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                                                          2004−10

平成16年10月号 第1088号

        

巻頭のことば


人の顔は、年相応に変化していくうちに
祖の顔に似てくると言われている。
顔は感情の状態を顕す。
暗くて沈んだ顔は敬遠される。明るくハツラツとした
顔は喜ばれる。
もちろん祖の喜びも後者であり、祖の心も和み
又働きも増大する。
自分は、親・祖先の「明き心」の
表現者であることを知るべきである。




               
                かんなぎべ  たけひこ
  神理教管長   巫部  健彦
      ゆず 
   譲り合ふ 心ありてぞ 共に生き
                 
            共に栄ゆる 道や開けむ


 我々人間は、より良い状態を望むように、生まれついていると申せそうであります。万物の霊長!といわれるほど、人類が、他の動植物よりも優れた存在としての地位を高めることになったのは、そうした生まれつきの性行によるものと考えられます。

 それにしても、その望む所の「より良い状態」なるものについては、人それぞれに対立を含めての相違がある中で、その望む所を共有する人が多いものについては、銘々の努力が集中して積み重ねられる事もあってか、極めて順調に充実や開発が進められているようであります。

 しかし、その全人類が共通して「より良い状態」と希望宿願する「平和」については、順調に充実や開発が進められている衣食住や交通機関その他などとは大いに異なり、殺傷を伴う集団相互の戦闘や紛争が絶え間なく繰り返され、全人類に不安感を波及させ続けてきました。

 これは、その集団の指導者の姿勢を要因とする結果!だと申せそうであります。その集団に属する人達の暮らし向きの安定向上を大前提として熟慮すれば、先ずは妥協にとどまり苦に耐えつつ力を蓄え、その後に、死を伴う戦闘に突き進むという決断に至るべきかと考えます。

 國や民族や宗教その他の集団の指導者が、そうした姿勢で対応すれば、戦闘や紛争は大幅に減少すると思われますし、さきごろ独善的な宗教指導者の指揮下で、多数のイラク人達が死なずにすむ命を落した様な事件も、防ぐことが出来たに相違ないと思われます。

 尤もこの頃では、自分にとっての「より良い状態」だけを考えて、周囲の安定を乱す風潮が強まり、新たな辛抱や妥協を強いられかねぬ事態が増加しております。周囲の人々や国々が結束協力して、安定を乱す行為を、断固として抑止することが肝要であります。

 今月は本教独立110年を締めくくる秋季大祭が行われます。御神護を頂く中で、我々としては自律している妥協についての位置づけを見直し、国民・社会人・家庭人等という立場で、多くの人々と共有できる「より良い状態」を模索し、妥協点を含む相互理解を深める中で、分かち合う心理的な労苦が少ない状態を招来すべく努力いたしたいものであります。




                  

H.16.10月号

自然の道

幸 彦

神と仏の違い (前)

忘れていた疑問点

 神理教で二十数年も勤めると日々色々な勉強をさせて頂きますが、自身を振り返ると反対に鈍感になる部分もあるようです。

 自分や周囲の数人だけが分かったつもりになってことを進めていても、一緒に行動して頂きたい方に話しが通じていなかったのでは?と反省します。

 筆者の高校時代の数学の教師が、「諸君の分からないところが分からない」と言った言葉を思い出しますが、筆者にとってはあまり自慢出来ることではないようです。

この度も、メール(電子郵便)での質問に応えるうちに、『そうか、そうしたことが誰もが持つ疑問点の最初であり、それが神理教に関わることへの心の障害になっているのか。

そういえば、自分自身も全く同じ疑問を持っていて、気付かぬうちに解決したつもりになっていたのだな』と思ったことでした。

そして、同じ疑問を持っている人がいることにも気付かない自分に気付いたのでした。疑問も悩みも、

『自分だけのもので、他人には分からない・分かってもらえない』と思いがちです。

でも意外に他の人の持つ同じような疑問や悩みに気が付いた時、仲間を見つけたようでホッとするものです。

 そうしたお気持ちでご一緒にお考え頂ければと思いますし、他にも何か思い出された疑問があれば本誌の編集へ気兼ねなくお寄せ下さい。

 筆者にも読者にも、知る楽しみの場・ホッと安心出来る場をご一緒に作りましょう。次のような質問がありました。

 

神と仏の関係(歴史だけでなく霊的な違い)への質問

『一番大切なことなのでしょうが、神と仏の関係が解りません。

 神社が氏神様でありながらお寺の檀家というのは、いわゆる日本人の江戸以降の典型的なスタイルだと思います。

私の家の中には神仏が共にあり、それぞれへお仕えしお祭りをしています。

守られているのが何となく分かるような気もしますが、目で見えるものでもありませんので、……分かりません。

歴史的に徳川幕府のどうのこうのとか、古事記やお坊様のこと等の言い伝えではなくて、霊的に実際にどの様に働いているか、現実味を持てるような説明をお聞きしたいのです。

ご先祖に守られることは各家庭が共通なのでしょうが、神様と仏様に守られているとなるとどのようになっているか、良く解らなくて不思議です』ということでした。一般論も含め、なるべく簡単にお話しさせて頂きます。

 

 先ず@歴史についておさらいし、次にA神と祖先が、霊的にどう働かれることによって守られているか、についてお話しします。

 @については読み飛ばして頂いても構いませんが、ご確認のため記しました。

@歴史についてのおさらい

*仏教・キリスト教の伝来のいきさつ

 日本人というか人間は、自然を大元の神として敬い祖先を守り神として尊ぶという、いわゆる神道(そういう名前すらありませんでしたが)でした。

 神道自体は自然に出来た(神が造った)教えですが、その神道も人がその教えを自分の利益とするうちに何度も堕落の道を辿ります。

 そこにキリスト教やイスラム教や仏教や儒教という、人が創った教えが成立します。

 これらの教えも何度も堕落の道を辿りますが、神道の堕落を批判した新しく理性的な教え、というイメージが私たち人間に印象づけられたようです。

 日本には538年に仏教が、1549年にキリスト教がその眩い文化と共に伝えられました。

当時の日本人の一部は、素晴らしい文化を持つ国は宗教も素晴らしいのだろう、と思い込んだようです。

 そうして日本人は仏教やキリスト教が入ってくる都度、文化人と言われる人の何割かが飛びついてきました。

*日本固有(人間本来)の先祖崇拝

 それでも新たな宗教に移る人は、日本人全体の中ではほんの一部でした。

 それは先祖崇拝とい日本人に人として伝わった、どうしても切り離せない教え・習慣があったからでした。

 そこで仏教は、日本人の先祖崇拝を先祖供養という、仏式の名前に切り替えて行うことにしたようです。

 それでも仏式の先祖供養を行う人は、貴族や武士の富裕層であり文化人の一部でした。

 こうした歴史を振り返って分かることは、日本人は大昔から仏式で先祖供養を行ってきたと思う人が多いようですが、それは勘違いだと言うことです。

*日本人が全て仏教徒となった時期と理由・寺請制度

 日本人の葬儀を仏式にしたのは徳川幕府で、日本人の戸籍を各地の寺に預けるという、いわゆる寺請制度にその始まりがあります。

 その理由は幕藩体制の維持強化引いては国内の平和安定という政策にありますが、この人の小さな理性は部分的には正しく見えても、自然・神から見る広く大きな意味では日本人に本来の在り方を見失わせることになりました。

