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                                                          2004−6

平成16年6月号 第1084号

        

巻頭のことば


「御」は尊敬を表わす丁寧な言葉です。
神様のものは全て「御」をつけます。
お酒は「御酒」。食事は「御饌」。お社は「御神殿」。扉は「御扉」。
他にもたくさんあります。
なぜなら、神は誠であり、人はみな神を信頼しているからです。
だから神様は永遠なのです。
人と人はどうですか。
信頼のおけないものが通用しないのは当たり前であり、
信頼あるものだけが生き残るのは当然です。
信頼の大元は、誠心です。この心こそ神様からいただいた「御心」です。
大事にしたいですね。






               
                かんなぎべ  たけひこ
  神理教管長   巫部  健彦
       す  くに    と   さか
   住む国の 富み栄えてぞ おのづから
                 す   ひと       と   さか
            住む人もまた 富み栄ゆらむ


 いよいよ、イラク人によるイラクの国造りが始められる事になってきましたが、この国の人々の意識や関心は、村落を形成する部族や、その部族に受け継がれた宗教に強く結び付き、国家という組織体の一員という理解や認識は、有っても極めて希薄な様に見受けられます。
 これは、興亡恒ならぬ歴史を生き抜く中で、身の安全を保つため培われた処世の知恵!と考えられます。原始時代さながら!と言えそうな処世の習性ではありますが、凡そ治安の乱れた国や地域では、そうした習性が今だに固く守り継がれている、ということであります。

 申すまでもなく、イラクは、独裁専制国家として、国際社会にも脅威を感じさせた存在でありました。そうした恐怖政治体制の中では、独立割拠と申せそうな伝来の習性も、影を潜めざるを得なかったと思われますが、体制崩壊と共に噴出顕在化したという次第であります。
 同様の現象は、いわゆる米ソ冷戦状態が崩壊したとき、旧ソ連圏に属していた国々の中にも生じました。しかし、それらの国々の中には、視野を広げ発想を転換して、二十五カ国を数える欧州連合―EUという大組織に加盟するものも見られる事になりました。

 それらの国々の指導者は、先ず国家という組織を前提として、その国内治安を最優先しつつ民生の安定を目指したものと思われます。国内に住む人々も、そうした国家としての一定した進み方に対して、国民としての理解を次第に深めたのではないかと察しられます。
 イラクの指導層の人々も、先ずはイラク国家という組織を前提として、国内治安を最優先しつつ国民全体の生活安定に配慮努力する事が願われます。人道支援のため、我が国の自衛隊がイラク国内に駐留している事を思うと、そうした願いは愈々に切実であります。

 尤も、我々としては、次第に治安の乱れが目立つ我が国の様相に注目し、日本国民としの自分自身の進み方にも考え及ばねばなりません。即ち、物心ともに豊かな国造りを目指せば、個人の生活も、おのずから物心ともに豊かになると思われますし、そうした廣い視野に立った心構えで生活すべき時代を迎えたと覚悟する事が肝要と考える次第であります。



                  

H.16. 6月号

自然(おのずから)(みち)

(さち) (ひこ)

(ひと)(だす)けの(そん)(とく)(かん)(じょう)

 

(ひと)(だす)けをしても(わざわ)いを()けることがある

 4(がつ)・5(がつ)と“(きん)(うん)”とか“()()えない(ざい)(さん)”とかのお(はな)しをさせて(いただ)きました。

あまり上品(じょうひん)なテーマではないかも()れませんが、(こん)(かい)も“(そん)(とく)(かん)(じょう)”などという(すこ)(なま)(ぐさ)(ひょう)(だい)について(かんが)えてみました。

 (ひっ)(しゃ)()()いに(とう)(こう)(きょ)()など(せい)(しん)(てき)(なや)みを()(ひと)(しん)()(てき)治療(ちりょう)をするカウンセラーがいますが、(さい)(きん)(せい)()だけでなく(きょう)(いん)受診(じゅしん)する(ひと)(おお)いそうです。

(たと)えば(おな)(がっ)(こう)から(ふた)()(きょう)(いん)がカウンセリングを()けに()ることもあるそうで、そうなると(びょう)(いん)でその(ふた)()()うことがないように()(かん)調(ちょう)(せい)をしなければならないことがある(くらい)だそうで、身近(みぢか)病気(びょうき)になっているようです。

 ところで、そのカウンセラーはある(とき)()(ぶん)()(しん)(せい)(しん)(じょう)(たい)(あん)(てい)(うしな)い、そこから(たい)調(ちょう)(くず)してしまうということがあったようでした。

『ミイラ()りがミイラになった』とちゃかしてしまえばそれまでですが、()(ごと)とはいえ()()他人(たにん)のために()いことをした(ひと)が、()(ぶん)()(しん)(おな)じような(びょう)()になってしまうのでしょうか。

 そういえば、(ゆう)(めい)(しょう)(せつ)()(せい)(しん)()()でもあった(ひと)が、(じつ)はご()(しん)(そう)(うつ)(びょう)であった、などという(はなし)()いたこともあります。

 

()ける

 ()(ほん)(てき)(ひと)(だす)けをするとどうなるかと()えば、(たす)けた(ひと)(かん)(しゃ)されると(とも)に、(しん)()(きょう)()()(ほん)(きょう)()きます)の(おし)えでは(たす)けた(ひと)のご(せん)()からも(かん)(しゃ)されるということですから、(そん)(とく)(かん)(じょう)でいえば(とく)になるはずです。

 しかし、(じっ)(さい)にはそうした()いことをした(ひと)(わざわ)いが()こり(けっ)()(てき)(そん)となることがあるのは、どうした(かみ)(ことわり)があるのでしょうか。

 (たと)えば(ひと)のために(おこな)うことでもその(ひと)(しょく)(ぎょう)である()(あい)と、(ほう)()である()(あい)(ちが)いがあるのでしょうか。

 (ほん)(きょう)(おし)えでは(しょく)(ぎょう)()(せん)はなく、どんな()(ごと)(かなら)()のために(やく)()っているので、そうした()(しき)()って(おこな)うことが(たい)(せつ)である、ということになります。

 それが()のため(ひと)のためになることであり、より(やく)()とうという()()ちで(おこな)えば、(しょく)(ぎょう)(おこな)おうが(ほう)()(おこな)おうが(ちが)いはないのです。

 では(なに)によって(ぜん)(いん)(あっ)()になってしまうのでしょうか。

 

 本教(ほんきょう)ではその(ことわり)について『()ける』、という(こと)()使(つか)うことがあります。

 “(ひと)(たす)ける”ということで(かんが)えられる(ほう)(ほう)は、物質面(ぶっしつめん)精神面(せいしんめん)また信仰面(しんこうめん)があります。

 (もの)やお(かね)(あた)えたり()(ごと)(じょう)()(どう)(おこな)うのは(ぶっ)(しつ)(めん)、また(ゆう)(じん)()(じん)(そう)(だん)()って(なや)(ごと)(はなし)()いてあげたり(しょく)(ぎょう)としてカウンセリングを(おこな)(ひつ)(よう)(おう)じた(じょ)(げん)(おこな)うのは(せい)(しん)(めん)の“(ひと)(だす)け”です。

 そして、(びょう)()(さい)(なん)(なや)みを()(かた)への(じょ)(げん)をしたりお(はら)いや(しん)(じゅつ)(ほどこ)すというのは(しん)(こう)(めん)での“(ひと)(だす)け”です。

 『()ける』というのは、こうした(ひと)(だす)けをする(とき)(すく)いを(もと)める(ひと)()(あく)(いん)(おお)きすぎて、(すく)うとする(ひと)がその(あく)(いん)(とら)われてしまうことをいいます。

 (しん)(こう)(めん)使(つか)うことの(おお)(こと)()ですが、そうした()()ると(けっ)して(しん)(こう)(めん)だけではなく、(ぶっ)(しつ)(めん)(せい)(しん)(めん)でも実際(じっさい)()こっているように(おも)うのです。

 (ほん)(きょう)から()れば、そこまで(しん)(こく)(かん)(じゃ)さんというのはやはり()(ぶん)やそのご(せん)()(おお)きな(つみ)()まっていて、(たす)けようとする(ひと)(かん)(じゃ)さんそのご(せん)()からの(かん)(しゃ)(とく)()(じょう)(つみ)(こうむ)ってしまうのです。

(さい)(しょ)にお(はな)ししたカウンセラーや(せい)(しん)()()も、そうした(めん)()づかないというか、()(たい)()れない(もの)(しゅう)(きょう)(しん)(こう))に()づきたくないという(おも)いが(せん)(こう)するのか、そこの()(ぶん)への(かん)(しん)()かないようです。

 

そうした(ひと)(かん)じることは、(なに)(からだ)(おも)くなったり()()(なが)()いたり(つか)れがたまってくるような(てい)()かも()れません。

しかし、そうした(こと)(いっ)(かい)ではなくとも(なん)(かい)(かさ)なってくると、(こころ)(からだ)()(へん)(しょう)じてくるということになるのです。それを、

