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                                                          2004−9

平成16年9月号 第1087号

        

巻頭のことば


「ハイ」という言葉は、素直な心の表れである。
それを形にしたのが、礼である。
心があっても形にすることは容易ではない。
形にすることで、心を知らせることが出きる。
ハイは「拝」である。
祖霊・神様に対し、素直な気持ちを形で表わしましょう。



               
                かんなぎべ  たけひこ
  神理教管長   巫部  健彦
                   つつし
   神の子と 思ひ慎む 心あらば
                 まじ        おだ
            交はり清く 穏しかるらむ

 本年は残暑も格別な様でありますし、依然として非常識、非人間的な犯罪が続出横行しています。金融界もざわついている様ですが、我が国の景気は、どん底から抜け出して上向き状態を示しているとの事であります。それが国民全般の実感となる日が待たれます。

 今一つ、犯罪を含めて異様と感じられる世界が続いていますが、是については景気の不況低迷が要因!と言われてきました。そうとすれば、景気が回復するにつれて、おのずから世情も正常化の一途を辿る筈でありますし、そのような状況になることが切に望まれます。

 しかし、いわゆる終戦以来の成り行きに照らし合わせますと、そのような予断は容易に過ぎる様に思われます。今から満五十九年前の終戦直後には、食べること自体に難儀して餓死する惨事も生じましたが、現今のような非人間的な犯罪は見られなかったと記憶いたします。

 その後、次第に衣食住に恵まれる事となり、バブル景気といわれる時代が可成り長く続く事になりました。衣食住足りて礼節を知る!という古諺が具現する条件でありましたが、当時の状況は、却って礼節を弁えぬ人々を養成輩出した、とさえ申すことができそうであります。

 人間は、満足感を求め続けていると申せます。一つの満足感を得た後には次の満足感を求めるという事であり、目に見えるものであれば、次が何であるかは明白であります。即ち、次なるものの関心は、見えにくい心よりも、見えやすい物に偏向しがちとなる訳であります。

 しかし、物に偏向した関心は、達し得た満足感に安息できず、次々に不満足感を募らせる事になりがちであります。そうした不満足感が、礼節などとは無縁な状態で増幅拡大する中で、経済の崩壊を導き、さらに社会や家庭の崩壊を招いたと考えられます。

 この点への認識の深まりや広がりがない限り、礼節を育んできた我が国の風土の回復はあり得ないと思われます。即ち、人間関係が平穏円満な生活環境の再現は望み得ない訳であります。我々としては、相応の年月と努力と工夫が不可欠と覚悟した上で、物に偏向しがちな関心を制御しつつ、確かな安心につながる人間本来の生活姿勢を求め続けたいものであります。
 



                  

H.16. 9月号

自然(おのずから)(みち)

(さち) (ひこ)

世界(せかい)平和(へいわ)家庭(かてい)夫婦(ふうふ))の平和

人生(じんせい)必要(ひつよう)知識(ちしき)は、すべて幼稚園(ようちえん)砂場(すなば)(まな)んだ

 (じゅう)数年前(すうねんまえ)話題(わだい)になった『人生(じんせい)必要(ひつよう)知識(ちしき)は、すべて幼稚園(ようちえん)砂場(すなば)(まな)んだ』というロバート・フルガムという(ひと)(あらわ)した随筆(ずいひつ)(ほん)()んでいます。

 ()(よう)(せい)という(こと)()がありますが、アメリカという(くに)()(ほん)(くら)(じん)(しゅ)(おお)いし()(こう)(さま)(ざま)(ぶん)、より()(よう)(かんが)(かた)をする(ひと)がいるようです。

 アメリカは(いま)のイラク(など)のように、(じゅう)数年前(すうねんまえ)()(かい)(じゅう)(ふん)(そう)(かか)わっていたのでしょうが、この(ほん)では(せん)(そう)について(おも)(しろ)提案(ていあん)をしていました。

 ペンシルバニア(しゅう)のビニーという(かい)(しゃ)は、()()くクレヨンをクレイオラという()(まえ)(ねんかん)()(じゅう)(おく)(ほん)(せい)(ぞう)しているそうです。

()(ぶん)(てん)(のう)(へい)()もキューバのカストロもイランのホメイニもインドやロシアの(だい)(とう)(りょう)も、()どもの(とき)はこのクレヨンで(たの)しんだだろうというのです。

 そこで、アメリカの()()()(みつ)(へい)()としてクレイオラ(ばく)(だん)(かい)(はつ)して、このビューティボム((うつく)しい(ばく)(だん))を(こう)(ふく)(へい)()とし使(つか)えばよいという(てい)(あん)です。

(ふん)(そう)()こる(たび)にこれを(はっ)(しゃ)すると、クレイオラ(ばく)(だん)(こう)(こう)()(さくれつ)裂し(なん)(びゃく)(なん)(ぜん)(まん)という(ちい)さなパラシュートが二十四(しょく)()りのクレイオラの(はこ)をぶら()げてふわりふわりと()()りるというのですが、なにか(たの)しそうですね。

 (にく)しみに(たい)して(にく)しみを(もっ)(ほう)(ふく)するのではなく、(にく)しみに(たい)して(なご)めや(たの)しみの(こころ)をクレヨンに(たく)して(おく)る、という(かたち)(もっ)(こた)えるというのです。

(いっ)(しん)(きょう)()(しん)(きょう)

 ()(りょく)()って(かい)(けつ)するのではなく、(かい)()やまたこうした()(そう)(てん)(がい)なアイデアを(もっ)(へい)()をつかみ()()()ちになることは()()らしいことです。

 (おな)じアメリカ(じん)でも()(よう)(かんが)(かた)(とも)(そん)(ざい)することを(ゆる)されるというのは、(けん)(こう)(しゃ)(かい)ということで()()らしいことです。

 しかし()(よう)(せい)(はば)(ひろ)(ぶん)(しゃ)(かい)としてまとまるには(きょう)(りょく)(せい)()(きょう)(りょく)(しゅう)(きょう)必要(ひつよう)なのでしょう。

 イラン・イラク(など)のイスラム(きょう)やイスラエルのユダヤ(きょう)やアメリカ・ヨーロッパ(など)のキリスト(きょう)(いっ)(しん)(きょう)であるのは、こうした(しゃ)(かい)(てき)(はい)(けい)(えい)(きょう)しているのでしょう。

 けれども()(よう)(しゃ)(かい)()()()がる(れき)()(とも)にこれをまとめる(ため)(せい)(りつ)した(いっ)(しん)(きょう)も、その(いっ)(しん)(きょう)(せい)(かく)(じょう)()(いっ)(しん)(きょう)(みと)めることが()()ません。

 それこそが(ふん)(そう)(せん)(そう)(いち)(ばん)(げん)(いん)だ、と(しゅ)(ちょう)する(がく)(しゃ)(はな)しを()いたことがあります。

 (しゃ)(かい)(はっ)(てん)やそれに(てき)(おう)した(しゅう)(きょう)(つく)()(にん)(げん)()()があるようで、()(いっ)(しん)(きょう)(たい)(りつ)(こう)(そう)して()くという(げん)(じつ)()ると、()(じゅく)(そん)(ざい)だとも()えます。

 そうした()(じゅく)()(ぶん)(ふく)めて、(いま)(じん)(るい)(しんか)化し(つづ)けているということでしょうか、それとも(ほん)(とう)(そん)(ざい)する自然(しぜん)(おし)えに()()かないだけなのでしょうか。

 ()(ほん)(ぶっ)(きょう)(はっ)(しょう)(げん)(てん)()(しん)(きょう)(ぶん)(るい)されるのでしょうが、(さい)(きん)(いっ)(しん)(ぶつ)?)(きょう)のような(きょう)()(かい)(しゃく)をしているように(かん)じるのは(ひっ)(しゃ)だけでしょうか。

 (いっ)(しん)(きょう)にこだわると()(きょう)(せい)()(てき)()(ぎら)いし、()(はん)してしまいがちです。

(かみ)(なか)(かみ)(おお)(もと)(かみ)

 (いっ)(ぱん)()(ほん)(じん)(じゃ)(しん)(とう)()(しん)(きょう)だと()われますが、(しん)()(きょう)()()(ほん)(きょう)といいます)はどちらなのでしょうか。

 (ひっ)(しゃ)(じん)(じゃ)(しん)(とう)()(しん)のことを()(しん)(きょう)だと()っていること()(たい)が、(じつ)(かん)(ちが)いではないかなと(おも)っています。

