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                                                          2004−5

平成16年5月号 第1083号

        

巻頭のことば



「天津皇産霊考」、教祖神の初めての著書である。
世に出されて今年で百五十年になる。
芽は大きく成長して今や大木となった。
この大木の御縁で私たちは、花を見ることが出来、
実をいただいている。
私たちはこの大木に年輪を加えねばならない。
御教に従いながら、生活や仕事に勤しむ。
これ教祖神の喜びである。
もっと大きな木にするのは、
一人一人の日々の生活・心の持ち方にある。



               
                かんなぎべ  たけひこ
  神理教管長   巫部  健彦
     みをしへのかみ             おぼ
   御教祖神は いかがに 思すやと
                 と   なほ            すす
            問ひ直しつつ さらに進まむ

御教祖神は いかがに 思すやと  問ひ直しつつ さらに進まむ

 神理教独立110年・教祖神ご生誕170年を記念奉祝する式年大祭は、三日間とも天候に恵まれました。三日間とも各地からの大勢の参拝者で賑わいました。伝統の儀式・行事を恙なく守り継ぐ事ができ、御教祖を始め、先人・先祖の御霊も和まれたものと拝察しております。
 この式年大祭は、親から子、先輩から後輩へと受け継がれてきたものであります。例えば通路など時代によって変化する部分はありますものの、先ずは産土社遥拝から始めるという御教祖の信仰姿勢は、不変の大事として、今回も守り継がれたということであります。
 それにつけても考え合されるのは、各家庭で行われる親から子への信仰の継承であります。核家族化その他、社会環境が大きく変化しているだけに、生活に神事や仏事の絡み合う事が多かった時代とは異なる対応が望まれますが、これに対する用心は極めて不十分と申せます。
 それにしても、親から子への信仰の継承は、いわば敬神尊祖の姿勢であり、教義の伝達などは殆ど皆無であったかと察しられます。万物を主宰する御存在を信じ崇め、我が家の根源としての先祖を大切にするという親の姿勢が、代々に受け継がれたという事かと思われます。
 そうした単純な姿勢が、時代の流れの中に埋没したため、家庭の和が保てぬ事例が増加している様に思われます。そうした素直で謙虚な心が失われた為、利己的で非人間的な思考に走り、社会人としての心得に欠けた行動が多発しているとも申せそうであります。
 尤も、単純な姿勢ではあっても、それは素直で謙虚な心に基づくものであります。即ち、素直で謙虚な心になるよう努める事が望まれますが、反面、その単純で簡単な姿勢そのものに心掛ける事により、素直で謙虚な心に近づく事が可能となる様にも考えられます。
 今季大祭は、受け継ぐべきものを受け継いで盛大に奉仕できました。我々としては、それぞれの家庭の信仰についても、受け継ぐべきものが受け継がれ、例えば10年後の式年大祭にも無事奉仕できる道筋を考えねばならぬと思います。即ち、家風なごやかな家庭の永続を願うには、みずからが「尊祖」の姿勢を守り伝えるのみ!と言う点に思い至らねばならぬ様であります。





ふくかんちょうしゅうにんあいさつ
副管長就任挨拶

しんだいきょうしゅ  か ん な ぎ べ  さち  ひこ
新大教主 巫 部 祐 彦


 今日は皆様とご一緒に独立百十周年・教祖ご生誕百七十周年の式年大祭を、こうして盛大に執り行うことが出来たことを、大変嬉しく思います。
 お陰で畳を始め幕や御簾などの神具も新しくなり、清々しい気持ちでご一緒にご奉仕することが出来ました。
 
さて、先ほど管長様より副管長の任命書を頂きましたが、重要な職責に身の引き締まる思いをしております。
 私は昭和三十年の五月生まれですから、数えで五十歳になります。
 普段は大教庁の事務を管轄しながら神理雑誌の原稿を書いたり、箒をもって神前を掃いたり、幼稚園の子どもと遊ぶこともあります。
 
また教信徒のご家庭での御先祖のお祭りや、地方の教会の大祭や研修会に伺うこともあります。
 この大教殿では毎朝の御神拝や、皆様のご家庭にお鎮めする御神符やお守りへの遷霊(分霊を遷す)をしたり、ここでお祓いをすることもあります。

 私は大教殿や教信徒のご家庭でのお祓いで水子の慰霊祭をさせて頂く時、感情がたかぶって祝詞が上がらないことがあります。
 後で考えると私自身がそうなるかも知れなかったからではないか、と思い当たりました。
 私が生まれる時、母の体調が悪く、医師から無理をすると母体の危険が大きいし、まだ若いのだからいくらでもチャンスがあるので、おろすようにと言われたそうです。
 母もその気になっていたようですが、母方の祖母がそれに反対したようです。
「あなたはどうなっても良いのだから、子どもを産みなさい」と言わんばかりの言葉に、自分の母ながら反発も覚えたようですが、あまりに熱心なので医師の反対を押し切って産んでくれたのです。
 結果的に母も私も無事でしたが、当時は産まれにくい子どもは鉗子分娩といって鉄の爪で引き出す、ということをしたようです。
 私は運良くというか、お陰で一方はあご、もう一方は目のすぐ側に引っかかって、失明もせずに生まれてくることが出来ました。
 私は小学校に上がるくらいまでは体が弱く、病気の百貨店と言われていたようです。
 もういけない、ということも何度かあったらしかったのですが、今はお陰で風邪もひかないような体を戴いています。
 大元の天在諸神・配祀諸神・産須根神はもとより、父母や祖父母そして叔父や伯母たちを始め、境内に住む人やこの神理教の皆様のお陰で今があることを、改めて感謝申し上げます。

 自分では大器晩成だと、青少年の時代に自分を励ましてきた記憶がありますが、今も含めて未熟なものだと思います。
 成人に近づいた学生の頃、生活ができると言うことは皆様方の誠意の、しかもその精粋で生活させて頂いているのだと、ようやく気づいたくらいです。
 それでもまだ意識が薄く、家の仕事は生活のためにやっているのだろう位にしか思っていませんでした。
 学生を終える頃、子どもの頃からかわいがって頂いた宮城県と愛知県と三重県の教会を訪ねる機会があり、ものを見る目が少し変わった気がしました。
 一つの教会で見せて頂いた写真は、戦後の焼け野原の中で、親子で神理教の看板を笑顔で抱えている、というものでした。
 その頃は高度経済成長期と言われていましたが、どこの教会も決して裕福に気楽に暮らしているわけではありませんでした。
 けれども、『この道を伝えたい!』ということを主眼に何としてもやり抜く、という気迫を感じたのです。
 私はこの気迫に気圧されながらも、こんな気持ちのある人を見て逃げるわけにはいかない、と思ったものです。
 また、そうはいってもその笑顔や和やかさの中にこの教えが本物であり、ただ犠牲を自分に課すだけでなく、本当の喜びや楽しさがあることを感じました。
 神理教の教えについては教書などを読んで間違いのないものだ、というある程度の認識はあったのですが、恥ずかしながらそれはぼんやりとしたものでした。
 それが実際に教会という現場にいる方達の姿を見て、教えとその現場が未熟ながら一気に合致し、心にぶつかってきた衝撃は大きなものでした。
 子どもの頃から聞かされた教祖の高邁なお心や業績は、私の家の指針として受け継いでゆくつもりでしたが、神理教人としてという意識をこの時初めて持たせて頂いたのでした。