(いま)()(ぶん)(じょう)(たい)()くないのは、(かみ)()(せん)(えい)(きょう)ではない。

そんなものとは(まった)(かん)(けい)()く、もっと()(がく)(てき)(こん)(きょ)があるはずで、それは()(ぶん)(こころ)がけや(おこな)いや()(ちゅう)()(わる)いのかも()れないが、やはり自分(じぶん)というより本当(ほんとう)(しゅう)()(ひと)のせいではないか」などという()()ちになるものです。

そういう()()ちになってしまっては、いくら()(なお)ろうとしても(さい)(なん)からも(びょう)()からも(のが)れられなくなるものです。

(びょう)()ではなくとも(びょう)()だと(おも)()んだり、()(にん)(おも)いやりを(さい)(なん)のように()()めて、(けん)(こう)()()ちも(ほん)(とう)()()んで()くというものです。

 こうした(じょう)(たい)になることを、『()ける』などといいます。

 

(たい)(せい)(はら)うことが()()(ちから)

 筆者(ひっしゃ)()(じん)ではありませんが、(せい)(しん)()()で、

(わたし)(しん)(こう)()っています」という(ひと)がいるというのを()きました。

 (じゅ)(しん)()(せい)(しん)(てき)(やまい)()()(よう)(ひと)(はなし)()()るうちに、(なに)(しん)(じつ)(なに)(げん)(じつ)()(ちが)っているのか(まよ)うこともあるようで、(こころ)(なか)(なに)かしっかりとしたものを()つために(しん)(こう)をするのだ、ということのようです。

 (ひっ)(しゃ)は、そうした(こころ)(たい)(せい)(たも)つのも(ひと)つの(しん)(こう)()(ゆう)だと(おも)います。

 

 筆者(ひっしゃ)以前(いぜん)、お(はら)いを()(らい)された(かた)に、

(わたし)のお(はら)いをしようとした(れい)(のう)(しゃ)という(かた)が、(わたし)(いえ)()るなり(とつ)(ぜん)()(ぶん)(わる)いと()()して(かえ)ってしまい、(すう)(じつ)()()くなったことがあります。

 (せん)(せい)大丈夫(だいじょうぶ)ですか?」などと()われたことがあります。(ひっ)(しゃ)は、

「あなたが(ぶつ)()(てき)(ぼう)(りょく)などを使(つか)うのでないのならば、(かみ)(ちから)(しん)じて(せい)(いっ)(ぱい)のお(いの)りをさせて(いただ)きます」と()ったことがあります。

 (わたし)たちもいよいよ(こま)った(ひと)()てのお(はら)いをすることもありますが、その(とき)はその(ひと)(たち)(つみ)(けが)れを(かぶ)ることもあります。

 しかし()(だん)から(てん)(ざい)(しょ)(じん)()をあわせる(しゅう)(かん)がついていれば、(あん)(しん)して(ひと)(だす)けが()()ますし、その(かた)のご(せん)()からもお(れい)のお(とく)(いただ)()(ぶん)(とく)となるのです。

 (ほん)(きょう)(きょう)()(きょう)(しん)()といっても、()(だん)から(てん)(ざい)(しょ)(じん)(せっ)してなければ(かぶ)った(つみ)()しつぶされることがあります。

普段(ふだん)から(せっ)していれば、(たす)ける(たい)(しょう)(かた)やその()(せん)がもしどんな(つみ)()まっていても、その(ひと)(すく)うと(とも)(じぶん)分へ()かる(つみ)(けが)れを(はら)うことが()()るのです。

 

 筆者(ひっしゃ)()どもの(とき)(きょう)()(さい)()(たる)(なが)(せん)(せい)という(かた)(きょう)()で、

(しん)()(きょう)(ひと)(うら)んで(たた)るような(しゅう)(きょう)ではないし、(はん)(たい)にこの(おし)えを(まも)(ひと)にはどんな(たた)りも(つう)(よう)せず、(かなら)(かみ)(さま)(まも)って(くだ)さる」と()いたことがあります。

 (わたし)たちが(ひと)(だす)けをするのは(ひと)として()(ぜん)(おこな)いですが、(どう)()に『(かみ)()(まも)りの(なか)で!』ということを(わす)れてはいけないのです。

 (おのず)(から)(みち)である(しん)(こう)()(ばん)(ひと)(だす)けに()(しき)()け、(とも)()(やく)()(よろこ)びを(あじ)わいましょう。





夕べの集い

――大教殿――
平成16年4月17日(土) 五時〜
 大祭二日目の四月十七日、夕方五時から大教殿で開かれた「夕べの集い」。各教会からも、その地方に伝えられる
伝統的な踊りなどが披露され、集まった観客の皆さんから盛んな拍手を浴びていました。


光金稲荷教会(大分市)「鶴崎おどり」

 永禄三年(一五六〇年)に始まったといわれる「鶴崎おどり」を披露してくれたのは、光金稲荷教会の皆さんです。
「先日、結婚式の時に、この鶴崎おどりを踊ったのを、式に出席されていた管長様と奥方様がご覧になっていて、『ぜひ百十周年の記念大祭でも踊ってください』と声をかけていただいたんです。鶴崎おどりは、金銀の華やかな仮装をして踊りますが、今回はビニールのヒモを組んで冠を作りました。」と、婦人部長の菅恵美子さん。とてもきれいな冠だったので、ビニールのヒモでできていると聞いてびっくり! なんでも、十七名全員の冠を菅さんが作ったそうです。
「こういう記念大祭の場で、しかも、いつもお参りしている大教殿の上に上がって踊ることができて、とてもありがたく思っています。こういう機会は二度とないかもしれないと、みんな一生懸命、踊らせていただきました。これからも、ますます精進していくつもりです。」
 豊後名物の、やさしく優雅な踊りを、ありがとうございました。


山鹿教会(熊本県山鹿市)「茶摘音頭」

 山鹿教会の皆さんは、どこか素朴な香りのする「茶摘音頭」を披露してくれました。
「せっかく、こういう機会をいただいたので、山鹿という地元に密着した踊りを」と、茶摘み踊りを選んだそうです。
「今日は九名で踊りましたが、みんな仕事などが忙しく、なかなか一緒に練習できませんでした。ほとんどぶっつけ本番のようなもので、緊張しましたね。でも、神様の近くで踊らせていただき、いい記念になりました」と、伊藤幸子さんが感想を語ってくださいました。
 その横で、教会長の息子さんである笹井清継さんが、「次は味をしめて、みんな出たがるんじゃないですか」とにっこり。山鹿教会の、和気あいあいとした温かな雰囲気が伝わってくるようです。
「観客席から教会長が『頑張れ!』と声をかけてくださいました。自分よりも、私たちを前に出してくださる、そんな教会長なんです」
 この伊藤さんの言葉からも、みんなに慕われ愛されている教会長の姿が容易に想像できました。










大津教会(熊本県菊池郡)「おてもやん」

 ユニークなメークと、楽しいアドリブ(即興的なせりふ)で観客の皆さんの笑いを誘っていたのが、陽気な大津教会の皆さんです。
「すべて、本院へ来てからのぶっつけ本番です。おてもやんのご亭殿(旦那)も、かつらだけ買ってきて、まゆげは今、書きました。台詞は即興。台本がないので、どうなるか誰にも分かりません」と、本番前に語ってくれたのは森内久恵さん。
 さて、いよいよ大津教会のみなさんの出番です。一体、どんな筋書きになるのでしょうか…。
 結婚はしたものの、旦那さんがあまりに不細工なので、どうしても盃は交わしたくないとごねるおてもやん。世話人が説得しても「いや、いや」と首を横に振るばかり。「それなら、管長様御夫妻にお願いしよう」ということになります。ここで、管長様御夫妻の登場です。さすがのおてもやんも、ようやく観念し、円満に盃を交わす二人。こうして、めでたいお祝(おてもやんの結婚と独立百十周年)を全員の万歳で締めくくりました。大津教会の九名の皆さんは、なかなかの役者揃い。皆さん、緊張せずに、楽しくやれたそうです。






春季大祭

奉納行事に参加して
平成16年4月18日(日) 十一時半〜
 独立百十周年記念大祭の最終日、奉納行事の第三弾として、太鼓と舞踊が特設ステージにて披露されました。素晴らしい演技を見せてくださった二団体の代表の方に、それぞれ感想をお伺いしました。
 昔ながらの伝統を守り続ける「小倉祇園太鼓 片野会」の皆さん。緩急をつけた太鼓の響をたっぷりと聞かせてくれました。代表の上岡達則さんは「基本的には、祇園祭でしか太鼓を叩かないので、こういう場で太鼓を披露するのは珍しいんです」とのこと。今回の舞台はメンバーに堀越地区総代である大野さんの息子さんがいるため、実現したそうです。片野会は現在二十五名。今後は世代交代を考え、若者の育成に力を入れていきたいとか。今回の舞台にも小さな子どもが二人登場。一生懸命に太鼓を叩く勇ましい姿が印象的でした。
 続いて、派手な衣装とメイクで登場した総勢三十二名の「総美よさこいやっちゃれ隊」。高知県発祥の「よさこい」を、街づくりの一環としてオリジナルの踊りにアレンジした筑豊は田川の団体です。「炭坑節発祥の地・田川をPRすべく、このグループを作りました。会員は現在百二十名。歌と踊りは全て地元の大学生が作ってくれたんですよ」と代表の岸川由美子さん。「今回の舞台は神聖な感じがして、一生懸命踊らせていただきました」との感想も頂きました。年配の方も踊れるよさこいを目指して、全国を回っているそうです。これからも、ぜひ応援したいですね。