 ()(ほん)()(らい)から()()(よろず)(のかみ)といって(たく)(さん)(かみ)(まつ)りますし、(うみ)(やま)(かわ)()(みず)(くさ)()(いた)るまで(すべ)てのものへの(うやま)いの(こころ)()ちます。

 (ほん)(きょう)()(きょう)()()(きょう)()(じゅう)()(せつ)で、

『…もし(かみ)(ちから)()りたいと(おも)えば、(そと)()()なさい。

(そら)が(あり(たい)(よう)(ほし)(くも)があり(やま)があり(くう)()があり、それが)(かみ)である。

そうして(いえ)(うち)(には(りょう)(しん)()(ぞく)がいて()(ざい)があり、それら)もまた(かみ)である。』というふうに、全て(すべ)のものに神性(しんせい)があると(おし)えています。

しかし(ほん)(きょう)では、()()()(しょ)(はつ)(あめ)()()(なか)(ぬしの)(かみ)から(はじ)まる(あま)(てらす)(すめ)(おお)(かみ)までの十八(はしら)(あめに)(ます)(もろもろ)(のかみ)とお(とな)えし、(かみ)(なか)(かみ)(おお)(もと)(かみ))として(しん)(こう)します。

(ほん)(きょう)(あめに)(ます)(もろもろ)(のかみ)(かみ)(がみ)(めい)(れい)()(かみ)で、(あわせ)(まつる)(もろもろ)(のかみ)はその(めい)(れい)()けて(わたし)たちをお(たす)(くだ)さる(かみ)(しん)じます。

(ほん)(きょう)では()()(よろず)(のかみ)(あわせ)(まつる)(もろもろ)(のかみ)(ふく)まれ(わたし)たちを(ちょく)(せつ)(たす)けて(くだ)さる(そん)(けい)する(かみ)ですが、(しん)(こう)する(かみ)(あめに)(ます)(もろもろ)(のかみ)です。

(そん)(けい)する(かみ)(しん)(こう)する(かみ)()けて(かんが)えるのです。

(ほん)(きょう)(あわせ)(まつる)(もろもろ)(のかみ)という()(しん)(そん)(けい)しながらも、(しん)(こう)するのは(あめに)(ます)(もろもろ)(のかみ)でありいわゆる(いっ)(しん)()なすことも()()ます。

(したが)って(ほん)(きょう)は、“(いっ)(しん)(きょう)()(しん)(きょう)(とく)(せい)(あわ)()つ”ということが()()るし、(じつ)()(らい)から(つづ)いた(じん)(じゃ)(おな)じではなかったのかと(おも)うのです。

(じん)(じゃ)(しゅ)(さい)(じん)として(まつ)られている(かみ)は、(おお)くが(ほん)(きょう)()(あわせ)(まつる)(もろもろ)(のかみ)(なか)(すう)(はしら)のようです。

神社(じんじゃ)神道(しんとう)(ふる)くから(つづ)いた(じん)(じゃ)には、(ほん)(きょう)(にぎ)(はや)(ひの)(みこと)高祖(こうそ)とする(もの)(のべ)()()(でん)()()いだように、()(まえ)(いく)(ぶん)(ちが)っても(ほん)(きょう)(あめに)(ます)(もろもろ)(のかみ)(おな)じように(そん)(すう)される(かみ)(なか)(かみ)(おお)(もと)(かみ))が(まつ)られていたはずだと(おも)うのです。

 それが()(だい)(なが)れの(なか)で、(しん)()(ゆう)(めい)(かみ)()()(やく)のある(かみ)(ちゅう)(もく)されたり(しゅう)()()(かい)になり()(ぜん)から(かく)()される(うち)(わす)()られたのでは、と(そう)(ぞう)します。

 (おお)きな(じん)(じゃ)(はら)(ぎょう)()(おこな)(はら)(どころ)には、(すく)なくとも(ほん)(きょう)(あめに)(ます)(もろもろ)(のかみ)(いっ)(しん)である()()()(ぎの)(みこと)(まつ)られています。

(ある)いはその(はら)(どころ)(かみ)(なか)(かみ)(おお)(もと)(かみ))を(まつ)っていた(こん)(せき)ではないかなどと、(ひっ)(しゃ)(そう)(ぞう)をふくらませています。

()(てい)(ふう)())の(へい)()

 (まえ)()きというか()(だん)(おお)くなりすぎたようですが、この(いっ)(しん)(きょう)()(しん)(きょう)(はなし)()(てい)(ふう)())の(へい)()にも(おお)きく(かん)(れん)すると(おも)うのです。

 やはり(ふう)()は、それぞれが()(ぶん)(かんが)(かた)からしか(あい)()()(かい)しない、という(いっ)(しん)(きょう)であってはいけない。

 せめてどちらかが、(あい)()(かんが)(かた)を『それもあるよね』と(みと)めてあげる()(しん)(きょう)(じゅう)(なん)(かんが)(かた)()つことが、(かい)()(はじ)まりだと()えます。

 (りょう)(ほう)(いっ)(しん)(きょう)のままだと、(いま)()(かい)()こっている(ふん)(そう)()わらず、(にく)しみを(にく)しみで(あら)(なが)そうとする()(じゅん)(おちい)こととなります。

 そして()(しん)(きょう)(かんが)(かた)(たが)いが()(かい)()()()(てい)(ふう)())の(ゆう)()()ると、(つぎ)()(てい)(ふう)())で(いっ)(しん)(きょう)のように()(ぞく)とご(せん)()(あん)(しん)(れい)(こん)(あん)(てい)、そして(しあわ)せを(たも)つという(もく)(てき)(きょう)(ゆう)して()しいものです。

()(かい)(へい)()

()(かい)という(おお)きく(とお)そうな(だい)()(てい)(ふう)())という(ちい)さく()(ぢか)(だい)とは、(いっ)(けん)()(かん)(けい)のように()えてそうではありません。

 ()(かた)(はっ)(そう)()(こころ)()()えることが(かい)(けつ)への(いと)(ぐち)となるので、その(いと)(ぐち)(ひと)つを(ほん)(きょう)(おし)えで紹介(しょうかい)すると、()(きょう)()(だい)(きゅう)(じゅう)(きゅう)(せつ)に、(にん)(げん)(れい)(こん)は、(ふたた)(にん)(げん)()まれ()わるのではない。

(にん)(げん)()まれ()るというのは、(こころ)()()えるのじゃ。…』とあります。

 (しん)(こう)(こころ)()()えることの()()るものであれば、()()(あら)(せん)(そう)(あい)(にく)しみに()わる()(てい)(ない)のいさかい(ごと)()(さん)()(しょう)することでしょう。

 そうした(かんが)(かた)(かみ)()として(せつ)(めい)()()(あん)(しん)して(しん)(こう)できるのは(ほん)(きょう)()いて(ほか)にないのではと(しん)じます。

 (みな)(さま)(たく)(さん)(かた)(とも)にこの(おし)えをお(つた)えしましょう。





夏期講習会の感想

山口県下関市 梅尾 俊行さん
 祖父母が教会を設立し、今は八十一歳になる私の母が教会をしております。私は三十年間造船の技術的な仕事に携わっていたため、母と信仰についてあまり話すことはありませんでした。
その母が急に「夏期講習に行ってみらんかね」と言ってきたのです。小さな頃はおじいさんの、今は母が拝んでいる姿を見てきましたし、自宅でも神棚には手を合わせています。仕事にストレスを感じたときは、母に拝んでもらったりもしました。
常々信仰とはどういうものか、また、祝詞の意味はどういうものかと思っていたことと、私の人生の中でのタイミングとも合致したので、今回参加を快諾した次第です。目標として祝詞ぐらいは覚えて帰ろうと思いましたが、残念ながら無理でした。早朝起床や禊などは、さほど辛いとは感じませんでしたが、唯一辛かったのは、正座による足のしびれです。
二晩湿布をして寝るなど、予想以上のきつさでした。しかし今回の講習会ではいろいろと親切に教えていただき、いろんな面でヒントを得ました。帰ってまた本などを読み、勉強し直そうと思っています。これから自分がどういう経緯をたどるのかまだわかりませんが、入り口を見つけたような気がします。初めてだらけの自分に丁寧に教えていただいた皆様に、大変感謝しております。




