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神理

平成15年9月号 第1075号

        

巻  頭 の こ と ば

人の元は親である。親の元は先祖である。
私たちの根として、しっかりと私たちを支えている。
私たちが先祖祭りをするのは、
単に御霊を慰めるのではない。
根の働きを促すためなのである。
先祖祭りは、太陽と水である。
さらに根を張り伸ばし、支えを強固にしたい。

                かんなぎべ  たけひこ
  神理教管長   巫部  健彦
     おこた         かて   もと
   怠らず 心の糧を 求めなば
                    まもり    そ    ま
            神の守護や 添ひ増さるらむ
 我々人間には、心の働きと体の働きの二つの面があると言われています。尤も、この二つの働きは、凡そ相互に関連しあって一つの表現を示すのが普通であり又、近年では、一方の働きの不健全が、他方の働きの不健全を招く点も実証されている様であります。
 それにしても、『体』が生き続ける為には、食糧が不可欠であります。更に『体』が健全に生き続ける為には、食糧=カテ=を口にするだけではなく、『体』そのものが適当に動きまわるという状態でなければならぬ、という条件も不可欠と考えられます。
 この様な二つの条件は、『心』についても、通じ合うものがあると思われます。即ち『心』の働きが衰退途絶しない為には『心の糧』が不可欠であり、『心』の働きが充実伸展し続けるためには不断の心遣いが不可欠!という事になる様であります。
 近年は、日本人の体質や体力に変化が生じている、と言われております。食糧事情や生活環境の大幅で急激な変化に因り、従来は適度に調整していた『体の糧』に過不足が生じた結果であり、これに気付いての対処や努力が次第に講じられる事になってきました。
 この様な家庭を含む大幅で急激な生活環境の変化は、『体の糧』だけではなく『心の糧』の調和も狂わせる事になっている訳ですが、『心』については『体』の様には知覚しがたい為、対処や努力が疎かな状態を続けている、と申せるように見受けられます。
 言わば、容易に知覚できるだけに、衣食住に視野を限った『体の糧』にばかり関心が傾きすぎた結果だとも思われますし、それがバブルを生みバブル崩壊を招き、更に従来には見られなかった非人間的で凶悪異様な犯罪の続出!を導いていると考えられます。
 つまり、仮に『体の糧』を適宜に得て体調は健全であるとしても、欠かさずに『心の糧』を得ない限り、平穏な日々や明るい展望は得がたい訳であります。我々としては、その『心の糧』を豊かなものにするためには、神↓魂↓心という繋がりを大事にせねばならぬ点に思い及び、欠かさず御神護を仰ぐ日々を持つ事に務めたいものであります。
                                             

9月号

自然(おのずから)(みち)

  (さち) (ひこ)

0次(ゼロじ)予防(よぼう)

 この(げん)稿(こう)()いているのは八(がつ)(しょ)(じゅん)(りっ)(しゅう)八日(ようか))も(ちか)いとはいえ、(つゆ)雨が(おわ)(せみ)(こえ)()(ひび)(あつ)さの(さか)んな()()です。

 (どく)(しゃ)がこの(しん)()()()にされる九(がつ)もまだまだ(ざん)(しょ)(つづ)いている(こと)でしょうが、(こころ)(からだ)(けん)(こう)(やく)()てばとパソコンを(たた)いています。

 (ことし)年の(しょう)(がつ)(どう)(そう)(かい)(やく)三十(ねん)()りに()った(こう)(こう)()(だい)友人(ゆうじん)が、立派(りっぱ)医師(いし)になっていました。

 (はかせ)()(てい)へと(すす)み、()(りょう)(げん)()である(りん)(しょう)()(のち)(けん)(さん)して、専門医(せんもんい)()(かく)()ったとのことで、(いま)(けん)(こう)(しん)(だん)(かい)(しゃ)()(しき)(ぞく)しています。

