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                                                          2005−2

平成17年2月号 第1092号

        

巻頭のことば


「おみくじ」は、神の託宣を伺ったそのなごりです。

興味半分でひいている人が多いようですが、神意を伺う

わけですから敬虔な気持ちで接しなくてはなりません。

そして大吉が出たからといって安心してもいけないし、

凶だからといって悲しむ必要もありません。

これを機会に「新たな気持ちで物事に対処せよ」

というのが神様の意向なのですから。




               
                かんなぎべ  たけひこ
  神理教管長   巫部  健彦
     な
   為してこそ 心の窓は 開くなり
                       あ
        事をなすべく 生れし身なれば

 我々人間の働きには、形には見えがたい心の働きと、五体といわれる手足などを動かして目に見える体の働きとの両面があります。両者の通常的な関係は、心が思い巡らし考え求めた結果をうけて、体がその実現や実行に当たるというのが一般的であります。

 然しながら、思考力にとぼしい赤ん坊や幼児の場合には、先ずは手足などの五体を無闇に動かす中で、その行動と結果との関係に考えつく事になるようであります。つまり思考→行動という図式ではなく、行動→思考という図式も考えられるという事であります。

 人間は、誰もが乳幼児期を経て成人に達する訳で、先ずは其の行動→思考という図式の生活を履修した上で、思考→行動という図式の生活に進むのが普通かと思われます。尤も思考とは無関係な愛憎などの感情→行動という図式のものも、意外に多いように見受けられます。

 そうした感情→行動という図式は、必ず良からぬ結果を招く!と覚悟すべきであります。又、幼児期と同様な行動→思考という図式についても、取り返しのきかね状況を避けつつ、試行錯誤といわれる場面に限るべきであり、いずれも出来得れば別途を求める事が望まれます。

 何にしても、凡そ人間の生き方については、行動→思考という図式を経て、思考→行動という図式への移行化が一般的!と申せそうであります。ここで肝要なのは、行動→思考という履修が謙虚に行われ、思考→行動という図式との循環が円滑に行われるという事であります。

 異常に混迷した当今の世情について、幼児からの成長期における行動→思考という履修課程での未熟さが原因かと思われますし、其れが黙過されたことをも含めて、いわゆる社会人として成長した人達の思考→行動という展開の不活発さも考え合わされれます。

 為すべき事あればこその人生!と受け止めるのが本教の信仰であります。視野ひろく思考できる立場をめざしつつ、その為すべき事を見定めて懸命に努力せねばならぬと思います。又、共生を前提とした暮らしやすい生活環境の構築をめざしつつ、みずから実践しなければ得られないものを感得し、おのずからなる感謝の日々を戴きたいものであります。 
  




H.17.2月号

自然(おのずから)(みち)   (さち) (ひこ)

()めの(こう)(よう)(すす)

静かな虐待(ぎゃくたい)

最近新聞で『静かな虐待』、という言葉が目に入りました。

虐待というと、親が子に・或いは子が親に暴力を振るったり、近年ではネグレクトなどといって、子育てや親の面倒を見ることを放棄(ほうき)したりする、という肉体・精神的に積極的で『激しい虐待』が思い起こされます。

これに対して『静かな虐待』とは、一体何なのでしょう。

最近の学者の提唱(ていしょう)らしいのですが、それは2つに分けられていました。

1つは、保護者が一生懸命に働くのは良いことですが、それが大変なことを必要以上に子どもに見せつけたり(うった)えたりすることだそうです。

こうした家庭環境に育った子どもは、親のみでなく周囲の人へ異常なまでの遠慮をする余り卑屈(ひくつ)になり、()()もりなど社会生活に悪影響が出るようです。

 2つは、()(かた)です。

 以前に幼稚園や学校でトイレや玄関の靴を整える子どもを見た教師が、皆の前で褒めてしまったことから、子どもの心に大きな抑圧(よくあつ)を与えたというお話しをしたことがあります。