高知県 土佐教会
 豊永 悠聖 教会長
 今回講習会に参加して思ったのは、初心に帰ることの大事さです。また、復習するということが非常に大事だということも、肝に命じることができました。講習会の中で一番感動したのは、禊です。皆さんが寒さも知らず、疲れも知らず、一心不乱に取り組んでいる姿を拝見し、大変感銘を受けました。
また、講習を通じて心の持ち方なども教えられ、感動した次第です。これを大事に持ち帰り、今後ますます精進していきたいと思います。



鹿児島県 枕崎市
 逆瀬川 サチ子さん
 夏期講習には平成十一年より参加しており、今年で六年目になります。日頃から「神様の所に入らせて頂ければ」という一心です。神と一緒に歩くということとは?お祭りすること、お祈りすることとは?など掴みようもなく、講習で頂けるものがあれば、私も歩けるようになるかしらと、そういう思いで参加しています。
早朝四時起きや水行など、私には大変きついもので、がむしゃらに過ごした四日間でした。三日目の三角先生の講話の中で「神理教にご縁のあった方たちは、いきさつはどうであれ、神様に選ばれた人です」という言葉にドキッとしました。
これまでは聖地に入って神様に守っていただければいいと思っていましたが、そろそろ歩み方を変えなければいけないのかもしれません。そろそろ自覚を持ち、勉強したことを無駄にしないように、皆さんと共に歩んで生きたいと思っています。




熊本県 大津教会
 鍋島 静也さん
 私には息子が二人います。しかし一人が難病にかかってしまい、あちこち回りましたが治らないと言われ、いろんな信仰を試しながら、最後は神理教にたどり着きました。それ以来十年ほどのおつきあいとなります。
月日が経ち長男が結婚し神戸に住んでいたときのことです。孫の宮参りに同席するため神戸へ行く直前に、今は亡き三池先生から「今回は行くのをやめておきなさい。そんなに急がなくてもいけるから」と言われました。言葉に従い中止すると、あの神戸の大震災が起こったのです。
私たちが行くか着いた日のことでした。
まさに神様に命拾いさせて頂きました。
それからは家族みんなが順風満帆な日々。こんなに幸せでいいのかという人生でしたが、いいことばかり続きません。
今年の三月に私が突然倒れました。それを契機に家族にも不幸が続き、どうしたものかと教会へお尋ねしたところ「最近は奥さんの姿ばかりで、あんたの姿を見てないな」と言われ、確かにそうだと思いました。このままではいけないと、また神理教へ足を運ぶようになり、五月には久々に熊本の研修会へ出向きました。そこで瀬戸先生の「人間は反省と謙虚さがなくてはいけない」という言葉の深さが身にしみました。
家路に着き、夜空に輝く満点の星を見て、いろんなことが頭をよぎり涙が止まりませんでした。この場でこうした私の人生について話ができ、胸がスッとする思いです。またこれから新たな気持ちでやっていきたいと思います。


夏期講習会に参加して

橋本 祥平さん


 七月二十二日(木)から二十五日(日)まで四日間にわたって行われた夏期講習会。今年、初めて参加した橋本祥平くんは、本院職員・田中利夫さんのお孫さんです。
「正直言って、今まで宗教にはあまり興味がありませんでした。
でも、高校三年生になって就職のことを考えるようになった時、神主もいいかなぁと思い始めたんです。それで、じいちゃんに相談したら、『神理教の夏期講習会があるので、それに行って、どんな感じか見てみればいい』と言われ、参加してみることにしました。」
 祥平くんが自分から神道に興味を持ったことに、田中さんも驚いたことでしょう。というのも、すぐ近くに住んではいるものの、祥平くんと神理教の話をしたことはほとんどなかったからです。
 何も分からず、しかも知らない人ばかりの講習会。しかし、そこは十七歳の現代っ子です。「おばちゃんたちがいろいろ話しかけてきてくれたし、すぐに友だちもできました」と祥平くん。どうやら講習会ではアイドル的な存在で、皆さんから可愛がられた様子です。
 実際に講習会に参加してみて、「朝の禊が冷たかった。それに、早起きしたので、その後の講習はちょっと眠かったです。やっぱり大変だなぁと思いました」と、素直な感想を述べてくれました。
 大教殿で行われた模擬祭典の通夜祭と葬儀では、一人で喪主をやらせてもらい、いい経験になったと言います。
「昨日(二十四日)の夜は八時半くらいに寝ました。普段の生活では、こんなに早く寝て早く起きることは絶対にないし、充実した毎日を送ることができたと思います。」
 高校卒業後の進路については、一応、自分なりのプランを持っているそうです。その中には、神理教の教修生になるという選択肢も含まれているとか。
 祖父の田中さんについて尋ねると、「やさしいじいちゃんです」とにっこり。その一言からも、『じいちゃん』に対する愛情が十分に伝わってきました。「もし、じいちゃんが神理教で働いていなかったら、神道に興味を持つことはなかったと思います」と、本音をポロリ。
 講習会を通して、きっと祥平くんは何かをつかんだに違いありません。来年も、祥平くんのような若者が一人でも多く、講習会に参加してくれることを願っています。



    

   管長様が解説する御教祖の御歌   『人道百首』より

       時くるを 待たで苦しみ 憂ひつつ

         心の鏡 くもらするとは




  人生には、結果よりも過程の方が大切!!と言える側面があります。側面にとどまらず、人生全体をそのように総括する見方も、決して不当とは断じがたいものがあります。
 しかし、過程が全く同一であれば結果もまた同一であるのは必然のところですし、そうした過程を繰り返すのは徒労!!と申せる点も、見逃してはならぬところであります。

 戦争が多くの人命を損なうものであり、必ず終結するものであることは論を要しないところであり、その結末が『妥協』であることも史実に明白なところであります。
 もし、そうした妥協をあらかじめ知ることができるとすれば、多くの人命を損なう戦争にはならぬでしょうし、心を傷つけ煩わすことにもならぬということではないでしょうか。

 お互いの日常生活は、いろいろな部面での妥協点を変えないことにより、初めて一応の安定を保ち得ていると考えられますし、まずはこの点の自覚が肝要と思います。
 しかし、互譲という建て前での妥協点ではあっても、その妥協は現時点では不当!!としがちなのが人情であり、それゆえに他者との争いも生じるということであります。

 平安を保持するには現在の妥協点で辛抱せねばならぬが、その辛抱に耐えかねたり、さらなる充実向上のためには妥協点の変動が不可欠という事態が生じることも考えられます。
 いずれにしても、妥協点の変動には摩擦が伴うものであり、どう変えるかの自覚が不確かな場合には、本来は不要な心配を自分から招くことになりかねぬ訳であります。

 お互いの日常生活の中では、そうした本来は心配する必要のない心配事に心を痛める場合が少なくない、と言えそうであります。

 そうした本来は不要な過程を通ることにより、心の平静を失うこととなり、ために当初とは異なった結果となる場合も生じる次第であります。

 従って、我々としては、その期待する妥協点を見失わぬように心がけるとともに、そこに到る過程の中のどの位置に自分がいるのかを、適確に把握することが必要であります。
 これは妥協点を到達点に置き換えた場合にも通じるところであり、そうした用心とともに努力を重ねることになれば、不要な心配からも解放されることになると思われます。

 時がくれば必ず一つの結末が生じるわけで、その過程では何よりも適正着実な努力が心掛けられるべきであり、我々としてはそうした心構えで良い結果を得ねばならぬと思います。


 



                 *** 教 祖 の 道 統 *** 


   長崎教会 教会長 大教庁式務局長 花岡 勝成

     第五章 教祖の神人関係観
       第二節 罪悪と其意義
(その三)