名古屋大教会

本殿祭舞楽奉納
――大教殿――
平成16年4月18日(日) 十三時〜
吉村 麻早余ちゃん(左)と上松 由佳ちゃん(右)
 三日間にわたって開催された式年大祭をしめくくる本殿祭。ここで、見事な舞楽を奉納してくれたのが、中学三年生の上松由佳ちゃんと中学一年生の吉村麻早余ちゃん(名古屋大教会・誠真分教会)の、かわいい従姉妹同士の二人です。神理雑誌の三月号でも紹介されましたが、二人は五年前の開教百十周年の式年大祭でも、今回と同様、大教殿の大神祠で「君が代」と「姫小松」の二つの舞楽を奉納しました。「前の時はまだ小さかったので、あまり覚えていないんです」という麻早余ちゃん。一方の由佳ちゃんは、「私は覚えているけど、今回の方が緊張しました。でも、リクエストがあったと聞いて、すごくうれしかったです。」
 無事に奉納が終わり、「とにかく良かった。ほっとしています」(麻早余ちゃん)、「しっかり練習してきたので、達成感があります。満足です」(由佳ちゃん)と、それぞれ感想を教えてくれました。きれいな衣装をまとい、まるでお人形のように輝いている二人。「またリクエストがきたら、うれしいです」と、にっこり。ぜひまた、二人の舞楽を見てみたいものです。
 ちなみに、「君が代」と「姫小松」の生歌を披露してくれたのは、地方特派員としてもお馴染みの橘田由美子さんです。「自分の結婚式のときより緊張しました。でも、二人は堂々と踊っていましたね。立派だったと思います。」
 由佳ちゃん、麻早余ちゃん、心のこもった素晴らしい舞楽を、どうもありがとう!


特別講演

 北勢教会伊藤守彦教会長による、特別講演が開催されました。
 お話は、ご教祖が布教のため厳寒の中仙道をゆかれ、大変な思いをされたということ。そしてやっとの思いで三重県の北勢教会にいきつき、そこで出された飯に命を永らえたというお話でしめくくられました。現在北勢教会で は「御教祖の命綱」と呼んで大祭のときにお赤飯を神前に供えるということは過去の 「神理」雑誌でもご紹介した通りです。
 独特の節回しによる講演は、大教殿に集まった聴衆を、まるでその時代に戻ったような気にさせるものでした。


百瀬ミュージックの活動に参加して

福岡市 長野 陽子 さん
 毎月一回、明星会館で行われる百瀬ミュージック主催の音楽療法サロンに、体に障害のある息子さんと共に参加している長野さん。「明星会館はとても広く、大勢で一堂に会したり、横になったりできるので、大変ありがたく使わせて頂いています。トイレなどは、わざわざ障害者用に改造してくださったんですよ!」と大変感謝されているご様子でした。
 お話をお伺いした際は、大祭ごとに参加しているバザーの真っ最中。売り上げはデイサービスの資金となり、今年で四年目を迎えます。最初の年は全国の教会から善意の品が届き、特に福山教会からは大量の布が届いたので、それをメートル売りで販売したところ大好評。今ではバザーの売れ筋商品になっているそうです。
百瀬先生とは息子さんが養護学校を卒業した後、北九州で行われた「ふれあいコンサート」を通じて本格的にお付き合いが始まり、今に至るそうです。四年前に福岡市へ引っ越した後も、月一回のサロンにわざわざ通っているとか。「親の言うことはなかなか聞いてくれないけれど、マイペースに自分のしたいことをやったり、個人レッスンを受けたりと、ここでは息子がとても楽しそうなんです」。指一本でしかキーボードが弾けない息子さんが、今では四〜五曲も弾けるようになったそう。障害者だけでなくお年寄りの方も参加しているので、いろんな方と一緒に触れ合うひとときが、いい刺激になっているようです。
 神理教とのご縁は、百瀬先生とのお付き合いがきっかけだったのですが、四年前にご両親の遺品を調べたところ、曽祖父が神理教の神官だったことが判明。やっぱりこれもご縁なのだな、と思われたそうです。
 「スタッフもゲストも和気あいあいで、分け隔てなく明るい雰囲気なので、今後はもっといろんな方にサロンに来ていただけるようにしたいですね」と語る長野さん。終始明るい笑顔でお話される姿からも、サロンの温かな雰囲気が伝わってきました。


研修旅行に寄せて

小倉南区 河内 千年
 独立百十周年式年大祭も盛会裡に終わり、お慶び申上げます。去る四月二十六日より一泊二日の研修旅行に、地元十九名、地方九名、計二十八名参加。本院前より出発、山陽自動車道を一路福山へ、沿道の山の木々の若葉がふくらんで、みずみずしく、山藤の花も色を添えて。福山教会では教会長様を祭主にいただき今の日の為に用意された祝詞と祈念詞を奏上。総裁様はじめ一同有難く参拝させて頂きました。教会の益々の御繁栄を祈念申し上げます。丁重なご接待を受け、唯々感謝あるのみです。
 午後より教会の方々も参加され、はきもの博物館、郷土玩具博物館と廻り、今宵の宿、湯来温泉はみどり荘へ、早速湯に浸り、夕食の席へ、ゲームやカラオケで、より親睦を深めました。夜半降り続いた雨も、出立時には上り、傍を流れる川水の激しい音を後に。トンネル内のプラネタリウムを見てより昼食。錦川を右に左に眺めながら錦帯橋へ、最後の橋の修復が終わったばかり、木の温もりが伝わる橋上での記念撮影。岩国城の眼下に広がる吉香公園。つつじや牡丹の花が咲き満つ。新岩国駅で、福山の皆様とお別れ。互いの健康を願いながら。ガイドさんの、花神の一節の名調子も良かった。刻一刻と終点に到る時の早さ。山川谷水と大自然を満喫するいい旅でした。
 総裁様、副総裁様、お世話下さった皆々様に心より御礼申し上げます。お疲れ様でした。
五月二日


鳥居奉納

山口県萩市
烏田 眞二 さん
 春の大祭で、造化大神宮後方の入り口に立つ真新しい木の鳥居に気づいた方も多いのではないでしょうか。この鳥居を奉納したのは、山口県萩市の烏田眞二さんです。
 桜が満開の四月三日、穏やかな春の陽光の中で、烏田さんと吉田工務店の吉田達男さん(烏田さんとは、まるで兄弟のように息もぴったり!)の二人の手によって最終的な仕上げの作業が行われ、鳥居は無事に奉納されました。
「造化宮と大元稲荷へ何度かお参りするうちに、一番肝心なところにある鳥居が老朽化していることに気付きました。いつか奉納できればいいなと思っていましたが、たまたま今年が独立百十周年ということで、それではこの機会に、と奉納させていただくことにしました。」
「どうせなら、できるだけ長く持ついい木を」と、烏田さんはただ木を買うのではなく、実際に島根県の山奥に入ってヒノキの原木を選ぶところから始めました。そして、あらかじめ選んでおいた原木を伐採するため、自らチェーンソーを担いで再び山奥に入ったのです。伐採した原木はヘリコプターで吊り上げ、ふもとまで下ろしたそうです。「業者に頼むこともできたのですが、それでは納得いかないので」と、烏田さん。四本の原木は、「こんなに堅いヒノキは見たことがない」と言われるほど、目の詰まった見事なヒノキでした。
 そのあとの作業がまた大変。原木をまず四角に切り、一ヶ月かけて乾燥させた後、すべて手作業で八角、十六角というふうに徐々に丸くしていったのです。それだけではありません。「同じやるなら、最後まで自分で」と、銅板製の額も手作りなら、そこに書かれた「造化宮」の筆文字も烏田さんの書という徹底ぶりです。
「実は、平成七年に大事故にあったんです。二週間、生死の間をさまよいましたが、あの時は、やはり神様に守っていただいたんだなあと思いますね。」
 そんな感謝の気持ちが、この鳥居にも込められているようです。
「お参りに来た皆さんに、『いい鳥居ができたなぁ』と思っていただけたら何よりです。」
 烏田さんが奉納した鳥居は、これからも末永く、帰院された皆さんをやさしく迎え続けてくれるに違いありません。


    

