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                                                          2005−3

平成17年3月号 第1093号

        

巻頭のことば


自分はまだまだダメだ。そう思って努力する。

自分はまだまだ未完成だと自覚する。

今日一日くらい、多少の「のんびり」も必要であろうが、

明日もその次も、そうであったら残るのは悔いしかない。

今日の次を確実に一歩踏みしめる生き方こそ明日があるのだ。

向上心を忘れた老人そのものである。

神は、死ぬまで青春の未完成の青臭さを与えてくださっている。




               
                かんなぎべ  たけひこ
  神理教管長   巫部  健彦
             あ
   神ながら 生れし身なれば おのづから
                      
        栄え行くべき 道もこそあれ

 我々人間の体は、目に見える頭や手足や胴やなどを総称して、五体とも言われています。その五体は皮膚や毛髪で表面を包まれていますが、その皮膚や毛髪などの下には、絶え間なく循環する血液を活力源として、脳や五臓六腑と言われる内蔵その他の骨肉が機能しております。

 医学が進歩する中で、そうした皮膚や毛髪などに隠された部分についても、その形状を目にすることができる様になりましたし、それらが作動する様子を知見し、皮膚などとも相関関係を保ちつつ機能する仕組みについても、その大凡を理解することが可能な状況になりました。

 即ち我々の五体は、精緻な相関関係に組織された生命体として、おのずから時々刻々に機能して健常を保つ貴重な存在!という事になります。その逐一についてまでは知り得ないとしても、極めて貴重な存在であることは、殆どの人が理解済みの所と申せそうであります。

 従って、我が身ではありながらも、決して粗末に取り扱ってはならぬ成り立ちである点に思い至り、身を処するに慎重を期すべきでありますが、目先の対応に追われがちな日常生活の中では、そうした我が身の貴重さにまで考え及ぶ機会は、ほとんど皆無?と思われます。

 時代的な風潮として、そうした我が身の貴重さに思い及ばぬ時を過ごす人が、次第に増加しているようにも見受けられます。先頃から、しばしば集団自殺が報じられる事になっていますが、その原因の一つとして、そうした時代的な風潮を挙げる事が出来そうであります。

 又、我が身の貴重さに気付けば、他人の身の貴重さにも気付くのが当然でありますが、それがない為、見境なく他人に危害を加えて死に至らせたり、幼児の虐待や殺傷が我が子にまで及ぶ等、卑劣で非道な犯罪が続発するという惨状を招いている点が考え合わされます。

 地球規模の中での個々人は、微少で判別至難な存在に過ぎませんが、その個々人に備わった心と体の機能は極めて精妙であります。我々しては、微力を自認して相互協力が不可欠!と受け止める慎みと共に、その精妙な機能を自覚し活用して、不安や脅威を感じさせられる事なく、共々に祝福し合える社会を思い描きつつ、その顕現に努力する歩みを進めねばならぬと思われます。
  




H.17.3月号

自然(おのずから)(みち)   (さち) (ひこ)

 

体系ある教えを持つ神理教

(こと)()げする古神道

 いつも神理教を信奉(しんぽう)頂いていて、学識もある方とお話しをした時のことです。

「神理教(以下本教(ほんきょう)という)は本当に素晴らしい環境(かんきょう)と、教えがありますね。

 でも神道(本教も含む)というものは、仏教やキリスト教に比べて系統(けいとう)()った教えがないのですね。

 よく神道は『(こと)()げ(言葉に出して言い立てること)しない教え』と言われますが、それはそれで感じるものがあれば良いのですね」とお話し頂きました。

 確かに神社神道の神主(かんぬし)さんには、他宗との議論を避けるためか『言挙げしないから…』と言う(かた)もいるようですが、皆様はどう思われますでしょうか?

 筆者は本教こそ、『言挙げする古神道』だと思うのです。

筆者の反省

 お話しの中の環境というのは、境内の自然環境や教えから(かも)し出される神に近づきやすい雰囲気のことかと嬉しく思います。

しかし筆者は系統だった教えがないと言われて、『それは違う、チョット待った』と思いお話しもしましたが、この時大変反省もしました。

 私たちがよくする(あやま)ちは、自分が分かっているつもり、相手が分かっているつもりになっていることです。御教祖は、

「いくら大学者でも、この教えは神理教に来て学ばないとわからない」と言われています。本教は神道の大元である(もの)(のべ)()の教えの本筋を受け継いだものでありながら、長い間門外(もんがい)不出(ふしゅつ)のものであったからです。

