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                                                          2005−4

平成17年4月号 第1094号

        

巻頭のことば


極寒の真冬に「も〜イヤッ」といつても
自然サイクルは変わらない。
自分だけではない。この寒さに耐えているのは。
誰もが皆、耐えている。
人生も同じである。
つらい事イヤな事、皆、耐えたから今がある。
「も〜イヤッ」と、キレたらおしまいなのである。
人生にも四季がある。
青春のその輝きは、厳冬が与えてくれる。




               
                かんなぎべ  たけひこ
  神理教管長   巫部  健彦
             
   聞き直し  見直しつつも  問い直し
               かて      
        心の糧を  積むべかりける

 健全なる精神は健全なる身体に宿る!と言われています。
二世紀前半のローマの詩人の言葉と伝えられていますが、古い時代から、人間の働きには精神的な面と肉体的な面とがあり、しかも両者の間には相応の関連があるという受け止め方が、行われていたと考えられます。

 御教祖は、その健全なる身体の保全に医師として尽力される中で、患者の精神(心)と肉体(体)との相互関係について、しばしば具体的で深刻な事例に接しられたに相違なく、敢えて苦を選んで宗教家の道を進まれた背景には、そうした御体験も作用していた様に思われます。
 所で、その体を健全に養うためには、食べ物と飲み物が欠かせません。それも相応の滋養分を含んだものを適量になど、多義複雑にわたる必要条件が次第に解明されていますが、原始時代には先ずは空腹感を除き満腹感に安らぐべく、色々なものに挑戦したと推測されます。

 この様に、体を養うために必要なもの(糧)は、切実な空腹感によって摂取を迫られることになりますが、人類は、その体の糧について、世代を重ねる中で選別を試み、それぞれの風土に適応できる体力保持に役立つものだけを判別し、それを摂取する事になったと申せます。

 しかし、心を養う為のもの(糧)については、切実な空腹感に相当する状態が皆無に近い為、その摂取の必要に迫られる機会も少なく、又、摂取の推移や成果が明確に認知されがたい事もあって、摂取に対する関心も努力も等閑がちとなるのが一般的!と申せそうであります。

 それにしても冒頭の言葉通り、人間の生活が健全である為には、心と体の働きが共に健全!という条件が不可欠であります。我々としては、体の糧を得る事に偏向しがちとなった修正を改め、心の糧を求める魂の復活!に考え及び、その発露に努力せねばならぬと思われます。

 今月は、春期大祭奉仕の月であります。日常的な生活から遊離した心境と共に、平素とは異なった視点から、自分や世情を見直す事もできる機会であります。分霊としての魂を頂く我々としては、見直し問い直しつつ、その魂が心の糧を求める正常に復活する事にも考え及びながら、慎みを持って春期大祭を奉仕したいものであります。
 



H.17.4月号

自然(おのずから)(みち)   (さち) (ひこ)

 

長所と短所

新しい夏期講習会

 今年も7月28〜31(木〜金)日に、第57回夏期講習会が開催されます。

 神理誌も10月に1100号を迎えますが、57年間もよく続いています。

今年は未来委員会や夏期講習会の参加者で作った“神理躍動(やくどう)の会”などの提案で、子ども向けや参加型の会への改革が企画されつつあります。

昨年の最終日、青年部や地元の教信徒を加えての講演会を参加者の皆さんは覚えておいででしょうか。

学生落語研究会出身の大分県の神主さんである矢野大和先生のお話に、皆さん疲れも忘れて90分間を大笑いし続けたものです。

今年も同じ先生をお呼びしていますので、皆様是非お誘い合わせ頂き、充実した講習会を大笑いで締めくくりましょう。

“笑う”は“祓う”にも通じ、(がん)のような病気でさえ治ることがあるそうですから、共に大いに笑いましょう。

(よめ)(しゅうと)(しゅうとめ)

今年の題は『嫁と姑』ということですから、講師の矢野家を中心に笑いの中にも家庭や社会での人生の機微(きび)を学べるお話が聞けるのだと思います。

講演ではどんな話になるのか想像もつきませんが、筆者は色んな人と会話をする中で心に残るというか引っかかった言葉があります。それは、

「私は()(かあ)さんのようはならない」とか「わたしも義母さんのようなことをしたり言ったりするのだろうか」というものでした。でもご安心ください。

 嫁と舅・姑は血の(つな)がった親子ではないので、筆者はそんなことになる確率は大変少ないと思います。

『人の振り見て我が振り直せ』という故事(こじ)もありますから、義母に限らず自分が嫌だと感じたことを他人にするということは、少ないと思われます。

10の短所

 しかし、自分では(いや)だと感じていない言動(げんどう)が、他人にとって嫌だと思われていることがあるのを知らなければなりません。

 義母の嫌だと感じた言動を自分はしてなくとも、自分の嫁にはその他の部分で嫌がられていた、ということもあります。それは、嫁と姑の問題だけでなく、上司と部下やご近所の年長者と若年者の付き合いの中でもあるのです。

「あの人のようには絶対にならない」と言いまた思いもしても、その部分ではならなくとも他の部分で嫌がられていた、ということはよくあるものです。

 欠点は6〜7つの目に見えるものばかりでなく、他にも沢山あるのです。だからといって、他人や自分の短所ばかり探すのでは、話しが暗くなってしまいます。

10の長所

 舅や姑や上司やご近所の年長者の嫌な部分を見るよりも、

『嫌でないのは何処(どこ)だろう、(ある)いはもう一歩進んで良いところがあるとすれば?』

と視点を変えて考えてみるのはいかがでしょう?

その人の全部が悪く見えても、全ての悪を兼ね備えている人がいるわけもなく、良いところの3つや4つはあるものです。それは自分自身にも言えることで、いくら自分が素晴らしいと思っていても全て素晴らしい人はいません。

 反対に自分を卑下(ひげ)して、『自分には全く良いところがない』と思っていても、必ず3つや4つ、またそれ以上に素晴らしいところはあるものです。

 他人や自分を必要以上に否定したり、必要以上に自慢したりしていては、神の心に(そむ)くことになります。ではどうすれば、そうした心地になれるのでしょうか。

神を杖とさせて戴いて

人間性さえあればこんな陥穽(かんせい)(はま)ることはない、と思いがちですがいかがでしょう?。そうではなく、人間性の元の元、すなわち神を知り祈ることです。

御教語の第4節で、『金の杖は曲がる。竹や木の杖は折れることがある。神を杖につき世を渡れば安心じゃ。』と教えられています。

 もったいなくも神を世渡りの杖とさせて戴いて、他人の短所などに長く関わらず、自他の長所を見つけ自分の幸せを感じるように心掛けたいものです。