        管長様が解説する御教祖の御歌   『人道百首』より

       天地の はかり知らえぬ ことごとは

          ただかしこみて 神にまかせよ




 人類は万物の霊長!!ということになっているようですが、そこまではいかが?としても、論理的に考えを進めるという点では万物にまさる!!とは言えそうであります。
 今日的な表現をすれば、科学的!!という点では万物に隔絶して優位な存在、ということになるでしょうし、これに異論をさしはさむ人はいないと思われます。
 この科学的というのは、実証的・合理的・体系的に考えを進める!!という姿勢を内容としているように思いますし、そうした姿勢は生活の充実向上に不可欠なところとも考えます。
 科学的探究の成果実績を背景として『科学万能』という言葉も生じましたし、科学的証明不可能なものは存在しない!!という思い込みも見られることとなりました。
 しかし、そうした思い込みが誤りであることは、いわゆる科学の進歩につれて、それまでは知られなかった原子や素粒子までもの実在が認知された点からも明らかであります。
 すなわち、今現在において、その存在が科学的に確認できないという理由だけで、その存在を否定するのは百歩ゆずっても早計!!とするのが妥当ということであります。
 あらゆる可能性を考慮の中に入れながら、真に科学的に究明して、その存在があり得ないことが実証されぬ限り存在否定!!という結論はあり得ない、ということであります。
 世の中には、現実に目の前で奇妙な現象が見られるのに、こじつけの説明さえ不可能?という出来事が少なからずであります。
 以前であれば、そうした事柄は幻想にすぎぬ等ということにされがちでありましたが、この頃では、現在の科学では証明しがたい?という姿勢も見られるようになりました。
 つまり、人知には限界があり、現在においては存在を証明しがたい存在!!のあることを否定できぬ、とする対応が生じてきたわけであります。
 こうした対応は、人知がどれほど進み、科学がいかほど発達しても、真に科学的である限り、いつまでも続くところと思われます。
 なお数多くのものが未発見のまま!!と考えられますし、また、日常の生活の中では、形体をそなえた物とは考えがたいものや、そうした物質とは考えがたいものの働きを実感することも、決して少なくはないからであります。
 要するに、天地の間に存在し発生する物事については、いついつまでも、見当もつけがたい状況が続くと考えるよりないわけであります。
 上掲の御教歌は、そうした状況の中にあって、手前勝手な見当をつけて行動することを戒められているということであります。
 そして、そうした見当もつけがたい状況は御神慮によるものと受け止め、御神徳を感じる中で御神護を仰ぐよう教示されたものであります。
 人生では、時として、全く見当をつけがたい事態に陥ることがありますが、そうした場合、特に思い浮かべたい御教歌でもあります。
 日常的にも、事あるごとに思い浮かべて、取り返しのきかぬ大事にならぬよう、心がけていきたいものであります。


  





  幸福への出発
            光陽教会  中山 勇

    第27集   健康な生活は墓の力なり

 
 誰に聞いても健康が一番と言います。確かに健康に良いグッズはどこの店でも繁盛しているのです。健康に良いものなら何でも商売になる時代です。
現代は科学が進み、そのお陰で医療器具の性能が良くなり、どんな病気でも見つけることが出来るようになりました。コンピューターの分析や計算で薬なども新薬の技術が進み、医学と治療は格段の進歩があり、日本は世界一の長寿国になりました。
年毎に年寄りの比重が大きくなっているのです。
しかし、現状は病名が何倍にも増えて其の分、病人も比例して増えているのです。医学が進歩すれば、比例して病人が少なくなるのが当たり前の事と思うのは私だけなのでしょうか。
これは人間の心の弱点なのです。医学が進歩をすればするほど医者や薬を神として信頼して、医者に頼りきってしまう心の弱さがあります。自分の健康管理まで医者にまかせる情けない人が増えているのです。丁度我が子のしつけを学校にまかせている親と同じ事なのです。
テレビで、あの野菜が身体に良いと放送すれば、たちまちスーパーの野菜売り場で売り切れになる異常な現象も起こっています。誰でも知っている事なのです。
「食べ物の好き嫌いを無くして食事を楽しくバランスよくとれば健康でいられる」一番の健康法なのです。テレビで放送したからといって、それだけ食べれば健康でいられる訳がない。
一ケ月間の放送をまとめて整理をして見れば、全部の野菜や果物、そして肉や魚を上手に調理しておいしく食べれば、食材が身体の中で助け合って薬効成分となり、健康な身体がつくられるのです。簡単にまとめれば、古い昔からの日本食に戻りなさいと、細かく分けて放送しているだけなのです。
健康をテーマに放送している番組の中で、美食やグルメが良いと放送している番組は有りません。美食は味付けが濃くなるので、塩分の取りすぎで血圧に悪い影響があります。また美食は欧米風の献立が主流なので栄養価が高く、肥満と糖尿病を始め、いろいろな病気の原因となるのです。
そして香辛料も多く含まれているので肝臓の働きが悪くなり、ホルモンのバランスを乱して、いろいろな慢性病の原因として、食事を通して病気がつくられて行くのです。
そしてグルメ志向は食材のバランスが悪く「神様が一番悪い調理法だと言われる中途半端な調理」の状態で食べるので、健康に対して最悪な結果が将来的に待っているのです。私達はテレビや雑誌等の食に対する多大な情報の中で生活をしているのです。
情報の中身は殆ど部分的な所を強調した報道が多くて、鵜呑みにすることは大変危険なことなのです。「食は神なり」と言います。食材の全てを神様が作られているからです。
「美食やグルメは食欲の欲を超えているので我が身を滅ぼす我欲になる」のです。しかし生きると言う事は食べる事なのです。
美味しいものにあこがれて探し求める欲望の心は、いつの世も変わりません。食欲・性欲・出世欲(お金)の欲望は、もっとほしい我欲の心に成りやすく、自分では欲望の心(性格)をコントロールする事が難しいのです。この欲望の原因を墓の中の骨が遺伝として持っているのです。
骨の成分のカルシウムの働きは欲望と密接な関係が有ります。カルシウムが不足すると精神的な欲望が強く働き、心のコントロールが効かなくなり、我欲の罪を結果として作る事に成るのです。先祖は子孫の繁栄と罪の祓いを遺伝子の中に混在させ誕生させているのです。
また先祖は子孫の永続と健康を願い、性格と体質も与えているのです。人の道としての欲望は、生きる為の命の源として神が与えて遺伝的に持って生まれた心なのです。骨は肉体を支え、肉体は快楽を求め、快楽は我欲を誘う仕組みがあります。
しかも、この「我欲の罪は貪りの罪で生命に関わる重い罪」になるのです。もし先祖の中にこの様な我欲でつくった罪が存在していれば、子孫は腎臓や血液の病気で苦しむ事も多くなるのです。
特に子供(子孫)は親(先祖)の鏡なので、先祖の持っている我欲の性格と体質を受け継ぎ、そのまま遺伝(鏡)として持って生まれて来るので、とても怖い話なのです。
その罪を祓う奉仕として「性格(原因)と体質(結果)を良くして行く為に、敬神尊祖の心からの信仰と地球環境への奉仕とが大切なのです」。
神様の清濁を分ける働きの中で、私達に病気などの中に存存する罪の祓い等が「神の道、そして人の道を通して心の浄化の重要性を教えておられる」のです。昔から超一流と言われている占い師も、どんな相談に対しても「先祖を祀れ墓をきれいにしろ」と言います。
つまり先祖と墓は自分の誕生と生死の運命を握っているので、どんな占い師でも先祖を祀れと言えば間違いが無いのです。自分の性格と体質の原因は先祖の中に必ず有るのですから、自分の「性格の中のもっと欲しい我欲の心」を自分で良く知ることが大切で、自分の悪い性格に気が付けば、それを修正して子孫に受け継ぐ遺伝子を、良い遺伝子に変えて行くことが出来るのです。
自分の性格の見極め方としては、例えばすぐ腹を立てる人や自分に甘く人に厳しい人や身勝手な人、そして自分を中心にして物事を考える人も我欲の心に成りやすく、自分で自分の心のブレーキが利かない性格を持って生まれているのです。
信仰の教えと毎日の生活の実践の中で「反省する心と神に奉仕が出来る心を育てる事」が大切なのです。自分の身体の中にある欲望の心は、氏神になる和魂が管理しています。子孫の体と家庭は荒魂の墓が管理しているのですから、心身の健康と生活が安定している事が大切なのです。
現在の世の中は良い情報も悪い情報も区別なく氾濫しているので、多くの情報に振り回されて心と身体のバランスが乱れている人がとても多いのです。情報は一方的なので、そのまま自分に当てはめて考えると危険です。参考資料として上手に活用してください。
夫婦と親子の家庭内で起こる病気や事故等の原因は過去の中に罪(借金)が有り、子孫が祓う意志(心)が無いから神の前に平等の原則により、神様の清濁を分ける(催促)働きが発生して、病気や事故として罪の祓いをさせられる事になるのです。その「病気や事故等の祓いの中に神様の救いが働いている」のです。
罪を祓わずに積み重ねていけば、やがて死を招き家系が絶える事に成るよ、との身教えが病気や事故の中心に神の救いとして有るのです。
治療とは仕事を休み身体を休めて心を働かせる為の時間を神様が与えているのです。「病気とは心(気)が病む」と書くのです。身体では無く心を治療することが必要なのです。
病気の中に神の御心が働くと言うことは病気の本質は心(霊魂)の病気なのだと言う事です。その為に病気や事故の祓いは仕事や日常生活から離れて、ゆっくり時間をかけて病気の本質を良く知る事と反省をする事が出来るのです。神の救いを引き出せば治癒力を高めて回復が早くなるのです。
もともと人間は神の子ですから身体の中の幸魂の働きで、心を改めて反省をすれば治癒力が強く働くのは当たり前なのです。反省と敬神尊祖の信仰と病院での治療を平行して実践をして行けば、病気の原因の罪を祓うので二度と発病はしないのです。注射と薬だけで治ったとしても原因の心の治療が出来ていないのなら、再び病名が違っても罪の祓いとして発病をするのも当たり前なのです。
病気の原因は墓の中の骨が作り出す遺伝子の中に有るのです。この遺伝子の中にある病気などの原因の祓いは、先祖の守りと神様の救いを受けられる心からの信仰が大切です。信仰の目的は良い性格(氏神)を子供たちに残してやる事です。