 褒め方を誤ると、子どもは親や目上の人の顔色ばかりを気にするようになり、人のいないところでその反動が出てしまうことがあるのです。

 褒めること自体はとても良いことでありながら、そこに周囲の子どもにもさせようという目的を強く()めると、本人にとっては強要に感じるのです。

『静かな虐待』というものは、その人のことを憎く思わなくとも気が付かないうちに(おこな)っているのですから、思えば恐いものです。

北村弁護士の講演

 筆者は最近テレビの『行列の出来る法律相談所』に出演する、北村晴男弁護士の話を北九州市の講演会で聞く機会がありました。

ご自分の家庭の経験から、子育てのコツを分かりやすく話して下さいました。

テレビで見た方はご存じでしょうが、北村弁護士は寡黙(かもく)が売りですから上手な話し振りではありませんが、誠実さが感じられ参加者も喜んでいました。

良く出来たお話しで、まるでゴーストライター(本人の代理で講演の話しを作る人)でもいるのかな、と思うような整理され聞きやすい内容でした。

 筆者の感銘したところを紹介すると、

【弁護士にも優秀な人と自分のような頭の悪い(北村弁護士自身が言っていました)人がいて、自分は同じ年代の優秀な弁護士でも鬱病(うつびょう)の人を知っている。

 その人はこれ以上ないような優秀な知能と、弁護士としての能力を持っているにも関わらず、自分を肯定(こうてい)出来ずいつも自分の評判を気にしている。

 私(北村弁護士)は弁護士になれるほど優秀ではなかったし、学生時代も今もお酒を飲み競馬など娯楽を楽しみながらも、いつかは必ず弁護士になれると思っていたし、今でもそうした楽天的な気質をもっている。

 自分の母は自分でもびっくりするほど頭が悪かったけれど、いつも自分を褒めてくれた。

知能指数の高低は人間性とは別物で、他人に優しく接し自分自身も強く生きることが出来るかどうかは、その人の家庭の善し悪しによる。

 ここが、優秀でも自信の持てない弁護士と、優秀ではないけれど物事を前向きに考えられる自分との違いだと思う。】というところでした。

 多分北村弁護士のお母さんは、周囲の子どもに良いことを押しつけるためではなく、ただ北村弁護士本人の良いところを見つけて褒めていたのでしょう。

 良い褒め方というのは、他の人にも何かをさせようというような変な下心を持たず、自分の感動を素直に伝えることが大切なようです。

筆者の母の褒め方

 振り返れば筆者の母も、今から考え直してみると面白い褒め方というか考え方をしていたものです。

 筆者は市内でも名うての当時は低学力で暴力(ぼうりょく)沙汰(ざた)頻繁(ひんぱん)、という公立中学校に通っていました。

5.

そこで中クラスの高校にも入れない50番という、それでも筆者の成績にしては良い成績を頂いた時に、担任の教師に次のように言い放ったものです。

「うちの子どもは、今回50番になったくらいですから、もし市内で1番の高校に入学しても、そのくらいの成績になれるかもしれません。

だからその高校を目指してもらいたいものです」

 この言葉には、担任の先生も驚いたでしょうし、少しおめでたい筆者も子どもながらに驚いたものです。

 しかしながら、筆者も北村弁護士と同じで、

「もしかしたらその高校に行けるかも知れないし、行けばそのくらいの成績は取れるかも知れない」と、それを契機(けいき)に思い続けたものです。

 皆様も子どもやお孫さん、そして周囲の人の良いところを見つけ、その人のために褒めてあげましょう。

 私たち親や目上の人間の出来・不出来に関わらず、きっと耐性(たいせい)のある北村弁護士のようなしっかりとした人物が出来る、と思います。

 楽天的な気性が保てるということは、すぐに死んでしまおうとか目的についてあきらめない、人として必要な粘り強さが身に付くことだと信じます。

心の元気は父母に、その大元は?その先は?

 しかし、これだけで充分なのでしょうか。

 ここまでは、先月でいう道徳の部分であって、その上のもっと上質のものがあるはずだと思うのです。御教祖の御歌集(桃の一枝)に、

なべて世に 根のなきものは

 なかりけり 神ぞ我が身の 元と知らずや  

があり、(世の中一般に、根のないものはありません。

自分の身の元を辿(たど)ると父母であり、それをもっと辿ると祖先となり、その大元は神であるということを、いつも心の中で繰り返し確認しなければなりません)ということを教えています。本教ではよく、『先祖は私たちに徳を供給してくれるダムのようなものであるが、そのダムに水を満たして下さるのが神である』と教えます。

 親は先祖の徳を貯めて与えて下さる、貯水槽のような存在です。

 私たちは父母を始め、世間の人にも褒められることによって強い心が持て、また自分の子どもを褒める、という良い循環(じゅんかん)を持ちたいものです。

 褒めて下さる大元に神があり、褒めて行く先には子孫が居て、こうした習慣を続けることが、世の中を良くすることに気付きながら実行したいものです。