 (ほん)(にん)(こと)()()りると、(いま)()(ごと)は、(おな)()(しゃ)でありながら()(りょう)(なり)(わい)とする医者(いしゃ)(てき)のような役割(やくわり)だ」ということです。それは、()(ぶん)(おこな)っている(ぎょう)()(すす)んでゆけば健康(けんこう)(ひと)()え、(びょう)(いん)()かる(ひと)(すく)なくなり、()(しゃ)()(ごと)(うば)(こと)になる」ということのようです。

 

 (ゆう)(じん)(ひっ)(しゃ)に、

(いま)(にん)(げん)(さん)(だい)習慣(しゅうかん)生活病(せいかつびょう)はガンと心筋(しんきん)梗塞(こうそく)脳卒中(のうそっちゅう)だけれども、四(ばん)()(とう)(けい)()ていない()(いん)()っているか」と()います。知らないと答えると、(やく)(がい)だよ。

 (かん)(じゃ)()(しゃ)()うとおりに(くすり)()んでいるが、まじめに(ぜん)()()んでしまうのは(かんが)えものだよ。

 ()(しゃ)というものは(かん)(じゃ)(うった)えれば(うった)えるほど(くすり)()すし、(ねん)()れて(すこ)(おお)めに(くすり)をくれるものだが、(なか)にはそれが()(えき)になるので(ひつ)(よう)()(じょう)()(もの)もいる。

 それは(かん)(じゃ)医者(いしゃ)過信(かしん)したり、(びょう)(いん)(なん)()(かよ)うのを(めん)(どう)がって(くすり)(おお)にもらう(こと)()(ぼう)することにも原因(げんいん)があるけれど、それを(ぜん)()()むことが()(ぶん)()()(はや)めている(こと)にも()()くべきだ。

 (たと)えば()()(ぐすり)()めば()(いた)めるので()(ぐすり)(いっ)(しょ)()すし、そうした(ふく)(さく)(よう)(おさ)える(くすり)を、(ほん)(らい)(もく)(てき)()(がい)(なか)には(じゅう)数種(すうしゅ)()まされていることもある。

 アメリカの()(そう)をしない()(いき)では、()(たい)(せい)(ぜん)(たい)(りょう)()んだ(くすり)(えい)(きょう)(くさ)ない、ということが()きているらしいよ。

いくら(びょう)()(なお)すためでもそんなに(くすり)()んで()いわけがなく、四(ばん)()()(いん)というのはそのくらい(くすり)()んでいる(こと)(げん)(いん)だ」というのでした。

 

 さらに、「病気(びょうき)原因(げんいん)の90%()(じょう)(いま)(かい)(めい)されていて、その(げん)(いん)(かっ)(せい)(さん)()であり、これが(からだ)()わば()びさせているのだ。

そしてその(かっ)(せい)(さん)()(げん)(いん)は、過剰(かじょう)(くすり)であり普段(ふだん)食生活(しょくせいかつ)でありストレスである」というのです。

活性(かっせい)というからに何か(なにか)元気(げんき)()るイメージを()ちコレステロールの(ぜん)(だま)などを(れん)(そう)し、()いものと(おも)っていたのですがそれは()(ちが)いのようです。

 健康(けんこう)診断(しんだん)のレントゲンもその(げん)(いん)(ひと)つであり、()(とう)()などは(からだ)()(たん)(あた)える(さい)たるものだ、という(はなし)()いて(おどろ)いてしまいました。

 (さん)(だい)生活(せいかつ)習慣病(しゅうかんびょう)などに(かか)ると、よほど(うん)でも()くない(かぎ)(もと)(からだ)には(もど)りにくいものだから、まずそうした(びょう)()にならないように(かっ)(せい)(さん)()()をつけねばならない、ということでした。

 どうすれば(かっ)(せい)(さん)()()らずに()むかという(ほう)(ほう)(ひと)つに、()(きゅう)()げていました。

 ある研究者(けんきゅうしゃ)()()()ねずみの(いっ)(しょう)()(きゅう)(かい)(すう)調(しら)べたところ、(やく)(おく)(かい)ということが()かったそうです。

 そこで(ひっ)(しゃ)()うのに、(ぞう)は((いっ)(しょう)(うち)に)(なん)(かい)()(きゅう)する)と(おも)う?」というのに、「さあ、(おな)じくらい?」と()くと、「()たり!」だということです。