 『教派神道の形成』弘文堂(平成三年三月発行)で大きく神理教の紹介をして頂いた、國學院大學の井上順孝先生が國學院雜誌に研究論文を掲載されました。
 神理教が独立してからの、教師の全国分布などを二年ほど前に調査に来られましたが、そうしたものの一つのまとめとされたようです。原文を尊重したため、御教祖の氏名に尊称をつけていません。


『國學院雜誌(第104巻 第11号)より転載しています。』
教派神道の地域的展開とその社会的条件  井上順孝


―― 神理教の事例を中心に ――
 教派神道の研究は、戦後さかんになった神道系新宗教の研究に比べると、研究者が少ない分野である。近代神道史研究という枠のなかでも、きわめて少数派に属する分野である。教派神道という概念自体が、戦後の神道系教団を論じていく上で、あまり有効な区分でなくなったことも一因である。すなわち、戦前には神道十三派が公認されていて、神社神道と教派神道という対比が、神道研究においても明確な区分として存在していた。また、神道教派として公認されていた教団を、類似宗教とか宗教結社などと括られていた団体と区分する際にも意味をもった。だが、戦後は宗教団体法から、宗教法人令、さらに宗教法人法へと、法的環境の変化があって、教派神道というカテゴリーが、神道教団を区分していく上でさほど重要でなくなった。
 しかし、教派神道というカテゴリーは近代神道史研究において、依然として一定の意義をもつものであることは間違いないし、その研究についても、まだ未開拓な部分が多い。教派の設立と明治宗教行政との関係、あるいは創始者の思想の特質といった面については、戦前からある程度の研究が蓄積されている。しかし、各教派の組織が具体的にどのように形成されていったかとか、地域的な展開がどのようになされたかといったような研究は、きわめて少数である。つまり宗教社会学的な視点からの分析が著しく欠けているといえる。
 戦前の神道十三派は広い意味での教派神道と同一視されることが多いが、十三派のうち、黒住教、金光教、天理教は、今日では神道系新宗教として扱われるのが一般的である。そしてとくに金光教、天理教については、宗教社会学的な視点からの研究が蓄積されつつある。しかし、出雲大社教、神道修成派、神習教、神道大成教、神理教といった、新宗教には含み得ない教派神道についての教派の場合は、そうした視点からの研究がきわめて少ない。また本稿はそうした現状を踏まえた上で、神道系新宗教と区別されるときの教派神道(これを狭義の教派神道としておく)について、その地域的展開の宗教社会学的な分析を目指すものである。以下、本稿で教派神道と表現する場合は、この狭義の教派神道の意味で用いる。

  一 二つの組織化パターン
――「高坏型」と「樹木型」
 教派神道の一派である神理教は、佐野経彦(一八三四〜一九〇六)により明治初期に設立されたが、現在の北九州市小倉南区にあたる地域が運動の発祥の地であり、かつその後の展開の中心地でもある。経彦は幕末に国学者の西田直養に入門して国学を学び、また皇国医道を唱道するなどの活動をしていた。しかし、幕末維新期の社会変動のなかで、病気を癒すことによる人々の救いよりも、教えを説くことによる人々の教化に、より強い使命感を抱くようになった。とくに西洋文明の到来、そしてキリスト教の布教が日本に及ぶことによってもたらされる影響に危機感を抱き、日本古来の教えを広めることが重要という認識をもった。一八七七(明治一〇)年に講席を開き、やがて神理教を組織してその活動を具体的に進めていく。
 明治十年代から西日本を中心に積極的な布教活動を行った結果、一八九四年に一派独立を果たした。地方出身であり、中央政府の宗教政策とは遠いところに位置していた彼が、宗教運動を創始し、一派として認められるだけの組織を形成し、さらにそれを広い地域へと展開させていく過程は、宗教社会学的な観点からすると、かなり興味深いものがある。
 一般に、教派神道の組織形成の原理は、神道系新宗教とは基本的に異なるパターンを有しており、また神社神道の講組織とも一線を画する面がある。教派神道に共有される組織上の特徴を簡単に整理した上で、神理教の地域的展開がどのような地理的特性をもっているかを検討する。なお、本稿では経彦が在世中の時期における展開に焦点を絞り、それ以後については別稿にゆだねることにしたい。
 まず、教派神道の組織形成が神道系新宗教とは異なるパターンであるという点について、要点を説明しておきたい。幕末から維新期にかけては、いくつかの神道系の運動が組織化されていく。幕末期に各地でそれぞれ個性ある教祖あるいは組織者によって形成されていた運動も、明治政府の宗教行政がしだいに一定の方向へ形を整えていく過程において、全体としての組織化のパターンはかなり限定されたものにならざるを得なくなる。
江戸時代に比べて新しい組織の形成が容易になったとはいえ、近代国家はまた違った形で組織の管轄を行うことになったからである。それゆえ、神道色をもった運動は、神道教派としての形態を整えることが、組織としての自律性をえるための現実的な方策になった。
 幕末期から展開しはじめていた神道系の多くの宗教運動は、明治政府の宗教政策が介在したことによって、大きく二通りの形態で、公認された組織を作り上げることとなった。一つは神道系の新宗教に典型的に見られるもので、これを筆者は「樹木型」と命名した。もう一つは典型的な教派神道に見られるもので、これに対しては「高坏型」と命名した。両者の違いのポイントは次のようなことになる。
 樹木型とは、組織の中心部分と末端部分が基本的に同質の運動として連続しているものである。つまり組織の拡大に伴って、支部が枝分かれしていくというプロセスをたどってできた組織形態である。教団本部と各地の支部教会とが同じ教祖を崇拝し、同じ教義を保ち、同じ儀礼を行なっている。
 これに対し高坏型は、ある程度の類似性はあるが、多少異なった性格の複数の組織が、一つの公認された組織のなかに雑居しているという形態である。
すでに存在していた小さな組織が公認されている組織に組み込まれることで、後者がより大きな組織となっていくというプロセスが含まれ、かつそれがかなりの部分を占めている。
したがって、一派の設立者がすべての支部教会で尊崇すべき対象になっているとは限らない。教義や儀礼も支部教会が独自のものをもっている場合がある。さらに支部教会の設立者が実質的に教祖的な崇拝対象となっていることすらある。

 樹木型の組織形成は近代の宗教運動の展開においては、きわめてありふれたパターンである。これに対し、高坏型のものは、教派神道に特徴的で、宗教運動一般にそれほど多く観察されるものではない。ではなぜこのようなパターンが可能になったのか、あるいはそうならざるを得なかったのか。第一の、そしてもっとも大きな要因としては、明治政府の宗教政策の影響が指摘される。
明治政府は一八七〇年代〜八〇年代にかけて、神社と教派とを区分する方針を固めていくが、教派の公認に当って、一つの教派は一定の信者規模になっていることが求められた。そして管長を組織の責任者として位置付けることで、組織の把握をやりやすくした。一八七五(明治八)年に設置された神道事務局が本来そのような機能を含みもっており、それぞれ性格が異なる個々の教会を事務的にまとめるという発想があった。
 では、そういった政府の方針だけで高坏型が生まれたことが説明できるかというと、そうとは言い切れない。こうしたシステムを発想する上では、それなりの神道信仰の構造的特徴があったと考えた方がいいだろう。もし伝統的な日本人の信仰や組織化の形態と不適合なシステムであったとすれば、実施に当たっての抵抗も大きかったであろうし、そのような方法を用いて短期間に一派を結成していくことも困難であったと考えられる。
つまり、このようなシステムが容易に導入される可能性を孕む神道信仰の構造があったからこそ、このシステムがスタートしたとき、それが直ちに受け入れられたと考えられるのである。
 近世段階において、カミ信仰、山岳信仰などの自然崇拝は、各地において崇敬講の類を形成していた。それらは伊勢講、稲荷講、出雲講、あるいは御嶽講、富士講という具合にそれぞれの名称をもち、信仰圏や組織も独自であった。しかし、それらは自律的であっても、相互に排他的ではなかったし、異質な信仰として認識されていたわけではなかった。つまり、神祇信仰や神仏習合の結果の山岳信仰は、近代の宗教運動の展開の一つの大きな温床になっていたわけで、このような構造が、教派神道が高坏型の組織形成をすることを可能にしたと理解できる。

*** 編集より ***
 内容については、神理教からいくつか意見を述べさせて頂く部分もありましたが、先生に御願いして本誌に転載させて頂くことにしました。
 興味深かったのは、教派神道のそれぞれの教団により組織のあり方を『高坏型』と『樹木型』と区別しているところです。
 さて学会は、本教をそのどちらであると見ているかの研究について、お考え頂ければと思います。