 学業を終えて本院に帰ったのは昭和五十五年の四月でしたが、最初の数年は本院での朝拝を始め神事の手伝いや青年部の奉仕をしながら、仕事は神理幼稚園を主にしていました。もう二十四年になります。
 大教庁の仕事を実際に始めたのは昭和六十一年の秋からで、現郷原総監が故前瀬戸総監と協議してのことだと聞いております。もうすぐ十八年になります。
 神理雑誌には帰院当初から寄稿させて頂いていましたが、昭和六十二年九月から”巻頭言“・平成三年一月から”自然の道“を始め教書の解説などをさせて頂いています。
 この道の間違いのないことはもとより、どうすればもっと広く多くの人に知って頂き活用頂くかを熱望しますし、皆様とご一緒に考え実現に向けて歩む楽しさを味わいたいものだと思います。
 古くから続く婦人会や青年部、十年目を迎えた神理未来委員会の活動・提案をその実現化の目安としたいと思います。

 神理教の御教祖は広くは自然、そして人間が生きて行く道を古くから伝わる教えを元に大成されました。
 この教えはまさに人類の宝とも言えるものですし、失うようなことがあっては申し訳ないと思います。
 本教の先人達はその教えを伝え広めてきましたが、現四代管長様は御教祖の著作の活字化に努められてきました。
 まだその仕事は未完で私もその後を受け継がねばなりませんが、その前にこの教えをいかに現実の生活にわかりやすく活かすことが出来るかということに、まずは尽くしたいと思います。
 具体的には、これまでのように神理雑誌を始め、管長様が活字化された教書の解説を行いたいと考えています。

 またそれを教信徒の皆様、延いては日本中・世界中の方達に伝え、全ての人に安心して、しかも充実した日々を送って頂きたいと願います。
 先ほど数えで五十歳と言いましたが、御教祖はこの年に五畿巡教を行なわれています。
 ついてはまず御教祖にならい、今までに増して教会への就任報告を兼ねた訪問や研修会に伺えればと思います。
 そこで出来るだけ多くの方と直接顔を合わせて親しくお話しが出来れば、と願います。
 教会長先生、また教会役員の皆様へは大変ご迷惑をお掛けしますが、是非この意をお含み頂き、お力添えを御願いしてご挨拶とさせて頂きます。
 おめでとうございました。


                  

H.16. 5月号

自然(おのずから)(みち)

(さち) (ひこ)

(ねん)(さい)でのお(はなし)()には()えない(ざい)(さん)

 

神道(しんとう)専門(せんもん)用語(ようご)

 この原稿(げんこう)()()りは(たい)(さい)(まえ)ですから、(しき)(ねん)(たい)(さい)という(ちか)()(らい)を、

『どうであろうか』と予想(よそう)しつつ()いていますが、(みな)(さま)はもうご(ぞん)じですね。

 (たい)(さい)(うち)(あわ)せを(なん)(かい)(おこな)(なか)で、(わか)(そう)(だい)さんからの(よう)(ぼう)がありました。

(うち)(あわ)せの()(りょう)()(せん)(もん)(よう)()(おお)(むずか)()ぎて(よめ)めない」と()われるのですが、なるほどそういえば、(わたし)たちもこの()(ごと)をするまでは()めなかった()ばかりです。

 (たと)えば『紙垂・神離・神饌・神酒・産土社・遙拝・大麻・銘旗・錦旗・大幟』などですが、()めますか。(最後に()みと()()(けい)()しました)

 

三年祭(さんねんさい)責任(せきにん)役員(やくいん)

 (ひょう)(だい)の“(ねん)(さい)”という(こと)()もなじみが(うす)いようで、(しゅう)()(ぶっ)(きょう)(かた)は“(ほう)()”などと()んでいるようです。

 (しん)(とう)では(ひゃく)(にち)(さい)(あと)(れい)(さい)故人(こじん)霊魂(れいこん)安定(あんてい)子孫(しそん)への(まも)りを(いの)(まつり))を、一・三・五・十・十五・二十(ねん)以下(いか)五年(ごねん)(ごと)あるいは十年(じゅうねん)(ごと)(おこな)います。

 (しん)理教(りきょう)本院(ほんいん)本教(ほんきょう)発祥(はっしょう)(もと)でありながら、()(しき)(じょう)(ほう)(かつ)()(ほう)(かつ)(ほう)(じん)()つことが()()()(しゅう)(きょう)(ほう)(じん)である(しん)()(きょう)()(ほう)(かつ)(しゅう)(きょう)(ほう)(じん)(しん)()(きょう)(ほう)(かつ)される管轄下(かんかつか))の(いち)(きょう)(かい)です。

(したが)って()(ほう)(きょう)(かい)(おな)(ひと)つの(しゅう)(きょう)(ほう)(じん)ですから、(せき)(にん)(やく)(いん)(かい)によって(うん)(えい)されることとなっています。

(せき)(にん)(やく)(いん)は、()(もと)(きょう)(しん)()のご()(てい)のお()()をする(そう)(だい)()()(にん)などを(たば)ねる(やく)()ねています。

 その(せき)(にん)(やく)(いん)さんのお(ひと)()帰幽(きゆう)()くなられること)され、(さん)(ねん)(さい)のお(まつ)りが()わった(あと)のお(はな)しを(しょう)(かい)します。

(いち)(ねん)(さい)()くなって(いっ)(しゅう)(ねん)()(おこな)いますが、(さん)(ねん)(さい)()(こう)は“(かぞ)え”で(けい)(さん)するので丸二年目(まるにねんめ)命日(めいにち)(また)はその()以前(いぜん)親族(しんぞく)(あつ)まりやすい休日(きゅうじつ)などに(おこな)います。

 

総代会(そうだいかい)

 本院(ほんいん)総代会(そうだいかい)は七十・八十(さい)(だい)(かた)(おお)いのですが、その()(せき)(にん)(やく)(いん)さんは(かぞ)えの九十六(さい)()(ゆう)されるまで()(かく)(てき)(げん)()()ごされました。

 (こう)(れい)(しゃ)(おお)(そう)(だい)(かい)でも()きんでた(さい)(こう)(れい)でしたが、()()はお(わか)総代会(そうだいかい)(など)でお(とし)()(たび)(みな)さんは(おどろ)いていました。

 九十(さい)になられたころ高血圧(こうけつあつ)(たお)れられた(とき)に、総代会(そうだいかい)ではもう(かい)には(しゅっ)(せき)出来(でき)ないのではないかと(しん)(ぱい)したものです。

 ところが(びょう)(いん)()()いに()くと、(びょう)(しつ)(くっ)(しん)(うん)(どう)をされておられ、

(たい)(じゅう)(おも)いから(あし)(きん)(にく)(たも)たねば」と()われるのを()いて(おどろ)いたものでした。

 九十(さい)()ぎても(おな)(やまい)()られましたが、(いえ)(うかが)うと(かべ)(ろう)()()すりが()いていてそこで()(こう)(れん)(しゅう)をしておられました。

 その()(そう)(だい)(かい)(なん)()(さん)()(いただ)きましたが、(あい)(さつ)でご()(ぶん)(びょう)()のことを()()いにして、(つぎ)のようなお(はな)しをされたことがありました。

(みな)さんの(なか)にも(こう)(れい)(しゃ)(おお)いのですが、(わたし)はもうすぐ九十五(さい)です。

 (びょう)()もして(みな)さんにご(しん)(ぱい)をお()けしましたが、(わたし)は“なにくそ”の()()ちでリハビリをしました。

 こうして(わたし)(みな)さんに(げん)()になった姿(すがた)()(いただ)いて、(みな)さんにも(ねん)(れい)(すこ)しのことでへこたれない(つよ)()()ちを()ってもらいたいと(おも)って(きょ)()()ました」

 筆者(ひっしゃ)はご()(ぶん)(びょう)()(こく)(ふく)しようとする()(よく)(とも)に、その()(よく)(そう)(だい)さん(たち)(げん)()づけに使(つか)おうとする(まえ)()きの姿()(せい)(かん)(どう)したものです。

