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                                                          2005−10

平成17年10月号 第1100号

        

H.17.10月号

自然(おのずから)(みち)   (さち) (ひこ)

日常の修行と祓い

親孝行

 神理教の教師・教信徒の皆様のご家庭を訪ねると、その折々(おりおり)に大変な親孝行を尽くされる姿を見せて頂くことがあります。

 教えの実践(じっせん)と言って、その大半はこの親孝行に尽くされています。

 その孝行のご様子に頭が下がり、こちらが恥ずかしくなる思いをすることがあります。

 半身(はんしん)不随(ふずい)の親御さんの世話は大変なのに、介護(かいご)施設(しせつ)に預けるよりはと家で面倒を見られる方がいます。

 最近の介護施設は設備のみでなく接遇(せつぐう)意識(いしき)も大変向上していると聞きますが、それより家で世話をした方が行き届くとの思いがあるようです。

 施設と家とのどちらが行き届くかの比較ではなく、自分が親の面倒を見よう・見たいという気持ちが素晴らしいと思います。

 日本人が本来持つ祖先への敬慕(けいぼ)の思いが親孝行に繋がっているのでしょうし、それが神道の原点と言えます。

 自殺

 やむなく親御さんが入院されていて、毎日病院に訪ねる家庭もあります。

 介護施設や病院を親の捨て場のように使っている人たちとは、心の豊かさにまさに雲泥(うんでい)の差を感じます。

 余談ですが、納骨殿を祖先の骨捨て場のように使っている人たちと、春分・秋分・正月・お盆にお参りされる家庭との差も同じです。

 墓や納骨殿・家の神殿や教会や本院を大切にしているかいないかで、親への孝行の度合いが(はか)れるように思います。

 毎日見舞いをする家庭で、親御さんが自殺(じさつ)未遂(みすい)をされたという話を聞いたことがあります。

 ご自分の病気への(つら)さもさることながら、毎日家族が見舞いに来ることへの申し訳なさが原因だったようです。

 主人の忙しい仕事や主婦の家事や町内の役割の煩雑(はんざつ)さを整理しての見舞いを、嬉しく思いながらも()()ねをすることがあったようです。

 自分さえいなくなれば、家族が楽になると思われたのでしょう。

 しかし家族の方は、

「忙しいけれど、仕事を整理して見舞いに行くことは、全く苦ではない」と言われ、実際に親の顔を見ることが毎日の楽しみであるようです。

 毎日親を見舞うという目的のために、仕事の整理に工夫をされることが、()()()にさえなっているようでした。

 苦しみも家の祓い

 筆者は家の方に次のようにお話ししました。

『本教の教えで、自殺は神に戴いた命を突き返すという大きな罪であると知りながら行ったのは、高齢ということもあり病気で気が弱くなり、ご家族に迷惑を掛けたくないという思いがあったことでしょう。

でも、もし今が苦しいとしてもその苦しみを甘受(かんじゅ)することで、まだ残っているかも知れない家の罪汚れを祓う修行をしているとお伝え下さい。

ご自分が苦しむことで、子孫が苦しむべきものを替わって背負ってあげているとも言えます。

世の中や家族に何も役に立つことをしてないように思っても、生きているということは必ず何かの役に立っているのです。

だから自分で命を絶とうなど思うことはありません』

子孫のために罪・穢れを祓っているのだという気持ちになって、ご自分が今の苦しみを甘受しようとすれば、不思議とその苦しみも消えて行くものなのです。