 それは、徳川家を中心にしなければならないあまり、太古から日本人の心のまとまりの中心であった天皇の力を弱め奪おうとする政策でした。

 そのために、天皇家とは教義上の関わりのない仏教という異民族の宗教の力を利用し、天皇と日本人の絆である神社の力をそぐ必要があったのです。

 この寺請制度が、日本人に神・天皇家・祖先(三恩)との心の繋がり、という本来の在り方(心の持ち方)を見失わせることになります。

*日本人の思い込み(葬儀の主体や拍手の回数)

 この政策は大量虐殺などとは違うものの、真綿で首を絞める巧妙な迫害であり、神社は程々の保護を受けながらも江戸時代に弱体化して行くのです。

 宗旨を仏教にしなければお寺の戸籍に入れてもらえず、入れてもらえなければ人間扱いしてもらえない、ということになったのでした。

 神葬祭が出来るのは伊勢神宮の宮司など余程大きな神社のしかも宮司だけで、家族はいくら神道を信仰していても葬儀は仏教ということになりました。

 御教祖の巫部家も江戸時代は仏教で葬儀をせざるを得なかったのですが、ようやく神道に戻ったのは、江戸幕府の力も弱まった教祖の父上経勝翁の葬儀の時でした。

 それは長い日本人の歴史の中で、わずか四百年前のことなのですが、なぜか現代の日本人は葬式は仏教で結婚式は神道やキリスト教でと決めつけているようです。

 考えてみれば、拍手の回数も二回が正式であると思い込んでいる人が多いのですが、神社が二拍手と決められたのは明治の中頃で百年ほどしか経っていないのです。

 岡山の吉備津神社は三拍手ですし、出雲大社や宇佐八幡宮は四拍手、伊勢神宮は八拍手(やひらで)で、皇居の賢所は十六拍手と聞きます。

 私たちの常識というのは、自分で決めつけている部分が少なからずあるようですが、宗旨についても同じ事が言えるようです。         つづく






折鶴会
婦人会 三重支部



 平成十一年皇居勤労奉仕参加(以来毎回数名参加)と開教百十年式年大祭に北勢教会の御教祖墓前祭奉仕を記念し、婦人会総裁より北勢教会も婦人会支部開設を、とのお話を賜り三重支部が発足。以来数年、何の活動も伴いませんでした。
然し此度、新副総裁の「心ひとつに折り鶴を」の御提案には早速反応し、川北夫妻、澤ふさを、伊勢の牧原様等の各千羽以上始め教信徒皆様からも「一折でも心は本院に」と多くの真心折鶴が寄せられる中、一婦人会員の「一度皆で寄り合い、もっと鶴を折りましょう」の呼び掛けで八月教会月次祭の日、早朝より婦人会が集まり午前中は折鶴作りに励み、お昼は手作りの「チラシ寿司」に舌鼓。
午後は本院から取り寄せた「独立百十年式年大祭VTR」でビデオ観賞、大祭が全収録されたビデオ画面上に、春の教会団体参拝時の「私も映ってる」とお互いを発見、喜び合いました。
 続いて教会月次斎行で終日心から楽しい最高に融和の一日となりました。
 「管長・奥方様金婚記念」「副管長様就任記念」奉祝本院秋季大祭へ全国教信徒奉って祝い喜び、大教殿始め本院一杯に吊り飾られる何万羽の折鶴の中へ、私方北勢教会からも「御祝鶴」と紅白仕上や各色作りで見事に、五千羽を超す本院奉納が出来まして、此度の婦人会三重支部の折鶴会会合は今後の心強い活動の第一歩となる事でしょう。
 幾千何万羽と本院内鶴一杯と埋めつくされる今回の秋の大祭帰院は、又楽しみの極み。       (伊藤)

8月17日(火)読売新聞全国版(二面)にて、北勢教会のまわり燈籠が紹介されました。


婦人会祝い鶴奉納

 台風一過の九月八日。婦人会は本部役員を中心に本院に集まり、秋の大祭に向けて祝い鶴を折りました。急な召集でしたが十二名も集まりました。
 午前十時から午後三時近くまでがんばって、約八百羽折り上げることができました。(ちなみに昼食は奥方様が手作りしてくださいました。)祝い鶴の企画は、若奥様の未来委員会でのご発言によるものです。婦人会員も若奥様と「こころひとつに」管長様・奥方様のご健康をお祈りし、おふたりの金婚式をお祝いしながら折らせていただきました。

参加者
岩野ヤス子 佐野美代子 佐野 優子
瀬戸真智子 向井ヒロ子 向井理恵子
日吉ヨシ子 松岡 仁美 巫部 恵理
徳永智恵子 金田 良子 末若  明
  
【祝い鶴奉納者芳名】(敬称略)
内山  茂/鈴木 早苗/大津ミツ子/梅尾 俊行/柳川教会 金子連/瀬戸眞智子/大津教会
山崎  潔/中村 勝利/中村 二彦/佐野 紀宏/橋本 祥平/内村 照子/桐原 松江
弘前教会/名古屋大教会/桑原 一三/松岡 和彦/小辻  茂/美保教会/井口千代子
湯川美代子/瀬高教会桑原幸子/光金稲荷教会会員一同/宮地獄教会一同/関川輝一郎
関川稀穂/三浦 田鶴/山口ミチコ/新矢 早苗/名古屋大教会/藤猪マサエ他一同/田中 静哉
下庄教会/岩野ヤス子/光陽教会/姫路幡陽教会/木村千代子/佐野 恭子/佐野 優子/向井ヒロ子
向井理恵子/甲木 善博/小坂井分教会/長崎教会/福永教会/篠田 敏子/蜷川 芳一
平成16年9月10日現在



    

「教祖言行録」より

*管長様が活字化し一冊にまとめられた「教祖言行録」(当時の生存者を訪ねて、教祖様のお言葉や、教祖様に関するエピソード、思い出話を聞き取り、清書したもの)の中から毎回、順不同で一話ずつ選び、それを現代語に改めて簡潔にまとめたものをご紹介しています。