 更にそうして初めて頭に飛び込んでくる教えは、その時の雰囲気によって新鮮に()()む時と、一度には入りきれないことも考えられます。

 こちらのご家庭も二十年近く前に神理教の()(しん)()鎮座祭(ちんざさい)を行った折りに一度系統立てて教義をお話したので、理解済みと思っていたのが勘違いでした。

 従って筆者の反省というのは、相手が分かっているかもしれないと思っても、何度も何度も言い続けなければならない、ということです。

 教祖の時代に立ち返ってお互いに繰り返し話し合い確認し合って、内容を味わい分かち合うことをするべきだと感じました。

教えを生活に活かす部分の話しは周辺が広すぎて、もしその部分が素晴らしくとも系統だった教えとは受け取って頂けなかったようです。

 教えの周辺にある現実の話し、教えの中心にある系統だった教義の話しの両立を心掛けるべきでした。

(まち)(がた)古文書の再発見

 最近、紛失したと思われていた本教(かんなぎ)()()に伝わる天文十二(一五四三)年の古文書が市の図書館で見つかり、買い戻しました。

 中国から伝わった漢字やそれを日本風にしたひらがなより古くから日本にあったとされる(じん)(だい)()()にも通じる、町形と伝え呼ばれる文字で書かれたものです。

 それを現代文に直して行くと、天在諸神十八柱の神名の本言(ほんげん)(その言葉の本来持つ意味)や男女の産み分けなどについて解説されています。

 本教は決して御教祖があちらこちらの教えを()()ぎして創られた教えではなく、巫部家に伝わった古神道の教えを大成したものであることがわかります。

大成され系統だった教え

 この教えをしっかりと身につけた私たちは、例えば他教の人と接する時に大変楽です。他教の人がその教団の教義を話す時は、その内容がよほど突拍子もない教えでない限り、本教のどの部分の話しであるかと理解や比較が出来ます。

 もし論争になっても本教の教えを見据(みす)えていれば、他教を感情的に批判・排除するのではなく、多少の人生経験の差を忘れさせるような余裕を持って相手の話を受け入れ、落ちついて本教の話しをすることが出来ます。

 御教祖の偉大さは、物部・巫部に伝えられた教えを何にでも応用出来るようにまとめ、それが生活に活かせるように工夫された点にあるといえます。

本教の教えは系統だっているが故に簡易と自負しますが、残された紙面で少し触れてみます。

霊魂観(れいこんかん)

 例えば“人は死ねばどうなるか・今何のために生きているのか・その価値はあるのか・生まれてくる前は何だったのか”についてはどうでしょう。

 動物にはないであろうこうした疑問を、人間は理性を持つが故に抱いてしまい、方向を誤れば自殺などをしてしまいます。現代人は神と(つな)がる自然・地面と離れた生活を続けるうちに、足が地に着かず誤った方向へ向かう確率が高いようです。

古代から教え継がれた本教の霊魂観が正しいものとすれば、この教えを持って人生の疑問に答えることが出来ます。

 本教には(いち)(れい)()(こん)(人間一人に霊は一つ、その霊は四つの魂に分かれる)説があり、それぞれの魂には生前の働きがあり、死後も居場所と働きがあります。

 人は良いものへ向かっての(しゅう)()()(せい)という役割を戴き、それを成すことによって祖先・自分・子孫の霊魂の安定(安心・充実)を得るのです。

 人は神の分霊(ぶんれい)(わけみたま)であることから、生まれる前は神の一部であったということになります。それぞれの得る“生きる喜び・役割を果たす喜び”、を自分の喜びともするのです。

霊魂観に限っても、これほど系統だった教えが他にあるでしょうか。

言霊学(ことだまがく)(じん)(たい)(ぼん)(げん)(ちん)(こん)(きん)(えん)()()()()(しん)(でん)墓相(ぼそう)

 言霊学については、この(おのず)(から)の道で“楽しみ・苦しみ”や“善・悪”や“罪・(けが)れ・(はら)い”などについてお話ししてきました。

この言霊学を教理として、前ページの霊魂観は元より人体本言や鎮魂禁厭や宇良奈比真伝から人生観・世界観に発展して行きます。

また墓相など現実に活かす時にも、教えから()しはかって判断出来るのです。

抜きんでた教えを自信を持って活かす

本教の御教祖のように、歴史・学識・霊性にバランスの取れた宗教家は他にいるかと考えた時、本教の教えと体系は他に抜きん出ていることに気付きます。

世界の三大宗教など組織の大きさに圧倒され、組織が大きければ教えもついてきているだろうと思うことが、大きな勘違いであったことに気がつくのです。

私たち本教の教信徒は、御神徳は元より体系を持つ教義に自信を持って、この素晴らしい教えを日常生活に活かして行きたいものです。