 (おな)呼吸数(こきゅうすう)二十日(はつか)ねずみは数週間(すうしゅうかん)(ぞう)数十年(すうじゅうねん)()きるというのです。

 (しん)()(きょう)()(きょう)()は、(めい)()()(だい)(しょく)(ぎょう)である(じん)(りき)(しゃ)(しゃ)()(かわ)()使(つか)って()(すす)(せん)(どう)(くら)べています。

すなわち(おな)(にん)(げん)でも、ゆっくり(なが)(いき)をする(せん)(どう)(ほう)が、(はげ)しく(みじか)(いき)をする(しゃ)()(くら)(なが)()きだと()われています。

 そこで(ほん)(きょう)(ちょう)()(きゅう)(ほう)(“はじめての(しん)()(きょう)”に()(さい))が()かされる(こと)(げん)(だい)()(がく)にも(つう)(よう)すると(かく)(にん)()()、とても(うれ)しく(おも)いました。

 (ちょう)()(きゅう)(ほう)()(だん)から(おこな)(こと)により()(きゅう)がゆったりとなり、(おこ)って(はや)()(きゅう)をする(こと)があってもおさまりやすく、(おこ)りにくい(ストレスの少ない)(にん)(げん)(せい)()()るのです。

 また(ゆう)(じん)(はな)すのに、(げん)(だい)()(りょう)は、(けっ)()である(びょう)()症状(しょうじょう)(おさ)()()(なお)すという対処(たいしょ)療法(りょうほう)だが、()(ぶん)()(ごと)はその(びょう)()(おお)きくなる(まえ)(さっ)()する、という()()()(ぼう)だ。

 でも、()(ぶん)(たち)()()(ほん)(とう)()()すところは、()(だん)のストレスを()けにくくする(せい)(しん)(てき)(かん)(きょう)(せい)()(しょく)(せい)(かつ)についての()(どう)だと(おも)う。

 ()わば(いち)()()(ぼう)()(ごと)をするべきだ」と()います。

 (けっ)()(つくろ)うのではなく(びょう)()(げん)(いん)をなくそうという、なかなか(ゆめ)のある()(ごと)だといえます。

 

 そこで(ひっ)(しゃ)(おも)うのは、(しゅう)(きょう)(しん)(こう)(ほん)(らい)(なん)だろうということです。

 ()(きょう)()(しん)(こう)には、(じょう)(こん)(ちゅう)(こん)()(こん)(しん)(こう)があると(おし)えられています。

 やはり(わたし)(たち)(こま)った(こと)があって、(びょう)()(かい)(ふく)(せい)(しん)(てき)(あん)(てい)(もと)めて(しん)(こう)(はい)るという、いわゆる()(こん)(しん)(こう)()(つう)です。

 しかしそれは(しん)()(みちび)きともいえることで(けっ)して()じる(こと)ではなく、(もん)(だい)はその()()(かた)(こころ)()(かた)だといえます。

 ()(こん)(しん)(こう)(かみ)()(せん)のお()らせと()()め、(こま)った(こと)がなくとも()()とご(せん)()(れい)(こん)(あん)(てい)(いの)(ちゅう)(こん)、また()為人(ためひと)(ため)(いの)(じょう)(こん)へと(しん)(こう)(ふか)めて()こうという()()ちが(たい)(せつ)です。

 

 ()(じん)(じゅつ)といいながら、ここに()(りょう)(しん)(こう)(なら)べ、(びょう)()()(たい)(かか)らない(いち)()()(ぼう)(じょう)(こん)(しん)(こう)とを(くら)べると、(ひっ)(しゃ)はその(ちが)いを(かん)じます。

 ()(がく)にもより(ふか)(しん)(りょう)(ない)()という(ぶん)()があり、そうした(けん)()からのストレスへの()(ぼう)、また(しょく)(せい)(かつ)()(なお)()という(いち)()()(ぼう)(かんが)(がた)()()らしいものです。