  





                 *** 教 祖 の 道 統 *** 


   長崎教会 教会長 大教庁式務局長 花岡 勝成

     第五章 教祖の神人関係観
       第二節 罪悪と其意義

 
悪とは何か
 第三章の「教祖の人生観」の中で人の本性に於て、未発達・未向上は劣悪つまりひどく悪い事を意味し、向上進歩する事を基礎とされたのは、神の恵みであると説きました。
 しかし、これは人の本質(善)を主体として説明したものであって、これから研究する罪悪というものは悪を主体とした見方です。
 未発達・未向上は悪であるという意味の見方ではなく、純粋である善の反対にある悪の意味です。
 初めに未発達・未向上を劣悪と言ったのは、丁度人の児童期と成人期を比べると、総ての点で児童は成人より劣っているという事で児童自体が悪ではないのと同じ意味です。
 その優秀なものをヨシ(善し)とし、劣っているものをアシ(悪し)と言ったのです。
 又その劣っている児童が段々と優秀な位置に順調に進んで行くのが、人間の正しい向上であり発達です。
 これがヨシという意味であり、その児童が段々と進んで行く間に、人の本性が悪に染まる事によって変化する上に認められるものが、ここでいいます罪悪の意味です。
 前節にも悪は神が定められたのではなく、根国を凶悪の本元として、根国より流れ来る凶悪がこの大地気、即ち国土を清濁混合のものとする、と述べました。
 また悪は或いは人の本性をも悪化し、又人の本性とする向上進歩の活動をする中で生まれるものである、という事を述べましたが、更に罪悪とはどんなものであるかを主体的に研究してゆきます。
 大体悪というものについて、御教祖はどんな観念を持っておられたのかと言いますと、悪は天地自然の法則中に生じるもので、神の御心に背くものを指して悪とされています。
 天は神の御心として清明に造られ、地は重濁なもので清明に添う様に、向上発展をする地盤として造られたものです。
 神の御心に添って清明なる天に向かって進む活動を善とすれば、神の御心に背く不清明な活動は悪そのものです。
 この事を御教祖は神理学入門に
【天者明持約  泉者汚持約  善者汚去約 悪者明去約】と教えておられます。
 これから考えますと善は清明なものであって、悪は清明の正反対という事になります。
 例えば清濁混合物から清明とする部分を全て取り去ると、残りの部分には清明たるものは一点も見られないという事が悪の本質です。
 この様に善と悪とは正反対の位置にあり、物の表裏・長短・上下・高低の様に、天と地ほどの差があります。
 御教祖は御著天津日安止に、
【陰陽(陰は加解なり、加は加多(形・片)の反し、解は伎倍(消え)の切りなり。
 加解は形消えて見えず、夜、黄泉小さく人の心に見えぬ限りをいう。
 陽は於母天なり、於は伊呂の切り・母は母乃の反し・天は遠保良勢の切りにて、於母天は目に見ゆる限り、広くは天地、小さくは人の面という)
 共に善事をなすを善という。
 陰陽共に悪事を悪という。善はよごれ去りにして神の道なり。悪はあかり去りにして日の光をうける事なく、云々】と悪は善の反対である事を教えておられます。

悪の四つの区分
 ではこの悪を区分しますと、罪・過ち・災い・穢れの四つに分ける事が出来ますので、この四つについて部分的に説明しましょう。
一、罪
・罪とは何か
 罪は、
「悪の一種であり、罪があればついに悪となる」と御教祖は教えられています。
 その罪とはどんなものか神理学入門に
【罪者包之約】とあり、又本教教典神人一致章に
【教祖又宣曰く、罪は都々美の約め、正に包みの意味にして罪悪これを覆い、本来の善性を発揮しないをいう。
 神の与えし霊は神と同体なれば、正明正直なのは人の心で、これを汚すと罪という。罪とは光を包むという意味なり云々】とあり、良く考えれば罪は物を包み隠すという意味です。
 人が世の中で生活して人間の本性に向かって進もうとする間に、その本性に反した障害をいったもので、その本性を妨げる障害とは清明なものでないといえます。
 清明ではないから濁った暗いものであって、丁度物を包んだ形となるのです。
 又障害となる言葉や行為や意志つまり濁ったものは、清明なものに比べると比較にならないと同様に明るみに出されず、自然とこれを覆い隠すのです。
 従って、この言葉・行為・意志は自己の本性の向上発達を妨害するだけではなく、自己以外の他のものまで害を及ぼす結果が生まれるのです。
 しかし、自分では罪とは気がつかない内に他人を害した時も、包み隠す事があり、勿論これも罪の内に入りますが、こうした場合はこれを「過ち」と言っております。
 又偶然に質の悪い病気にかかったり障害児が生まれたり、又貧しくて生活が苦しい事などを隠そうとします。
 こうした事の原因は自己にあり、その結果つまり因果関係によって生じるものですから、自然これを他人に知られたくないという隠す心が起こって来ますので、やはり罪の内に数えるべきでありますが、こうした場合は多くは『災い』としています。
 御教祖はこの間の様子を遺言状に、
【我道(神理教)に入りたるとも、真心を以て道を守らなければ、神から見ればまだ外道を信じているのと何ら変わらない。
 清道を守れば病災難苦が消滅するのみか、思いがけない災いや流行病等に侵される事はない云々】と罪が変じて災いとなり、病になると教えられています。
 御教祖はこの罪を七つに別けて掲げておられ、これを引証しますと教典に、
【その罪を別けると、怠り・貪り・詐り・憤り・慢り・憂い・怨みの七つとし、これを以て迷いとし病苦災害の根元とし給い、これが大きいと一家子孫に及ぼすとし、小さければ自身に受け永く後を受け継ぐとし給へり】と教えておられます。
 良く考えれば罪とは自己以外の人に害を与えた場合ばかりをいうのではなく、自己の向上発達を妨害する意志を持つのです。
 即ち言葉を替えて言えば汚い心、濁った心を持つ場合も罪となる事を教えられたものです。
   




*幸彦社献歌*(平成十五年度)

 題  【幸】

(16年4月21日、幸彦社の神前にて奉読献歌致しました。)


ランドセル 背負ひし孫の 微笑みに
  幸といふ文字を 思ひ描きぬ                                        健 彦


汗ながし 心尽くせし 奉仕者を
  幸くませぞと 祈り見送る                                             祐 彦


赫道の 花文字映えて 式年の
  大みまつりを 幸ふそよ風                                           正 和


幸を得て 拝む子らを 見愛でけむ
  母の遺影に 光たゆたふ                                             利 夫


立ち草も 心の塵も 取り払ひ
  清々しと宣り 神幸を願ふ                                             ひとし


幸あれと 願ひつ己が 世を背負ひ
  たどる一生の 長き道程                                              保 雄


散歩道 昇る朝日に 手を合はせ
  元気もらって 幸せ感ず                                              信 子


世の人の 行く末までも 幸あれと
  御加護賜はる 御教祖の神                                       悦 子


蒼天に 青葉若葉も 輝きて
  幸せの笑み 映ゆる御まつり                                       良 子


言霊の 幸はふ国に 生まれ来て
  身の幸はひを ひたすらに憶ふ                                   こと子


婆さまと 子らと にはとり 牛もゐて
  みんな優しく 倖せだった                                           恭 子


櫻咲く 川のほとりを めぐる今
  この幸せを たれにか告げむ                                      君 恵


言祝ぎの 心に集ふ 人の波
  大みまつりは 幸の大波                                            幸 枝


内外の 五人の孫らの 歩む道
  幸多かれと 今朝も祈りき                                          之 恵


幼児と 祝の綱を 共に引く
  産土社への 幸の行列                                             美 幸


※姓の五十音順に掲載



                古事記「絵で見る解説文」

Mたまりかねた伊邪那美は…
  ―― M挿絵の説明 ――
 桃の実によって雷神と黄泉の国の兵隊までも追い払われ、たまりかねた女神(伊邪那美の神)は自分で男神(伊邪那岐の神)を捕らえようとしました。
 しかし時すでに遅く、男神(伊邪那岐の神)は黄泉比良坂を登り切り、黄泉の国との間を大きな岩でふさいでしまいました。
 やっとのことで追いついてきた女神(伊邪那美の神)は息を乱しながら、言いました。
「おぼえていなさい。
 あなたがそのような仕打ちをなさるのならば、私はこれからあなたの国の人たちを一日に千人ずつ絞め殺して(解説あり)やります」
 男神(伊邪那岐の神)は答えて言いました。
「おまえがそのつもりなら、私は一日に千五百人ずつ子どもを生ませ(解説あり)てやる」
 そのためにのちの世、一日に千人の人が死に、千五百人の子が生まれるようになったといわれます。