  西谷村能行
森本 佐次郎 談


 
ご教祖様が御昇天されてから早くも二十余年になりましたが、月日のたつのは早いものです。今なお、ご教祖様が目の前に笑みを含まれて立っておられるような心地がいたします。
 私がお世話になったきっかけというのは、父母が常に厄介になっていた、そのご縁からです。極めて古いご教祖様の話を、父母から聞いたことがあります。
 それは、まだ私が四歳の時のことです。その当時、今でいう風邪の一種で、ボラ(俗称)という病気が流行し、母がこの病気にかかりました。親族一同が集まり、介抱は言うまでもなく、医薬の及ぶ限りを尽くしましたが、症状は日増しに重くなるばかり。みんなはただ、神仏のご加護を唯一の頼みとするばかりだったそうです。
 当時は今と違い、なかなか不便で、医者も少ない時代でした。
 母の病気は次第に重くなり、ついにはうわ言まで言うようになりました。かかりつけの医者(神務の傍ら医薬に従事していた)が言うには、
「ここまで手を尽くして薬を与えても治らず、特にこのようにうわ言まで言うようでは、これは尋常の病気ではない。野狐のたたりだから、蟇目の祈祷をしてたたり物を落としてやろう。もし、それでも落ちなければ胡椒燻の祈祷をする」
 この話に親族の者はみな賛成しましたが、父と祖母の二人が反対して承知しませんでした。というのも、母の末の弟が先年、同じ病気にかかった際、胡椒燻をしただけで顔が浅黒く変色し、唇もはれて見るも 無残な姿となり、十三歳で亡くなったからです。
 しかし、病気は一向に快方に向かわず、介抱の者も疲れ、顔を見合わせながら途方に暮れていました。するとその夜、静かに外の方に人の足音がするので、 誰か見舞いに来たのだろうと思って戸を開けてみると、ご教祖様がおいでくださっていました。別に頼みにも行かないのに来訪されたため、みんな不審顔に、ただご教祖様を見守るばかりでした。
 すると、ご教祖様は座につかれ、まず来意を告げて、見舞いの口上を述べられ、母を診察しました。
「だいぶ重態のようだが、病の重いのはさることながら、介抱される皆さんもなかなかお疲れで容易ではあるまい」
とおっしゃり、「今、いかがせらるるや」と情のこもったお尋ねに、家人はこれまでの経過や、明晩からする予定になっていた蟇目の祈祷、また胡椒燻のことをお話しました。
 ところが、ご教祖様は、
「これは狐つきでも何でもない。熱のためにうわ言を言うのだから、蟇目の祈祷も至極結構だが、胡椒燻はもってのほか。いかなることがあろうとも、決して行ってはならぬ」
とおっしゃい、段々と神理のお話をなさいました。
「人は父母を通して、神の分霊を借りてこの世に生まれ出たものであるから、常に神の御心に背かぬように、神の教えを守っていけば、御用の済まぬうちは決して死ぬものではない。また、この病人は助かるとの御示しがあるから、この神薬を煎じて服せよ。必ず効験がある」
 ご教祖様はそうおっしゃると鎮魂の御法をなさってくださり、家人にも神拝の行事等をお授けになって、お帰りになられました。
 その翌晩、医者の手によってとうとう蟇目の御法が行われました。夢の中にある母は「体が軽くなったような気がする」と安堵の面持ちですから、みんなも安心しましたが、病気はなかなか治りません。
 ご教祖様は、それから毎夜お見えになって診察してくださり、食事その他のことについて注意を加えられ、いとも親切にお諭しがありました。
 その後、重体だった母は日ごとに快方に向かい、自然に平癒しました。そして、遂に九死に一生を得て、七十歳まで生き延びたのです。この話が広まり、ご教祖様に診察をお願いして助かった人がたくさんいます。我々兄弟三人が青年に達するまで、父母の温かい慈愛に恵まれたのも、思い起こせば、まったくご教祖様のおかげであります。
 ご教祖様は医者といっても現今の医者とはまるで異なり、すべてが助けを本とし、救いを本意とされ、金銭へのこだわりや、今晩は疲れたから、あの診察は見合わせようという怠りは、まったくありません。夜であろうが雨風の時であろうが一向におか まいなく、貧しい人などには薬代をとらないばかりか、病床の下に家人の知らない間にお金を差し入れておくことも度々でした。
 それが、医者としての御行動をおやめになり、神理の御道を布教することになったのですが、この時は皆が悲しみました。しかし、御布教のため上京されたり、また各地に布教に回られたりして、自然と外出がちとなり、医者の方は遠ざかったのです。
 父母の申すことを聞きつつ成長するにつれて、親しくお会いし、お世話になったことなどを考え合わせますと、実に親切なおやさしいところがあり、どことなしに尊く、おかすことのできないような心地がして、今なおご教祖様のお姿を忘れることができません。

《ご子孫に聞きました》
 森本 佐次郎さんのご子孫をいろいろ探してみましたが、残念ながら佐次郎さんのことを直接知るご子孫の方にお話を伺うことはできませんでした。ただ、お祖父様が佐次郎さんとは兄弟という方のお話によると、その方のお祖父様が森本家の本家で、佐次郎さんは分家にあたるそうです。
「お墓は隣同士にあります。佐次郎さんの甥にあたる父は五年前に九十一歳で亡くなりましたが、父が生きていたら、何か話が聞けたのではないかと思います。残念ですね」
 森本佐次郎さんのご子孫が今も小倉に住んでいらっしゃるということに、何か感慨深いものを感じました。   
 


百瀬ミュージックだより (44) 代表 百瀬 由の

日野原重明氏のお話シリーズ(8)
 医学が進歩するほど、病人が増えていく矛盾
 誰しも、病気一つせず、若いころのままの体力を維持したいと望みますが、それは日ごとにむなしい望みに変わります。どんなに健康維持に心がけても、からだは老化し、病気にもかかりやすくなります。それが、朽ちるからだをもった私たちの定めなのです。
 心身に欠陥がないことを健康というのであれば、「健康」と太鼓判を押せるのは、生まれたての赤ちゃんくらいなものです。
 健康を抜きにして、いきいきと生きることはかなわないのでしょうか。そうであれば、私たちは生まれた瞬間からお先真っ暗です。更にこの先医学が進歩して検査機器の精度が上がれば、より小さな欠陥や異常があらわになる。そうなると、赤ちゃんの健康もあやしいものです。悲しいかな、医学が進めば進むほど、病人が増えていくばかりです。
 けれど、検査機器に「病人」と判断されようとも、私たちはいきいきと生をまっとうすることができます。健康であることと、内的に健康感をもっていることは別なのです。
ここを、医者を含め私たちははっきりと分けて語るべきでしょう。
 90歳になる私の心臓を念入りに調べたなら、動脈硬化はあるにきまっています。それでも私はどんな朝も爽やかに目覚めます。すがすがしいほどの健康感があります。それで十分であり、それこそが大切なのです。
 暑ければ暑さに順応する。睡眠時間が足りなくても、いまが踏ん張りどきなら、気力で乗り切る。ストレスを受ければ、それを上手にかわす術を見つける。年をとったためにからだの動きに支障が出てきたら、そのことに注意して行動する。
 あなたのおかれている環境や状況はそのときどきに変わります。その変化に自分を上手に適応できることは、健康であることの一つの証です。健康はつねに変わらない状態を言うのではなく、個々人にその対応が任された、応用自在なものであるべきなのです。
 昨日のあなたと今日のあなたがちがうように、健康もあなたとともに姿を変えます。環境の変化を読む熟練した舵取りは、医者でなく、あなたのことを一番良く知っているあなたが取るべきだということを忘れないで下さい。
 (以下、次号に続く)

 昨年、社会福祉・医療事業団からの助成で『生きがい創造推進事業』を展開し、その中の一環として「ワンコイン・コンサート」を山田緑地で開催し、大変な好評を得ました。今年は団体助成はありませんが南小倉公民館・南丘市民福祉センターのお世話で第2回のコンサートを十月三十一日(日)に開く予定で、その準備と練習に頑張っております。参加される方、運営にご協力されるボランティアを募集しております。そしてどうぞ当日はお気軽にお越し戴くようご案内いたします。

          



