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                                                          2004−3

平成16年3月号 第1081号

        


巻  頭 の こ と ば




「いかなる心配ごとあるとも憂いまじきこと」(今日訓)
苦しみや悲しいことは、誰でもある。
しかし、このような事を経験しないと
「思いやり」の心は生まれてこない。
神様は、体験させることで
「人」として成長させているのである。
「憂い」に「人」を付けると、
「優しい・優れている」となる。


                かんなぎべ  たけひこ
  神理教管長   巫部  健彦
      くに  おも   こころ          おの   み
   国を思ふ 心は やがて 己が身の
               こころ         みち  ひら
           心やすらぐ 道や開かむ

 賛否両論が渦巻く中で、先月には、我が国の陸上自衛隊がイラクの地を踏む事になりました。同国の復興が、我が国の国益に不可欠という考え方に立脚するものであり、そうした自衛隊員の決断と勇気に対しては、国民的な敬意が表されねばならぬと考えます。

 尤も、伝えられる所によれば、イラクの治安状態には、油断できがたいものが感じられます。自衛隊員の一人ひとりが、呉々も身の安全に用心されつつ、任務の遂行に当られることが願われますし、全員そろって無事帰国される事を、願い続けねばならぬと思います。

 それにしても、テロや略奪が鎮静化しない根幹には、イラクに住む人々の心に、イラク国民!という自覚が根付いていない点が挙げられそうであります。寧ろ民族や宗教や更には部族への意識が余りに強く根付いている所に、治安回復の進まぬ原因があると見受けられます。

 つまり、一般的に、国民があってこその国家!といわれていますが、其処に住む人々に国民という意識がなければ、国家と呼ばれるに相応しい治安体制は成立しないという事であります。国際的なテロ組織の暗躍を許して治安悪化を増幅する事態を招くという次第であります。

 近来、我が国の治安は、悪化の一途を辿っているという統計が見られます。外国人による犯罪多発も案じられておりますが、それを許す土壌として、日本人の心から日本国の国民!という意識が薄らぎ始めている風潮も、見落としてはならぬ所のように考えられます。

 幸いに、我が国の場合、宗教や民族の違いに因る抗争は、皆無とは申しがたいとしても、治安を混迷させるほどではありません。しかし、国民という意識に欠ける人が増え続ければ、現在のイラクに似た国情を招きかねぬ事に、気づかねばならぬのでは有りますまいか。

 治安の乱れからも窺われる様に、大きく蓄えられた我が国の国恩は、一方的に取り崩されるのみの状況と言えそうであります。これを阻止するには、国民という意識を強めることが不可欠と思われますし、それが引いては銘々の生活安定の基盤となる点にも考え及びながら、願わくは国恩増幅を意識した生き方を模索すべき時代!という認識を共有致したいものであります。



                  


H.16. 3月号

自然(おのずから)(みち)

(さち) (ひこ)

(はん)(せい)すべき(しょく)(ぎょう)

 

()どもが(りっ)()(そだ)たない可能性(かのうせい)(おお)(おや)職業(しょくぎょう)として、医師(いし)教師(きょうし)があげられるのを()いたことがあります。

筆者(ひっしゃ)(おな)じような()(ゆう)で、(ひと)()()(ぢか)(せっ)している(わたし)たち(しん)(かん)(しん)()(きょう)(きょう)())や(そう)(りょ)(ぼく)()や、(さら)葬儀社(そうぎしゃ)などの職員(しょくいん)(なら)べられるように(おも)いました。

 ()(ごろ)()(ごと)(ひと)つとして(そう)()(おこな)っていると、()()けば“()”というものに(ぜん)(あく)(べつ)にしても()れが()るようです。

 (そう)()(うかが)って遺族(いぞく)(なみだ)(さそ)われることもあるものの、いつもそうしていては(たい)(へん)だという()(しき)出来(でき)て、()(ぶん)()づかずに(かべ)(つく)っていたのかも()れません。

 

(とし)(はじ)めに90(さい)()える()()()くし、()(ぶん)()(しん)(おどろ)いたというかあきれたことがありました。

(きん)(しん)(しゃ)(そう)()ですから(とう)(ぜん)のように(さい)(しょ)から()わりまでお()()いしながら、(かんが)えていることの(おお)くは(そう)()(しゃ)僧侶(そうりょ)対応(たいおう)(しき)次第(しだい)についてでした。

出棺(しゅっかん)(とき)(なみだ)(なが)している(いもうと)たちを()て、()ずかしながら(あらた)めてこれは()(ぶん)伯母(おば)葬儀(そうぎ)である、ということに意識(いしき)(もど)ったのです。

あれだけかわいがってくれた(おば)母の()への(かな)しさに、(こころ)()いていなかった()(ぶん)(どん)(かん)さを()じたことでした。

 ()(ぜん)(わか)神理教(しんりきょう)本院(ほんいん)(きょう)()が、(そう)()なんか()れてしまえば(かん)(たん)だし(へい)()だよ」と(こう)(はい)(はな)していると()いて、『そんな“(かん)(たん)とか(へい)()”などの()()ちで(そう)()(おこな)っては、()(じん)()(ぞく)(たい)して()(きん)(しん)(もう)(わけ)ないことだ』と(おも)った()(おく)があります。

 その(わか)(きょう)()()()ちを善意(ぜんい)(かんが)えれば“(かん)(たん)とか(へい)()”というのは、(そう)()(きん)(ちょう)()(めん)(のぞ)んでの()(ぶん)(なか)()(はげ)ます(こと)()だったもかもしれません。

(じっ)(さい)(そう)()()(おこな)うには()れも必要(ひつよう)ですが、()(ぞく)(かな)しみに(のぞ)(てき)()(きん)(ちょう)(かん)大切(たいせつ)です。

 (きょう)()(しん)(かん)仕事(しごと)であっても同時(どうじ)(しゅう)(きょう)()であるからには、(そう)()(さい)しては(しん)()(おこな)うため(げん)()(ない)でその(かな)しみを()かち()うべきです。

 ()(ごと)としての()れと、()(ごと)(たい)しての(きん)(ちょう)(かん)と、(しゅう)(きょう)()としてのいたわり・()かち()()()ちは(べつ)のものです。

 そうした()れと(よく)(せい)(かん)(かく)が、(だん)(だん)()()(ぢか)にとらえることに(こころ)(かべ)(あつ)くし、()()けば“(どん)(かん)”ということになったのかもしれません。

そうした(かん)(かく)になった(わたし)たちの()どもは、どんな(せい)(しつ)になるのでしょうか。

 もし(おや)()(たい)しても(きん)(ちょう)(かん)()てなければ()どももそうなるとすれば、それは()()しく(そら)(おそ)ろしいことです。

 

ちなみに()()()どもが(そだ)たないといわれる()(ゆう)は、いろんな(びょう)()への(たい)(しょ)(ほう)()っているだけに、()(ぶん)()どもの(びょう)()にも(どう)(よう)(すく)ない、ということのようです。

医師(いし)()(がく)(もっと)()(しき)のある(しょく)(しゅ)ですし()(ちょく)(めん)すること(おお)いことから、()どもの病気(びょうき)についても(じゅう)(だい)()(めん)(いな)かが()かるだけに、(あわ)てることが(すく)ないようです。

 (いっ)(ぱん)()(てい)では()(がく)()(しき)(すく)ないばかりに、()()をひいても(おお)(さわ)ぎをすることが(おお)いのですが、()どもにとってはその(ほう)(おや)(あい)(じょう)(たし)かめることにもなるようです。

 (がっ)(こう)(きょう)()()どもが(そだ)たないといわれる()(ゆう)は、()どもの問題(もんだい)行動(こうどう)のパターンをあ(てい)()()っているだけに、()(ぶん)()どもの()(しゅん)()にかけての(こう)(どう)必要(ひつよう)以上(いじょう)冷静(れいせい)対処(たいしょ)してしまう、ということのようです。

(きょう)(いく)とはこうあるべきという(しん)(ねん)(しょく)(ぎょう)()(しき)(つよ)(ひと)ほど、(げん)(だい)()(そう)(へん)()(たい)(おう)できない()(あい)もあり、()どもに()わないパターンを()しつけてしまうこともあるようです。