 よく()(ぶん)で『もう(とし)だ』、と()うのを()(こと)があります。

(ひっ)(しゃ)(こと)()(たましい)があるように『もう(とし)だ』と(くち)()してしまい、その(とし)から(もど)れないように()(ぶん)()めつけると、(ほん)(とう)にその(とし)(かく)(てい)してしまうように(おも)います。

 (たい)(りょく)()(こう)(りょく)(おとろ)えたかなと(かん)じてもそれは(くち)()さないで、(はん)(たい)(こう)調(ちょう)(かん)じた(とき)()(ぶん)(じつ)(りょく)、と(おも)()むことが(こころ)(からだ)(けん)(こう)()(けつ)ではないでしょうか。

 この()(せき)(にん)(やく)(いん)さんは、まさに九十(さい)(おお)きく()えてもこの()()ちを()(つづ)けられたから、(つね)(ねん)(れい)より(わか)()えたのだと(おも)います。

()見えない()財産(ざいさん)

 ()(せき)(にん)(やく)(いん)さんは、(きた)(きゅう)(しゅう)()()(かい)()(いん)(なが)(あいだ)(つと)められ(ふく)()(ちょう)までされた(かた)でしたが、その()()()(よう)してお(かね)(もう)けをするような(ひと)ではないようでした。

()まいも(ごう)(てい)といわれるものではなく、()(せん)をお(まつ)りする(かみ)(だな)のある()()(じゅう)(じょう)くらいでした。

(しん)(とう)では毎年(まいとし)(がつ)のお(ぼん)()()(さい)という()(せん)(まつ)りを(かく)()(てい)(じゅん)(ぱい)して(おこな)いますが、こちらの()(てい)では()ども(ふう)()(まご)(すべ)()んで(おこな)っていました。

()さんが四(にん)とそれぞれご()(ぞく)が三〜五(にん)づつおられましたから、二十(にん)(ぜん)()(かた)()れあうようにして(さん)(れつ)されました。

 そのうち、お(まご)さんも(おお)きくなり(ひまご)孫さんも(さん)(れつ)するということで(ひと)(たい)(せき)()えて()()(はい)りきれず、(となり)(だい)(どころ)(げん)(かん)(まえ)()()からお(まい)りしていました

 その(まつ)りが()わると(みな)(はか)(まい)りに()き、(かえ)りに(いっ)(しょ)(しょく)()をするというのが()(せき)(にん)(やく)(いん)さん(いち)(ぞく)(まい)(とし)(たの)しみとなっていたようです。

 (ひっ)(しゃ)はやはりご子孫(しそん)一同(いちどう)参拝(さんぱい)された(さん)(ねん)(さい)のお(まつ)りが()わっての(はな)しの(なか)で、(そう)(だい)(かい)での(こじん)人のお(はな)しを(しょう)(かい)した(あと)(とく)にこの()(ぶん)(きょう)調(ちょう)させて(いただ)きました。

()(じん)(けっ)(ぱく)(かた)であったようで、(ぶっ)(しつ)(てき)()()える(おお)きな(ざい)(さん)(のこ)しておられないかも()れませんが、()()えない(ざい)(さん)(のこ)しているのにお()づきですか?

 それは、(ねん)(いっ)(かい)()()(さい)やその()(れい)(さい)(かなら)(みな)さんを()()せてご(いっ)(しょ)にご(せん)()(れい)(ぜん)()()わせる(しゅう)(かん)()(なか)()(つづ)けたことだと(おも)います。

 先祖(せんぞ)(まつ)りはお()()ちゃんとお()()ちゃんにお(まか)せ、またその(かた)(たち)が『()(ぶん)たちがやっておくからいいよ』で()ませている(いえ)(さい)(きん)(おお)いように(かん)じます。

 (せん)()(まつ)りにも(かえ)ってこない(ひと)(にん)(げん)(あつか)いしてもらえない()(ほう)もあるようですが、(げん)(だい)はその(じゅう)(よう)(せい)()(うしな)われているようです。

 こちらの(いえ)は、()(じん)がそうした(みち)(のこ)して(くだ)さったのですから、この(みち)()()(たい)(せつ)にして(くだ)さい」とお(はな)ししました。

 (みな)(さま)(きょう)(かい)()(ねが)いして、()()(さい)など(ねん)(いっ)(かい)でも()()れば()(ぞく)(いっ)(しょ)(せん)()(まつ)りをされれば、ご(せん)()(こころ)(なご)まれることとお(すす)(もう)()げます。

 

()みと()()

()()(はん)()(かみなり)(かたち)のように()()ったもので、(さかき)(なわ)()ける。

(ひも)(ろぎ)(おお)(さかき)()()()()けたもので、(こう)(しん)(せい)なる()となる。

(しん)(せん)(さけ)(こめ)(さかな)乾物(かんぶつ)()(さい)果物(くだもの)(しお)(みず)(など)(かみ)(さま)へのお(そな)(もの)

()()(かみ)(さま)(ささ)げるお(さけ)。 (うぶ)(すな)(しゃ)(むら)(まち)(まも)()(もと)(じん)(じゃ)

(よう)(はい)(じん)(じゃ)(きょう)(かい)()けない()(あい)に、(はな)れた()(しょ)から(おが)むこと。

(おお)(ぬさ)()()(たば)ねて(ぼう)(くく)()けたもので、(つみ)(けが)れを(はら)うもの。

(めい)()()()いた(はた)。 (きん)(){にしきばた}=(たい)(よう)(つき)(もん)(しょう)(はい)った(にしき)(はた)

(おお)(のぼり)(たい)(さい)()など(けいだい)内に(たけ)竿(ざお)()てられる(おお)きな(はた)




    

        管長様が解説する御教祖の御歌   『人道百首』より

       天は覆ひ 地は育てて 世の中の

          夫婦の道の 始とはなる




 我々が天とか空とか呼ぶ場所にはオゾン層なるものがあり、そのオゾン層なるものに覆い包まれているため、人類を始めとする生存が保たれているとのことであります。
 また、我々が住む地球にはマントル層なるものがあるため、それなりの温度と湿度を保った大地が、人類を始めとする万物をおのずから育てることになっているようであります。
 そうしたオゾン層やマントル層などの存在は、いわゆる科学の進歩にともなって知られることになったものであり、それも極めて最近のことと申せるほどであります。
 従って、お互いの祖父母をさかのぼる御先祖は、その仰いだ天や伏した地に、それほどまでの恩恵が備わっていたことを、全く知らなかった訳であります。
 しかし、それにもかかわらず、我々の御先祖や先人達は、天恩・地恩という言葉を残し、あるいは天地を父母になぞらえる等して、その徳をたたえてきました。
 それにしても、当今では、父になぞらえられる天について、いわゆるオゾン層に破壊の兆候が見られ、天が天でなくなる!!危険に気付くこととなっております。
 また、母になぞらえられる地についても、いわゆる環境汚染や温暖化などの現象が見られて、地が地でなくなる!!ことへの対策が講じられることとなっております。
 そうした対策が落ち度なく実施されて、天と地とがそれぞれに備え持っていたものが、すみやかに原状へもどることが望まれます。
 そうならぬ限り、万物が順調に育つことはあり得ないし、お互い自身が生存することさえできがたくなるからであります。
 我々としては、天と地とについての知識がなお不完全である点をもわきまえた上で、天と地とが、それぞれの働きに欠けることのない状態の保全に努めねばならぬ訳であります。
 ところで、天になぞらえられる父に相対するのは夫であります。また、地になぞらえられる母に相対するのは婦、すなわち妻ということになると申せそうであります。
 改めて、そうした視点から、天地の働きと父母の働きとを対比してみますと、天と地とに欠陥が生じ始めている現状に似たものがあるように感じられます。