 では(じょう)(こん)(しん)(こう)とは(なに)かというと、そうした(せい)(しん)(ぶん)()など()には()えなくても()(がく)(てき)(たし)かめられること()(ぜん)に、()きている(よろこ)びがどこからくるか、どうすればその(こん)(げん)からの(とく)()()める(こと)()()るか、ということなのです。

 ()きている(けん)()(かい)をのみ見ようとするのではなく、()きている(おや)()()()また(ゆう)()(かい)である()(せん)()()(まも)りを()(しき)するところに()(がく)との(ちが)いがあります。

 ()(がく)()(ぼう)(げん)(てん)(いち)()()(ぼう)とするならば、(じょう)(こん)(しん)(こう)(ゼロ)()()(ぼう)だと()えますし、(わたし)(たち)はここを()(しき)して(いの)(くす)れの(まい)(にち)()ごしたいものです。


    

            管長様が解説する御教祖の御歌/『人道百首』より

          わが心 即ち神の 心なり

               この神の身を 救ひたすけよ


 神の御意志が働いて、その分霊が活動し始めることにより人間が誕生する!!というのが、神理教の信仰の基本であると申せます。
 人体=カラダ=はキ・アリ・ドコロの意、すなわち神の分霊=分霊としての神=が在します所という意味合いの言葉とされております。
 つまり、われわれの先祖は、カラダという言葉を使い始めた時、その肉体には神霊が鎮まっていると受け止めていたことになります。
 神理教の信仰は、そうした古く遠い時代の先祖から受け継がれたものを正しく受け継いでいる、とも申すことができそうであります。

 本教では、生命誕生の神理に基づき、生まれながらに鎮まります神霊は天在諸神!!としております。
 申すまでもなく、この天在諸神は創造化育の根源をつかさどる神であり、その分霊としての魂は、それに近い力を持つということになります。
 すなわち、われわれ人間の魂も、たとえば新しい細胞をつくったり新陳代謝を行ったりなど、いわゆる創造化育を現に行っている!!と見ることができるわけであります。
 そして、われわれの心は?ということになりますと、ひとすじに安定して生成発展をはかられる御神意とは懸け離れた面のあることが、思い合わされます。
 たとえば、自己保全は生物一般の本能!!とも言われていますが、人間の心は度を超えて他を犠牲とする行為までたくらむことさえ仕出かすほどであります。
 世知がらい世の中を作り出したのも人の心と申せますし、それゆえのこともあって不安定に揺れやまない現況も、神の心とは似もつかぬ所と考えられます。
 しかし、『神の心』の対比として考えられるのは『魂の心』ということになりますし、そうだとすれば、必ずしも遠く懸け離れているとは断じがたいことになるようであります。
 ややもすれば懸け離れることとなりかねぬ側面はあるものの、『神の心』と『魂の心』=わが心は、その根本においては同じ!!と考えることができるからであります。
 冒頭の御教歌は、そうした点を踏まえ、わが心の本来の在り方を問いただすことにより、神の子らしい仕合わせを取り戻すように!!と教示されたものと思われます。
 われわれとしては、不安や不幸の原因が、神の心から遠ざかる我が心の在り方にもかかわっている!!という視点からの反省を忘れてはならないのではありますまいか。
 取り越し苦労!!という言葉もあるほど、我が心がみずから不安や不幸を呼び招く事例が少なくないわけで、われわれとしては、それが拡大せぬよう用心せねばなりません。
 我が心と神の心との距離がなくなることはないとしても、どれほど隔たりがあるか?を問い直す中で、神の子としての安らぎを失わぬことにならねばならぬと思います。