  幸福への出発
            光陽教会  中山 勇

    第31集   神に感謝の意義


  先祖と共に生きている自覚を持っている人が少なくなっています。自分が大将の気分で身勝手な生活をしている人がかなりの割合になっているのです。子供たちが巻き添えになる悲しい事件や事故がニュースで報道される度に、人の心の中に神の子としての責任と人間としての道徳の欠如が感じられて、怖い世の中に成りかけている気がして、益々敬神尊祖の信仰の重要性が高くなっていると思います。
多くの宗教も教義のための教えが主と成り「人の心の支えに成る事が宗教の教義」なのですが、自分の宗教を守るための保守的な活動におわれている傾向が強いと思われます。
宗教の日的は「人類の平和と共存」であり、地球環境の保全と育成」なのです。
個人的には「人の心の安心が信仰の目的」で、その基本が「我が心清清しい」という事なのです。
先祖から受け継いだ家系の中で持って生まれた性格が、人に負けたくない心や馬鹿にされたくない自尊心が、自分に対して損か得かの判断で心が強く動くので信仰の日的から心が離れて行くのです。信仰の心は感謝から始まるのです。
しかし感謝は言葉で知っているだけで、意外と感謝の意味と心の感じ方を知らない人が多いのです。人に対して感謝をしなさいと言う人が、本当は感謝の心が判っていないものです。
「信仰の教えの中で感謝の心は重要な部分ですが」、感謝を人に要求したり強制をする事は間違っています。感謝とは、前提に納得する心が有って初めて感謝が出来るのです。
なぜ感謝なのか、「何に感謝をすれば良いのか、心の持ち方と考え方をわかりやすく説明する事が必要」なのです。特に家庭内での親子・夫婦の会話の中で、自然に信仰や感謝について話し合える家庭環境が大切なのです。私達は何でも知っているつもりなのですが、実はよく判らない事が多いものです。
信仰と感謝の本質は、神に感謝・先祖に感謝・人に感謝・夫に感謝・妻に感謝・子供に感謝・親に感謝・自然に感謝・今日一日に感謝・健康に感謝・病気をしても感謝なのです。この心が信仰の第一歩に成るのです。もし感謝の心が無ければ、自分本位で他人や物事に対して不平や不満の心になり、ストレスが溜まり自律神経の働きを乱して病気を自分の方から招き寄せる事になるのです。
感謝をすれば血液がサラサラになり、脳細胞が元気になり健康な身体を自分から作るのです。信仰はこの感謝の心を育てることが教えの基本になり、教義と実践になるのです。
 神に感謝とは、いま目で見ているもの全てが神様の創られたものです。
この地球が誕生して450億年たっています。神様は450億年の歳月をかけて地球上に人間が生きて行ける自然の営みの総てのものを与えて神の子の誕生を喜ばれているのです。
空気・水・光・草や木・車や飛行機・家や着物・魚や動物・食べ物や季節・山や海・夜空の素晴らしい星たちの総てを神様が創られているのです。人間は神様の創られた原材料を加工して家や車を作り使っているだけで、自動車も原材料は土の中から鉄鉱石を掘り出して人間が加工をして車が出来ているのです。
また、ガソリンも土の中の油田から汲み上げているのです。今食べている美味しい食事も全部神様の自然の法則のままに作られているのです。人間は種を蒔き、神様の働きで種から成長した実や野菜を収穫しているのです。その食材を人間はおいしく調理してきれいにお皿に盛って食べているだけなのです。
お米もお百姓さんが種を蒔いて実れば収穫をしているだけで、人間が作ったと言っても良いお米を作るために田に水を入れて草をとり、お米が出来るのを待っているのです。
種から根が出て芽が生えてだんだん成長してやがて花が咲き、実がつきお米になるのです。この作業は神様が半年の時間と春夏秋の季節の変化の中でお米を作られているのです。この「神様の働きが一つでも欠けたら人間は生きることが出来ません。」空気が無くても水が無くても食べ物が無くても生きられないのです。
なのに「人間はなぜ神様に感謝をしないのでしょうか。」その原因はすべて親に有るのです。「親が子供に物を大切にしたり神様の存在と感謝をすることを教えていない」から、または「親自身が神様を知らず感謝も生きる喜びも持っていない」からでしょうね。
だから「子が悪い、即ち親が悪い。何も子供に教えていない」と言えるのです。人は神の子です。自分の身体の中の神経も内臓も血液も目も耳も鼻も口も、総てが神様と先祖の善の働きをしているのです。心の中も良心(神の道)が主となり善を積んで行く様に働いているのです。
善悪(清濁)を分ける働きは自分の心の中の良心(神の物差し)が分けているのです。悪いことをして不幸になるのは、身体の中の神様の新陳代謝の働きが悪くなるので、血管が細くなり脳細胞に酸素と蛋白質の栄養素が不足するので、善と悪の判断がにぶくなり性格の欲望の心が強くなるのです。
善悪を分ける働きは神様が良心(神の道・人の道)として与えているのですから、自業自得として自分が不幸の道を選んで歩いているのです。
「親の心子知らずと同じで、神の心我知らず」なのです。誰でも悪い事をしたときに血の気がひいて心臓の動悸が早くなりどうしよう…と困惑するのですが、性格が「ま…何とか成るだろう…」と開き直る心が自分で善悪を分けているのです。
ここで謝って許して貰うのか、知らん顔で逃げるのかで、自分の中の神様(良心)が今は何点と罪の点数を加算するのです。加算された罪が神様の守りの有る内臓や神経の働きを乱す事になるのです。
神様は全人類の一人一人の善悪に関わっている時間は有りません。その為に自分で善悪の判断が出来るように幸魂に反省と創造の心を人間に与えているのです。
「反省は前進することであり、創造は明日の自分なのです」。反省をしない人は後退であり罪と言う大きな石に行く道を塞がれているので、不平や不満そして人の悪口等の罪で前に進めないのです。不幸は自分で結果として招き寄せているのです。「人間は良心(幸魂)という神様の物差しを各自が持っているのです」。
そのために人の罪で自分が不幸になることは有りません。
全部自分が蒔いた種なのです。「自分が蒔いた種の相手が神様なのです。神様への感謝の心が全然無いから」自分で不幸の道を勝手に歩いているのです。宇宙も神様の創造されたもの、自然も神様が育成の働きをされているところ、人の身体も神様の守りが有るところ、神様に感謝の心は当然の事で、神様に感謝の心が無いことが不幸の原因なのです。「我が心清清しいの語源は神様に絶対服従」なのです。
神様に手を合わす動作は神様の心に従いますという我が心を示したものです。少しでも毎日の生活の中で、自分の心の中にある良心(神)を意識する時間を持つ事が、感謝の心を育てることになるのです。よく考えてみれば自分の身体の中で自分の思い道りになる所は有りません。
訓練をして、勉強をして超人的な能力を高めることは出来るけれど、性格や体質(幸不幸)は持って生まれた遺伝の中に組み込まれているのです。人間として良い性格と良い体質(元気で長生き)に心を変えていくことは難しく不可能とさえ言われているのです。
「良い性格と良い体質に変えていく方法が感謝の心と奉仕の実践なのです」。神様に感謝の心とは「今自分が生きている事が有難いと思う心と、食事が美味しく食べられる喜びを身体で感じることが感謝」なのです。感謝とは言葉ではなく身体で表現する喜びなのです。感謝の心は病気の原因を祓い寿命を延ばす特効薬なのです。
敬神尊祖の信仰は笑う門に福来るなのです。
             






 『教派神道の形成』弘文堂(平成三年三月発行)で大きく神理教の紹介をして頂いた、國學院大學の井上順孝先生が國學院雜誌に研究論文を掲載されました。
 神理教が独立してからの、教師の全国分布などを二年ほど前に調査に来られましたが、そうしたものの一つのまとめとされたようです。原文を尊重したため、御教祖の氏名に尊称をつけていません。


『國學院雜誌(第104巻 第11号)より転載しています。』

教派神道の地域的展開とその社会的条件  井上順孝

−神理教の事例を中心に−


  五 広がりの特赦
 では神理教は実際どのような地理的展開をしたのであろうか。一九〇六年までの免許名簿を本籍の都道府県別に集計すると、免許取得者数にかなり差があり、一部の県に集中していることが分かる。(地図1参照)免許名簿に記載された者の数が五〇人以上にのぼるのは九県である(表2参照)。北九州と瀬戸内海沿岸の県、及びその近辺の県である。交通網を考慮すると、経彦の活動範囲を含めて神理教の本部との交通の便ということが広まりの条件として重要な要因であることが明らかである。



海路を中心に考えると、福岡を起点に瀬戸内海沿岸県の山口、愛媛、広島、岡山、兵庫が含まれている。また九州では長崎が主に海路によって広まったと考えられる。その意味では自然な広まりの形態と言える。しかし距離的には山口や広島より遠い岡山だが、人数では山口、広島の倍以上となっている。これによって、たんなる絶対距離以外の要因が関わっていることが読み取れる。