 夫と妻とのそれぞれの在り方についても、民主化とか社会状勢の変化などに影響されすぎて、同様の状況が見られ始めている、と申せるようであります。
 つまり、天と地とが万物を育てなす力を失いかねぬ現況に似て、父と母、そして夫と妻も、我が子を育てなすという働きから遠ざかりつつあるということであります。
 少年の非行は、父母殺害の事例まで生じております。そこまではいかぬにしても、夫婦の生活に暗い影を投じて破局にいたりかねぬことは言うを待たぬところであります。
 お互いとしては、目立たず静かな天地の営みの中に感受して、教歌に示されたところを重く受け止め、今後の在り方に資して心和やかな時を持続することにならねばならぬと思います。

  



  幸福への出発
            光陽教会  中山 勇

    第26集   墓の持っている潜在力は生活を豊かにする

 
 私たちは先祖の潜在能力をどれだけ感じているのでしょうか、自分の今の能力や力は全て持って生まれているのです。顔や体型の良いのも悪いのも又、人より優れている頭脳や特技そしてどんな試練にも耐えていける精神力等は、突然に出来るものでは有りません。
それらの全ての大元の原因が先祖の中に存在していて、夫婦と先祖の長所と長所が遺伝の組み合わせにより、いろいろな特技や能力を特別に強く持って生まれてくるのです。
三代前までの先祖の中で生前に習得していた優れた特技や長所が、遺伝として陰と陽に組み合わさって、その長所が先天的に強く備わって生まれてくるのです。一般によく言われる「蛙の子は蛙」なのですが、逆な事もあるのです。短所と短所が組み合えば、持って生まれた能力を発揮出来ないのです。
積極性が無くなり無気力・無関心・無感動の心となり「うつ病等の原因になるのです」。勉強や仕事など何事に対しても、思い通りにならなければすぐ諦めて、自分で現状の不利を納得してしまうのです。
その人は能力の中に非常に良いものが備わっているのに、性格的に生かす事が出来ないのです。この様に遺伝子の持って生まれた性格は敬神尊祖の信仰が、心を改善する方法として大変重要に成っているのです。
その為には先祖の祭りが大切なのです。
父と母の陰陽の沢山の量の遺伝子の結合の中で、因縁的に短所と短所を結合させて家系の永続のために、罪の祓いをその子に持たせているのです。
先祖のお祭りと罪の祓いで一番大切なことは、家族の心と言葉の協力が必要だということです。「其の子一人の問題では無く家族全体の問題だから」です。
原因は父方の先祖と母方の先祖の罪の共通点が遺伝として子孫に発生しているのです。原因は「必ず三代前までの先祖の中に心と身体の病気の原因があります」。
この心と身体の病気の原因は墓の影響を強く受けているのです。家の霊殿と墓の祭り方のバランスと、特に墓地の環境と理にかなった納骨の有無などが原因として考えられます。
「どんな先祖でも自分を祀ってほしいから子孫の健康と幸せを望んでいる」のです。子孫の健康と幸せの永続を望むから「先祖が生前に祓い切れずに残した多くの罪の祓いを、結果として病気等の症状として祓っている」のです。先祖があって現在の自分が在るのですから、自分の身体の仕組が遺伝の法則の通りに三代前までの先祖の中に総ての原因が良くても悪くても遺伝的に有るのです。
そのため私達には「祖霊祭と墓の祀り方が家族全員の健康と幸せに成る為の絶対的な条件」なのです。一日の中に先祖が守られる夜の時間と神様の守られる昼の時間があります。しかも夜の寝ている間に日にちが変わります。
目が覚めると次の日の朝なのです。当たり前のことなので深く考える人はいないのですが、この寝ている夜の間に新しい一日の出発の準備をしているのです。
先祖が子孫の疲れた身体の修復の代謝活動をしているのです。体を休めて疲れた肉体を元気にして頂くのです「それも先祖が明日の幸せを願って一生懸命寝ている間に守っている」から朝の目覚めがあるのです。だから寝るとは「産須根の、根の中に入るから寝入る」というのです。
人間にはバイオリズムと脳波があり、常に先祖の霊と交信しているのです。交信しているから守りが有るのです。そしてA型やB型等の「血液の新陳代謝の活動をお墓の中の先祖の霊が子孫の脳波を通して子孫の間脳(和魂)に指令を出している」のです。
間脳には先祖が管理している副交感神経があり、骨の中の骨髄に血液の代謝活動と細胞の修復をさせて健康を維持しているのです。血液の寿命は赤血球が百二十日活動をして壊されていくのです。白血球は七日で新しい白血球に生まれ変わります。
この活動を毎日命の有る限り休むことなく続けるのです、ほとんどが寝ている間に若返っているのです。この修復の若返る細胞の数が健康と寿命に深く関係しているのです。
年を取るたびに細胞の若返る数が少なくなるのです。自分の身体は両親から細胞を授かって、その細胞が細胞分裂をして成長してきたのです。自分の身体に起きるいろいろな病気や変化は、親から受け継いだ血液細胞や神経細胞などの細胞が起こしているのです。
健康を維持するためには祖霊祭が一番の近道です。
「現代医学は科学の発達により医療設備が飛躍的に進歩しています」。進んだ医学のために最近の病院は沢山の薬を処方します。しかし薬は毒薬を薄めて飲んでいるので、必ず副作用があるのです。副作用が有るから薬は飲む量と子供用と大人用の区別があるのです。「薬ではなく毒薬と思ってください」。
薬害で病気を自分で作る人がとても多くなっているのです。薬を飲むときの注意は、早く治したい気持ちから飲む時間を早めたり量を多くしたりしない事が大切です。
また、いろいろな薬を同時に沢山飲むと薬の相互作用で病状が重くなる事も有ります。薬を飲むときは胃腸の保護のため少し多めの水で飲んでください。ジュースやお酒では飲まないように注意が必要です。こんなことは誰でも知っていることなのですが、でも薬の副作用で苦しんでいる人も実際にとても多いのです。
健康は自分で守る知識を持つことが現在の生活では必要なことなのです。敬神尊祖の信仰は薬の副作用を少なくします。副作用は体の中の肝臓の解毒作用が弱くなるので起こります。
神の臓のかんぞうは信仰する心により「天在諸神の救いの神業が働くところなのです」。自律神経の中で神の交感神経が先祖の副交感神経の働を強く促すので、弱くなった肝臓の働きが正常にもどり薬の副作用が弱くなるのです。
信仰の持っている神の力(清濁を分ける働き)のお陰なのです。私達は天在諸神の救いを信じて、「信仰という心の真実を勉強させて頂いている」のです。
その真実の奥に先祖の守りが働き、先祖の守りが有るから神の救いが受けられるのです。「自分と神様をつないでいるパイプは先祖の守りの力なのです」。神様の前では人は全て平等な恵みの中で生活をしているのです。神様は地球上の空気や水と食べ物など自然の全ての物を人間に対して分け隔てなく、善人であれ悪人であっても平等に与えておられるのです。
ただ先祖を持つ人間は、その持って生まれた罪の重さにより、与えられた神様の贈り物を不平や不満の心で受け取るから、先祖のパイプを細く弱くしているのです。そのパイプの原因が墓の中の骨に有るのです。骨は天在諸神の面足神と綾惶根神の守りで金星なのです。
「墓の持っている力とは金運と経済の力」になります。墓の守りは子孫の健康と財産(お金)の守りなのですから、墓はその家の勢を象徴的に表しているのです。
「墓が管理している健康は労働力なので金のなる木なのです」。墓の中に健康(荒魂)と言う金のなる木が植えてあるのです。
産須根という根が土の中に血液(血縁の益)の持っている徳(利益)に強く働き根を張らせているのです。この金のなる木の芽を出させて氏神(和霊)となり、日の若宮(幸霊)に大きく幹を育てることが出来るのが先祖のお祭りなのです。