 (いっ)(ぱん)()(てい)では(きょう)(いく)への()(しき)(すく)ないばかりに、(しん)(ぱい)(あま)(いろ)んな(ほう)(めん)から(じょう)(ほう)()()れるので、その(ひっ)()(おも)いが子どもに(つう)じると(とも)に、その(じょう)(ほう)()(かく)して()(ほう)(ほう)()つけられる(こと)もあるようです。

 

 (しゅう)(きょう)()として()()(ぢか)(かん)じる()(ごと)をするうちに、(びょうき)教育(きょういく)以前(いぜん)(ひと)として(もっと)(こん)(かん)となる()(ぶん)(かん)(かく)(にぶ)くなっているというのは、()ずべき(こと)でした。

 はからずも身内(みうち)葬儀(そうぎ)自分(じぶん)のそうした(こころ)()せられたことに、反省(はんせい)したことでした。

 筆者(ひっしゃ)はこのことから、いくつかのことが(せい)()できたように(おも)いました。

(ひと)つに、“(あわ)てふためく”のは、みっともなく(そん)(おお)いように(おも)われながら、それが()(ぞく)(きずな)になる(こと)もあるということです。

 (はん)(たい)(れい)(せい)”というのは、(もの)(ごと)(ただ)しく(はん)(だん)できるものの()(ぞく)(しゃ)(かい)(ねつ)()がないと()()られることもあります。

 (いち)(がい)に“(あわ)てること”が(あく)で“(れい)(せい)”が(ぜん)であるとは()めつけられず、(れい)(せい)”だけでなく(とき)には(にん)(げん)くさく“(あわ)てる”のが(ひつ)(よう)なこともあるようです。

 (ふた)つに、(びょう)()にしても(きょう)(いく)にしても(ひと)()にしても、それらに(かか)わる(おも)いが(なが)(あいだ)(けん)(さん)(たま)(もの)ではあっても、その(かん)(ねん)にこだわらない(ほう)()いようです。

 (きょう)(いく)などはその()(ほん)(てき)(かんが)えは()わらなくとも、()(じょう)によりその(たい)(しょ)(ほう)(おお)きく()わってくるでしょうし、それは()(がく)(しゅう)(きょう)(おな)じです。

 この(もん)(だい)にはこう(たい)(しょ)すればよい、とかここまでしておけば十分(じゅうぶん)であるなどとは(かんが)えないで、(たい)(しょ)(ほう)についてはいつでも()(ぶん)(こころ)()()見直(みなお)せるように(こころ)がけたいものです。

 

 (わたし)たちは、どうしたらそうした柔軟(じゅうなん)(こころ)(ちか)づくことが()()るのでしょうか。

 (ひっ)(しゃ)は、やはり(しん)(ぜん)(れい)(ぜん)(すわ)ることから(はじ)まるのだと(おも)います。

 “(わが)(こころ)(すが)(すが)し”と(とな)えて(いっ)(たん)(こころ)(から)にして、それから(おお)(もと)(かみ)(こころ)()()れるという()(かえ)しが、いつも(じゅう)(なん)(こころ)(たも)てる(すべ)であると(しん)じます。

 ()になるのは()いものの(なに)(かんが)えない()ではなく、(いろ)んな(かんが)えに()まった(こころ)(いっ)(たん)()して、()まれたときに(いただ)いたのと(おな)(かみ)(こころ)(いただ)こう、ということなのです。

 ()(ぶん)(こころ)(すべ)てを()()ったからといって、(けっ)して(いま)までの()(しき)()たものが()えることはなく、(わる)いものは(うす)()いものは(のこ)して(いただ)いているのが、不可思議(ふかしぎ)(かみ)御力(おちから)なのです。

 

 余談(よだん)ながら、3(がつ)にも公立(こうりつ)受験(じゅけん)がありますが、筆者(ひっしゃ)合格(ごうかく)祈願(きがん)(じゅ)(けん)(せい)に、

「“(わが)(こころ)(すが)(すが)し”で(いっ)(たん)(すべ)てを()()るから(あたら)しい()(しき)(あたま)(はい)って()るのだし、(いま)までの()(しき)はより鮮明(せんめい)になるのだから、(あん)(しん)して“(すが)(すが)し”の()()ちになって(くだ)さい」というような(はなし)をします。

 (ちょう)()(きゅう)(ほう)(おな)じで、もう()ないほど(いき)()いてしまうから、()(ぜん)(かみ)()(はな)から(たん)(でん)(した)(ばら))に(おく)られ、そこから(からだ)(ぜん)(たい)()(いただ)けるのです。

 どうかそうしたお()()ちで(けん)(こう)(いただ)かれ、4(がつ)(しき)(ねん)(たい)(さい)には(げん)()なお(かお)をお()(くだ)さるよう(たの)しみにお()ちしています。


独立百十年大祭に向けて    (神理幼稚園  友定 重徳 さん)


 神理幼稚園のバスの運転手さんとして子どもたちから慕われている友定重徳さんは、この道四十年の大ベテランです。今でこそ幼稚園に送迎バスはつきものですが、その幼稚園バスを導入したのは、なんでも北九州市では神理幼稚園が初めてだったとか。

「昔はバスに乗ること自体、子どもたちにとっては珍しいことでしたからね。みんな、きちんとお行儀良く座っていましたよ。幼稚園の近所に住んでいて、日頃、幼稚園バスに乗られない園児たちのために、夏休みにはバスで貝掘りに連れて行ったりしていました」と、当時を懐かしそうに振り返る友定さん。
 時代とともに、子どもたちも(そしてお母さんたちも)変わって来たのでしょう。しかし、ずっと変わらないもの、それは子どもたちに対する友定さんの思いです。

「本当に子どもが好きなんです。子どもから教えられることは、たくさんありますよ。例えば、自分たち大人が忘れてしまった純粋な心とか。いつも子どもたちと接しているので、気持ちは若いと思います。年をとるのは遅いかもしれませんね(笑)」

 現在、神理幼稚園には赤・青・黄の三台のバスと小型バスが一台あり、友定さんは運転手の一人として、毎日、園児たちを安全運転で送り迎えしています。
 そんな友定さんが、園児たちはもちろん、お母さんたちからも大歓迎される時があります。クリスマスのサンタクロース、節分の鬼、ひな祭りのお内裏様(男雛)に変身する時です。始めたのは、もう十五、六年前のこと。他の運転手さんもサンタクロースには変身しますが、頭に二本の角、そして虎のパンツまではいた完璧(?)な鬼に変身するのは、運転手さんの中でも友定さんだけということです。

「通行人やドライバーから驚かれませんか?」という質問に、「鬼の格好をしてバスを運転していると、よく中学生や高校生の女の子たちから笑われます。私を指さして、『見て、見て!』と、もう大笑いですよ。さすがに、あれは恥ずかしいですね」と苦笑い。

 一番喜んでくれるのは子どもたちかと思いきや、実はお母さんたちだそうです。
 趣味は魚釣りと映画観賞。「主人公になり切る方なので、悲しい映画はあまり観ません。アクションものが好きですね」と、いかにも友定さんらしい答えです。
 春秋の大祭では、友定さんはいつも宿舎で奉仕をしています。

「私が神理幼稚園で働き始めた頃は、まだ新幹線もなければ、もちろんモノレールなんてない時代ですから、遠方に住む教信徒の皆さんは夜行列車に乗って小倉まで来ていました。そんな皆さんを、神理教のバス二台と西鉄バス三台で小倉駅まで、お迎えに行ったものです。

本院と小倉駅の間を一日十一往復したことを覚えています。今年は独立百十周年の記念大祭です。みんなで盛り上げていきたいですね」
 友定さんは今年、定年を迎えます。
「これまで大した事故もなく無事にやってこられたのは、やはり神理教のおかげだと感謝しています」
 いつも自分たちを見守ってくれていた「優しい運転手さん」の姿は、幼稚園の楽しい思い出とともに、子どもたちの心に残り続けることでしょう。