 また年ごとの変動について検討してみると、安定した県と変化が大きい県とがある。ある年に集中するタイプは、愛媛県と高知県に目立つ。さらに細かく見ていくと、同じ県内でも比較的特定の郡等に集中していることが分かる。それぞれの県について、一年に五人以上免許を取得した人がいる市郡、もしくは十二年間に十人以上が取得した市郡を表にすると表3のようになる。免許を得た人物が多い地域を比較し、それらの年度別の推移を分析してみると、次のような特徴が浮かび上がってくる。

 @市部は比較的少なく、郡部が大半である。
 A一部の郡部への集中が見られるが、それらは多くが沿岸部であり、港が近くにある場合が多い。
 B年ごとの変動が極端に大きいケースがいくつか見られる。
 C全体的には免許取得者の年ごとの数値は比較的安定している。
 これからどのようなことが類推されるであろうか。@によって、都市部を中心に広まったタイプの運動ではないことが明らかである。Aによって、当時の布教にとって、海路の占めていた役割をより細かく知れる。BとCによって、免許を取得する理由についてのある種の推測が可能である。
 岡山県と愛媛県には免許取得者が多いが、その理由を考える上で、一人で多くの人を紹介した人物が存在することを指摘しなければならない。両県では比較的近い場所で、それぞれ別の人物が数多くの人を紹介している。おそらく布教所なり集会所なりの支部が結成され、そこから紹介した可能性が高い。一八九五〜一九〇六年の間に、一人で二〇人以上を神占免許を得るために紹介した人物は八人いて、多い順に並べると表4のとおりである。アルファベットは名前のイニシャル、人数は紹介者数、県名は紹介者の本籍地、また( )内は、紹介された人の本籍地でとくに目立つ地域である。
 特定の人物が多くの人を紹介したということや、郡部で免許取得者が多いということは、この時期の神理教の組織の発展形態は、高坏型が基本であったのではないかということの傍証になると考えられる。いくつかの地域では、免許取得者がある年にまとまって出たかと思うと、以後ぱったり途絶えるといったようなパターンがある。
一人の人物を介在して短期間にかなりの人数が免許を取得する例も示される。また内務省に届けた教師数では多くが男性であったのに、免許取得者は女性が約四六%であり、男女比は半々に近い。また免許取得者の年ごとの数値が、全体としてかなり安定しているということは、この時期、免許取得者が加速度的に増えるというパターンをとったわけではないということを意味する。
これらもまた、組織形態が樹木型とするより、高坏型とすることで理解しやすくなる点である。
 つまり、すでになんらかの宗教的な活動をしていた人物、すなわち巫者、山岳宗教関係者、霊能祈祷師といった人々が活動の公認を得るために神理教の教師あるいは神占の資格を取得して活動しようとした結果の数値というふうに解釈できるのである。はたしてこれらの人々が実際にどれほどの割合を占めていたかについては、今日残された資料からは断定することはできない。戦前において宗教活動を行うため便宜的に神理教に所属した例がいくつかあることは、戦後神理教から離脱し独立の宗教法人となった教団の例から分かるが、戦後消滅した教会も多いと思われるので、資料的には限界がある。
 また以上の推論は経彦没後の展開を見ていくことで、さらに別の視点から議論していくことができるが、紙数の関係もあるので、そのデータの分析については、稿をあらためて論じたい。


 教派神道の概念については、現在大きく三通りを想定できる。
もっとも古くからのものは、戦前の宗教行政上の区分に従ったもので、内容的には神道十三派にほぼあたる。二番目は、教派側の自己認識を重視するもので、教派神道連合会に所属する教団を教派神道とみなす。現在同会に所属するのは、次の十二教団である。出雲大社教、大本、御嶽教、黒住教、金光教、実行教、神習教、神道修成派、神道大教、神理教、扶桑教、禊教。そして三番目が宗教社会学の組織論に基づく区分で、神道系新宗教と神社神道との関係の中で諭じられる。
 三番目の観点から教派神道を定義する理由については、拙著『教派神道の形成』(弘文堂、一九九一年)のとくに第三章を参照のこと。
 この視点は宗教地理学ともみなしうる。松井圭介は、宗教地理学という観点から、これまでの宗教社会学的な研究の一部を整理し直している。(松井圭介『日本の宗教空間』古今書院、二〇〇三年、参照)宗教社会学と宗教地理学が部分的に重なるのは当然であり、むしろこのことをより意識化した上で研究が進展するのが好ましいと考える。なお、教派神道に関する宗教地理学的研究と呼びうるものとしては、すでに戦前に村上英雄による萌芽的研究(「本邦宗教分布の研究」地理学評論一一、一九三五年)があり、皆無というわけではないが、きわめて周辺的研究であるのはたしかである。
 くわしくは、前掲拙著一二五頁、参照。
 この過程については荻原稔による以下の詳細な一連の研究がある。荻原稔「黒住教と日比野派の周辺」(『神道宗教』一三九、一九九〇年)、同「明治前期における禊教団の変遷――吐菩加美講から禊教・大成教禊教へ」(『神道宗教』一三〇、一九八八年)、同「白川家と江戸の門人――天保年間の井上正鉄遠島をめぐって」(『神道宗教』一四三、一九九一年)。
 試補は神道各宗の管長が任命する権限をもっていた。なお常世長胤『神教組織物語』によれば、「教正派出先ニ於テ其人ヲ得タル時ニ、取敢ズ試補ノ辞令ヲ渡テ、講席ニ臨マシムル便ニ去年起レリ」とある。去年とは明治五年のことである。神教組織物語の記載については、阪本是丸校注「神教組織物語(常世長胤)」(安丸良夫・宮地正人校注『日本近代思想大系』5『宗教と国家』、岩波書店、一九八八年、三九〇頁)、参照。
 御嶽教は現在は奈良県に本部を置くが、戦前には東京に大本庁があった。だが、第二次大戦中、空襲により焼失した。
 また通常十三派には含められないが、神宮教は、一八八二年に一斉に教派の独立が認められた段階では、神道教派といえる組織であった。神宮教は、伊勢神宮への信仰を基盤としていた。
 九州北部には英彦山修験があり、傘下の教会にはそことかかわりがあったと思われるものも含まれてはいる。しかし、少なくとも経彦白身はそれを基盤にして活動したわけではない。
 戦後、神理教から離脱した教団として、『宗教年報』昭和二五年版に収録されている教団は以下のとおりである。
・長生教(高知)。一九二一年に設立された神理教高知教会。
・日の本教(広島)。一九三六年に金丸日親によって設立された日の丸教会。
・聖晃教団(熊本)。一九三八年に鈴木光によって設立された神理教春日支教会。
・神道真光教団(北海道)。
・大三輪教(奈良)。一九四二年に迫カンによって設立された。
・鎮宅護符神教派本部(大阪)。一九四二年に樋口元亨によって設立された神理教所属鎮宅教会。
 この他、「免許名簿」によって神理教に所属していたことが確認できるものとして、次のような教団がある。
・洗心教。一八九七年に免許を得た馬渕利与(兵庫県神崎郡〕によって設立された。
・稲荷教本庁。一九三一年に免許を得た小金六兵衛によって設立された。小金は、福岡の六根地教会の紹介で免許を得ている。
・日本不動教。一九四二年に免許を得た村上徳松によって設立された。現在大阪東成区に存在。
 『千代田日誌』は一八八九年から翌年にかけて経彦が上京したときの日記である。なお、ここに示された数値で計算すると、本部に所属した信徒が一定数いたとしても、一教会あたり一万人近い信徒がいた計算になる。宗教社会学的にはこれはあまり現実的な数字とは思えない。実数は多くとも五万であったと類推される。
 『教祖様の面影』は藤江の講演をもとに一九一四年に教団本院で刊行された。
 『大日本帝国内務省第一〇回統計報告』(一八九五年)〜『大日本帝国内務省第二八回統計報告』(一九一四年〕参照。
 この時期のものには旧身分を記す欄もあり、氏族、平民の別が記載されたものが大半である。それによると、「平民」と記載したのが一一三一人、「士族」と記載したのが五〇人である。残りは無記入である。そして多くの人を紹介した人の身分は平民、士族のどちらかに偏るわけではなく、ほぼ比例した数となっている。
 その詳細については、拙著「佐野経彦の巡教体験〈上〉」(『神道学』一三〇、一九八六年)、同「佐野経彦の巡教体験〈下〉」(『神道学』一三一、一九八六年〕を参照。
 「熊本日誌」は『教祖御日誌第二巻』(神理数大教庁書刊行会、一九五三年)に収められている。