先祖の四魂の中で子孫に一番影響力があり家の力を持っているのがお墓の中の荒霊です。和霊(氏神)は遺伝子の先祖の力でお墓の荒霊(金と力)を指揮管理しているのです。
私たちの信仰が先祖に喜んで貰えるお祭りと奉仕が出来ている事が大切なのです。先祖の霊も自分の心の働きと同じで、性格(和霊)の働きの中でしか体質(荒霊)が活動出来ません。
生活も金運も身体の全てを指揮管理している「持って生まれた先祖の心」なのですから、家庭の中で毎日が親子や兄弟たちの「生活そのものが心の持ち方と考え方の修行をしていく場」なのです。家庭の中には幸福の種が一杯あるのです。種は信仰の畑に植える事を墓が教えているのです。





                 *** 教 祖 の 道 統 *** 


   長崎教会 教会長 大教庁式務局長 花岡 勝成

     第五章 教祖の神人関係観
       第一節 神と人及び人の善悪(その二)

 

善悪が神人関係を顕著にすること
 そうでありますから、人間は常に神から授かった分霊を神の霊に一致させる為に活動をするものです。
 神は人間の活動上の目的であり理想なのです。
 だから一度染悪した状態から脱出して向上しようとするのは、人間共通の心理でありましょう。
 従って、この方面から考えますと悪が存在する事によって、初めて神を認めるともいえるのです。
 例えば神の存在を信じない人が、非常な不幸や病気等から自身の罪悪を悟り、この状態から救って頂く為に神にお願いをします。
 また信仰によって心を安らかにし、自己の劣って悪いところを向上進歩させる行ないをします。
 このようにして自己を優秀な人格に作り替えることがある様に、悪によって神を認め、悪を嫌って神を要求し、悪から脱出しようとして神にすがる。ここに強烈な神人関係が起こるのです。
 故に神と人との関係は、善と悪という二つの関係から起こるものなのです。
 その善悪が起こる原因は、顕幽分界の二大原理によるもので、この原理によって起こる善悪はともに神が治め給う処です。
 だから、そこに人間が善悪によって神人関係を益々顕著なものにする動機が生まれるのです。
 御教祖は神理教要に
【日月は空にかかり、日は清なる物が凝り成りたるにて、清めるものを主宰り、月は濁りたる物が凝り成りたるにて、濁りたるものを主宰るも、その理成り定まりたるに基づけり。
 是に依りて高皇産巣日神の御名を負い持ちたる伊邪那岐神と、神産巣日神の御名を負い持ちたる伊邪那美神とは、天照皇大神と月読神とに別けて、伊邪那美神は人の道に背く悪人を一日に千頭くびりこらさむと詔給い、伊邪那岐神は善い人を褒める為に、一日に千五百の産屋を建て子孫を栄えしめむと詔給い、伊邪那岐神は日若宮に帰り清明持神となり、伊邪那美神は月黄泉国に入りて重濁持神となり給いて、共に善悪の賞と罰を主宰れり】
と教えておられます。
 これによって考察する時、人間の肉体に於て区別される善悪は、即ち神の治められる処であって、善悪共に神との関係が生ずるのです。
善を賞で悪をとがめる神の活らき
 すでに『第三章 人生観』のところで述べました様に、現世にて道徳上の善悪に於て善い行ないをすれば賞められ、悪い行為により罰せられるのは表面上のことであり、どちらも行動を起こした後の事です。
 例えば表に出ない善悪から考えて見ますと、小さな善い事でもそれが正しく明るい行ないであれば、必ず心が晴れ晴れしく嬉しくなる。
 しかし極小さな悪い行ないであっても頭は重く心は暗くなるのは、両者共に神より授かった霊の本質の活らきと霊の本元であって、善悪を主宰される神の活らき、つまり神の審判の結果である事は誰もが納得する処でしょう。 その結果、刑罰より以上の苦痛をもたらす場合があります。
 これはすでに人間の本体は霊である事を認め、その霊は神と同一のものである事を認めた証拠です。
 更に人の善悪を負い持ち知ろしめすのは神である事も、自然明らかとなる訳です。

善と悪のはじめ(出処)
 次に同書に
【そもそも両界に座す神等より罰められる悪は何より出るものか、神より賞められる善は何れより成り出るかというと、その理はない様に思われるがそうではない。
 その理由は人の体は父母より産まれ出たといえども、その元を考えると神の気を受けてこの体あり、体ありてその気こもり心となる。
 それゆえに体あれば心ある。
 それは家があれば主があり、主があれば家がある道理と同じである。
 それを主がありても家もなく、家があっても主がないのは理に背いている。
 さてその心の本源を尋ねれば、あの日に座す産巣日神より賜りたる日なりけり。
 是は神より賜ったものであるから魂(賜り・風・火)という。
 そうであるから、この魂は神から賜ったものであり極めて清明なものである。
 この清明なものを濁りに染めなければ善という。これが人の本心であり天津神の守り給う処なり。
 これに反して本心である清明が去り、汚れたのを悪しという。
 この阿志という事は天津神が憎み嫌われる処にして、伊邪那美神の所へ召させ給う。 だからこの悪は善とは違った行ないをいう。
 又本心である善は伊邪那岐神が賞められる事であり、只神代より伝わっている人の道を守る事をいう】
と教えられている。
 つまり、善悪のはじめは惟神(神の心のまま)なる人の道です。
 言葉をかえて言えば神の御心に背くか背かないかによって善と悪に別れ、その別れた善悪の賞罰を主宰されるのは神である事も認められるのです。
 善きは賞め 悪しきは罰め 束の間も
  絶えず日月の 神は守れり(教歌百首)
 この様に述べて来たならば、人生の根本義は何にあるかは明らかになったと思います。 要するに善とは神の御心に背かない行為で、自然に従い道理に服して、神の御恵みを受ける事の出来る行為であって、その行為をなす本体の霊は、即ち神の御心です。
 自然と理と御恵みの結晶ですから、この霊を汚さない活動によって下段から段々と上段へと、最高多量の霊の本体に進んで行くのが、霊の正しい発現(人)であり活動です。
そうして初めて神人一体の区域にぴったり一致する事が出来るのです。
 又悪つまりわろし(悪し)というのは、元来が人の本質は善でありますから、人が一度悪に染まっても、それを悟り前非を悔い改めれば善性に帰ることが出来るのは、丁度きれいな鏡が汚れ曇っている様なものです。

 元々鏡は一点のチリや曇りがあっても役目を果たす事が出来ないので、その鏡に曇りや汚れがあれば、それを拭い去らなければならない様に、人も悪というものが体に付着しているならば、鏡の曇りの様にこれを拭い去らなければなりません。
 その拭い去るという事は神との関係が益々深くなる訳ですが、先ずその障害となる悪とはどんなものかをこれから研究して見ましょう。

 
   




                古事記「絵で見る解説文」

L(絵のみ)
  ―― L挿絵の説明 ――
 男神(伊邪那岐の神)は雷神と千五百人の黄泉の国の兵隊に追われ、やっとのことで死者の国の出入り口である黄泉比良坂のふもとにたどりつきました。
そこには一本の桃の木が生えています。
 男神(伊邪那岐の神)は、思わずその実を幾つかもぐと、追っ手に向かって投げつけました。
 すると、雷神たちはおそれをなしてちりぢりに逃げてしまいました。
*解説
 時代考証からするとこの時代に白桃は日本になく、あったのはもっと小さな山桃の一種だったようです。
こうした故事から、桃は神道殊に本教にとってとても大事なものとなっています。
 本教は、御教祖のご先祖である饒速日命(皇室のご先祖邇邇芸命の兄)から物部氏の時代を通じ教えを伝えられた神道ですが、その神術の一つに御神宝(かんだから)があります。
 本教の教師になれば、十種の神宝を御神宝として戴かれますが、これは桃の枝から出来ています。
 十種の神宝は、古くから巫部家に御神宝として伝えられてきたものです。