二、ケガレ
・穢れとは何か
 次に穢れはキ・カルルの意味であり、気とは私達の目に見えないもの即ちイキの気であります。
 言葉を替えて言えば神のみいきです。その神のみいきが枯れる事を穢れと言うのです。
 穢れは穢悪きとも読み、穢心と書いてキタナキココロと読むのを見ても明らかであります。
 日本書紀に黒心、濁心、悪心等と書いて皆キタナキココロと読み、総て凶悪即ち汚き心の中の一つの穢れと言う意味です。御教祖は神理教要で
【昔の人は汚穢過失をも総て罪という。罪とはツツミという意味にして、汚穢過失のみを言うのではなく、隠す事を言う。故に一切不浄の物にふれて、清めずして隠したるを外に属する罪とし、邪曲の心を懐き気枯れて己が犯せし事を改めず、これを内に属する罪とす】
とあって、穢れは罪の中の一種であり、罪は即ち黄泉国の穢れ、悪より来る凶悪事であって、清明正直の心ではないのをいうのです。
・穢れは直せる
 前にも述べましたが、鏡面が曇っていれば鏡はその役目を十分に果たさない様なもので、神気であります日の気が枯れる為に自然に人間の本性を失い、向上発展も出来ず全く迷い(まがよひ)の形になります。この気が枯れるという穢れは只肉体だけでなく、その心にも付着するので ”気枯るる“というのです。
 そして、この穢れは完全に凶悪になってしまった意味ではなく、丁度木が枯れて行く様に自然に神気である日の気が消滅しつつありますから、水不足で枯れかかった草木に水を与え生き返らす様にするのと同じで、人も穢れや禍が起こっても清く明るく正しい方に直す事が出来るのです。
 それは人間の本性は穢れや禍に包まれてその力の一部を失っても、本性そのものは完全に染悪されてはおりませんから、何時でもこれを清明にする事が出来る素質があるからです。
 あの祓いの條にあります様に伊邪那岐尊が禊をされた時、神直日神、伊豆能売神等顕れたのを見ても明らかでしょう。
・穢れは神気の枯れ行く如きもの
 そうして、この穢れは自分の心が清明でない限り不快の情が生まれ、又疾病等を引き起こす原因となって、外部に結果を現わす場合があります。
 尚この穢れは自分一人に止まらず無形的に他人にその穢れを移す場合もあります。
 言葉を替えて言いますと、甲が乙を害した場合、乙に関係のある丙丁にも間接的に穢れの害を与え無形的に広まります。
 例えば、死人を見た人が非常に不快な気持ちになり、その事を他の一人に話をすると聞いたその人も不快な気持ちになり、又その人が次の人に話をすると失張り不快な気持ちになりその輪が段々広がる様に、直接見た人のみが穢れるのではなく、間接な人まで穢れに染まって行きます。
 従って、罪の場合は犯した人が償いをすれば良いのですが、この穢れの場合は直接にしても間接にしても、祓いや禊をしなければ清明には戻らないものです。
 そしてこの穢れのある者、汚き心のある者は神の御前に出る事は出来ません。
 何故なら、神は清明なものですから不浄を忌み嫌われるからで、必ず祓いをして心を清浄にして奉仕しなければなりません。
 死亡疾病その他、人間の本性に反して生々化々向上発達の活動を阻害するものは、皆の人が不快とする処であって、これを嫌いこれを取り除こうとするのは、清明なる神に向かって近づこうとする人間の本性です。
 ですから疾病や死亡又不幸に合い、又は穢れにふれた時には、早くこれを解除し不浄から脱出しようとする、つまり宗教心というものが盛んになって来るのです。
 要するに、穢れは神気が枯れて行く様なものであるという、広い意味から解釈して良く考えれば十分に理解出来る事です。

三、過ち
・過ちとは何か
 過ちは誤りの意味であって、私達が時々口にしております「仕舞った!」という様な言葉であり、自分の本性自体を見失うほどのものではないのですが、知らず知らずに一つの誤った部分について本当の正しいものであると思い誤った場合の過ちです。
 この過ちも罪穢れと同じく、私達人間の進歩向上を害するものですから罪とされています。
 清祓いの祝詞の中に「過犯 志介牟種々乃罪穢有牟乎婆」とあります様に、過ちから罪や穢れを招くものであるという意味です。
 総ての罪悪は悪い事だと知りながら犯す場合と、罪悪とは知らずに犯す場合があったり、知識や意志の不足等より生じた過ちから起こる場合もあります。
 例えば凶悪な事件を超こした場合でも過失によるものもあれば、故意に犯す事件もある様に、同じ罪悪にしてもそれが故意であるか、過失なのか区分するにはその人の心の中まで立ち入り、細かい処まで調べなければ解かりません。
・気付かぬ内に犯す過ちと祓い
 要するに、過ちは罪悪とは知らずに起こした行為、又知識や意志の不足から起こった行為をいうのです。
 そしてこの過ちは悔い改め二度と起こす事がなければ、罪の内に入りませんが、小さな過ちでも改めず繰り返す事は罪悪になのです。だから御教祖は
【凡て世の人は、思わずも過つこと多きものなれば、正しい人も必ず祓除をなして、その罪穢れを除かんことを神明に祈るべし】
と神理教要で教えて居られます様に、過ちは気が付かない内に犯すものです。
 たとえその時は自分では間違ってはいなかったと思っていても、落ち着いて良く考えて見ると自分の考えや判断の甘さから、「仕舞った」と誤りに気が付く様に過ちは起こるものです。
 だからこそ、大祓詞の中で多くの天津罪国津罪をあげて、
【天益人等が過ち犯しけむ種々の罪】
と祓いを行なって、更に善い方へ進もうとするのです。
 又人間としては不完全の処が多い為、神の前には心の行き届かない事が多いのですが、この様な場合も一つの過ちといって、神にその罪の解除を乞う事があります。大殿祭の祝詞に
【斎部宿禰某が 弱肩に太襷取懸て言壽ぎ鎮奉る事の漏落むをば 神直日命 大直日命 聞直し見直して】
とありますし、又本教の通常祝詞にも
【辞別に白さく、朝に夕に斎回り清回り身の罪穢を祓清めて、拝み斎き奉る事の漏れ落むをば、神直日大直日に見直し聞直しまして恵み幸い給え】
とあって、神の御前に仕える時には一切の注意をした上にも、更に落ち度がない様に気を配って仕えなければなりません。
 つまり、心の及ばない事があるならばそれは故意ではなく、注意に注意を重ねた上での事ですから、見直し聞直し給えと神に請い奉るのです。
 過ちとは、心が及ばず知力の足りない結果であって、故意に犯した罪とは全然違うのです。


四、災い

 災いはワザハヒと言い、ワザは所為の意味です。
 ハヒは幸ハヒ、和ハヒ、味ハヒ、等と等しい言葉で、ワザは神の所為であり、災いとは主として神の凶悪な所為について言っている事で、神即ち気と比べれば所為は一層具体的に見たものです。
 これ等は古代の宗教心より地震、風雷その他の現象(天災)を神の所為と感じていた関係から、ワザワヒは神の所為つまり人格的な所為の様に解釈したものであリましょう。
 罪と過ちは自己の意志より起こるか、又自身の知識や意志の不足の原因から起こり、穢れは自分より発する場合もあるし、又不注意や或いは注意をしていても免れることの出来ない外部との関係から生まれて、自己の責任となる場合もありますから、これ等を修祓とか解除



  幸福への出発
            光陽教会  中山 勇

    第30集   先祖と共に生きる道を


 
 