独立百十年大祭に向けて     青年部 向井 啓二 さん (福永教会)


 
向井啓二さんのお母様は、福永教会・三角教会長のお姉様です。そのため、三十年前、福永教会ができた当初から、教会長や他の教信徒の皆さんと共に歩んで来た向井さん。
 三角教会長のことを、「ものすご〜く(とても力が入っていました!)厳しいけれど、ものすごくやさしくて、涙もろい」と言います。

「これが同じ人か!と思うくらい違いますが、だからみんながついて来るんでしょうね」
 今回、向井さんは神理未来委員会・神理教青年部合同会に参加しました。
「これまでなかった試みなので、良かったと思います。神理教の将来を見据えるのが未来委員会、奉仕の実践部隊が青年部ですが、共に力を合わせて式年大祭をぜひとも成功させたいですね」
 向井さんいわく、「福永教会は全員が青年部のようなものです。参拝に来ても、じっとしている人はいません」。
 なんでも、大祭前の準備奉仕は福永教会創立以来三十年以上、続いているそうです。
「教会長からいつも、『自分一人で清掃奉仕に来ているんじゃない。家族の代表として来ているんだ。草一本抜くのでも、根から抜け』と、言われます。みんな、徹底してやりますよ」
 例えば、清掃奉仕に来る際、手縫いの雑巾を持参するとか。

「ミシンは一切使いません。タオルの縁をほどいて三つに折って、一枚一枚全て手で縫っていきます。残念ながら帰院できない人もいますが、その人たちが縫った雑巾も清掃奉仕で活躍します。こんなふうに、みんながいろいろな形で奉仕しているんです」
 なるほど、雑巾一枚にも心がこもっているんですね。

 もう一つ、大祭にまつわる、こんな裏話があります。大祭時に青年部の皆さんが着ている法被(はっぴ)。あの法被を、大祭が終わると全て持ち帰り、きれいに洗濯して、また本院に届けてくださるのは、なんと福永教会の皆さんなのです。

「小さな教会ですが、自分たちにできる範囲で、できることを奉仕したい」と向井さん。
 大祭では、墓前祭の音響を担当します。
「しっかり準備するつもりですが、今回はたくさんの皆さんの参拝が予想されます。いつにも増して、手落ちのないように細心の注意を払いたいですね」
 向井さん、そして青年部の皆さん、頑張ってください。




    

            管長様が解説する御教祖の御歌   『人道百首』より

       憂事の ありても心 いたむより

          神にいのりて 時をまつべし



 人生は、七転び八起き!!などと言われております。なかなか思うように事が運ばず、起伏があって悲喜憂楽するのが常態であります。
 しかし、そうした悲喜憂楽の起伏も、経験を重ねる中で、その起伏の差が次第に少なくなるのが一般的と申せるようであります。

 このように心の振幅が小さくなるのは、以前の経験を通じて、事態の推移について大概の予測ができるようになった故のことであります。
 この点、もし我々が、一つ一つの経験を大事にして多角的に活用できるよう心掛けていれば、振幅の小さな状態は、ずいぶん早く来るものとも思われます。
 それにしても、一寸先は闇!!とまで言われる人生では、凡人にとっては、いわゆる不測の事態が生じるのは当然、ということになります。そうした覚悟の上で、経験の活用に努める以外にないということになります。
 もし、そのような覚悟ができていれば、不測の事態が生じることも予測しているということであり、取り乱して悲喜憂楽することにはならぬものと思われます。
 もっとも、一般的には感受性が敏感なほど心の振幅は大!!と言えそうですが、自戒自制せねばならぬのは、そうした心の振幅が一方のみに片寄ってしまいがちな点であります。

 喜・楽に心を安んじてしまうことも危険でありますが、それ以上に、悲・憂に心を沈めることになると、取り返しのきかぬ深みに陥ってしまいかねぬからであります。
 いわゆる楽観的な人にも、それなりの落とし穴がありますが、それに落ちた場合、彼は横か上を見るのではないでしょうか。それに比べ、いわゆる悲観的な人が落ちた場合には、彼は下ばかり見ることになるのではありますまいか。
 物事が思い通りに運ばぬ時、ついつい心がふさがり気が滅入るのは、誰もが一度ならず経験するところであります。 
 そうした状態から早く脱け出したいと願いながら、なかなかに脱け出せなかったという経験を持つ人も少なくはないと思われます。それは、いわゆる悪あがきすることにより、かえってその事態に執着することともなって、みずから離脱を妨げる故のことと申せます。

 上掲の御教歌は、そうなった場合の我々としての心得を御教示されたものであり、まずは悪あがきして我が心をみずから傷めることを戒められております。
 次いで、神にいのれとありますが、これは、そうすることにより片寄った執着心をなくし、事態を平静に把握できる心に立ち戻れ!!ということであります。

 また、時を待つべし!!とされているのは、成るべきことは必ず成る!!という前提を踏まえ、その成るには時機があることもわきまえよ!!との御心が伺われるのであります。
 思い通りに物事が運ばぬ世の中ですが、そうした御教示を体して事に処し、おのずから御神護をいただきつつ勇往したいものであります。        



  幸福への出発
            光陽教会  中山 勇

    第24集   真実は墓の中に有り


 お墓の中には荒魂が鎮まっているのです。この荒魂を指揮管理しているのが氏神に成られる和魂なのです。我が家の霊殿に鎮まる和魂とお墓の荒魂は表と裏(陰陽)の深い関係があるのです。人の体では性格(和魂)が体質(荒魂)を管理しています。性格(持って生まれた心)は和魂の間脳なのです。体質は遺伝子で身体の仕組みが出来ているので、荒魂は持って生まれた心のままに順応しているのです。
人間の四魂はバランス良く調和をしていれば、心も身体も健全で楽しく生活や奉仕が出来るのですが、先祖から受け継ぐ遺伝子のA・T・G・C(四魂)の配列バランスが、子供は親にそっくり似ているのです。
そして親の生活態度が子供の性格(遺伝子)の固定化に成って行くのです。「親の育てる環境が変われば親に順応する子供の性格も変わる」のですが、子供の性格の全てが親の心の中に有り、毎日の生活の中で子供の潜在意識として積み重なり、性格が作り上げられて行くのです。

性格の中に自分さえ良ければと言う身勝手な心や、言い出したら人の話を聞かない頑固な心、物事の善悪も自分に損か徳かに置き換える欲望の心、自分が大将の心、反対に優しい心、いたわりの心、奉仕の心、人の痛みや喜びがわかる素直な心、等は遺伝子の中の喜怒哀楽のそれぞれの強弱により、性格として持って生まれる心なのです。

その心に体質が順応して態度として人の目に映るのです。親の日常生活の中で子供の健康に大きな影響を与えているのが、「親の言葉と後姿で教える家庭教育」なのです。子供にとって一番身近にいる家庭教師は両親なのです。
その為に先祖支配の血縁が存在しているのです。喜怒哀楽の四魂の持っている性格と遺伝子が、寿命と健康の大きな原因として墓が関係しているのです。
「信仰の目的は自分の性格を良い性格に変えて行く事」なのです。自分の性格が良くなれば夫婦の会話・親子の会話としつけ・兄弟・そして他人までも、良い方向に変っていくのです。そして一番喜ぶのが先祖なのです。

遺伝子の元が墓の中に有るからです。「墓は子孫の血液を作り出す所」なのです。墓の中に骨があり「何代も続く遺伝子をその骨が作っている」のです。「骨の中心の骨髄で血液が作られているので、先祖は休む事なく子孫の身体の健康管理をしている」のです。
骨で作られる血液の中の遺伝子を罪の祓いとして、もし先祖が四魂の配列を偏らせていれば、性格と体質の強弱として病気などの不幸の原因を、身体の中の遺伝子に組み込んで生まれてくるのです。
神様の清濁を分ける働きの中で先祖の導き(子孫繁栄)の真理として、病気等の原因(罪)を無くする為に子孫に遺伝をさせているのですから、「病気は幸福になるための祓いなので、喜んで神様に感謝する心の働きが無ければ病気は完治しません」。
病気になって有難いと喜ぶ心が遺伝の中にある原因を祓うのです。「笑う門には福来る」は神理に適っているのです。