    幸福への出発   光陽教会 中山 勇

     第18集  夫婦としての立場

 人間の生涯の幸せは夫婦の中に有ります。熱烈な恋愛で結ばれた夫婦でも恋愛の延長のままでは生活は出来ません。生活という現実の中で個人としてのお互いに持って生まれた性格と体質があります。恋愛中の空想的な生活設計や夢は実際の現実とはかなりの違いが有るものです。夫婦だけの生活でも現実は仕事上のお付き合いや近所や両方の親と兄弟の日常的なお付き合い(トラブル)等が次から次へと起こって来るのでなかなか思い道理には行かないものなのです。まして両親や年頃の兄弟がいる長男の家に嫁げば、精神的な負担と肉体的な負担は想像以上なのです。しかも両親と同居する嫁は家庭の中では何をしても当り前で誰からも感謝される事は少ないのです。周りの家族は皆監督の立場で一挙一動を見ているのです。これが昔から続いている長男の家庭なのです。最近は経済的な環境から、かなり嫁としての立場が良くなってきました。長男でも都会では親との別世帯の家庭が普通に成りつつあります。二世帯住宅でもアンケート調査では完全な別居を望んだ意見がほとんどです。娘の親としては長男には嫁にやりたくないのですが、自分の息子には嫁さんに来てほしいのです。潜在意識の中に娘は可愛いが嫁は別という親の立場で判断をしているのです。夫婦としての生活も、現実には貧乏はしたくないし人並みの生活が必要なので、お金に執着する気持ちと甘えが強くあります。その上に欲望が重なり、夫婦の生活もお金や人とのお付き合い等のトラブルの可能性を数多く含んでいるのです。最近ではこの様な煩わしい結婚を嫌って、子供は産まずに同棲生活をただ楽しむだけに利用している若い人が増えているのも悲しい現実です。夫婦の幸せは会話の中に有ります。会話が続くことが愛情の第一歩です。愛が薄くなれば会話も短くなってきます。この辺から少しずつストレスが溜まる様になります。会話が無くなれば心の行き違いが始まり、言葉もだんだんきつくなり色々なトラブルに自分の方からのめり込んで行くことが多くなります。結果として酒・ギャンブル・浮気などの原因をつくり、家庭内での夫婦の精神的別居生活に移行して、そのままずるずると生活をして行くケースもかなり有るのです。
 夫婦は元々他人からの始まりなのですから、夫は夫として、男として、父親としての自立と精神的に大人に成る事が必要です。妻は妻として、女として、母としての自立と優しさと思いやりと、お互いに相手の気持ちを考える必要が有ります。夫婦が自立できれば「何事に対しても聞き上手・話し上手」で、夫婦の愛情と信頼が高まり、神の救いと先祖の守りが大きくなって、幸せの家庭に神の子として子宝を授かり、前途に大きな光が見えてくるのです。人は全て過去の原因が現在の自分を創っているので「自分が選んで夫婦で歩いてきた道」なのです。良くても悪くても全て自分の責任の範囲の中なのです。もし夫婦仲が悪いのなら、決して相手が悪いのではなく自分の考えと行いが間違っていた為です。「間違いに気がついた其の時が幸福の始まりです。今からでも遅くないので考え方を神の道・人の道に照らして変えていこう」と敬神尊祖の信仰を実践して行けば罪の祓いと徳を積むことが出来て、夫婦の会話も「神の話を中心におき、色々な話に発展していけば」これが幸せになる方法の最短コースです。
 最近の世の中は犯罪の低年齢化が進み、子供が被害者になる事件(特に女の子)が数多くニュースに成っています。子供の行方不明の場合は悲惨な結果がほとんどです。加害者の人間としての道徳の欠如が原因で加害者の両親の責任は重大です。家庭環境は夫婦で築くものですから「夫婦がうまくいかない家庭は、子供の心の育つ環境が悪いので、子供が家庭崩壊の引き金になるのです」被害者にも又加害者にもどこか共通した罪の因縁が有るから悲しい事件の結果に涙するのです。事件(誘拐・強盗や引ったくり等)・事故(交通事故や家庭内の事故)が起こる原因は複合的で神・幽・現と三つの原因(罪の祓いで相手・自分・時間)が加害者と被害者にあるから原因の一致した時間帯に発生しているのです。むごい事ですが、やはり神の清濁を分ける働きの中で起こっているのです。最近の日本では密入国した外国人が強盗や殺人と強姦等の凶悪な事件も物凄く増えています。今の日本は安全では有りません。「安全は自分で守る自己意識」を家庭皆でよく話し合って自覚する事が急がれます。窃盗や引ったくり等の事件や事故に合った人は「まさか自分が事件に合うとは思っていなかった」と言います。どのマスコミも注意しなさいと呼び掛けているけれど、ほとんどの人が「自分は特別だから大丈夫」と思っているのです。「日本人の無防備が安全の神話を崩した」と言われているのです。特にこれから先の世の中は想像が出来ません。小さな子供を持つ親達は自衛で子供を守り育てる家庭環境を急いで作る必要があります。最近では一緒に生活している家庭の中でもマンションの窓から転落したり風呂で溺れたり物を飲み込んだり等の事故は起こります。しかし冷静によく考えてみれば、家族の安全は目で見えない何かの強い力で守られているのです。信仰が有る無しにかかわらず、誰でも先祖が守護霊になって守っているのです。しかし守りは徳を使っているので、やがて徳が少なくなれば守りも少なくなります。結果として事件や事故に巻き込まれるのです。親が徳を積む(補給)する必要が有ります。罪の祓いと徳を積む神理教(敬神尊祖)の信仰が大切なのです。これからの時代は「家族の安全を守るためには神の救いと先祖の守り」が不可欠です。夫婦の責任は正しい信仰の実践で「子供のしつけは心を育てる事」なのです。幸福の原点は夫婦です。夫婦には「神の子を誕生させる神の使命」が有るので、神は夫婦に「幸せと元気の元の愛情を授けている」のです。夫婦の愛の中には「次の時代の幸せを約束する神の子を育てるための環境を」神はいつも創造されているのです。自分の明日は良くも悪くも子供の手の中にあります。
☆★☆ 素朴な疑問 ★☆★
     