  本稿は、國學院大學21世紀COEプログラム「神道と日本文化の国学的研究発信の拠点形成」による研究成果、及び國學院大學日本文化研究所プロジェクト」「教派神道の地域的展開に関する研究」の研究成果の一部である。
 また、神理教のデータ入力に際しては、國學院大學大学院生の伊藤久美、上野力、藤吉優、村頼友洋、森悟朗、及び、國學院大學日本文化研究所調査員の厳麗京、辻村志のぶの各氏に協力いただいたので、ここに謝意を表したい。

 




     ●● 第十六回 神理未来委員会 ●●


 第十六回神理未来委員会が八月二十八日、二十九日の二日間、本院の明星会館で開かれました。今回は委員の改編後、初めての開催で、本院の職員などを含めて約三十人が出席。委員自らが「知恵を出すとともに汗をかく」という方向で、秋季大祭や夏期講習会、神理誌の改革などについて熱心な討議が展開されました。
 開式は二十八日午後一時。その後、横江春太郎委員長による基調講演(『神理未来委員会発足の趣旨の実現をCS(顧客満足)経営の手法で目指し本教の発展に寄與しよう』)に続いて、早速、全体会(議長・副管長、書記・橘田和親)が行われました。
 まず、横江委員長から『ホッとする教団、教会』をキーワードにしてはどうかという提案があり、最初の議題『秋の大祭』についての話し合いへ。その主な内容は次の通りです。
・今年は独立百十周年で感謝年。 秋の大祭は締めくくりの大祭で ある。管長様ご夫妻の金婚式も あり、大いに盛り
上げたい。

・万羽鶴を全国から募る。
・大祭前の準備奉仕は延べ四百五十名を予定。
・夕べの集いを金婚式の祝賀会とする(管長様を主役に)
・夕べの集いは二千円の会費制。事前の周知は神理誌の紙面と各教 会への書面で行い、事前に参加人 数を把握する。
・今年の夏期講習会での同年代(三十代前後)の集まりで歌を歌う (言霊にのせて管長様にお祝いを) =小路美保教師より。
 次に、平成十八年の『教祖昇天百周年』について提案がありました。
・祖霊鎮魂符(十年毎)、一体一万円を予定。
・御教祖の七十三年の生涯を再確認するためにもパンフレット等を 作成。
 続いての議題は『神理誌』に関して。名古屋大教会・岩押頼子教師の改革案に基づいて、話し合いが進められました。
・デザイン、編集の見直し(編集方針を検討)。
・原稿はできるだけリアルタイムにする。
・御教祖の歴史を絵を増やして連載する。
・アンケートの返信が少ないので、職員、未来委員は積極的に提出を。
 もっと購買意欲を高めるための工夫が必要ということは委員の一致した意見ですが、横江委員長からは、「読む意欲がないということに尽きる」という厳しい指摘もありました。
 引き続き、インターネットを手段に不特定多数に神理教の情報を発信する『ホームページ』や『メールマガジン』、『夏期講習会』、『ブロック研修会』についても、夕食をはさみ午後八時まで活発な意見交換が行われました。
〈ホームページ、メールマガジン〉
・経彦様伝をメールマガジンで配信。
・メーリングリストについても検討。
 (堤耕二氏より)

〈夏期講習会〉
・小さいうちから参加するとよい(孫 と一緒に参加する等)。
・アンケートを参考に改革を行っ ては?
〈ブロック研修会〉
・参加教会、地域が決まっている。
・教会長の許可がないと参加でき ないという声もある(意識改革が必要)。
・神理教の教義以外 に関する 講義も評 判が良か った。
・事前に教会長単位 で懇親会 を行い、 横のつな がりを強化する。
 未来委員の中で最年少(高校三年生)の吉村都旨希教師(誠真分教会)から、「若い人に、もっと未来委員会に参加してほしい。自分が、そのための突破口になれればと思っている。これからは教信徒を満足させることが大切」といった、頼もしい発表がありました。
 また、古川雅子教師からは、「今は、神道の良さ=日本人のアイデンティティを知ってもらうための絶好のチャンス。今こそ、教師の質を上げて神理教を広めていくべき」という力強い意見が出され、一同にとって大きな刺激となったようです。
 翌二十九日は、午前八時から『広報部会』と『組織向上部会』に分かれ、それぞれ次のような内容で話し合いが行われました。
(以下、各部会の討議の内容は、両書記の記録をもとに簡潔にまとめたものです)