病気になって喜ぶ心と感謝の気持ちが無いまま、薬や注射で快復しても病気になる原因をそのままにしていては繰り返し発病します。
この不景気な世の中で病院ばかりが繁盛する程、心の中から発生する病気の人が多いのです。「病気は心と身体の陰陽の二面性が有ります。」
心の障害が身体に病気として現れたり、逆に病気が心の障害を引き起こしたりして、心身は裏と表の一体なのです。
もう一歩深く見れば先祖と自分にも同じ仕組みの二面性が有るのです。
先祖が願う心が性格であり、その心が罪の傷害で苦しんでいれば、自分の体質が病気で罪の祓いをする仕組みに成っているのです。逆に自分の心と行いで信仰をして奉仕と罪の祓いをしていけば、先祖の霊魂の罪が祓われていくのです。
先祖の罪という病気の原因が祓われて消えていけば、自分の病気が完全に消えていくのです。墓の中にある荒魂と自分の身体には五感の神経が相互に干渉するところがあります。喜怒哀楽の感覚はすべて荒魂(身体)の中に存在して和魂(脳細胞の間脳)に、五感の神経によって荒魂から和魂に伝達され、和魂は反射的に血液やホルモンの増減の指令を各臓器に出すのです。
例えば喜びや楽しみも、また苦しみや痛みも身体の感覚神経が脳細胞の間脳(和魂)に伝達をして、内臓に対処する動作を脳下垂体・視床・視床下部から自律神経に指令を出してホルモンと血液の流れを管理しているのです。
病気は自律神経の働きが悪く血液の流れとホルモンの分泌の異常によって発病します。
親から受け継いだ身体の中の遺伝子の配列は、喜怒哀楽の四魂のバランス(多い少ない)の影響を必ず受けて生まれて来るのです。
父母もまた同じ様な遺伝子の配列を持っているので、親に子供が似ることが当たり前に成るのです。遺伝子の原因は血液の中に有ります。
親から受け継いでいる血液が自分の一生の運命を管理しているのです。血液の中には心の成長と身体の成長に強く影響している赤血球と白血球があります。神様から頂いた生きる為の運命を司る赤血球と、健康と安全に強く働く先祖の守りの強い白血球があるのです。
健康と病気の選択は親から与えられた、血液の中の赤血球と白血球にその原因の全てが有るのです。墓の中で作られる血液は、先祖が氏神になられて子孫を守る守護霊に成られる信仰の道の中で、子孫が健康を望むのであれば脳波の波長を信仰により先祖に合す事が出来るのです。
交信するアンテナは敬神尊祖の信仰が唯一の方法です。それは、自律神経の中の交感神経も血液の中の赤血球も神様の働きの中で日夜守られているからなのです。
また副交感神経と白血球は先祖の働きとして身体の健康を守っているのです。自分の健康と家族の健康は先祖の守りと神様の救いが絶対に必要です。
健康を望むのであれば「神の道、即ち人の道」として、人に対して寛大な心と優しい心、自分に対して厳しく反省をする、心の浄化と性格の向上が必要な条件です。これを目標として努力する事を信仰していると言えるのです。人は安易に見た目で判断をします。
その見た目も人に厳しく自分に甘い体質があります。
この体質が誰にでも当てはまる事だから信仰が必要になるのです。人は自分に甘い体質が有るから自分に落ち度があっても、また心の中で悪かったと思っていても言い訳をしたり、自分がしたことの正当性を主張したりして、自分の過ちを認めたくない心が、自分が一番正しいと思う心になるのです。
「自分が正しいと思うから反省を忘れて神の道も、人の道もおろそかに成る」のです。今も墓の中で先祖は休むことなく子孫の遺伝のままに、子孫の繁栄と幸を願い運命の原因となる血液を造り続けているのです。自分の運命を良い運命に変えて行くのが奇魂です。
奇魂の働きは良心で「神の道と言う物差しを持っていて、常に自分の行いと言葉の善し悪しを神の道と照らし合わせて、その結果を神様に報告している」のです。
幸魂・和魂・奇魂・荒魂は遺伝の中で量的な強弱があり、その強弱が血液の質の変化になるのです。人は健康を祈り幸せを望むのですが、信仰が全てを満たしてくれる訳では有りません。信仰する心と行いが大切です。神様の救いと先祖の守りが受けられる奉仕とお祭りが、神様(本院と教会)・先祖(我が家の神殿と霊殿)・現実(墓所)、の神・幽・現に対してバランス良く奉仕活動が出来ている事が大切です。幸福は墓を含めた四魂の祭り方と自分の心と考え方に大きく左右されます。
そして体の中の喜怒哀楽の心と四魂の調和も健康の基本に成るのです。
 健康を願うのであれば「墓が血液を造る製造工場なのです」。墓が荒れていると子孫の血液が荒れるのです。墓の掃除は自分の心の掃除と心得るべきです。




                 *** 教 祖 の 道 統 *** 


   長崎教会 教会長 大教庁式務局長 花岡 勝成

     第四章 教祖の霊観
       第四節(その二)十種神宝の目的
(とくさのかんだから)
 