 Q & A

Q1、人生一寸先は闇といいますが、どういうことですか?

A、 僅か一寸先は何が起るか人の力では全くと言ってよいほど予測することができないからです。人は自分の力の限界を自覚し、その限界の彼方は神のものであることを何につけても心しなければなりません。その心が神力の導入に働くのです。
 神の生かす力は、それは感得する人の、その感得の中から生じてくるのです。

Q2、神理教の教師が高額の薬や指輪を信者に売ってよいでしょうか?

A、 本院で売薬会社や指輪の会社等と契約でもされて売ってよいとの事であれば教会(分教会等含む)でも売れますが、そんな通知はありません。また御守りや御札、神札等一切は本院で謹作されて、教師はそれを必要に応じてお受けすることになっています。自分で作るのは違反ですから出来ません。神理霊感と言います。霊感者も教義を学ぶことが大切です。

    
     *** 神 理 ツ コ ***


田中 千晶(たなかちあき)さん 
京都市右京区下鴨北 小6年 12歳

右から 祖母の保江さん
千晶さん
妹の祐衣さん
母親の末利加さん

 ものおじせず、だれとでも親しみ、みんなにやさしいという小学六年生。学校の課外授業で訪ねた老人ホームでは、お年寄りたちと積極的にお話をするそうです。
 「祖父母といっしょに住んでいますので、お年寄りとの会話には慣れているんでしょうね」と母親の末利加さん。核家族が多いなかで、千晶さんのような子供が少なくなっているのもたしかですが、担任の先生にも「今どき珍しい子供」と映るようです。
 祖父は神理教洛北教会の教会長です。幼いころから神前に参拝する習慣が身について、「神さまにお参りすると、気持ちが落ち着きます」と千晶さん。教会の行事にも自分からすすんでお手伝いするとか。本院での夏季講習会にも毎年のように参加しています。
 幼稚園のときから習っているスリガネも上達しました。「講習会にきて、スリガネをやらせてもらうのが楽しみです。それにいろいろな人のお話を聞いて、玉串の渡し方や足の運びなど儀式のことを教えてもらいました」と、目を輝かせる千晶さんです。
 得意な科目は家庭科と理科。日曜日には学校で習った卵料理を作ります。お母さんの末利加さんは「妹の祐衣(小学2年生)とふたりで、台所に立ってわいわい楽しそうにやってます。ゆで卵やオムライスを作っていますが、メニューが増えるとわたしも大助かりなんですが」。そういえば、夏期講習会で食事のあいさつをしたのは、妹の祐衣さんでしたね。はっきりと大きな声でリードした祐衣さんを、講習会に参加した方は覚えていらっしゃるでしょう。
 「理科は実験が好きです」という千晶さん。親戚の農家で田植えや稲刈りのお手伝いをします。「耕運機にも乗ったりして、生き生きとしています。畔道や小川で小動物を見つけては、走り回っていますので、理科の実験が好きなのは分かりますね」と末利加さん。
 お話を聞いていると、大家族のなかですくすくと育っている自然児という、ずいぶん昔にはこのような子供がたくさんいたように思いますが、じつは来春には中学校の受験をひかえた現代っ子でもあります。「学校の宿題は学校ですませ、家では塾の宿題で忙しい」という勉強家。学習塾は週に四日通い、ほかにバドミントンとスイミングもやっているそうです。また、趣味のビーズでお母さんや妹にネックレスや腕輪を作ってあげるとか。
 「姉妹とも病気をするひまもないぐらい健康で素直に育ってくれているのがうれしいですね。あとは心も丈夫に育ってほしい」というのが大家族の皆さんの願いです。
 将来について末利加さんは「信仰のことはまだよく理解できないでしょうが、教会を継ぎたいと思っているようです。これから少しずつ勉強して、その気になれば、祖父は喜ぶでしょうね」

