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                                                          2005−5

平成17年5月号 第1095号

        

巻頭のことば


「祭りは慎みを尊ぶ」と先人は教えている。
祭りだけではなく普段の生活にも大切なことである。
助けられるより助ける人、恵みを受けるより施す人、
感謝されるより感謝するほうが、喜びは深いし幸せを感じる。
慎みは謙虚さに通じる。
尽くす、捧げる、させていただく。
一瞬でも良い。
自分を無にして仕える心を持つ事が必要だ。




               
                かんなぎべ  たけひこ
  神理教管長   巫部  健彦
             
   朝な朝な 想ひ新たに 祈りなば
               かて   つ   
        心の糧や 積み増さるらむ

  遠く古い時代からの伝説として、不老不死の薬草などを求めさせた権力者や資産家の様子が伝えられています。現代を生きる人々も、不死は殆ど望めぬ所としても、五体健全での不老長寿を望まぬ人は皆無と思われますし、その可能性に挑戦する人もいる様であります。

 然しながら人間の体力は、壮年期に向かって上昇加増し、老年期に向かって下降減衰すると申せます。内臓などをも含む肉体の健康状態も、そうした体力の変化に準じて推移するのが一般的でありますし、体力の老衰を抑止することは、先ずは不可能な所とされております。

 ところで、体の健康状態を窺わせる体力!に対比して、心の健康状態を窺わせるのは気力!と申せそうでありますが、その体力については年齢と共に衰えを自覚させられるのに対し、その気力については、老いてますます壮!という言葉通りの人達も少なくない様であります。

 これは、体については年齢に関わりなく、糧としてカロリーの高いものを摂り続けると、却って健康を損なう事になりますが、心については年齢が加わるにつれ、次第に糧としてカロリーの高いものが摂取されやすくなる!という側面がある故のことかと考えられます。

 又、鍛えれば鍛えるほど補強向上するものの、体力については頂点があって、必ず下降せざるを得ない時が来るのに対し、気力については限界がなく、生き続ける限り補強向上し続ける可能性が秘められている様で、そうした相違点も考え合わされるという事であります。

 それにしても、糧を得る事と共に不可欠とすべきは、心には考え求めると云う活動、体には立ち働くという実践であります。そうした活動する心と実践する体との相互関係が、円滑に噛み合う歯車の様な状態で作用しあう事により、健全なる心身が保持できると思われます。

 当今では、体の糧についての究明が重大な関心事となっています。それなりに評価されるべきだとは思いますが、心の糧についても今少し関心が強められる事が切望されます。更に、願わくは誰もが健全な心身を目指して、心を新たに考え求め、労苦を厭わず立ち働く事にも務め、おのずから健全な国家・社会を顕現することに役立ちたいものであります。




H.17.5月号

自然(おのずから)(みち)   (さち) (ひこ)

何か変だと感じませんか

インターネット企業の台頭(たいとう)

この数年間、『インターネット』という言葉をよく聞かれると思います。

インターというのは『〜の間(相互(そうご))で』、ネットは『(あみ)』ということですから、電気の網を使ってお互いに情報を交換しあう、というような意味になります。

日本だけでも6千数百万人が利用しているそうです。

電話と違うところは一対一での情報交換ではなく、日本だけでも6千万人以上、世界では何十億という人がお互いの情報を一度に交換出来るということです。

この手法を使って素晴らしいことも出来ていますし、とんでもない犯罪も起こっています。

この手法をいち早く取り入れ事業を始めた会社が、現代の花形産業となっています。

昨今テレビや新聞の報道で華やかに取り扱われている、プロ野球の球団買い取りも放送会社の買い取りもこうした企業が行っています。

詳しく見れば、プロ野球やテレビ局という目立つ企業だけでなく、既にかなりの企業がインターネット企業に買い取られているようです。

とてつもない資金を持っている(動かすことが出来る)ようですから、不況といわれるこの数年の内に大発展を()げたと言えます。

放送局買収事件を見て

 今話題となっているテレビ放送局の買収について、世の中の意見は“わからない”は別にして賛成・不賛成が半ばしているようです。

 今は変革(へんかく)の時代と言われますから、賛成の方が若干(じゃっかん)多いのでしょうか。

 御教祖は御教語の第九十九節で、“霊魂(れいこん)不滅(ふめつ)のものでありながら、自分の子孫を見守り続けるものであるから、人は生まれ変わるものではない”ということを教えられ、

『…人間が生まれ変わるというのは、心を入れかえるのじゃ。…』とあります。

 筆者も常に神にお任せして心を入れかえ続けるということは大切、と考えることから変革大賛成と思っていました。

 けれども、買い取りを目指す企業の若い社長や、有能といわれる秘書の物腰や言動を見ていて少し違和感(いわかん)を覚えました。

 皆様はいかがでしょうか?

何が違うのか

 筆者は若くて有能な社員が、誰が社長で誰が部長や課長や社員やアルバイトか分からないように働く姿に違和感を覚えたのではありません。

 はっきりとした企業理念を持って、効率よくこなしてきぱきと進めて行く姿にも新鮮さを感じます。

 (はち)(あり)の世界のように、自分の仕事に情熱を傾ける姿は、一時代前の“モーレツ(猛烈)社員”を彷彿(ほうふつ)とさせるものの、それともどこか違いを感じるのです。

 大変失礼な見方かもしれませんが、物事を冷静に分析して人の理性で判断して行こうという姿が、以前の無差別殺人を行った教団の若者達を連想してしまったのでした。勿論、片や結果的にしても人殺しを容認してしまうような狂気の集団と、社会的にも認められる正当な団体を一緒くたにする訳にはいきません。

 しかし、何か共通したものを感じるのは筆者だけでしょうか。

薄められて消えつつあるもの

 それはモーレツ社員の時代から薄められてきたものが、現代はほとんどなくなってきた人間味というか暖かさ・優しさのように思えます。

 仕事には当然厳しさが求められるものですし、買収が相手のためにもなると言っている意味も理解出来るものの、無機質(むきしつ)で機械的なものを感じます。

 放送局の買い取りに成功しその後の事業もうまくいった時、その喜びを社員で分かち合うであろうものの、親やご先祖に感謝の気持ちを表すのでしょうか。

 反対に失敗した時、次に同じ(あやま)ちを(おか)さないような分析はするであろうものの、人の()の外のお知らせについてにまで考えが到るのでしょうか。

 失敗も神と祖先からの次の成功のためのお知らせ、と考えることが出来なければ、むなしさの部分がとても大きく感じられるのではないでしょうか。

 暖かさ・優しさという人間味も、神の(ことわり)から来ていることに気付くべきです。

神祖への感謝と反省の教え

 こう考える時、私たちにはただ信仰があればよいというものではなく、人間味のある暖かさや優しさがなぜ必要なのかも説明出来る(ことわり)のある教えが必要で、その教えを踏まえての社会生活が必要条件のように思います。

 神理教は自然の教えでありながら、他の追随(ついずい)を許さない大系とそれを実生活に活かす術や知恵を持っています。

 人の()のみでなく神の(ことわり)があるからこそ、ここを理解すればこれも他の追随を許さない大きな御神徳が頂けるのです。

 是非これを活かして行きたいものですし、広く伝えたいものです。