 以上十種の神宝は天津御祖の天璽で尊き神宝でありますが、饒速日命にこの神宝を授けられる時、天津御祖神は詔曰く(次ぎのように言われました)
【若し痛む処有らむには此の十種の神宝をして、一二三四五六七八九十(”九十“は”ここのたり“、あるいは”ここのたりや“と発声する)といいて、布瑠辺由良由良と布瑠部がかく是を為さば死むとする人も生き反るなり、是則ち布瑠の言の本言なり】
と天照皇大神がこの神宝を饒速日命に授けてこの様にしなさいと教えられたのは、国民が病気に苦しみ悩むことがあれば、やがて心の病となり色々と迷いを起こし、終には家を乱し国の乱れとなり、衰え果てる事を憂い給いての御事です。
 神宝を由良加す時は死人も生き反るというのは、既に教えられた様に十種の神宝は実に貴き天神の御靈の恩頼を込め給う恩璽でありますので、この様に数えながらその御恩頼を乞い祈み由良かし禁厭えば靈験が現れ給うのです。
 又痛む処云々と記されている痛みについて御教祖は、
【伊多は体言にして伊多美・伊多牟・伊多都久とも活き、伊多牟の伊は宇古伎という事の切りにして、多は登麻里の登里の切里の省きなり。それ故に宇古伎(動き)登麻里(止まり)という事にして、神の気が止まり通わない為に痛みが起こるのである】
と教えられている。
十種神宝の数の本言
 又この神宝を由良加す時に、一ッ二ッ三ッ四ッ五ッ六ッ七ッ八ッ九ッ十と数を唱えるが、この本言を御教祖は次の様に明かしておられる。
一は比登都と読むべし。日登保利都久の約めなり。
 これ則ち物の始めにして天地始の時、大空に天津日のあらわれたる形にして、只一つの日通りにして産巣日の登保里都久は人となるべきの元、十百千万といえども此日登都がなければ其の大数はない。
二は布多津と読むべし。
日多留都久という事にして布は波由留とも通い、蒲生・芽生・麻生等という生にして、物は波由留靈がつくということにして、一つの形が天地と分かれ一人が二人となった形なり。
三は美津と読むべし。
美津の美は萬以伎という事にして身・見倍・見由留とも活き、此美を引いて美伊という。美津という言葉を延ばせば萬以伎(美)・保比(伊)の都久(津)ということなり。
四は輿都と読むべし。此本言は輿利都久根ということなり。
 上下に日月あり。中にある世界を『よ』ということにして、あの十神の第四神にして須比遅邇の名にも叶い、もの皆の須比・輿利都久という事なり。
五は伊都々と読むべし。本言を考えるに伊は安加里美の反し、此伊を引いて伊々ともいう。 伊都の都は先に言いたる都久の反し。あの十柱の第五神都奴久比にして始めてここに意がおこり、安加里都支人乎以都支、神に以津介留をいうなり。
六は牟都と読む。此本言は美輿留・都久を約め合わせて牟都というなり。
 さて此牟都という言葉の意味を正すと、牟都比・志多志牟と続く言葉にして、人に慣れ親しみ睦ぶことなり。
 祝詞に皇親などいう皇は邇々伎尊にして、神漏伎神漏美命の姫宮を后となし給いしはあの美輿留都久にして十神の第六神活杙則ち伊久伊伎とも活き、久比は気比にして親しみ睦ぶの意味なり。
七は奈々都と読む。奈々都の本言を考えるに、上の奈は奈爾奴禰乃に親しい音にして、第四段の禰を約めた詞にして禰という事なり。
 下の奈は奈留が約まった詞で、都は先に述べた如し。
 さて物の名を付けるには、その根奈里て後に名があらわれるなり。例えば日が空にかかると、此徳を以て万物が生り出るはその元を含みけるにより日という。日はフクミにして万物が生り出る根なればなり。
 人を日・登麻里、獣を気多里・母乃、風を気・世里・比、その物の根元の素があって名が成り都久なり。
 あの十神の第七神にして大戸之遅の於保の於は宇美・母登の切り、保富は火にして登は登古呂の反し、乃遅の乃は禰母登の切り、遅は登保里の切りにして、名奈利・都久といえることなり。
八は屋都と読む。屋都という本言を考えると、屋は以屋萬比・以屋萬布などいえる以屋にして、その伊屋麻比の伊を省き屋となる。屋を延ばせば屋安となる。
 さて屋都の都は先に出た様に伊屋麻比都久という事なり。
 十柱の第八神にして上にあげたる宇美母止・火古呂・奈毛登・都久根なり。
 屋根屋杼などいえるのもこれより始まり、屋根はイヤマイネにして屋伎・屋久・屋介留とも活き、屋介留とはあの住家が伊屋・伎由留という事なり。
九は古々能都と読む。古々能都の古は意の反しの古にして気という事なり。
 下の古は古里・古留・古保留とも活き気凝りという事にして、乃は禰毛登の切り、古々を古の一言に約め古能とのみ約めていえり。
 都は先に出た都久と同じ。
 この九つは第九神めにして気凝・都久根、則ち於母多留という事なり。
十は登乎と読む。此本言を考えるに登遠の登は都古の切り、遠は遠呂の反しなり、此二言合わせて都古・乎呂となる。
 さて此都古乎呂というのは都古里という『こ』にして古里(凝り固まるのコリ)を延べたる詞、古事記に塩古於呂古於呂に云々とあるのも、その塩水を古里・古良須留ということなり。
 さて此都古里こそ、十柱の第十神にまして綾惶根神にましける。
身命を祈り乞う十種神宝
 以上十種の神宝を一より十までの数を以て員えるのは、天神の造化という妙靈なる御徳を称え奉る言葉であり、総て大神達の御靈代が含まれている詞であることを、明らかにされている故に、御教祖は、
【この様に十種の神宝を一二三四五六七八九十と員えるのは、天地造化の天神達の御名を唱え奉る神言なれば、疎かに思うべき言葉ではない。
 この神言を員えるのは非常に畏こく神秘なことなので、何人をも唱えることは出来ず、ただ饒速日命の裔の布留部のみが仕え奉りしなり。
 故に布留部由良由良止布瑠部如此為之者と記されている。
 饒速日命の裔は物部また巫部又その他数多くの姓氏があるが、布瑠部という家はないので、布留部を饒速日命というのは如何がかなという思いもあるが、これは殊更に姓氏とはなっておらなくても、巫部の人は正に玉を振る家の人なので直系といえるなり云々】
と神言の尊さを説き之を誡め、尚布瑠部の言霊を正して次の様に示されている。
【布留部由良由良の布留の布は日都久の切り、部は伊閉の伊の省きなり。伊閉の伊は宇美の切り、閉は比登禰の切りにして忌部・額田部・新田部・為奈部・笠縫部・物部などという部にして、伊部の部を省きたるなり。
 布留部というのは、十種神宝を受け伝えられた人が、世の人が患い悩みに苦しめられて志日(風と火=魂=命)が去ろうとする時に、神宝を以て日都久留・日止禰どもが由良由良と振り由良かして神事仕え奉るなり。
 由良由良といえる本言を考えるに、由良由良の由は輿留という言にして、由里・由留・由良久とも活き、布瑠部等が十種神宝を揃え並べて玉の緒を振り動かし、身命を祈り乞う事によって、その玉どもが一所に輿里て由良とゆるぎなす其の音を形容してこの様にいう】
以上でありますが、これは一部分を記したものでありますので、詳しく知りたい方は「本教神宝考」について研究される事を薦めます。
(第四章 終り)
   



                古事記「絵で見る解説文」


J追手はみるまにせまってくる。…
  ―― J挿絵の説明 ――
 女神(伊邪那美の神)に命じられた女鬼たちは、みるまに男神(伊邪那岐の神)に迫ってきます。
 男神(伊邪那岐の神)はそれを振り払おうとして、髪を結ぶためにつけていたつる草を女鬼どもに向かって投げつけました。
 つる草はまたたくまに道に生い茂ると山葡萄の実をみのらせました。
 いやしい女鬼たちはそれを見るなり、足を止めてその果実にむしゃぶりつきました。

*解説
 前号に続き、日本の童話はこのパターンも多く見られます。
 黄泉の国を連想させる山の中には、鬼や山姥が棲んでいて、迷い込んだこどもを恐がらせます。
 子どもも、この物語に出てくるようなつる草や竹のかんざしや、不思議な御札を使って逃げようとするのですが、それでも妖怪達は迫ってきます。
 いよいよどうしようもない状態に追い込まれ”そこでどうするか“、ということになるのです。
 古事記では桃の実が、童話では不思議な力を持った和尚さんやおじいさんやおばあさんが全てを解決に導いてくれるのですが、思えば私たちも現実にそんな場面に襲われることがあります。
 ではどうすれば、現実の人生の壁に立ち向かうことが出来るのでしょうか?
 まずこわばった心を柔らかくし、絶望感から希望へと心の向きを変えねばなりません。
 フランスの哲学者アランは、
「悲観主義は気分によるものであり、楽観主義は意思によるものである」と言ったそうですが、その考え方は人類全体の知恵ともいえます。
 ではどうすれば、その知恵をいかしこわばった心を柔らかく出来るのでしょうか?
 童話の和尚さんやおじいさんやおばあさんに象徴されるのは、古事記でいうところの桃の実であり、それはやはり神であると言えます。
 従って、古事記が伝えようとしている心は、全てを超越した力を持つ桃の実、すなわち信仰の大切さだと思います。
 科学や医療技術が進み信仰に触れる機会が少なくなったとしても、人はその基本に神・祖先・親への信仰の心を持つべきであることを教えているのです。


 
                                                         
「独立・生誕式年祭を成功させよう!」

第十五回 神理未来委員会・神理教青年部合同会

平成16年2月14日(土)・15日(日)



 第十五回神理未来委員会と神理教青年部の合同会が二月十四日、十五日の両日、本院・明星会館で開催されました。今回は、十年に一度の式年大祭を共に力を合わせて成功させようという目的で、初の試みとして、未来委員会と青年部の合同会という形で行われたものです。地元からも北九州神理の会の皆さんが参加しました。
 まず、十四日午前十一時から行われた合同役員会で、二日間の流れと、式年大祭の奉仕統括正副リーダーを決めました。
●統括リーダー  津尾 紀久雄(福山教会)
●統括副リーダー 小田 勉(福永教会)
         吉村 文男(名古屋大教会)
         壇上 由光(福山教会)
 午後から始まった合同会では、瀬戸局長から式年大祭の流れの説明があり、その後、奉仕を中心に役割分担を行い、質疑応答や未来委員会からの提案なども含めて、活発な意見が交わされました。
 十六日には十年に一度の産土社遥拝式が執り行われます。担当するのは神理の会。行列の順序やルート、式場の設営などについて、綿密な確認がありました。例えば、遥拝式は本院そばの紫川河川敷で行われますが、天候が悪くぬかるんでいる場合はどうするのか等、いろいろなケースを想定しなければならないため、確認事項は山程あります。「とにかく式年大祭を成功させたい!」という思いのもと、時がたつのも忘れて熱心な話し合いが続きました。 
 三月二十日・二十一日には、神理教青年部の式年大祭統括正・副リーダーと支部長・担当部員と大教庁担当職員によって大祭の最終打ち合わせ会が行われます。
 十年に一度の式年大祭、しかも三日間開催という、これまでにない大祭だけに、準備は本当に大変です。目に見えるところだけでなく、目に見えない部分の苦労も計り知れないはず。しかし、それだけに大祭終了後の達成感は格別に違いありません。
 翌十五日、未来委員会の今後の在り方について話し合いが持たれました。その結果、次回の未来委員会(来年八月二十八日・二十九日)は、「新未来委員会」として人心を一新。できれば青年部も一緒に、目的を持って集まる、ということになりました。