【広報部会】
テーマ
『社会に役立つ本教の普及発展のための広報のあり方』
 議長 堤  耕二
 副議長・書記 岩押 頼子
●広報活動について
@掲示板を設ける
 他宗教がやっているように、本院だけでなく各教会の前に掲示板を設置し、本教の教えを掲示する。掲示物を日替わりにするなどして、外部の人たちにも興味を持ってもらうようにする。
Aカレンダーを作るなら、教信徒が必要な情報を入れる
 例えば、毎日見るカレンダーに本院の年間スケジュール等を入れれば、子どもたちにも神理教への興味を起こさせる材料になる。(本院側からは、今のところ製作する予定はないとの回答あり)
Bお札の販売方法を考える
 現在の本院のお札の販売方法では、どこで購入できるか分かりづらい。他の神社仏閣を参考にして、もっと販売を促進するような展示販売形態にする。また、交通安全のステッカーについても販売促進の方法を考える。うちわに御教祖の御歌を入れるなど。
※他の宗派の印刷物等を参考に、良いものを取り入れていってはどうか?
●ホームページ、メールマガジンについて
@ホームページの見せ方を考える
 マンネリ化しないように、更新を常に行っていく。
Aメールマガジン『まぐまぐ』を活用する
 メール機能を使った情報伝達手段であるメールマガジン『まぐまぐ』を効果的に使って、若年層を引き込む。まずは、経彦様伝を一週間に一度配信する予定。(経費は不要)
●神理誌について
@アンケートをもっと多くの人に出してもらう
 アンケートではなく投稿にして、若い人に興味を持ってもらう。(投稿に対する返事を入れる等の工夫も必要)
A年間スケジュールを作り、特集を組む
 各教会のスケジュールを出してもらい、規模に関わらず全国の教会を紹介する。
 企画ものを数ヶ月に一度、掲載する。
B地方特派員を募る
 教会長の推薦等によって教会内部のことや人間関係をよく知っている地方特派員を募り、取材する人を発掘してもらう。
C表紙を人物にする
 各教会の長老シリーズ、子どもシリーズなど。
D若い人たちに神理誌を読んでもらうような工夫を考える
 子ども向けのページ(子どもにとって力になるようなページ。子どもたちの意見や質問、相談コーナーなどの新しいコーナーを順次、作っていく)を新設する。まず、子どもの写真の掲載から始める。
 以前、掲載していた四コマ漫画の復活を望む声がある。皆さんから送ってもらったおもしろおかしい体験(祭事のときの失敗談等)を四コマ漫画にしてはどうか?
※神理誌を使ってこれからの世代を今のうちから引き込む。それが読者増につながり、活性剤にもなるはず。
●その他
@未来委員会に対しての意見
 他の教師に自覚を促すためにも、例えば墓前祭に積極的に参加する、祭式のワンポイントの練習を行ってお互いのレベルアップを図るなど、未来委員会の立場を自覚した行動が大切。
【組織向上部会】
テーマ
『真に実効性が期待できる教師の資質向上方策』
議長 橘田 和親
副議長・書記 吉村 都旨希
●夏期講習会について
@参加人数が少なくなっていることが最大の問題点
 単位制にして講義を必修にしていく必要があるのでは。大切な時期(小学生、中学生、高校生)に参加するシステムを。=義務化(例えば教師拝命時、小学校入学時等)
※夏期講習会での友だちづくりが後継者づくりにもつながるはず。
A初級コース、上級コース、子どもコースに分けて同時開催する
 コース分けをし、講義を自由選択性にしてはどうか(自分に合った講義が受けられる)。
何時間か自由参加という形で子どもコースを作ってみてはどうか(一日二時間程度)。小さいうちから土台づくりを行っていく必要がある。
 講師は今年の夏期講習会での同年代(三十代前後)の集まりや、地方教会の若手教師などに要請。それが講師育成につながるし、奉仕を奉ることで喜びを得る機会にもなる。講師を担当することで自分も向上するし、いい勉強になるはず。
 期日についての告知が遅いので、日程を早く決め、半年前に各講師に依頼する。
 本番前に模擬発表を行う。
※夏期講習会に参加するのが当たり前となるように。
Bプログラムの編成を考える
 講義に地方教会長の講話を入れてはどうか? 経験豊富な話をもっと聞きたい。
 祭式は従来通り行う。
C参加者の集め方
 神理誌に早い段階から掲載する。各教会に、従来の用紙のほかに講師の顔写真と一言コメントを添えて送り、それを神理誌にも掲載する。「参加したい!」という気持ちにさせることが大切。
 ポスターも各教会に一枚ずつ貼るくらいの気持ちが必要。
 各教会長や、以前講習会に参加した方にも要請する。
D検討事項
 プログラムの組み替え、料金の改定。単発、短期間の参加も可能か、検討していただきたい。

【部会発表】
 午前十一時から広報部会・組織向上部会の発表、質疑、確認が行われました。
 最後に、横江委員長が「今回の未来委員会は、自分の経験をもとにいきいきとした意見交換が行われ、過去最高の手ごたえを感じた。各教会に帰って委員会でのことを伝えるとともに、与えられた課題に真剣に取り組んで来てほしい。そして、次回以降もぜひ出席をお願いしたい」と、締めくくりました。
                                                         




神理未来委員会
委員紹介
広報部会議長 堤 耕二さん
(北勢教会)

 神理未来委員会には二年半ほど前からオープン参加していた堤耕二さんは、今回の改編で新しく委員になった一人です。堤さんは、いわゆる技術屋。ホームページという新しい時代の媒体を使って、神理教をもっと多くの人に知ってもらいたいと努力しています。
「もともと機械いじりが好きで、中学二年生のころから技術屋になりたいと思っていました。何か神理教のお役に立てることはないかと思い、三年ほど前に独自で神理教のホームページを作ってみたんです。それがきっかけで、副管長様とメールのやりと りをするようになり、『未来委員会にオープン参加されてみては?』というお話をいただきました。」
 神理教には公式のホームページがありますが、堤さんが作ったホームページはそれとつながっているため、両方あわせて見ることができます。楽しく見てもらうための工夫も、いっぱいです。
 そんな堤さんと神理教との出会いは、今から三十三年前に遡ります。
「困った時の神頼み、とよく言いますが、当時、困りごとがあって、たまたま近所にあった神理教の教会に母親と一緒に行ったのが最初です。それから次第に良くなり始め、以来、ずっと神理教を信仰しています。自分は潔癖症なので、自分の信じるものはとことん信じる方です。迷い信仰は良くないと思います。ただ、自分でいろいろ勉強したりして納得しなければ、信仰を続けることはできないかもしれませんが…。」
 努力家の堤さんらしく、パソコンに関してもホームページに関しても、すべて独学だとか。 さすがですね。
「未来委員会に参加したいというのはもちろんですが、年に一度は本院に帰院したいという思いもありました」と、未来委員になった動機を語ってくれた堤さん。

「何か新しいものを見つけて帰らなければ、未来委員会に参加した意味がありませんからね。 今回は、たまたま広報部会で議長をやらせていただきましたが、実は人前で話すことは苦手なんです。仕事も縁の下の力持ちで、表に立つことはどうも…。しかし、一度でもこういう役をやらせていただいたことは、自分のためになったと思います。それに、ホームページについてもマンネリ化してきたのではという危機感を持っていましたが、委員の皆さんからいろいろな意見をいただき、大変参考になりました。」
 実際には、若者を除けばインターネット人口はまだまだ少ないかもしれません。ただ、未来委員会はこれからの神理教の在り方を考える会です。そう考えると、将来を見据え、今からこうした取り組みを継続させることは、とても重要ではないでしょうか。
 今後、パソコンや携帯電話のメール機能を使った情報伝達手段『マグマグ』を通して、教信徒以外の若い人たちにももっと情報を発信していきたいと、夢は大きく膨らみます。
「古神道は素晴らしい教えを持っています。これからも自分にできる方法で、外に向かっての広報活動を続けていきたいと思います。特に若い世代に向かって、神理教の良さをPRするように心がけていきたいですね。」
 最後に今後の抱負を尋ねると、言葉を慎重に選びながら「自分を磨くこと」と一言。未来委員としての堤さんのこれからの活躍に、大いに期待したいと思います。
 


神理未来委員会
委員紹介
古川 雅子さん

 二日間にわたって開催された「未来委員会」。その一日目に枝光教会での取り組みを発表された古川雅子さん。今回参加された理由は「皆さんが神理教の未来にどういう希望、目標、構想などを持っていらっしゃるのか知りたかったから」。いつも前向きで神理教の発展を真摯に考えていらっしゃる古川さんらしいご意見です。

 今回古川さんは〈資質向上部会〉の話し合いの場で、枝光教会で実施している「いきいき健康塾」の取り組みについて発表されました。この活動名には”息息(長呼吸法=鎮魂法)“”活き活き(全細胞を活性化させ、血流を良くするメビウスの環・健康術)“”生き生き(人間としての使命感に目覚めて)“という3つの意味合いが含まれており、生きがいを感じながら生き抜くことを目指している会です。
こうした健康法を一時間ほど取り入れた後は神理教についての講義をしたり、祝詞(清祓・大祓・祈念詞)を奏上したり。計二時間の「いきいき健康塾」は、一期十二回のスケジュールで楽しく開催されているそうです。