先祖が有って今の生活があることは、誰でも知っていると思うけれど、先祖が残した徳のお陰により今の生活が成り立っている事を知らない人が多いのです。誰でも自分の力は自慢したくなるものです。それなのに人の自慢話は聞きたくないのも事実です。人は自慢する人の影に何か(その人の祖先)を感じているから聞きたくないのです。
一人の人間としての力量は微々たるものです。どんなに自慢をしていても自分一人で出来る事には限度が有ります。先祖の守りが有るから段取りが上手く行くのです。神の導きが有るから人が動いてくれるのです。
「その原動力が先祖の徳なのです。」自分に起こる親子夫婦の日常生活や、会社での仕事の段取りや同僚達の協力も、取引先の信用も自分自身の健康も全ての事柄に対して、「先祖の守りの範囲の中でしか自分の能力は発揮出来ない」のです。
仕事も・友達も・恋愛も・お金も・財産も・家庭も・能力も先祖の守備範囲の中で起きているのですから、何も自慢する必要は無いのです。先祖のお陰とは今自分や家族が元気で生活が出来ている事なのです。家庭があり子供が居て兄弟もいる今の環境は、先祖の徳が働いているから平和な生活が有るのです。
もし先祖の罪が大きければ病気で苦しんだり、人間関係がうまく行かず精神的に悩んだり、また夫婦や親子の仲がうまく行かずに苦しみや悩みが絶えない事になるのです。
こんな時に「弱り目に祟り目の諺のごとく」、悪いことが次々起きて来るのです。不幸とは罪の祓いとして「先祖から信仰をしてほしいと言う切実な要求」を強く受けているのです。
それでも要求を受け入れなければ自分の人生を短命に終わらせることに成るのです。子孫なのですから、先祖と親の恩と守りをいつも受けている事を忘れてはいけません。
自分もやがて早いか遅いかの違いは有るけれど先祖になる時が必ず来るのです。そして自分の毎日の生活の中で無意識に作る怠りの罪と、新たに言葉や行いと無信仰等で作る罪が積み重なり、病気や家庭の不和としての祓いを、子供や孫たちに自分が罪を残すことになるのです。
「信仰は妻(夫)がしているので自分はしなくても良い」と考えている人は大変な思い違いをしているのです。例えば家庭の中で夫と妻の立場の違いを考えるのなら、「妻が夫の先祖をお祭りしても先祖は何で息子が居るのに息子がしてくれないのか…」と息子に拝んで貰いたい先祖の霊感が働くのです。
主人の先祖は主人が祭って始めて先祖が納得をするのです。妻には妻の先祖が有り夫には夫の先祖が有るので家族全員で心を合わせて信仰はするものです。
なぜ其処まで先祖の支配が有るのか考えた事が有りますか。先祖にも沢山の事情が有るのです。この世とあの世は陰陽(裏と表)の一体なのです。この世で作った罪はあの世では祓う事が出来ないので、あの世に行って初めて罪の恐ろしさが判るのです。守護霊として働きたくても自分がこの世で無意識や故意に作った罪のため、其の罪の重さに押さえられて身動きが出来ないのです。
仏教の教えの中に地獄と極楽が有りますが、あえて当てはめれば守護霊になる事が極楽で、子孫が敬神尊祖の信仰をしてくれない事が地獄と言えるのです。
どんな先祖でも子孫が信仰をして奉仕の中で罪の祓いをしなければ、先祖は罪が消える事も守護霊に成ることも永久に無いのです。
病気の殆どは先祖からの助けて欲しいSOSのシグナルなのです。「病気は罪の祓いではなく罪の祓いをしてほしい先祖からの要求」なのです。私達は病気になる事は罪の祓いと思っている人が多いと思いますが、熱のある病気は自分に遺伝子を授けた先祖が、信仰の奉仕として祝詞(お経)で罪の祓いをして欲しいと言う要求なのです。また「痛みのある病気は神様から身体を休めてゆっくりと心を磨く信仰と、神理の勉強と反省をする大切な時間を与えて頂いている」のです。
これが「神と先祖が心の新陳代謝(浄化)の働きを促す全ての病気の原因に対する勉強の場」なのです。これが「病は気から」のことわざなのです。
病は気からとは病気は気の持ちようと言うだけでは有りません。病気の「病とは先祖が信仰と奉仕をして欲しいと言う要求と、また神様からは反省を促す心の勉強をする大切な時間を与えて下さっている」のです。病気の気とは心の事で、先祖では霊の働きなのです。
病気の気(心)は自分の心が先祖からの要求(シグナル)を理解していない時と、信仰と奉仕の祓いをする心が無い時に、病気を通して清濁(徳と罪)を分ける働き(時間)を神様が与えているのです。
先祖とは遺伝子の基となる原因を与えている親の親なのですから、遺伝子の継続の責任が有るので、当然遺伝子が絶える事は許されない事なのです。子孫の継続と繁栄の為に先祖になっても、自分が祓えなかった罪を、この世の子孫に祓いをさせる親としての権利と、守護霊となり子孫を守る義務が有るので、結果として病気をさせて信仰(祓い)の要求をしているのです。病気になって不平や不満を言う事は神と先祖の優しい御心に背く事になるのです。
遺伝子を受けて誕生している限り先祖の罪の祓いは、自分達と子孫には当然として義務が存在しているのです。その義務を果たす「信仰と奉仕を先祖が満足してくれる実践と善の心を持つ事」が、「先祖を産須根の神としての神位を受けて、守護霊として強く守る働きを子孫として受ける事が出来るのです。」

 この世の特徴はなんでも全て浪費(消費)する社会なのです。空気や水を汚し森林や山を壊して車や家などの物を作っては壊しの繰り返しをしているのです。あの世は先祖が土に還って物を生産する「土壌と時間を育成している神の働きの有る所」です。
宇宙の太陽を始め木火土金水の星(神)は目には見えない地球の大地や自然の森や海の中でも、私達の寝ている夜の時間には神様の新陳代謝(再生)の働きにより、当たり前として神様が働かれる地球の自然の中で生産と育成の働きが有ります。
目で見ることの出来ない所(科学や医学の到達しないところ)で物の生産や育成が、毎日継続して地球の再生のための働きが有るのです。
そのお陰で地球の大自然が成り立っているのです。生態系を壊さない知恵と工夫が神の子の人間として一番大切な事なのです。この様にあの世は神様の支配される生産の拠点に成っているのですから、神様の地球再生の働きのお手伝いを先祖がしているのです。
このお手伝い(神に仕える事)が出来ることを守護霊と言うのです。先祖は守護霊となって子孫が安心して暮らせる地球環境を守るために、神様と力を合わせて自然の再生の為に働いているのです。もし「先祖に罪の祓いが強ければ家系としての生産(子供)が出来なくなる」のです。
先祖の喜びは子孫の幸せと繁栄に有るのですから、結果として病気や事故・災難を与えて先祖は一生懸命子孫の守りの意味と祓いを苦しみの中で教えているのです。私達は先祖が家系の生産の中心になる事を忘れてはいけないのです。生産と消費はバランスが大切なのです。
それは家系の永続の中で自分の信仰と先祖の守りのバランスなのです。「神様と先祖の働きは科学や医学では絶対に説明できない事柄」なのです。その証明に人間の誕生より450億年も前に地球が誕生しているのです。科学も医学も今現在の学問なのです。
神様を信じる事は当り前のことです。科学万能と言われている現在ですが、科学や医学は神にはなれません。神になるのは唯一先祖だけなのです。産須根の神は子孫が敬神尊祖の信仰する事で生産(地球再生と子孫の守り)の働きのある神の位を神様から授かるのです。






 『教派神道の形成』弘文堂(平成三年三月発行)で大きく神理教の紹介をして頂いた、國學院大學の井上順孝先生が國學院雜誌に研究論文を掲載されました。
 神理教が独立してからの、教師の全国分布などを二年ほど前に調査に来られましたが、そうしたものの一つのまとめとされたようです。原文を尊重したため、御教祖の氏名に尊称をつけていません。


『國學院雜誌(第104巻 第11号)より転載しています。』

教派神道の地域的展開とその社会的条件  井上順孝

−神理教の事例を中心に−

 四 免許取得者の地理的分布
 さて、運動の地理的展開を見ていく上では、免許取得者がどこに住んでいたかが一つの有力な手がかりとなる。居住地を知るには免許名簿の住所欄を参照するのがもっとも適切であるが、住所欄はしばしば空欄がある。これに対して、本籍はほとんどすべてが記載されている。そこで本籍によって地理的分布を調べてみることにした。
明治期ということもあるが、本籍と現住所がともに記されている人物のものを比べると、両者が異なっている例は少なく、マクロに地理的分布を調べるには、この方法でも有効と考えられる。
 神理数の地理的展開には、それがどのようなタイプの組織形成プロセスをたどったにせよ、経彦の活動範囲と初期の門人たちの活動範囲が大きく関係してくると考えられる。経彦の場合、幕末の教祖たち、たとえば、中山みきや金光大神に比べれば、当初からその行動はかなり広範囲にわたっていた。また平山省斎のようにもっぱら中央政府とのかかわりのなかで既存の大小の組織を結集していった人物に比べれば、布教のために行動した地理的範囲はぐっと広い。
 地理的活動範囲が、どのようなものであるかは、教祖たちの個性も関係しているが、時代社会的要因も大きく関わる。経彦は主として明治中期から後期にかけての時期に布教活動を行ったので、遠方に移動することに関する法的な制約はなくなる。交通の便も幕末と比べて、格段に便利になっている。
鉄道網が全国的に晋及していく時期と、経彦が各地を巡教した時期とはほぼ重なっている。参考のために経彦が布教を開始した明治十年代の少し前から死去する一九〇六年までの鉄道網の充実を、彼の旅程に関係する東海道、山陽道、九州における変遷史を見ると、表1のようになる。