初午祭   平成16年2月9日(月)


 二月最初の午の日を祝う「初午祭」が、九日十一時から大元稲荷神社で行われました。
 強い寒波が通り過ぎ、まだ風は強いものの、厳しい寒さは緩んだこの日、熊本・長崎・広島・岡山・香川・愛知など、遠方からも多くの皆さんが参拝。拝殿に入りきれないほどでした。
 二月の初午を稲荷の縁日とする由来は、伏見稲荷大社の祭神が稲荷山に降臨したのが和銅四年(七一一年)二月十一日で、その日が初午だったという言い伝えによります。ただし、その真意は定かではありません。
 玉串拝礼の後、管長様が次のようなお話をされました。
「『いのりなば かならずしるし あるものを なしと思うは 心からなり』という御教祖様の御歌があります。これは、祈れば必ずおかげがある。しかし、そうしたことを受け止める心がけのない人には、おかげはない。
ないと思うのは、その人の心がけが悪いからだ、という意味です。私たちは、いろいろなおかげをいただいていますが、それに気付かずに過ごしてしまうことが多いようです。そして、ついつい不満や不足に心が傾いてしまうのです。最近、若い人が問題や事件を起こすことがよくありますが、彼らには自分がどれだけ見守られているかという認識が足りないのではないでしょうか。
神様の御徳に対して、崇め尊ぶという心が、祈るということに通じるのです。『わが心清々し』という心で祈れば、おかげがいただけます。必ず祈れば、しるしがあります。それに気付く心を養い、不足ではなく、感謝の中で新しいものを求めていただきたいと思います。」
 最後にくじ引きがあり、景品として野菜や果物、餅、鯛などのお供え物が、強運の持ち主に渡されました。
 山を下りた参拝者の皆さんは、このあと、直会に参加。和やかなひと時を過ごした後、それぞれ帰路につきました。

節分・大星祭   平成16年2月3日(火)


 
二月三日、大教殿で節分の大星祭が行われました。昼の部は午後三時から、夜の部は午後八時から。時折、小雪の舞う寒い一日でしたが、昼の部、夜の部ともに大勢の参拝者がありました。
 夜の部の開式十五分前。「夜八時の節分祭は恐いという評判がありますが…」と、切り出したのは瀬戸局長。事前に、神前でのマナーや、参拝者の皆さんに豆をまく本来の意味などを説明します(暗に「慌てず騒がず、冷静に振舞って下さい!」とお願いしているわけです)。そして、玉串拝礼の時に参拝者も一緒に行う作法を説明して、みんなで練習しました。

 寒さが一段と厳しくなる中、続々と集まってくる人、人、人! 「恐い」という噂の意味が、ようやく分かってきました。やはり、目立つのは家族連れの姿です。皆、手に袋を持ち、かなり気合いが入っています。いつの間にか、大教殿に入りきれず、外で立っている人もいるほど、参拝者の数は膨れ上がっていました。
 祝詞奏上の後、年男・年女と厄年の男女の代表二名による玉串拝礼、参拝者の玉串拝礼と続き、いよいよ豆まきの始まりです。
 大教殿の灯が消され一瞬、真っ暗に。再び明るくなった時には、どこからともなく鬼が現れていました。そして、年男・年女、厄年の男女が一斉に豆をまき始めます。参拝者全員に行き渡るようにと、前から後ろから、まんべんなくまきますが…、あっという間に用意された豆やお菓子など全てが、参拝者の用意した袋の中に消えて行きました。

 それにしても、大教殿に子どもたちの元気な声が響き渡る様子は、活気があって、とてもいいものです。教信徒ではない皆さんが多いということですが、これを機に神理教とのご縁が始まる方もいらっしゃるのではないでしょうか。
 ちなみに、この日、用意された豆は全部で一万袋! 職員の皆さんが大雪の日に二日間かけて袋詰めして下さったそうです。ご苦労様でした。

 子どもの頃は、よく節分祭に来ていましたが、今年は大厄なので、厄払いの意味も込めて参拝しました。
すると、受付でいきなり「年男・年女、厄年の代表として玉串拝礼をして下さい」と指名されてしまって(笑)。 私が来た時には、まだ参拝者の数は少なかったんですが、しばらくして後ろを振り返ったら、参拝者がびっしり。びっくりしましたね。
豆は、まんべんなくまきたいと思ったものの、いざ始まってみると、とてもそんな余裕はありませんでした。十秒くらいでなくなってしまったでしょうか(笑)。皆さんに、ちゃんと行き渡っていたらいいんですが。



教祖生誕祭   生 誕 百七十年


 去る二月十六日、教祖生誕祭が行われました。今年は御教祖がお生まれになって、ちょうど百七十年。当日はそれを祝うように好天に恵まれ、小春日和となりました。
 まず本院の教祖殿で執り行われた神事は、清新で厳かな空気のなかにも、どこかやわらかい雰囲気。玉串拝礼のあと、斎主である渡辺斎先生が、独立を請願するために御教祖様が上京されたときの様子を交えながら、講話を行いました。
 御教祖様は布教を兼ね、たったお一人で信濃路を往かれました。大雪のなかをわらじ履き。袴や髭も凍りつき、その風体を怪しまれたため、どこの宿にも泊まれなかったそうです。
 立ち並ぶ 梢を陸のしるしにて
 雪にうずもる 諏訪の湖
 当時御教祖が詠まれたこの歌は、旅がまさに苦難の連続だったことを表しています。
 また渡辺斎主は、自分の曽祖父が画家になろうとしていたのをやめて二十歳から六十年余も教団に尽くしたこと、祖父が先祖伝来の田畑を分家に譲り、島根県の米子を引き払って徳力へ修業に来たことなどに触れ、いずれも御教祖の徳によるものだということを明らかにしていました。
 お祭りのあと、斎乃舎で直会が開かれました。食事と談笑のひととき。みな順番にそれぞれが引き当てた御教祖の御歌を読み上げ、御歌についた番号で景品が当たるという楽しい催しもありました。

 長崎県の北高教友会から参加した、馬場妙子教会長、増丸和子さん、木下サエさん、吉田アツエさんの四人は、連れ立って毎月一度本院に来ているとのこと。昨年四月の教祖墓前祭で斎主として奉仕をされた馬場先生は、御教祖ご生誕のお祝いに、顔をくしゃくしゃにして喜びを表していました。また、吉田アツエさんは直会で偶然自分が詠んだ御歌に「まあ、いまの私にピッタリ!」と不思議そう。あとで聞いたところによると、まさに自分にふさわしい歌を与えられた人が、とても多かったようです。
 晴れやかな雰囲気のなか、教祖生誕祭は無事に終わりました。いよいよ四月十六日からは春季大祭です。お誘いあわせの上、どうぞご参拝下さい。
   



柳二郎財務局長、文科大臣表彰

本教の財務局長でもある、津山教会の柳二郎教正が、文科大臣表彰を受けられました。津山教会は、学校法人明星学園・明星幼稚園を五十年にわたり運営しています。

 この度は柳教正の長年の教育と、市や県はもとより、日本全体の幼稚園の団体への貢献を表彰されたものです。
 皇居にて天皇・皇后両陛下から柳ご夫妻同伴で表彰行事が行われたとのことです。お祝いを申し上げると共に、津山朝日新聞に掲載されたものを転載します。他にも朝日・山陽新聞に掲載されました。
 誠におめでとうございました。春季式年大祭の弾みになればと祈ります。