●取材を終えて
 夏期講習会の帰りに取材しました。四日間の疲れも見せずに元気いっぱいに答えていただきありがとうございました。楽しい夏休みを過ごし、二学期も笑顔で頑張ってくださいね。
                          ◎○信仰とわたし◎○

広島市・福永教会 三角 康正 先生

 「自分は何のために生きているのか、何をしなければいけないのか。そうしたことを心に持って行動する。それが信仰の原点ではないでしょうか」という福永教会の三角康正先生。
 義父は福永教会の三角清三教会長で、本院の祠官を務める神理教の長老です。三角教会長は大正八年に農家の長男として生まれ、厳しい農作業に大変苦労されたそうです。後年は広島市で大衆食堂を営むかたわら整体師となりましたが、人に騙されたりと続く苦労を見かねた清三さんの姉が、ご縁のあった神理教の入教を勧めました。そして、福岡県の高良大社奥の院の白髭大神が神憑りして、「人のため、世のために尽せ」との教えにより教会を設立しました。
 「私が結婚したころは、義父はまだ食堂をやっていました。神事を行うようになってからも、それは私とは別世界のことと思っていましたね」とサラリーマンだった康正先生は当時を振り返り、「入教の気もなく、ましてや入婿になるとは思いもよらないことでした」と。
 それから金縛りに遭ったり、首吊りの夢を見たり、また、幼い我が子を身を挺して交通事故から救った、その痛みが実母に表れたりと康正先生の身に不思議な現象が起こりはじめ、何か目に見えない力(神様の力?)があり得ると感じ信仰を決心します。
「妻が義父と私の間に立って苦労していましたし、義父が教会長として、いろいろな人たちの悩みを聞いて、それなりの結果を出していたのは知っていました。それなら自分も勉強してみよう」と本院の講習会に毎年参加し、青年部の活動などにも積極的に取り組むようになったそうです。かなり後に聞いた話では、その手のひらを返したような変り様に最も驚いたのが、奥さんだったそうです。
 「信仰とは、己をよく知ること。人は人のために、家族のために、世をよくする為に働くことです。また、互いに助け合っていく世の中をつくること。そこから感謝の心が芽生えると思います。そのためにも本教の教えから、自分はどうすればよいかという理を学びたいと考えています」
 康正先生が座右の銘にしているのが、次の御教祖の御歌です。
 現世は 神となるべき幽世の
 調べ所ぞ つつしめよ人
 「調べ所とは、神の道、人の道のことです。人は神から道を守ることを義務づけられ、神のお力添えをいただくために自ら行動しなくてはならないのです」と道の理を強調。「私は仕事上、外国人との折衝が多いのですが、やはり誠心誠意で当たれば相手も分かってくれます。トラブルも未然に防ぐことができます。国や人種や宗教が違っても、人の心は同じなのだと教えられました。これぞ神の道、人の道なのでしょうね」
 康正先生の長男、五十六さんも一昨年、教師の免状を取得して、後継者の道を歩んでいます。「息子の誕生予定日は五月十日前後ということだったのですが、義父が五月十六日に生まれるからと前もって命名していただき、その通りになりました。これも神の力でしょうか、息子は義父に似ているようです」
 「今まで申し上げたことは、義父である先生の教えによるものです。私はまだまだ未熟ではありますが、感謝の気持ちを忘れずに息子とともに、少しでも先生に近づきたい思っています」と義父である三角教会長をどんなときにも「先生」と呼んでいます。