*解説
 古事記のこの部分は有名であり、且つ今の世の中の在り方との関連に言及しているので記憶にある方も多いことでしょう。
 この男神と女神のやりとりから、死の始まり・離婚の始まり、とも言われていますが、御教祖はこの部分の解釈を今までの一般論と少し異にしておられます。
 ここ”しめころす“とあるのは、原文を”縊り殺す“と読むからで、御教祖はそうではなく、
『”縊り懲らす“が本当で、黄泉の神伊邪那美といえども神が人を殺すはずがなく、懲らしめるのである』と教えておられます。
 また”一日に千五百の産屋を建てる“というのは、
『一日に千五百人の罪を、子孫の祈りを通して救いますよ』ということなのです。
だから、ご先祖が善くない行いの結果今は黄泉の国にいることから子孫の運勢が衰えているとしても、子孫がこの理に気付き祭を通して大元の神にご先祖の罪の解除を願うならば、伊邪那岐の神を始めとする日の神(天在諸神)が、罪を犯したご先祖をお許しになり、子孫の運勢は自ずから良くなるのです。
またそうした教えから罪穢れは、もし先祖から受け継いだものでも、大元の神の御神徳を戴けば祓うことが出来るという安心を戴いているのです。

 この部分の話は命の継続性の認識を新たにするためとも受け取れるし、男女の陽と陰の働きの分担とも受け取れます。
 
                                                         



―たより― 一口話
来る第十六回神理未来委員会開催に備えて
委員の交代に伴う新委員候補者による
事前研修会の開催計画と、その一部実施

名古屋大教会教師会長(神理未来委員会委員長)
横 江 春太郎

 みだしのことについて、左記の通り継続実施を計画し、当面、開催に先立ち、本年三月十四日(日)名古屋大教会初午大祭式典時を利用して、あらかじめ新委員候補者に研修資料を配付し、事前研修の機会を設け、以後は四回に亘り、研修日程とその内容をとりまとめ計画しましたので、−たより−として紹介させていただきます。

    記
一、目的
 第十五回神理未来委員会(以下単に委員会という)において、委員会が発足以来、数え十年を迎えたのを機会に、委員の若返りを図る観点から、委員の変更が決定されたのを受けて、新委員候補者のお互いが、あらためて委員会発足の趣旨の実現をめざして、いささかでも近づく意欲の向上を期するための事前研修を行なうことを目的とする。
二、新委員候補者
(旧)横江春太郎、横江重信、橘田和親の三名
(新)橘田由美子、壁谷泰江、岩押頼子、吉村都旨希の四名
三、研修日程計画
 本年三月十四日(日)、名古屋大教会初午大祭(以下、名古屋大教会名省略)の機会に、新委員候補者に対し、あらかじめ研修資料を配布し、第一回研修日までを事前研修の準備期間とした。
 その上で、研修日程を次の通りとした。
 第一回、五月五日(土)春季大祭の前日、午後一時から午後二時迄
 第二回、六月十三日(日)月次祭、午前九時より午前十時迄
 第三回、六月二十七日(日)大祓神事、午前九時より午前十時迄
 第四回、八月八日(日)穂見大祭、午前九時より午前十時迄
四、研修場所 名古屋大教会
五、研修資料
(1)、第十六回神理未来委員会基調講演―お互い自我水準の向上により、神理未来委員会の更なる発展をめざそう(その1)―
(2)、神理未来委員会規約
(3)、神理未来委員会運営の基本理念
(4)、心の持ち方・使い方事例編
(5)、雑誌「神理」に教師会長(委員長)寄稿の
ア、平成八年五、六、七月号
CS(顧客満足)経営から学ぶ
−すべて豊かな人間性が基本−
イ、平成十年七、八、九月号
CS(顧客満足)経営から学ぶ奉仕への心情へ
―すべて教信徒の心豊かな人間性が基本―
ウ、平成七年七月号
第一回神理未来委員会の開催
エ、平成十年四月号
第六回神理未来委員会に備えた地元委員の事前勉強会の開催
六、研修方法
 名古屋大教会教師会長(神理未来委員会委員長)が中心となり、座談形式で、
(一)、総括的研修
ア、委員会発足の趣旨、発足の経緯、現在迄の歩みを振り返って
イ、新体制に至った今回の経緯
ウ、研修資料のうち
(ア)委員会発足の趣旨である、「社会に役立つ本教発展の道を探り、いかにこれを具体的にしていくのか」というその課題の抽出と具体的対応について討議を重ねる。
(イ)委員会運営の基本理念のうち、CS(顧客満足)経営を学び、そうした中から教勢維持発展拡大の道を探求する。
(二)、個別的研修
 基調講演(その1)の骨子に基づき、前記(一)、総括的研修ともからみ合わせながら順次討議を重ねる。
(三)、本研修の記録は、橘田和親、由美子において行なう。
七、むすび
(一)、今回のこの計画は、新委員候補者を対象とした初めての試みの事前研修会ということで、実質的に必要と感じている委員会発足の趣旨に示されている「社会に役立つ本教発展の道を探り、いかにこれを具体化していくのか」に対する数々の課題の発掘と、それに伴う実質な討論の積み重ねにより、その成果の集約がなされることを期待しているところであります。
(二)、なお、研修の都度、オブザーバーとして、旧委員を含めた各教会長を初め、各教師の方々の参加を求めることとしており、その折の助言についても期待を寄せているところであります。
 以上、事前研修会計画の紹介とさせていただきました。
おわり

※編集より
 機会があって名古屋大教会で行われた神理未来委員会事前勉強会に参加させて頂くことができました。勉強会では未来委員会の過去の講演内容を中心に、委員会の基本理念などを勉強されていましたが、これを元に神理教の教師としての心構えがどうあるべきかも話され、密度の濃い勉強会でした。
名古屋ではこれから何回か勉強会をされるそうです。未来委員会の事前勉強会は、教師としての心の磨き・教会の未来・そして神理教全体の未来を同時に考えることができる会として開催できるものだと感じました。ぜひ、各教会でのお集まりのついでに、改めて個々で開催していただければ、と思います。



***地方特派員だより***

新たな気持ちで
誠真分教会 橘田 由美子

丹羽宏昭さん〔36歳〕(左)と吉村都旨希さん〔高3〕(右)

 去る四月十六日付で誠真分教会より新しい教師二名が誕生しました。
丹羽宏昭さんと吉村都旨希さんのお二人です。
 丹羽さんと神理教との出会いは、結婚相手が神理教の教師であり、義理のご両親が誠真分教会長夫妻であった事から始まったそうです。初めて教会へ足を運んだのは婚約中の月例祭でした。当時の丹羽さんは病気がちで、周りがいつも心配する状態だったそうです。しかし月例祭に参拝するようになってからは、以前とは打って変わり、皆が驚くほど心身ともに強く健康になり、まさに神様からの御陰を頂いたと話してくれました。また、義父の行う新居地鎮祭での姿を見て実父に「これからは神道でやっていき、色んな勉強をしなさい」と勧められ、徐々にではあったものの参拝や奉仕をするようになったそうです。
一方の都旨希さんは、生まれる前からご両親が神理教を信仰されており、祖母は誠真分教会開祖(故)水野かよ先生、また父も教師で青年部名古屋支部長と生粋の神理教の中に生まれ育つという境遇にありました。幼少の頃より親に無理強いされる事なく、自分から教会などへ足を運んでいたそうです。
 二人とも神理教との出会いはそれぞれですが、お話を聞いてみるとお互い教師を目指すきっかけとなった理由には共通するものがありました。
丹羽さんは「本院や名古屋大教会での参拝や奉仕に足を運ぶうちに、協力し合い奉仕をする先輩方の素晴らしい姿を見て刺激を受け、ブロック研修会などの参加で学ぶ喜びも感じました。また本教大意を毎月の月例祭で皆と上げる事で、先祖・子孫への繋がりや自己啓発が出来る素晴らしさなどを学ばせてもらいました。そんな中、三年程前に、はじめは両親・義兄の勧めではありましたが笛を習い始め、その頃より教師を意識し始めました」と話してくれました。
都旨希さんの方は「両親の神理教に対して奉仕を誠心誠意に行う姿勢、また名古屋大教会長をはじめとする身近な教師の先輩方に接して、自分も一緒に装束を着け神前奉仕をしたい」と高校進学後より思うようになったそうです。共に名古屋大教会の先輩方に刺激を受け教師を志すきっかけになったようです。
 この度の教師を拝命された時の気持ちを二人は次のように語ってくれました。「名古屋大教会長より任命状を頂き、また励ましのお言葉も頂く事ができ、胸がいっぱいになると同時に、常にお仕えしていく事、本教大意の実践など皆の手本となる事など、新たに教師としての重さに自覚を持ちました」と丹羽さん。「本院の夏期講習に二回参加し、祭式作法や教義、また父と同じ樂の太鼓も学びました。
一生懸命頑張り、キッチリと祭式も太鼓も覚える事が出来、他教会の人との交流など得るものがたくさんありました。自分では大学に進学してからと思っていたので、こんなに早くに頂けてとても嬉しいです」と都旨希さん。今回の教師拝命を二人とも心から喜び期待に胸を膨らませ、輝いた表情の二人を見る事が出来ました。
 先日の式年大祭に教師として初めて帰院した二人ですが、丹羽さんは「仕事の都合で先発隊に遅れ、十五日の夜行列車で帰院し、遥拝式より青年部として三日間ご奉仕させて頂き、本当に充実した日々が過ごせた事を嬉しく思います。教師拝命後初の帰院でしたが、諸先輩方の奉仕の姿に新たな責任を感じました。
また、今回の大祭で義父が管長様や副管長様をお迎えに行き、並んで歩いている姿に大変感動しました」と三日間の興奮を昨日の事のように話してくれました。
また都旨希さんは「学校があったので金曜日の夜からの帰院でしたが、今回サブリーダーという大役の立場の父と今までにない本院での親子一緒の奉仕活動や、色々な教会の方々と交流が持てた事が嬉しかったです。青年部奉仕では神饌係となり、神饌物を持って山を行き来しましたが、思った以上に大変でした。でも初めての本院での奉仕活動はとても充実したものとなりました」と熱く語ってくれました。
二人とも大変良い経験のひとつになったようです。
 最後に今後の抱負について語って頂きました。「神様に対する姿勢や教信徒の方々を温かく守り指導する姿など尊敬出来る両親に恵まれ、妻や義兄夫婦、また叔父たちを見習い、一生懸命神様にお仕え出来る教師になりたいです。何より神理教にご縁を頂けた事に心からの喜びを感じています」と意欲に燃える丹羽さん。
一方、今年大学受験を控えた現役高校生の都旨希さんは「どんな役割でもこなせて、皆から信頼や尊敬をされ、手本となれる教師になりたいです」と言葉少なに意気込みを語ってくれました。全く違う環境の二人ですが、熱い思いは同じです。
 現在、若手の教師減少にある中での今回の二人の教師拝命。この気持ちをいつまでも忘れる事なく、これからの神理教に、より多くの貢献をされる事を願います。
 教師拝命おめでとうございます。そして今後のご活躍を期待致します。