研究のページ

井戸埋め

質問

 古井戸を埋めて住宅を建てるのに井戸の御祈願を依頼された時、@御神名とA式次第を教えて下さい。
 この場合もB祝詞を作るのですか。

応答
 井戸のお祭りは大切ですから、古い新しいの区別なく、こちらから働きかけてでもお祭りをするように勧めるのが親切です。
 井戸は古来から人間の生活には欠かせないものですし、汲めども尽きない不思議さから命の元の水を下さる神として大切にされてきました。
 従って井戸埋めのお祓いは、感謝の気持ちを込めて必ずするべきものといえます。
 位置は家の北西や南東にあるのが吉で、北東や南西や南は凶と言われます。
 最近井戸は少なくなったものの、ボーリングはよく見かけます。
 その場合、掘った場所よりも、水の出口で位置を判定します。

@御神名について
 以前の水道管を通す場合のお祓いの時と同じ御神名をお唱えします。
 守護をお願いする神名は、神理教では何のお祭りでも第一に大元から守護し命令を下される天在諸神(あめにますもろもろのかみ)です。
 その天在諸神の中でも、十柱神のうち水兄・国常立神と水弟・豊雲野神です。
 次にその天在諸神の命令を受けて実際に働かれる配祀諸神の中でも、五祖神のうち水波之女(弥都波能売)神です。
 そして、その井戸のある場所を治める、此所を所領座す皇神達、となります。
 ここには関連する神を調べられる限り記しましたが、祝詞には全て記されるとは限りません。
 以下の御神名も、神理教の祝詞集『雑祭祝詞(中)』にはありませんが、祭主の裁量により時と場合に応じて加えることがあります。
 鳴雷神・大国主(大己貴)神・少彦名神の三柱。
 鳴雷神は雷の神様ですから雨を連想させるように、水を司る神として信仰されてきました。
 大国主(大己貴)神と少彦名神は医薬の神様であり、祝詞に”…生薬の足薬…“とあるように清潔で健康に良い水を戴きたいという願いが信仰となっています。

A式次第について
 清祓↓大祓↓祓行事↓降神の儀(神離を用意)↓井戸埋(埋井)祝詞↓祈念詞↓玉串拝礼↓両段再拝↓昇神の儀。

B祝詞を作るのですか
 @の御神名を入れてAの順で祝詞を奏上します。
 祝詞は神理教で頒布している『雑祭祝詞(中)』にあります。
 祭りの前に井戸の中の汚いものを取り除き、祭りの後にきれいな土(真土等)で埋めます。
 井戸の息抜きの為に、中を抜いた竹か塩化ビニール管を頭を出して埋めます。
 竹はそのまま朽ちますから、放っておきます。
 ビニール管は朽ちませんので、出来れば適当に日をおいて少しづつ引き抜いて切り取って行くか、竹ならば朽ちるという時期にまとめて引き抜くかします。



地方特派員だより   「あの感動をもう一度」   誠真分教会 橘田 由美子


吉村麻早余ちゃん(右)・上松由佳さん(左)        前回五年前の開教百十周年式年大祭時に奉納
                                                                     吉村麻早余ちゃん(右)・上松由佳さん(左)

 この度、本院より「独立百十周年の式年大祭時にぜひ名古屋の舞楽を前回と同じ方で奉納して頂きたい」との要請が名古屋大教会を通じてありました。
 前回は五年前の開教百十周年の式年大祭時に、誠真分教会所属の吉村文男講義の次女、当時小二の麻早余ちゃん(現在小六)と、同じく上松志津恵講義の長女、当時小四の由佳ちゃん(現在中二)の二人が大教殿の大神祠にて「君が代」と「姫小松」の二つの舞楽を奉納しました。
 名古屋大教会では、春秋の大祭の折、舞楽の奉納が恒例となっています。

 その歴史は古く、昭和七年の教会設立に際し、「君が代」と「姫小松」の舞楽を八雲琴の師範より習い始め、祭事に奉納されるようになりました。初代は(故)名古屋大教会開祖横江信太郎先生の長女の横江秋子さん(当時十歳)で、戦争で本殿焼失期間中は出来なかったものの、約七十年の時を経て今日まで受け継がれてきました。年齢制限は特にありませんが、装束サイズや習得度により小四から小六を目安に代々先輩方より受け継がれています。

 今回の要請を受け、四月の式年大祭時に舞楽奉納が決まったと聞いた二人は「もう二度と本院での奉納はないと思っていたので、今回の記念すべき大祭に再び出来ると聞いた時は自分の耳を疑ってしまう程驚きました。とても嬉しく喜びの気持ちで一杯です」と少し年上の由佳ちゃん。一方、今春中学入学を控えた麻早余ちゃんは「また本院で踊る事が出来るなんて、とても嬉しいです」と二人とも喜びに満ちています。
 前回は、大教殿において大変緊張した中での奉納と、いとこ同士(母親同士が姉妹)のペアで奉納出来た事が印象に残っているようです。
 それぞれ学生の二人は、名古屋大教会春秋の大祭の前日に、伊藤月子先生(開祖信太郎先生の次女で現在は北勢教会長夫人)より指導を受け巫子舞の練習を重ねています。現在は四月の本番に向けて、誠真分教会の月例祭時にも練習をしていきたいと意欲を見せています。
 こうした二人の意欲の影には、神理未来委員長の横江春太郎先生の「感謝についてのお話」が影響していました。
 日々のどんな出来事に対しても感謝の気持ちを忘れずに、との春太郎先生の教えを胸に感謝の気持ちで踊りたいと語ってくれました。
 四月の奉納に向けて「なかなか遠くて帰院する事が出来ないけど、今回のお話を頂き、帰らせて頂けるという事、また親神様から素晴らしい機会を与えて頂けた事に感謝しています」と由佳ちゃん。麻早余ちゃんは「ちゃんと踊れるかどうか心配だけど、神様とたくさんの人に見てもらうから綺麗に踊りたい」と今からやる気充分で巫子舞奉納に臨むようです。
 神様の大みこころを和んで頂くために舞う巫子舞。二人の心が込められた巫子舞を、ぜひとも一人でも多くの教信徒の皆様に本院にてご覧頂きたいと思います。
 「歴史ある古きよき教えを新しい時代へ」のキャッチコピーのように、この歴史ある代々続いてきた舞楽が、これからも受け継がれ守り伝えられて行く事を願いたいと思います。