 
                                                         



***地方特派員だより***

いただいた命

名古屋大教会 岩押 頼子


       鈴木政勝さん(右)と厚子さんご夫妻

 昨年十二月に、半田市の知多教会長の小栗彌須子先生を通して、鈴木政勝さん(六十一才)へ取材の打診をした時の事です。
 「お参りに熱心な子供達の方が取材にふさわしいと思うのに、なぜ自分なのかな?」と思われたそうです。それが三ヵ月後に全く別の思いに変わるとは誰も予想しませんでした。

 三十五年前に結婚されましたが、奥様の厚子さん(六十才)は、ご両親が初代知多教会長(故)小栗かぎの先生と教会を始める前からのお付き合いで、神理教の信者さんになられて約五十年になります。

 政勝さんの生家は仏教を信仰し、お参りすることには抵抗がなく、また義父母とも仲が良かったので、自然に神理教に入信しました。
 戦争で実父を二歳の時に亡くされ、綺麗なお花をお供えしたいとの思いが高じて華道を極め、二十年程、お勤めの後に指導されていました。
 十年前体調を崩された時、区切りとして個展を開いた後は指導をやめ、毎年春秋の書道展の生け花を担当されています。初めはその場を飾るだけの花でしたが、今では書を生かすための花、野に咲く花をいかに自然のままに生けるかとの考えに変わったと話されます。
 それがきっかけなのでしょうか、我が強く、家族だけでなく他人にも知らないうちに迷惑を掛けていたと気付き、今自分ができる時にお詫びをしておかなければ、息子達が後になってそれを果たさなくてはならなくなるからと思い、四年程前から毎週曜日を決めて氏神様、知多教会、その横にある白龍神社へ参拝されているそうです。
 生け花だけでなく、趣味で材料選びから仕上げまで全部一人で座敷机などを作られ、四年前に和食店を始められた長男のお店の座敷机四脚も作られたそうです。
 お話から息子さん達の厚い信仰心は、ご両親から受け継がれたものと感じていると、政勝さんが膝を前に進めて話されました。
 「実は、心筋梗塞で二週間半ほど入院していたのですよ」
 突然の言葉に、大病を患ったとは信じられないくらい普通にお話を伺っていたので大変驚きました。
 一月下旬になんとなく胸の辺りが変で、町医者へ行ったところ診察中に心筋梗塞を起こしたのですが、直ぐに救急車で大きい病院に運ばれたため、早く適切な処置ができたのです。
 その時、長男の喜代志さんに「生まれてくる初孫の顔を見るために頑張れ!」と言われ、「死んでたまるか!」と思われたそうです。
 「今までお参りしても、お願い事をしたことは一度もなかったのですが、初めて神様に生かしてほしいと頼みましたよ。
 大部屋で一緒だった信仰の厚い患者さんの心の強さ、人との接し方を見て、信仰の素晴らしさを感じました。そして、私も信仰によって心を強く保つ事ができました。
 病んで感じたのは、いただいた命をいかに生かせていただくかという気持ちに変わったことです」
 退院直後の二月二十日、初孫の喬仁君が元気に誕生しました。
 「最初、なぜ私が取材を?と思いました。その直後に入院。そして短期で退院し、孫も無事に生まれた数日後に取材の日時の連絡があり、今こうして信仰への思いをお話している事に、何か不思議なものを感じてなりません」
 そのお話を伺うために、私がそこへ導かれた事へ感謝の気持ちでいっぱいでした。

  



教祖墓前祭
斎主 弘前教会 教会長    
青山 倫直 さん



 四月十八日の天気予報は、あいにくの雨。しかし、予報を見事に裏切って朝から爽やかに晴れ渡ったこの日、教祖奥津城で教祖墓前祭が執り行われました。独立百十周年の式年大祭にふさわしく、墓前祭奉仕を務めたのは、約二百名という大人数で帰院された弘前教会の皆さんです。
延々と続く祭官行列は、まさに圧巻でした。
 「昨年、弘前教会の春の大祭に管長様がお見えになった時、『独立百十周年記念大祭の墓前祭奉仕をお願いしたい』と声を掛けていただきました。しかし、私は数年前から体調が悪く、とてもお受けできないと、一旦はお断りするつもりでした。
しかし、『これは神様が墓前祭奉仕をやりなさいとおっしゃっているのかもしれない』と思い直し、引き受けさせていただくことにしたのです。」
 斎主を務めた弘前教会の青山倫直教会長は、挨拶の中でこんなふうに語り始めました。「墓前祭奉仕を受けてから、この一年の間にさまざまなことがありました。さまざまな方が私の体を気づかってくださいました。これは、神様が人の口を通して言わしめ、人の手を通して助けて下さっているのではないか。『まだまだ働け』という意味ではないかと思います。天気予報では今日は雨が降ると言っていたので、『私の行いが悪いからかなぁ』と思っていたら、こんなに晴れました。
恩師である佐々木源明先生や弘前教会の初代教会長である父も、きっと『ようやったなぁ』と喜んでくれているのではないでしょうか。」
 この青山教会長の挨拶を聞きながら、弘前教会の皆さんの中には思わず涙を流す方もたくさんいらっしゃいました。
 弘前教会の皆さんから、とにかく慕われている青山教会長。これまで『ほっとたいむ』の取材などで、弘前教会の皆さんとは電話で何度かお話する機会がありました。その中でも、必ず青山教会長のお話が出てきました。そして、ここで皆さん、思わず涙声になるのです。
 「まるで長島監督のようだ」というたとえが、青山教会長の人柄をよく表しているような気がします。(これは余談ですが、弘前教会の中でバレンタインデーのチョコレートを一番多くもらうのは、毎年決まって教会長だそうです。)
 青山教会長は言います。
 「私には霊感はありません。あくまでも神理教の教えを分かりやすく解釈して、皆さんに伝えているだけです。」
 はるばる青森県から、わずか一泊二日というハードスケジュールで帰院された約二百名の皆さん。その絆の深さは、そのまま信仰の深さにつながっているような気がします。
 それは、神理雑誌に毎号、掲載されている『神のめぐみ』『神理ありがたし』を読んでも分かります。 
 『神のめぐみ』『神理ありがたし』の連載が始まったのは、もうずいぶん以前のことですが、青山教会長は皆さんに書くことを勧めているそうです。「書くことで自分を反省することができる。そして口に出して実行することが大事」というのです。
 青山教会長と共に帰院し、墓前祭奉仕を行っている弘前教会の皆さんを目にしながら、家族そろって教会に足を運び、みんなで熱心に勉強会を行っている様子が目に浮かんできました。雨という天気予報を見事、晴れに変えたのも、そんな皆さんの熱い信仰心だったのではないでしょうか。


産土社遥拝式
斎主 八旗八幡神社 宮司   
福江 守輝 さん


 十年に一度の式年大祭で執り行われる産土社遥拝式。その斎主を務められたのが、本院に程近い小倉南区長尾にある八旗八幡神社の福江守輝宮司です。
 「神理教の御教祖様は氏神様の御信仰があつく、御教祖様の御葬儀は私の祖父が執り行わさせていただきました。そういう御縁もあって、式年大祭の産土一社遥拝式では斎主を務めさせていただいています。」
 八旗八幡神社は、京都の岩清水八幡宮の御分霊をいただき、今から千百四十五年前に現在の小倉南区長尾に創建されました。つまり、八旗八幡は豊前の国の一国一所の神社だったわけです。以来、地域の人々の信仰を集めてきました。