 経彦は鉄道も利用したが、瀬戸内海では多く海路を用いた。
この時期はまた、大阪商船等によって瀬戸内海を中心とした海路も充実されていく時期であった。そのように交通の便が格段に改良されていく時期であるということは、やはり運動の展開に関わる社会的要因において、幕末期との大きな違いの一つとして考慮しなければならない。
また、客船の中で同乗の客と宗教問答をしたことも、経彦の日記から知られるので、旅行そのものが一種の布教の場となったことも分かる。
 経彦が訪問した地域と「免許名簿」から知れる免許取得者の地理的分布との間には、ある程度の相関性が見出される。経彦が神理教会開設の願いを出したのは、一八八〇(明治一三)年七月のことで、願い出は同月許可となった。
一八八一年から翌年にかけて上京しているが、このときの日記が「東行記」として残されており、細かな旅程や、誰に会ってどのような面談をしたかといったことも一部分かる。

 一八八七年には山陽各地、信濃を巡教。ふたたび東京に至っている。
八九年にも神理教独立願いのため上京し、途中、神戸、西京などで布教している。つまり、北九州から東京の問は何度か往復し、その途中、山陽各地近畿地方に滞在している。また一派独立した一八九四年の翌年、広島、岡山、伊勢、名古屋、東京、その他、関東各地から、北陸地方にも足を伸ばしている。
一九〇二年には九州各地を巡教したが、このときの様子は「熊本日誌」として残されている。一九〇六年に死去したわけであるので、晩年まで各地を巡っていたことが知れる。
西日本、九州が中心であるが、関東、北陸にも足を伸ばしている。なお、こうした布教活動には、やがて、彼の息子の佐野伊豆彦が加わるようになった。
 近代における交通網の発達は、一般に宗教運動の地理的展開を促進する要因になった。短期間でより広い地域に運動が広まることを可能にするからである。
樹木型の組織のみならず、高坏型の組繊にとってもこうした条件は組織の展開に大きな要因となる。
神理教の場合、中央政府から離れたところで運動が始まったわけであるが、その地域からみた交通の発達が運動の展開に関わりをもつ。
経彦の行動範囲が広かったというだけでなく、彼の門人たちの活動範囲も広まるし、本部と分教会との行き来も便利となる。

  (つづく)



研究のページ

*質問3

 上に位置される神になれば沢山名前を持たれていますが、何故必要なのでしょうか?又、男と女両方を持たれながら夫婦とならているそうですが、元津大神の親になられる神とは?

*お応え

沢山の名前が何故必要か
 天照皇大神や大国主命など大きな業績を残された神は、上位に置かれると共に多くの名前を持たれています。
 理由は神それぞれに種々在りますが、一つはその神徳や業績によって、またご性格によって付けられた呼び名が多いようです。
 必要と言うより色々な業績を残されているので、その都度『こんな偉大なことをされた』ということで、その名前が呼称されたのです。
元津大神の親になられる神とは?
 元津大神については、質問1で注釈しました。
 本教では天在諸神の中でも殊に五柱の神達はどれも元津大神たるものですが、その親を遡れば、天之御中主神に行き当たります。


*質問4

 神を産んだ神がいらっしゃるそうですが、元津大神の親になられる神とは?
*お応え
 前項でお話しした、天之御中主神です。
 この神こそが全ての元の大神で、宇宙天地が出来る前からその意志を持っておられた存在として尊まれます。
 その意志が形となって宇宙天地が表れ、生き物が出来、その御意志を理想の社会、即ち神の世を形に表すように人が生まれたのです。
 例えば天照皇大神などは、伊勢神宮の主祭神でもありますし大変尊い神ですが、その神にも親・ご先祖がおられます。
 その祖先神が本教の天在諸神の中の十柱の神、またその上に五柱の別天神で、その中の大元の神が天之御中主神なのです。

 

        



  本院職員紹介

神事・典礼課長 渡辺 斎さん


 「神事のオーソリティ」こと渡辺斎先生は、本院で生まれて育った生っ粋の神理教徒です(渡辺先生の家は、現在、明星会館が建っている場所にありました)。
神事・典礼課長として、夏期講習会では祭事全般を教えています。
 渡辺先生の曾お祖父様は鳥取県の米子に住んでいて、布教に来られたご教祖様の門人となったそうです。
「渡辺家は武士の出で、昔、殺めた人の供養のつもりもあったのかもしれませんね。」
 渡辺先生のお祖父様は十六歳で本院の職員となり、約六十年間勤めました。
「おばあさんは長崎の平戸の教会の娘で、おじいさんが長崎に布教に行った際、知り合ったと聞いています。なんでも二人は教内結婚の第一号だったそうです。」
 そのお祖父様が亡くなったのは、渡辺先生が高校を卒業して二年ほどたった時のことです。
当時、渡辺先生は地元のスーパーに勤めていましたが、管長様のお声掛かりがあり、あとからお祖父様の「あとを継いで欲しい」という遺言(歌)が出て来たこともあって、本院に勤めることになりました。
本当は自衛官になりたかったという渡辺先生。
しかし、お祖父様の意志を継ぐことに抵抗はなかったと言います。(ちなみに、渡辺先生のお父様はこの道には入らず日本画家となり、渡辺先生は一人っ子だとか。)
 地元で生まれ育った渡辺先生は、地元の教信徒の皆さんとのパイプ役であり、良き相談役でもあります。
「祝詞が素晴らしい」という声を耳にすることもしばしばです。絵の才能は、お父様譲り。昭和六十二年から三年間ほど、神理雑誌に『往時の建物を偲びて』という記事を連載し、その中で見事な挿し絵を披露しています。
「平成二年に難病にかかり、医者から足を切断しなければならないと言われました。
幸い、切断せずにすんだのも、神様のおかげと感謝しています。これからも『敬神尊祖』の気持ちを大切に、健康に気を付けながら、日々精進していきたいと思います。」
 神理雑誌にも、また素敵な挿し絵をお願いします。 
        
                                                         



穂見大祭

平成16年8月16日(月)

 ツクツクボウシが鳴き始めたとはいえ、まだまだ厳しい暑さが続く八月十六日、本院の大教殿で穂見大祭が行われました。今年も、ご先祖の霊をお祭りするために遠方からも教信徒の皆さんが参拝に訪れました。
 副管長様は講話の中で、「元気というものは出さないと出ない。そして、出す気持ちにならないと出せないものです。ご教祖は病気=病は『病む日』であり、病気になったら、一生懸命にお祈りして元気をいただき、病院へ行って手当てもしてもらわなければならない、とおっしゃっています」とお話しされ、続いて穂見祭について、また神殿の準備や祭り、玉串の心得、普段のお参りの仕方について解説。
その中で、「穂見祭を行う八月は、ご先祖の霊と会う月です。もともと、祖先祭りは仏教の教えにはなく、神道のものでした。時々、『神道にもお盆があるの?』と聞かれることがありますが、こうした質問は本末転倒と言えるでしょう」とおっしゃったのが印象的でした。最後に、「祖霊拝礼詞(そせんおれいのことば)」をみんなで一緒に練習しました。
ちなみに、九月五日(日)に行われる北九州教友会では御教誡・教え、神棚の祀り方などについての勉強会があります。皆さん、ふるって御参加ください。

●菊池  學さん
●内山 香澄さん
●   満葉ちゃん(中二)
●   芽泉ちゃん(四歳)


 菊池學さんの奥様が亡くなったのは一昨年。東京に住んでいる長女の香澄さんと、孫の満葉ちゃん、芽泉ちゃんの四人で穂見大祭に参拝されました。
 亡くなられた奥様は奥方様と同郷で、高校の一年後輩にあたります。今から十年前、たまたま同じ英会話教室に同じ日に入った二人は、同じ高校の出身ということを知り、意気投合。以来、実の姉妹のように親密なおつき合いが始まったといいます。
「実を言うと、神理教に改宗したのは母の遺言だったんです。まだ新米の信者ですが、もともと、お宮参りや初詣には神社へ行っていたし、神道に抵抗はありませんでしたね。むしろ、神道の方が親しみやすいような気がします。
母は、奥方様をとても尊敬していたし、私たちも以前から管長様や奥方様の人柄は存じ上げていたので、『神理教は素晴らしい宗教に違いない』と思っていました。
今は、本当にいい御縁をいただいたと感謝しています」と、香澄さん。學さんは、京都郡苅田町で香澄さんの妹さんと一緒に住んでいますが、年の半分は東京の香澄さんの家で過ごすそうです。
「こちらに母を置いていただいていると思うと、安心できます」という香澄さんの言葉が、心に残りました。