年越祭、盛大に!                                             福山教会 小林  隆


 去る二月一日(日)、福山教会恒例の年越祭(節分)が厳修されました。現場から詳細について報告致します。
 前日の土曜日朝八時半、二階の拝殿に総勢五十名を超す奉仕者が集合。御神拝の後に奉仕が始まります。教師は神殿内の清掃、神饌物や榊の準備、紙垂切。青年部や婦人部は教会内や外回りの清掃、昼食の用意。そして豆撒きの準備。これが一番大変です。約七千枚のナイロン袋に豆、アラレ、ピーナッツ、小餅を根気良く詰めていきます。
 袋の中には約七百本の「当たりくじ」が入っています。「鯛」「御神酒(一升瓶)」「重ね餅」「パイナップル」など盛りだくさん。夕方にやっと袋詰めが終わります。
 二階の拝殿では「善男善女」の席が紅白の幕や壁白で作られていきます。年越祭では厄年祓いを希望される方を全員(約五百名)読み上げますから、担当の教師四名が分担して、読み上げの練習です。練習を終えれば、時計の針は夜十時を廻っています。
 二月一日午後一時半。年越祭が始まります。二階拝殿には楽人、典礼を含め二十名の祭官。三階の神殿前には八名の祭官。参拝者は四百名近くおります。「清祓い」「大祓い」「祓い行事」と祭典は進みます。そして、野島慎一郎副教会長斎主により「厄年祓い」の祝詞が厳粛に読み上げられます。読み上げ補佐の祭官四名も斎主の後ろで、順番に住所、氏名、年齢を心を込めて読み上げます。参拝者は身動きもせず、じっと聞き入っています。
 そして、全員で「祈念詞」奏上。
 斎主玉串拝礼の後に、白衣や御身衣を着けた「善男善女」二十六名が、斎主から金幣によるお祓いを受けた後に式殿へ上がり、玉串拝礼。そして、教会長から特別に祈念していただいた「御守」を一人ずつ戴きます。二月生まれの方の玉串拝礼も終わり、「両段再拝」。
 さあ「豆撒き」が始まります。二階と三階で「北、南、東、西、中央」に祭官が大きな声で「鬼は外。鬼は外。鬼は外。福は内。福は内。福は内」と豆を撒きます。そして善男善女や他の祭官が手に持った三方から、一斉に豆や小餅を参拝者に投げていきます。
 お年寄りから子供まで、我を忘れて豆や小餅などを拾います。本院での餅撒き程ではありませんが、あちこちから歓声や嬌声が会場に響き渡り、楽しい雰囲気を醸し出しております。
 景品交換所では長蛇の列が出来、当たりくじを持った参拝者はみんなニコニコ。鯛や御神酒などと交換しております。
 その頃、三階では婦人部特製のぜんざいが振舞われます。お餅が入っているので美味しさ倍増。中には三杯もお代りをする人もいます。
 こうして「年越祭」は幕をおろします。教師や青年部、婦人部の皆様、お疲れ様でした。そして、ご協力どうもありがとうございました。
 参拝者の笑顔が疲れを吹き飛ばしてくれます。来年も、もっと多くの参拝者が元気にお参りすることを祈念しております。



紹介

岩野 昭二さん(78歳)
いわ の   しょう じ

北九州市小倉南区徳力


 毎年、暮れになると本院の正門と大教殿前を飾る門松を作るメンバーのお一人です(詳細は神理二月号に掲載)。「七、八年前から門松作りのお手伝いをしていますが、行く年来る年の感慨を新たに、身の引き締まる思いです」。昨年までは堀越の総代 下川さんの竹林から切り出していましたが、今年の竹は本院の徳力山から切り出し、松と梅は近隣の信徒さんが奉仕で寄贈されました。

「門松は後方から松竹梅とたてに並ぶのが本来の姿ではないかと言われていますが、松を竹の後ろに置くと、見た目が悪く格好がとれないので、人が見た時、格好良く見えるよう、松を竹の前に出しました」と門松作りへの思い入れを語る岩野さんです。

「竹は節を七・三か六・四位になるよう調整して斜めに切ります。正面から見て、大笑いではなく微笑んでいる様に見える角度に決めるのが望ましい」と。また、くぐる人の身を祓い清めるという茅の輪になぞらえて、二対の門松の間に立てた竹製鳥居も立元先生と共同で制作しました。笠木の下の貫の太さを、柱の太さより少し細めにして、横に貫通しているように見せるのがひと苦労です。

 五十九歳から始めたという詩吟は、プロ級と評判です。九州の代表として出場した全国大会では二回入賞。テイチクの準専属という自慢ののどは、一月の成人祭・寿祭でも披露されました。「門松作りも詩吟も誠心誠意。わたしが今こうしておられるのも、ご先祖様のお陰と感謝しています」と、ますます元気な岩野さん。熱い胸のうち、まだ青年そのものといった感じです。


「百瀬ミュージックだより」42    代表 百瀬由の


◎日野原重明氏のお話シリーズ(6)
 昨年九月から「新老人の会」を提唱し、老いても輝いて生きるという生き方を実践しようと、今でも医療現場の第一線にたって活躍されている日野原重明氏のお話を、シリーズでお伝えしています。
 身の程を知ることが、幸せへの近道
 「希望」はあまり多くを望みません。いわゆる身のほどを知ったうえで望むのが希望というものですから、希望はほどほどのところで満足することを知っています。いまあるもの、あることに感謝し、「その半分でも満足です」と言える控えめさをもっています。それでいて、どんなに小さな希望も、十分にしあわせを与えてくれます。
 同じ「望む」というのでも、ないものを無理にでも手に入れようとする「願望」とは大ちがいです。
 「願望」は欲深で貧欲なのです。子どもを一流の大学に入れたい、一流の会社に入れたい、金持ちになりたいと、願望は際限なくふくらみます。
 しかし、自分や子どもの能力を顧みずに高みを望んだところで、所詮むなしい望みに終わるものです。その非を自分に求めようとはせず、あの人がこうしたから出来なかったと人を憎み、あるいは社会を呪う。こうして心はすさむばかりです。
 病や事故、災難に見舞われても、あるいは人と比べて能力や財力が劣っていても、自分に与えられた現実を受け入れることができたなら、それはなかば希望を手に入れたようなものです。身のほどを知ることは、希望を手にする第一歩なのです。
 私たちは、願望の中に生きるのではなく、希望の中に生きたいものです。なぜなら、幸福はそこにあるからです。

◎今年のお正月明けは近年にない大雪で大変でした。皆さんは如何でしたでしょうか。お伺い申し上げます。そして一月のサロンもちょうどご不幸が重なって中止いたしました。皆さん日頃の健康にはくれぐれもご留意の上、楽しい毎日をお過ごしください。
 もうじき四月の大祭がやってきます。今年は独立百十周年とお伺いしていますが、私たちもこの大祭でフリーマーケットを開く予定にしています。またお世話になります。よろしくご支援ください。
(以下、次号に続く)



                             あ  と  が  き


三月の年中行事として、三日の雛祭りと二十日の春分の日があります。
 終戦前にはこの日は、九月の秋分の日と併せて春・秋皇霊祭が行われる日として、国の祭日であったので、神道的神祭りとして現在よりは一般の人々にも浸透していたと思われますが、現在の私たちは、皇霊祭という行事とは縁のない、単なる春分の日として迎えています。宗教的行事としては、お彼岸と呼ばれる仏教の行事としての方がなじみが深く、この日には多くの人がお寺に詣でて、先祖の墓参りを行います。
お彼岸という言葉は、暑さ寒さも彼岸までという諺にもなっているように、仏教の行事として定着しています。仏教では、生死の苦しみに迷っている現世を此岸とするのに対して、悟った涅槃の境地を彼岸といいます。

 仏教が渡来する以前から我が国にあった宗教を、神道とか神ながらの道といいます。この三月二十日の春分の日にも我が国には、昔からの信仰の形式があったのです。

 三日の雛祭りと春分の日の行事は一見、無関係に見えますが、二つともある共通点を持った神祭りです。その共通する所は、五穀豊穣を願ったということなのです。農事は旧暦の三月頃からはじまります。雛祭りは鳥取県地方の流し雛が最も古いありさまを伝えるものとされ、その要点は祓い清めです。要するに神聖な田に入る前に心身を清めるためのもので、大祓・大星祭(節分祭)と同じ種類のものだったのです。

 一方二十日頃の春分の日を中心とした民間行事として山参りがあるそうです。熊本県の阿蘇山地方では、彼岸こもりといって、春秋に必ず登山する風習があり、鹿児島県出水郡にも山参りの行事があったそうです。こもりは祭りを意味するものです。ふるい時代の農民の心の中にあった田の神は、春になると山から田に降りてきて、秋の収穫とともに又、山に帰って行くと考えていました。
そして自分たちの祖先の霊も、人里離れた山あるいは海のかなたに居るものと考え、何か困ったことがあると、そこから私たちのところに帰ってきて助けてくれると信じていたのです。それで田の神は、祖先の霊と密接な関係があり、山参りの風習は、稲の豊作を願うために、田の神と祖霊を迎えるためのものとされているのです。
 二十日は、二十四節気のひとつ、春分です。
春をまんなかで前後に二つに分ける日です。昼と夜の長さがおなじになる日で、太陽が真西に沈みます。この日は、自然をたたえ、生物をいつくしむ日とされています。本院では、午前十一時より春の祖霊祭が大教殿で執り行なわれます。
 
                                   (誠)