 続いて今回の「未来委員会」に参加した感想についてお尋ねすると「今後の神理教の在り方のキーワードとして副管長様は”たくさんの人に安心を“と提案されました。昨今の世情や世界の出来事に不安を感じている人たちにどうしたら安心を感じてもらえるのか、そのために神理教は、そしてそこに所属する私たちには具体的に何ができるのか。
そういうことを活発に話し合えたらもっと良かったのになと思いました。
もっとも、そのためには私たちが常日頃、強い関心と問題意識を持ち続けなければ無理かな、とも思いました」と率直な感想をおっしゃってくださいました。
さらに委員会の中で横江春太郎先生がお話された〈CS(顧客満足)〉についても「一般企業では当たり前のことで、社員教育で徹底的に教え込まれる部分です。
”給料は誰からもらうのか?“との問いに”社長“と答えるのではなく”お客様からです“ということ…神理教においても、この考えが細部に至るまで浸透し実践されれば、もっと素晴らしくなると確信しています」。
 毎朝本院での御神拝を欠かさず行い、神理教学習ボランティアを率先して実施するなど、その積極的な活動内容には目を見張るものがあります。
そんな古川さんと神理教との出会いはどういうものだったのでしょうか?
「二十数年前に、熊本でボランティア活動をしていた時、神理教の教会を訪問したのがきっかけです。主人の祖母が生前に教会長をしていたことは知っていましたが、神理教がどういうものか全く知りませんでした。
そこで本院に電話をかけ、神理教に関する書籍を送って頂き、読んでみて初めて興味を抱き、それから少しずつ勉強をし始めました」。
 実は九年前に天照大神様から啓示を受けるという神秘的な体験をされた古川さん。
”人間が共生する世界とはどういうものか想像してみよ。日本人はその後姿を世界の人に示せ“との啓示を受けたそうです。
「神や自然や霊界と共生して、交感しながら生きぬいてきたのが太古縄文時代からの日本人の遠祖たちであり、その根底には古神道が息づいていたと思うんです。機会を得てお許し頂けるなら、教祖様の教えを携えていろんな所に話しに行きたいと願っています」と、今後の目標についても語ってくださいました。
 そんな古川さんが神理教と出会ったことも、きっと神のお導きなのでしょう。いつも明るく周囲への気遣いを忘れない古川さん。これからも神の教えに沿いながら、明るく活発な活動をされていくに違いありません。





ご教祖の筆跡を訪ねて(一)

文責 「神理」編集 平 嶋 洋 子
 総代相談役・内山茂さんそして石原町総代の原口さんにご案内していただき、瀬戸宣教局長と著者、4人で小倉南区に残るご教祖の筆跡を訪ねました。内山さんは郷土誌「三谷むかしがたり」の編纂に携り、地元・菅生中学校でも教鞭をとっておられた方です。ご教祖の筆跡を訪ねる旅・5話シリーズでお送りします。


第二話 坪根 吉太郎 碑 井出浦
 前回の井手浦の続きです。井手浦浄水場から車で一分ほどでしょうか、道に面して民家の隣に墓場があります。そこに塔のように高く建っている碑がありました。

(三谷むかしがたりより転載)
二、碑文
【表面】(道路に面した方)
初瀬艦乗組 坪根吉太郎君

国のため もくずとなりし 功ハ
  末の世までも 仰がせしめや

*碑面に刻まれた文字は風化したところがあり、蜷川氏の記憶などを頼りに、こうであろうと思うのが表面の和歌である。
 この和歌は徳力に本院のある神理教の教祖佐野経彦初代管長の作で、恐らく書いたのも同じ方であろう。当時坪根家は神理教の信徒であったという。

【裏面】
日露戦友軍人
陸軍歩兵少尉正八位勲八等
蜷川勝太郎
陸軍歩兵伍長   磯部益太郎
(内山次男)
陸軍歩兵上等兵  前田辰之助
(前田俊一)
陸軍歩兵上等兵  内山延太郎
(内山忠男)
中村 蜂吉
(中村宏太)
村上末太郎
(村上義彦)
内山七太郎
(内山 康)
山下 堅吉
平井 茂吉
 明治三十九年一月建立


*裏面の氏名も分からないものは蜷川氏の調べてくださったもの。
 氏名の横の( )の中は後を継いでいる人の氏名で、書いてないものは、分からない人か井手浦に居ない人。

 「神理」八月号「世のため人のため」にて、日露戦争講話条約の日本政府の妥協に、ご教祖が大変悲憤されているくだりがあります。この碑は記載されている年月からいうと、講話条約の内容発表のあとに建立されたものと思われます。
 ご教祖は、国のためにもくずとなった方々へのお気持ちを歌に託しています。現代を見ると、どうでしょう。ほとんど国内で議論が行われないままイラクへ派遣された自衛隊ですが、隊員お一人お一人については、無事に帰っていただきたいと願わずにいられません。この碑は、考えることを教えてくれます。現代に「ご教祖がおられたら、どういわれるだろう」ということを。
(次回へつづく)



                             あ と が き        

                
 この後書きは、1〜4月立元・5〜8月瀬戸・9〜12月巫部が今年の担当です。
 今年の夏期講習会から、人気講義であった故瀬戸総監の人体本言考を復活しました。
 人の体の病気の部分から、神とご先祖のお知らせを伺う、という教えです。
 その一部をお伝えしますが、後書きということで少し下のお話しになりますから、食事中の方は済ませてからお読み下さい。
 朝一番の健康法です。

 朝起きたらまずトイレに行って、出来れば小だけでなく大便を出しましょう、ということです。
 これは人によってはその気にならないというか、体質などもあって、
「出来ません」という方もおられることでしょうが、もし習慣になればとても健康に良いのです。
 人の一日も、天地の成り立ちの縮図のようなもので、天地創造時のように混沌とした状態から、現代に至る様子を表します。
 泥水のコップの中の上部が澄み下部が滞るように、一晩の間に体中の毒素が肛門に下りて行きます。
 そこを起き抜けに、その毒素の大部分を外に出してしまうのです。
 時間が経ってからでは、毒素がまたかき混ぜられて体に戻ってしまいます。
 時間をおいて静かにすれば、軽いものは昇り重いものは沈むという、天地の理を健康に活かすことが出来るのです。

 当時の瀬戸家の家訓の一つのようになっていたようですが、そこには健康だけでなく心の教えもあるのです。
 食べ物がそうであるように、心の中のわだかまりも出さねばなりません。
 そうしないと気分転換も出来ず、新鮮な思いや知識も入らず、新しい発想や知恵も湧いてきません。
 そうなるといわゆる便秘になったように、出せない思いに苦しみ、本来明るい心も重い心に汚されて暗く濁ってしまいます。
 本教の長呼吸法も、息を吸うことよりもまずはくこと(呼)を大切にします。

 そうした時、私たちは教会や神社にお参りして、心の中の濁りを取り除いて戴くのです。
 綺麗にしようという気持ちは、先祖の守りであり、清めて下さるのは神の助けなのです。
 学業成就も『わが心清々し』で全部出してしまうから、新しい知識や例え知っていたことでも、より新鮮・鮮明になって心に入れなおして戴けるのです。

 お金や物も同じで、出さないと入らない、ということになります。
 世の為人の為に施捨を行うことが、自分やご先祖の祓いとなり、より大きな徳を戴くことになります。
 祓いにも多くの種類があり、祭りも神理の勉強も神前奉仕も、そして鈴を鳴らすのも賽銭を上げるのも祓いの一つです。
 病気や災難も祓いの一つと言えますが、『大難が小難・小難が無難』でそうなる前に、いわゆる上根の信仰をしたいものです。

 大便・小便と例えは綺麗ではありませんが、まず出すという祓いの理を心の一隅に納めて頂ければ、と思います。

 今月の秋季大祭には不意(気付かぬうちに)心や身に付いた罪穢れを取り除いて戴こう、というお気持ちで御帰院されてはいかがでしょうか。    (幸)