「百瀬ミュージックだより」43     代表 百瀬由の

 残暑お見舞い申し上げます
「百瀬ミュージック」だよりが当方の都合でしばらくお休みになっていました。この間もいろいろお世話になり、特に春の大祭・独立百十年記念祭の折にはまたバザーを開かせて頂き、大変なご支援を受けました。遅くなりましたが、この紙面をお借りして御礼申し上げます。
 これからも活動の状況を挿みながら前回に引き続いて「新老人の会」を提唱し、老いても輝いて生きるという生き方を実践しようと、今でも医療現場の第一線にたって活躍されている日野原重明氏のお話を、昨年9月からシリーズでお伝えしてきましたが、また再開致します。

◎日野原重明氏のお話シリーズ(7)
 健康とは数値に安心することでなく、自分が「健康だ」と感じること
 基準値、平均値はアバウトでいい
 健康を維持するのは、めいめいの努力です。健康診断を活用するのも結構です。体の状態を客観的に把握できますし、自覚症状のない病気を早期に発見できるかもしれません。けれど、検査データに一喜一憂する必要はありません。もっと大雑把でいい、アバウトでいいのです。
 基準値や平均値に私たちはとらわれやすいのですが、基準はあくまで目安であって、あなたの最適値ではありません。しかも基準というものは変わるのです。
 かつて100mg/dlより高いと糖尿病が疑われた血糖値は、 20年程前に110mg/dlになり、先ごろ126mg/dlまでに引き上げられました。いままでは、糖尿病への危険性を、あまり縁のない人まで真剣に気づかっていたというわけです。
 高齢者の定義にしてもそうです。 40年程前は55歳で「老人」と呼ばれましたが、診ている医者たちが55歳に近くなると、「いや、 60歳くらいが妥当かな」と。さらに医者が60歳を迎えるようになって「いやいや、 65歳からだろう」と。いまに高齢者の境は70歳になって、 20年先には75歳になる、と私は見ています。
 基準は絶対的なものではありません。 「65歳を過ぎたから、もう老人だ」と、自らの老いを認めてしまわないことです。「コレステロールはここまで抑えなきゃ」とか「これはこうでなくちゃ」と健康基準なるものががんじがらめになるのも愚かしいことです。
 数値にあまり振り回されないのも、生き方のコツのひとつです。
(以下、次号に続く)

 


● ● 「教祖言行録」より ● ●

*管長様が活字化し一冊にまとめられた「教祖言行録」(当時の生存者を訪ねて、教祖様のお言葉や、教祖様に関するエピソード、思い出話を聞き取り、清書したもの)の中から毎回、順不同で一話ずつ選び、それを現代語に改めて簡潔にまとめたものをご紹介しています。


企救郡中谷村高津尾 権大教正
徳永 太刀彦 翁
 ある時、教祖様の御家に瀬戸物売りがやって来ました。教祖様は、数ある御茶出の中から一番できの悪い、少し口がこわれたものを選んで、それをお求めになりました。
 瀬戸物売りが、
「それはモシ、口がこわれております」と御注意したところ、教祖様は、
「この口のこわれているのを余が取ってやるならば、あとが売りよかろうと思うて、これを取るのじゃ」とおっしゃいました。その瀬戸物売りは大変喜んで、行く先々で教祖様の御心を誉めたたえて話して歩いたということです。
 私は、この教祖様の御心に深く感動しました。
 その後の、ある日のこと。私の家に豆腐売りが来たので、豆腐を一つ買おうと思って呼び込みました。豆腐箱を見ると、崩れた豆腐が一つあります。私が、その豆腐を取ろうとすると、豆腐売りの娘が、
「それは崩れているから、ほかの豆腐を」と言いました。そこで、私も教祖様にならい、
「この崩れた豆腐を私がもらえば、あとが売りよいであろう」
と言うと、娘は大変喜びました。そして、行く先々でこの話をしていたと、ある人が私に教えてくれました。
 実にありがたいことです。
教祖様の御指導に預かり、私もその時だけは善人の名をいただくことができました。
 またある時、今の京都郡矢山の三井平内という人が大病にかかりました。医者だ、薬だ、御祓いだと、できる限りの手を尽くしてみましたが、少しも快方に向かいません。
 そこで、教祖様に御祈念をお願いしたいと、馬を引いてお迎えに来たのです。
 教祖様のことですから、快く承諾され、馬に乗ってお出かけになりました。
 道中、教祖様は馬方といろいろ
お話をなさいました。そして、平尾山を通り越し、矢山の槙坂という本当に険しい坂にさしかかった時のことです。教祖様の声が少し遠くなったように感じた馬方は、後ろを振り返って見ました。
 しかし、坂ということもあり、馬の首が下がって、それが邪魔になり、教祖様の御顔が見えません。馬方が近寄ってよく見てみると、いつの間にか教祖様は馬から降りられ、後ろの方からぼつぼつ歩いて坂を下っていらっしゃいました。
 馬方は非常に驚いて、すぐに馬に御乗りになるようにと申し上げたところ、教祖様は、
「この険しき坂道では、何も乗せないでさえ相当、息苦しいのに、その上、自分が乗ったなら、さだめしきついことだろうと思い、降りたのじゃ」と、おっしゃいました。
 馬方は、この教祖様の厚い慈しみと深い御心に深く感じ入ったということです。

《ご子孫に聞きました》




徳永知恵子先生
 徳永 太刀彦 翁のお孫さんにあたるのが、徳永知恵子先生です。
「祖父は昭和二十年に九十歳で亡くなりましたが、祖父からはとても可愛がってもらいました。教員をしていた私が、まったく考えてもいなかった、この道に進むようになったのも、祖父の影響だと思います。刀鍛冶だった祖父は、、神理教の小さな分教会をやっていました。
祖父が『神理教が発展するまでは、勝負事もお酒もた断つ』と言っていた話や、本院へ来た時には、例えばただ階段を上るのではなく、草一本でも見付けて、それを抜きながら上がっていた、という話を信者さんのところへ行った時に、聞いたことがあります。
それに、昔は交通の手段が発達していなかったため、八幡へお参りに行く時などは、早朝の三時か四時ごろには起き出し、歩いて合馬から山を越えて行っていたのを覚えています。祖父の「人間は絶対にウソをついてはいけない。ウソは悪いことの始まりだ」という言葉は、今でも忘れられませんね。」
 




みんなで楽しく奉仕

大津教会 田中 武久さん
 夏期講習会期間中の七月二十四日(土)、青年部総会が開かれ、続いて講習会参加者との合同懇親会が行われました。
 この合同懇親会でのこと。テーブルの上に次々と、おいしそうな料理が運ばれてきました。それらを作ってくださったのが、熊本の大津教会の皆さんです。毎年、レンタカーを借りて二十名ほどで本院を訪れ、心のこもった郷土料理などをふるまってくださいます。
 煮物に漬け物、だご汁、そして今年はぜんざいまでも。このぜんざいは、どうしても都合がつかず、一緒に来られなかった人が「皆さんに」と、ことづけてくださったものだとか。(ちなみに、夏期講習会二日目の昼食には、地元の婦人会の皆さんが冷麺を作ってくださいました。)
 青年部の支部長である田中武久さんに、大津教会の青年部の人数を尋ねたところ、「基本的に大津教会では、奉仕に参加できる人は皆、青年部です」という頼もしい返事が返ってきました。
 大津教会の皆さんは毎回、春秋の大祭前にも、おおぜいで清掃奉仕に訪れます。例えば自営業の人は仕事を休んで来ますが、帰ってみると不思議と新しい注文が入っていたりするそうです。
「一生懸命やらせていただいているおかげでしょうか。
料理にしても、清掃奉仕にしても、全然苦になりません。みんなで楽しみながらやっています」と、田中さん。そういえば、春の大祭の夕べの集いで「おてもやん」を披露し、会場を笑いの渦に巻き込んだのも大津教会の皆さんでした。
「ありがたいことに、熊本は本院に近いので、みんなで帰院することができます。マイクロバスを借りれば安く済むし、みんな参加しやすいですからね。
その点、遠方の教会の皆さんは大変だと思いますよ。」
 いつも明るく、何かあればみんなで助け合う、そんな家族のような強い絆で結ばれた大津教会の皆さん。これも、三池トキワ教会長先生の人柄によるところが大きいようです。
 大津教会の皆さんといえばもう一つ、毎年、本院にしめ縄を奉納していることも忘れてはいけません。「少しでも本院のためになれば」と、四、五年前から造化宮と教祖殿に二本の立派なしめ縄を奉納しています。なんでも、しめ縄にする分だけは、機械ではなく手で稲を刈っていくそうです。皆さんのしめ縄作りの様子は、本年一月号に紹介されています。