 その八旗神社の五十代目にあたる福江宮司が産土社遥拝式の宮司を務めるのは、九十周年の式年大祭の時から、今回で三度目です。
 「ただ、人力車に乗ったのは今回が初めてですね。」
 当日は、四月とは思えないような強い陽射しが照りつける、本当に暑い一日でした。
 「暑かったでしょう?」という質問に、「暑いというより、緊張しました」と一言。福岡県神社庁小倉支部の支部長を二期六年間、さらに福岡県全体の支部長会議の議長を務めてきた福江宮司でさえ緊張するのかと、ちょっと意外な気もしましたが、それだけ斎主の任を重く受け止めてくださっているということでしょう。
 毎回、自分で考えた祝詞を自ら筆を握って書かれるという福江宮司。
 「お祭りの時には、お互いに参加し合うなど、神理教と、地域の氏神である八旗八幡神社とは親戚のようなものです。私も、神理教の春と秋の大祭には必ず、お参りさせていただいています。」
 昨年五月、八旗八幡神社を建て替える際、建築顧問を管長様にお願いしたそうです。ちなみに、建て替える前の拝殿は、今から四百年以上前、細川忠興公が造ってくださったものだとか。
 また十年後には、産土社遥拝式の斎主をよろしくお願いします。

遥拝式
 行列に参加した神理幼稚園児とその家族の感想コメント
平成16年4月16日(金) 十二時〜


 炎天下の中、行われた遥拝式行列。その中に、巫女舞やはっぴ姿のかわいらしい衣装を身にまとい、暑さの中を頑張って歩いた神理幼稚園児たちの姿がありました。
特に、毎日放課後に残って練習した巫女舞の園児たちは、式の間もその場を離れず、最後まで立派な姿を見せてくれました。そんな園児とご家族に、行列に参加した感想をお伺いしました。
 「十年に一回という記念すべき年に、子どもが参加できて嬉しかったです」と語ってくださったのは、お母様の森重晴美さん。「こういうことは、神理幼稚園でしか経験できない貴重なことなので良かったです」と、終始笑顔で答えてくださいました。娘の諒ちゃんも「この衣装が着られておもしろかったです」と元気に答えてくれました。
 村上新子さんにとって、娘さんがこうした衣装を着るのは二度目。「長女の時は衣装を着るだけでしたが、今回は次女の茉瞳が行列に参加するとあり、小学生になったお姉ちゃんも行列を見たがっていました」。姉妹二人とも神理幼稚園に通わせている村上さんに、園の良さをお伺いすると「自然がいっぱいあって、のびのびと子どもを育ててくれるところがいいと思います」と答えてくださいました。
 「みんなで行列したことが楽しかった」と笑顔を見せてくれた尾上楓佳ちゃん。実は、楓佳ちゃんのお兄ちゃんも神理幼稚園児でしたが、残念ながら衣装などを着ることがなかったそうです。「ですから衣装を着て行列なんて、初めてだったので感動しました」と母親の加代さんは感慨深げにおっしゃっていました。
 参加した園児と父母の皆さん、暑い中、本当にお疲れ様でした。
お母さんの森重晴美さんと
 娘さんの諒ちゃん
お母さんの村上新子さんと
 娘さんの茉瞳ちゃん
お母さんの尾上加代さんと
娘さんの楓佳ちゃん

産土社遙拝式報告とお礼
青年部福山支部 檀上 由光

 独立百十周年式年大祭おめでとうございました。また、お疲れ様でした!
 産土社遥拝式にご協力いただきました皆様方にお礼申し上げます。
 夏日を思わせるような晴天の下、三日間にわたる独立百十周年式年大祭の第一幕、産土社遥拝式が執り行われ無事に終了することができました。ご奉仕いただいた青年部の皆さんをはじめ、北九州神理の会、未来委員会、本院総代の皆さん、本院の諸先生方、祭官奉仕をいただいた先生方、また、神理幼稚園の園児をはじめ関係者の皆さん、大変お世話になりました。
 二月の未来委員会・青年部の合同打ち合わせ会の席で式年大祭の奉仕統括副リーダーを委嘱され、産土社遥拝式を担当することになりました。十年前に比べると式場の設置状況や交通環境も大きく変わり、また、なにぶんにも私自身前回は警備をすることが精一杯で、式場においては強風で錦旗が倒れるのを防ぐために一生懸命支えていたくらいの記憶しかなかったもので、記録ビデオで勉強するところからはじめました。
今回、どのようにするのがベストかを考えたとき、山積みの問題点に気の遠くなるような思いがしましたが、打ち合わせを重ねるうちに問題点も減少し、大祭前にはどうにかできるかな、やるしかないと思えるところまで来ました。(ただ、奉仕者のメンバーが把握できていなかったのが不安ではありましたが)。
当日の朝の打ち合わせに参加されない方、ドタキャンする方等が発生し、私自身がエキサイトして失礼な発言をし、迷惑をかけてしまいました。一時はどうなることかと途方にくれましたが、そこは神様ごと。粋な計らいで、欠員については新たな協力者があらわれ十二時の出発時間を迎えることができました。
 津尾統括リーダーの「出発」の掛け声とともに行列が出発し、行列帯同の青年部、交差点ごとに配置された神理の会の警備のもと、紫川河川敷まで厳かな行列が続きました。まわりの住宅、商店や道行く車の中からも行列に目が向けられていました。紫川河川敷での遥拝式は大変な暑さで、奉仕された祭官の皆さんは特に大変だったのではないでしょうか。稚児のみんなも暑い中お疲れ様でした。(次回は、暑さ対策にテントや冷たい飲み物も必要かも?)。
十年に一度の祭典なのであまり目にすることはできませんが、立派な遥拝式だったと思います。音響もいつもになくすばらしく、良かったと思います。
 祭典終了後、本院大教殿前のステージを目指して、ふたたび隊列を組んでの行列です。ステージ前に帰りついたところで、「万歳三唱」と「餅撒き」が行われ、産土社遥拝式は無事に終了いたしました。ご協力いただいた皆さんのバイタリティーとパワーに驚嘆し、ただただ感謝するばかりです。
 ご協力ありがとうございました。

宵祭り
平成16年4月16日(金) 
十八時〜

 暑かった日差しも和らぎ、穏やかな春の風が心地よい夕刻。大教殿前に設けられた特設ステージには大勢のお客様が集まり、賑やかに「宵祭り」が催されました。今回は大分県玖珠町の古後神楽社による神楽、地元の愛好者たちによるハワイアンダンス、沖縄三線と島唄を披露した島想いの会、女無法松の会による小倉祇園太鼓、という多種多様なジャンルの方たちが、素晴らしいステージを披露。会場からは大きな拍手が送られ、盛況のうちに幕を下ろしました。そんな舞台を終えた直後の皆さんに、それぞれ出演した感想をお伺いしました。

