善を積み、悪を除去しておくことが大切なのです。

小説『怪談』の高僧のように人の力で程々の悟りを得ても、どう生きるべきかという教えを知らなければ妖怪・妖魔となってしまいます。

妖魔の道に堕ちないために

本教には人が造った神や仏とその教えではなく、天の造った教えが正しく体系的に受け継がれています。この教えをしっかりとわきまえていれば、理解の濃い薄い(悟りの深い浅い)の区別無く近隣者(きんりんしゃ)が助け合い、誰もが妖怪・妖魔(ようま)の道に()ちず幸せを得、安心して生活を楽しむことが出来るのです。

 難行苦行を自ら求めることは自然とは言えず、それは神から必要な時に日常の生活の中に与えられるものです。私たちは苦しむべきは苦しんで祓いとし、解決のために反省をし・前向きに取り組み・神に祈ることを行うべきです。