 ところで、現在、本院には全国の皆さんから管長様・奥方様の金婚式をお祝する折鶴が送られて来ていますが、一番最初に届いた折鶴は大津教会の皆さんからのものでした。つないで提げやすいように釣り道具の猿環(さるかん)を使うなど、独自の工夫を施しているのも、さすがです。目標は一万羽(すでに一万羽の鶴を折り上げているそうです)。中には一人で千羽、折った人もいるとか。
 みんなで楽しみながら奉仕ができる素晴らしさ。チームワークの良さは、本当に抜群ですね。




ご教祖の筆跡を訪ねて(一)

文責 「神理」編集 平 嶋 洋 子
 総代相談役・内山茂さんそして石原町総代の原口さんにご案内していただき、瀬戸宣教局長と著者、4人で小倉南区に残るご教祖の筆跡を訪ねました。内山さんは郷土誌「三谷むかしがたり」の編纂に携り、地元・菅生中学校でも教鞭をとっておられた方です。ご教祖の筆跡を訪ねる旅・5話シリーズでお送りします。


第一話 小笠原 忠真公 歌碑・井出浦

 本院から国道三二二号線を車で十五分・井手浦という地域があります。
 ここは鍾乳洞で有名な平尾台のお膝元にあり、浄水場や、夏はホタルなどが有名です。
 総代をされていた蜷川芳一さん宅にご挨拶の後(ご本人は不在)、車を置いて、現場へ向かいました。こちらは素晴らしい棚田が広がっています。小倉南区にこんな立派な棚田があるとは、初めて知りました。おりしも、小倉祇園太鼓祭りの初日・七月十七日の暑い夏の日。
棚田をぬけ、なだらかな山道を歩いている時、私などは蚊にかなり血液を供給したのですが、ふと見ると内山さんの手にはキンチョールスプレー、原口さんの腰にはキンチョール(煙出てます)が下がっています、さすが準備が違います。さらに涼やかに流れる沢を左に見ながら登っていくと、滝がありました。「滑の滝」というそうです、こんなところに滝があるとは…とまたまた驚きつつさらに上がると、大きな石が見えました。

小笠原 忠真公 歌碑

白真弓 射出乃うら山 能ほ里来亭
  なめらが於く迩 瀧遠見る哉
神理教 巫部経彦教長

 石に刻まれた文字を現場ですべて解読することはできませんでしたが、「神理教 巫部経彦教長」とだけは読めたことが嬉しいです。こんな山にこんな歌碑が、なぜ?
 この滝に涼みにこられた忠真公が歌った歌をご教祖が碑として残されたのでしょうか。
 「三谷むかしがたり」では、こうあります。

 二メートルにも近い大きな竿石はこの奥から採ったもので、歌碑建立の費用一切は蜷川氏の母堂の拠出によるとのこと。碑のすぐ近くを小川が流れ、川底の大きな岩を川水は滑り落ちる。これが滑の滝です。
 後にきいたところ、昔の「神理」誌にも瀬戸宣教局長がこう記していました。

 教祖の真筆で、小倉城主小笠原忠真の歌をこの石碑に刻みこんでいる。寛永十五年といえば教祖が生まれる約二百年前であり、その当時の城主忠実公がたびたびこの地に遊びに来たという記録が残っている。教祖が布教途中にこの地を訪れてこの滝を見た時、この歌を思い出されて書に残したものであろうと思われる。この書を授った蜷川芳一氏(井手浦地区総代)の祖母ヒサ(昭和二十四年七十六歳帰幽)さんは、教祖の遺徳を偲び、石碑を建立したのである。
 この井手浦地区は、教祖の布教により教祖時代からの教徒が多く、教祖もたびたびこの地に来られたことが御日誌の中にも記されている。さらに教祖は、この地の村人に「この石を墓石に」と言い残した、と御日誌に記されている。蜷川氏の案内でその場所へと足を分け入れたが、滝から約五百メートル道なき道を登り、川幅も約一メートル位になり、流れる水はあくまでも清く、静寂という文字はこのような場所で使うのだと思わずにはいられない場所であった。ここから教祖奥津岐の棹石は運ばれたものである。
神理雑誌より転載

 いま、この道は井手浦から貫山という山への登山道となっているらしく、帰る途中も登山の格好をした方々を見ました。
 今では考えられませんが、井手浦から貫山を越えて、吉田に抜けるという道として利用されていたらしいのです。管長様が二年ほど前発行された「教祖言行録」にも、ご教祖がかなりの健脚で、布教のため山を越え谷を越えられたというお話がありましたが、少し登るだけで息を切らした私には、想像もできません。
 こういう暑い日なども、人々にたくさんのお話をするためにこの山道を抜けてご教祖も歩き、そしてこの滝で喉を潤したのでしょうか。想像するだけですが、時が過ぎても、ご教祖と小笠原公と同じ滝を私たちも見ることが出来る。なんだか有り難い気持ちになります。
 いまここに来られる方には、この歌碑はどう映っているのでしょうか。
ほとんど人通りはないのでしょうか。
 文字が判別しづらいので、なにかの碑だととはわかりますが、ちょっとした看板が欲しいと思いました。
 ふと右を見ると、山から水がひかれていました。手をいれると冷たく、気持ちいいです。昔はこの水を引いてきて、美しい棚田の源となったのでしょう。原口さんによると、昔から井手浦の米は美味しいといわれていたとのこと。かつて皇室への献上米をつくる主基田になったらしく(詳細不明)、その田をひかせる牛が糞をしても田に落ちないよう、牛のお尻に袋を提げていたというお話を伺いました。棚田で丁寧に育まれたお米は、ほかのお米よりも高く売られていたらしいです。美しい水に、美味しい米。ご教祖が見たこの地域は、昔はどんなだったのでしょう。    (次回へつづく)


* 平成十六年 秋季大祭 *


10月15日(金)
 七時  献饌式
 九時  造化宮大祭
     大元稲荷神社大祭
十一時半 萩尾墓前祭 福山教会
十三時  本殿祭
十五時  撤饌式
十七時  夕べの集い 管長様ご夫妻金婚祝賀会
            副管長就任祝賀会    神理会館

10月16日(土)
 七時  献饌式
 十時  教祖墓前祭
十二時  神理幼稚園児踊り奉納
十二時半 講話 (松岡功課長)
十三時  本殿祭
十五時  撤饌式・引き続き 教祖祭
※十五日の夕べの集いは祝賀会となりますので、会費二千円必要です。
 ご了承の程お願い致します。




                             あ と が き         遊歩 太郎
                

 この原稿を書いているのは八月七日の立秋で、蝉の声が騒がしく聞こえています。
 九月に入ると台風が来て、中旬以降は秋雨前線も下がってきます。
 空高い秋晴れと秋雨、暑い夏が去って行く寂しさと、比較的乾燥した気持ちの良い季節への期待がないまぜのことでしょう。

 七月の終わりにラジオを聞いていたら、一つの番組の前置きで、とても美しい日本の言葉と心を感じました。
 耳に残った余韻をメールマガジンでも配信しましたが、左に再現してみます。
『皆さん、今の季節の雨は、小降りだと安心していてはいけません。
 傘も持たずに外に出ると、大雨にあうことがあります。
 雨が止むと、それまで雨宿りしていた蝉たちが、自分の出番だとばかりに鳴き出します。
 まるで、雨と蝉が競い合っているようです。』
 何か、雨と蝉の鳴き声が、身近に繰り返し聞こえるように感じました。
 こんな感性が身に付くと、世の中がもっと興味深く過ごせるでしょうね。
 七月の下旬と今からの季節は、梅雨と秋雨の前後でよく似ているように思います。
 蝉はまだ鳴いているでしょうか。

 神や祖先への感性も、同じような素直で自然な気持ちから受け止められるのだと思います。
 夏から秋への季節の優しい移り変わりの中で、神と祖先の温かみを感じることが出来れば、と思います。
 そうなると、自然への感性が世の中を興味深くさせたように、神や祖先への感性は人生を味わい深く感じることが出来るでしょう。
 今月の二十三日は秋分の日で、本院では『祖霊祭』が行われます。
 教会でも行われるところがあるでしょうし、八月の穂見祭に続いての先祖祭りを共に仕え奉りましょう。

 神理教のメールマガジンは無料配信しており、もう二百号が目前です。
 Snr@sinri.or.jp へ氏名と教会名、所属教会が無い方は簡単な自己紹介とともに配信のご希望をお待ちします。

                                             (幸)