 「今日は観客も多く、やりがいがあった」とは、古後神楽社の社長である田中厚さん。年に二十二回ほど、老人ホームやイベントなどに神楽を奉納されているそうです。写真を撮らせていただいたお姫様役の田中留美子さんは社長の娘さん。「神楽は本来、夜通し行われるのでいろんな舞があるのですが、今日舞ったのはほんの一部です。
通常は観客の中からお姫様役を選んでいるんですよ」と教えてくださいました。メンバーの皆さんは仕事と神楽の二足のわらじを履いて頑張っているため、集まるのは難しいそうですが「今日は神理教に奉納すると聞いて頑張って集合しました」と嬉しいお言葉を頂きました。
 三十二名という大所帯で参加したハワイアンダンスの皆さんを引率しているのは、スクールの講師である名越幸子さん。「神様が見守る素晴らしい舞台はとても清らかで、踊っていて嬉しく、魂が喜んでいると感じました。
また、観客の皆様も熱心に見てくださり、気持ちよく踊れました」と清々しい様子で語ってくださいました。フラダンスについても「踊る人のハートを伝えるもので、手のふりは手話。
メッセージ性が高く、踊り手のスピリッツが込められています」とのこと。名越さんたちのメッセージは、きっと観客の皆さんに届いたことでしょう。
 沖縄三線と島唄を披露した島想いの会は、小倉のカルチャーセンターで練習に励んでいる、沖縄大好き人間たち。今回披露してくださったのは全六曲。沖縄らしい音色と歌声が、観客の心を南の島へと運んでくれました。講師を務める北憲治さんに感想をお伺いすると「気分よく演奏できました。
場数を踏むことで上達すると考えているので、こういうイベントには積極的に参加していきたいです」と語ってくださいました。
 終始、威勢のよい掛け声と太鼓の音で観客を圧倒させてくれたのは、女無法松の会の皆さん。希望者に飛び入り参加で太鼓を叩かせるなど、取りにふさわしく会場を沸かせてくれました。会長である醗實薫さんは「こんな大きな大祭に、こんな私たちが叩かせていただき、本当にありがたいです。
今日は人数も少なく必死でしたが、清められる感じがして嬉しかったです」と語ってくださいました。
本当にかっこいい皆さんのキャッチフレーズは”年がら年中お祭り騒ぎ 玄海女の心意気 女無法松鮮やかに咲き乱れます“。
今日の舞台は、まさにそのキャッチフレーズ通りでした。

大教殿前ステージ
奉納行事
平成16年4月17日(土) 
十五時三十分〜
TOUGH TIME
      (タフタイム)


 筑豊を拠点に音楽活動を行っている五人組のバンドです。大祭には、そのうちの三人(林徳夫さん、林千穂さん、葛原清強さん)がやって来て、懐かしいポップスなどを演奏してくれました。
リーダーである林徳夫さんの実家の近くには、神理教の教会があったそうです。「この前にある道路は車でよく通りますが、こんなところに神理教の本院があったなんて知りませんでした。
本当にきれいな境内ですね」。この林さんの言葉に、大きくうなずく二人のメンバー。
新緑がまぶしい境内で、気持ちよく演奏できたようです。







神洲太鼓教会八幡分教会       
小路 美保 さん

 見事な和太鼓の演奏を披露してくれたのは、神洲太鼓教会八幡分教会の教会長・小路美保さん率いる二十三名のメンバーです。
勇壮な大太鼓と締太鼓のアンサンブルや、幼稚園児ら子どもが主役の無限太鼓(神洲太鼓の本随)といった演奏に、観客から盛んな拍手がおくられていました。演奏した曲は全部で六曲。
心に響く音霊を感じた方も多かったのではないでしょうか。神業と、和太鼓による古典文化の伝承に精一杯の力を注ぐ小路教会長の熱い思いが、その一打一打から伝わってくるようでした。










婦人会
横山 淳子さん


 横山淳子さんの実家は、本院のすぐそばにある佐野家です。「隣は御教祖様生誕の家」という横山さんにとって神理教は、「生まれた時から生活の中にあった、ごく自然な存在」でした。
 独立百十周年の記念大祭では、婦人会の一員として、『夕べのつどい』で御教祖御存世の頃の唱歌を奉納した横山さん。
「練習はあまりしていなかった」というものの、地元の婦人会と地方の婦人会が力をあわせて見事な歌を披露してくれました。
 横山さんは、三歳の頃から大祭で巫子舞を舞っていたそうです。
 「お祭りの前になると、夜、大教殿に巫子舞の練習に来ていました。それが楽しかったですね」と、懐かしそうに当時を振り返ります。その頃は、巫子舞の演奏も歌も生だったとか。
また、大祭のために地方から帰院された皆さんは、本院の近くにある教信徒の家に泊まっていたそうです。
 「何十人もの方が泊まって、賑やかでしたそれが、子ども心にも嬉しかったものです。」
 管長様との思い出もたくさんありますが、中でも忘れられないのは、管長様と奥方様の結婚式が大教殿で行われた時のことです。
 「昆布とスルメをお箸でつかんで、配る役をさせていただきました。
なかなか、うまくつかめなかったのを覚えています。」
 今年の秋、管長様と奥方様は金婚式を迎えられます。五十年前の結婚式の時のことを思い出しながら、横山さんからお二人に、こんなメッセージをいただきました。
 「あれから、もう五十年。本当に早いですね。お二人そろって元気に金婚式を迎えられることに、心から『おめでとうございます』と申し上げます」。
 横山さんは、神理幼稚園の第一期生でもあります。人数が少なく、おゆうぎ会では一人何役もこなさなければならなかったこと。雨が降り、大教殿で運動会をしたことなど、懐かしい話が次々と飛び出しました。また改めて、当時の話をゆっくりご紹介していただきたいものです。

秋季大祭は、管長様、奥方様が金婚式を迎えられる大祭になります。大祭でお会いしましょう。



                             あ  と  が  き

遊歩 太郎
 三月十七日、今年の初物を大教庁の食堂で食べることが出来た。タケノコである。おいしく炊けたタケノコを口にするなり、「ハルだなぁ」と思わず声が出てしまった。「誰が持ってきたか?」「誰が掘ったか?」皆誰も口に出さない。皆、周知の事だからである。
 前日の十六日、教祖祭にこのタケノコはお供えされていた。二十センチ位の大きさであった。もう毎年続いてお供えされている。だから十七日に食べることが出来るのである。「どの辺りにあった?」食べながら聞く。相手はタケノコを掘った本人である。たぶんこの「T」職員は十六日の早朝、徳力山の孟宗竹のジャングルに分け入ったのであろう。徳力山の北側に竹林はあり、ほかの竹林より少し遅れてタケノコは出てくるのである。枯葉を除けながらまだ双葉しか出てない位のタケノコを探すのは至難の業であり、根気のいることである。長い冬の間にエネルギーを貯め込んで、固い大地を突き破り顔を覗かせる。その力強さは正に感動ものであり、その春を知らせるしるしを先ず真っ先に教祖神に味わっていただく。そういう彼の気持ちにまた感動を覚えるのである。
 この北側の竹林は境内地に含まれているので開発の対象にはならず、ずっと昔からの状態が保たれている。だからたぶん、教祖神もこの徳力山のタケノコを食したことは間違いない!と推測される。教祖神がタケノコを口にして微笑んでいる。その情景を想像すると再び感動である。
 外国人が「日本人は竹の根まで食べるのか」と酷した記事を以前読んだことがある。「ワカンネーだろうなー、このたわけ者!」と読みながら呟いた記憶がある。「ハル、春を、味わっているの。食の感動なのだ。」いつの時期でも、その季節を感じる旬のものを食べるのは楽しい。寒く暗い縮こまった冬からの解放なのである。
 木々の新芽がいっせいに息吹き、新緑に染まる景観も素晴らしい。豊臣秀吉が大花見会を開いてから「お花見」は定着したと言われている。新緑を見ながら、桜の下で春の気を満喫するも良かろう。見上げれば桜が、座の前にはお花見弁当があり、その弁当には春の食材が必ず入っている。
 弁当には品目の制限があるが、家庭料理には際限が無い。春を告げるあの独特の香りがする菜の花、辛し和え、おひたし、春の色合いを見ながら食べる。春ごぼうの炒め物、つい食べ過ぎてしまう。ふきのとうの天ぷら、味噌汁に入れたのも美味。タラの芽、これも天ぷら。柿の若葉の天ぷら、これも良かった。つくしの卵とじ、子供の頃を思い出しながら食べる。春の食事は楽しい・嬉しい。自分は悪食なのか、イヤシイのか。そんな事はない。
 ちなみに、大教庁の十八日の食事は、タケノコの炊き込みご飯だった。モー、幸せで感動だ。おかわりしようと思ったが、恥ずかしかったのでやめた。すればよかった、チョット後悔。
終わり