北九教友会報告


 第六回北九教友会が五月十五日午前十時から午後三時まで、明星会館で開かれました。今回の主な内容は「御教誡」と「皇典疑惑問答」についてです。
 まず、午前と午後に分けて、渡辺斎課長、徳永知恵子先生、瀬戸正和局長の順で、御教誡の第一条から第三条までを解説。御教誡は十ヶ条からなっていて、そこには神理教を信じる者というよりも、人間として当然の生き方についての指針が示されています。
 第一条「神の心にそむくことなかれ」
 第二条「祖恩を忘るることなかれ」
 第三条「政令にそむくことなかれ」
というように、十ヶ条には「〜することなかれ」、また今日訓にも「〜するまじきこと」といった禁止の言葉が使われています。人は初めに「善ありき」ですが、残念ながら神様の心である「清明正直」が守られていないため、悪がはびこります。それを元に戻そうという御教祖様のお言葉が、この御教誡や今日訓なのです。
 瀬戸局長の、「皆さんは毎日、鏡を見ると思いますが、カガミのガは我(ガ)、つまり我欲(ガヨク)のガです。カガミからガ(我欲)を抜けばカミ(神)になります。私たちは、人に対して何ができるかを考えたいものです。そのためには我欲を抜くことが必要だということを、鏡を見るたびに思い出してください」という言葉が印象的でした。
 続いて、副管長様が「皇典疑惑問答一之巻 古事記の分 上」について解説しました。古事記や日本書紀は、間違って伝えられている部分があり、その誤解を解くために御教祖様がお書きになったのが、この「皇典疑惑問答」です。
 今回は、あいにく出席者は少なかったのですが、内容の濃い勉強会になりました。次回は九月五日(日)に開催予定です。多くの皆さんの参加をお待ちしています。

 参加者の声
桐原 松江さん(目尾分教会)
 桐原松江さんが「北九教友会」に出席するのは、今回で三回目。毎回、勉強会の内容をカセットテープに録音し、家に戻ってから改めて聞き直すという熱心さには、頭が下がります。
 桐原さんと神理教との御縁が始まったのは、十八年くらい前のことになります。当時、ご主人は肝臓が悪く、入退院を繰り返していたそうです。
「心配した友人がいろいろ教えてくれて、最終的に目尾分教会にお参りに行ったんです。」
 桐原さんは昨年まで看護師でした。よく患者さんから、桐原さんといると「気持ちが落ち着く」と言われていたそうです。
「神理教を信仰しているおかげで、普通の看護師さんとは違うことができるのかもしれませんね」と、控えめに微笑む桐原さん。その、優しく包み込んでくれるような温かな笑顔を見ていると、患者さんの心が癒されるのも「なるほど」と納得できます。
「こういう勉強会に参加すると、自分で『多分、こうだろう』と思っていたことが確認できたりして、また新たな気持ちになれますね。今後は、もっとほかの方の体験談なども聞かせていただきたいと思います。」
「桐原さんにとって神理教とは、どんな存在ですか?」という質問に、「心の支え」と即答してくださいました。
 次回も、お会いできるのを楽しみにしています。


みあかし祈願祭

   


 五月十六日、本院大教殿前で、年一回の「みあかし(身明し)祈願祭」が執り行われました。
 「身明かし」とは、ロウソクの火を灯して身を清める祓いです。祓いには、水で流して清める方法などいろいろありますが、火を灯すのもその一つ。
 ロウソクの色は、白・赤・黄・緑・紫の五色で、それぞれの色によって願いが分けられています。病気のお祓いの場合は、その色が体の部分を現します。白は肺臓・大腸・鼻など。赤は心臓・小腸・舌など。黄は胃・脾臓・口など。緑は肝臓・胆のう・目など。そして紫は腎臓・膀胱・耳などです。また、白は病気平癒、赤は良縁良職、黄は交通安全、緑は除災開運、紫は学業成就というように、祈願の内容でロウソクの色が分かれます。
 御教祖の言霊学の中にも「明り」という言葉がよく出て来ます。例えば「明りの入る」は「祈り」、「明り去り」は「悪し」などです。また、御教祖は「人の心の色は赤」と説いています。ロウソクの燃える赤い火が神殿に灯されるのも、心からお祈りする私たちの気持ちを表しているのです。
 この日は梅雨の走りを思わせるような雨模様の一日でしたが、人々のさまざまな願いがこめられたロウソクの明かりは、厳かに境内を照らしていました。


                             雑        記       遊歩 太郎

 四月の式年大祭は盛大に執り行われました。未だその余韻が残っていて頭の中を大祭の情景がよぎります。
 十年毎に執り行われる式年大祭ですが、十年前を体験してない人、そして記憶も薄れてしまった方も多かったのではないでしょうか。
 大祭の日程が決まり、それぞれの内容を確認し実行する為に準備委員会も発足しました。皆さんの大祭に対する思い入れはある種凄まじいものがありました。多種多様の意見が飛び交いました。どれもこれも「大祭を盛り上げよう、遠方から帰院される方に喜んでもらおう」、全てこの一念のこもった意見でした。
 各地方から大祭準備奉仕に大勢の方々が駆けつけていただきました。奉仕人員は、大祭当日まで延べにすると八百人を越えていると思います。それはもう境内の隅々まで念入りに清掃していただきました。「次はどこを!、次はなにを?」とこちらが圧倒される場面もありました。
 大祭当日は見事に晴れ渡り、大勢の参拝の皆さんで境内は混みあいました。皆さんの笑顔が今でも思い出されます。皆さんの笑顔は神様の笑顔です。自然と頬が緩みこちらまで笑顔になりました。神様もきっとお喜びと確信しました。
 準備そして大祭当日と奉仕の皆さんは大活躍でした。奉仕活動のその姿を見て感じる方も沢山いらしゃったと思われます。皆、神様のため、参拝された方々のために一生懸命なのです。
 神様にどのようにご奉仕すれば喜んで頂けるかということは、「自分が他からしてもらって嬉しいことはなにか」と考えればわかります。お供えでも季節のものや新鮮なもの、そして自分が美味しいと思うものをお供えすることは、神様も「おいしいね、ごちそうだね」と喜ばれるでしょう。
 ある日、あなたに「明日お宅にお伺いしてよろしいですか」と知人から連絡があって、「どうぞおいでください」と応えて、座敷を掃除し、ご馳走を作って待っている。お客様も手土産を持ってきてくださるでしょう。このことは神様の話と同じことなのです。
 神様はお客様です。来て頂く為には十分にもてなしの準備をしておかなくてはなりません。お客様がせっかく手土産を持って来てくださっても、玄関は履物で散かり、座敷は埃だらけ、お茶も出さず、挨拶もチグハグ、これでは誰でも二度と来るまいと思うでしょう。神様もこれと同じです。
来ていただく為には、まずお祓いをして穢れを祓います。これは、座敷をきれいに掃除して、玄関に水を打って待っているのと同じことです。そして、いらっしゃたらおもてなしをします。それがお祭りです。神棚に神饌というお食事を差し上げて、神様に召し上がって頂くのと全く同じことなのです。
 祝詞の中に「平らけく安らけく聞こしめして」とあり、神様が「ああよかったなあ」と思っていただけるように「心嬉しく思し召しくださいませ」と申し上げるのです。そうすれば皆に御恵みをくださいます。さらに祝詞には「恵し慈しと聞こしめして」とあります。「ああ可愛いやつだなあ、可愛いなあ、と御覧になってお喜び下さい」と祝詞を奏上するのです。
 まずは、こちらから神様が喜んで下さることをすること、これが大切なのです。