【編集より】 現在、本教では後継者の不在が問題化して、本院や地方教会にもそうした悩みが寄せられています。また、入教していない人がいる家族関係の悩みなども多いようです。『神理』では、このような問題に対応するために、「信仰とわたし」と題して紹介していきたいと考えています。情報をお待ちしています。
***本 院 職 員 紹 介***  古川光正さん

 古川光正先生と神理教とのご縁は、生まれた時から始まります。というのも、お祖父様、お祖母様が大正時代の初めから神理教の教会をやっていて、教会の子として生まれたからです。「本当にありがたいご縁をいただいたと、今になって改めて祖父母に感謝しています」と、古川先生。
 古川先生が本院に勤めるようになったのは昨年の五月から。それまで、特に競争の激しい流通業界で定年を迎えるまで働いてきました。その間、平成四年には教師の免許を取得しています。
「人生の後半になって、神様の御元に帰れるように修行しなければと思って」と、本院とのご縁が始まった当時のことを振り返ります。
 しかし、変化の激しい業界から、歴史を重んじる宗教界へと、それこそ百八十度違う世界へ飛び込んできたのです。口にこそ出しませんが、かなりの戸惑いがあったに違いありません。実際、本院では神事一切に従事。掃き・拭き掃除、お墓の掃除から神事まで、すべてをこなします。それまでの、いわゆる「会社の偉い人」とは一転した生活が始まりましたが、古川先生は「私なりに一生懸命させていただいています」と一言。
「長年働いていた世界では常に、人に勝つこと、業績を上げることを要求されてきたはずです。そこでできた刺(とげ)のようなものを丸くするために、再び本院へ帰ってきたのだと、そういうふうに本人は悟っているのではないでしょうか」とは、他の職員の言葉です。
 古川先生自身も、「五十歳で教師の免許をいただきましたが、自分にとっては一番いい時期だったのではないかと思います。若くしていただく方もいますが、それはその人の持って生まれた使命です。私の場合は神様が時期を見計らってくださったのでしょう。『六十までは流通業界で世の中のことを勉強しなさい』ということだったのだと受け止めています」と言います。
 表現を変えるなら、競争の激しい流通業界で培ってきた自分なりのノウハウを持って、新しい風を吹き込むために本院へ帰ってきた、と言えるかもしれません。そんな古川先生は、本院の皆さんに対して、いろいろな意味でいい影響や刺激を与えているようです。
 古川先生のモットーは『実践・実行』。「御教祖も言われているように、何事もつとに(早く)!ということを心掛けています」。
 古川先生は教師の免許を取得した平成四年から、毎朝の御神拝に通い続けています。
「昔から朝は早いし、家が近いので」と言いますが、実は毎朝、御神拝が始まる最低三十分は前に来て、掃除や準備を行っているのです。昨年の三月からは奥様も一緒に通っているとか。
 「奥さんの存在は大きい」と、他の職員が横から一言。ちなみに奥様は五十歳で九州共立大学に入学して考古学や古代神道を学び、見事、卒業されたといいます。夫婦の間で、神理教の歴史のことも話題に上ったのではないでしょうか。
「神理教は素晴らしい教団だと思います。祝詞一つにしても、祝詞をあげさせていただいているうちに段々、その深さが分かってきました。まだ始まったばかりですね」
 祭式の作法を習得するために日々、頑張っている古川先生。たとえ六十歳から始めても、ここまでやれる! そんな良きお手本になっているのではないでしょうか。

 


                古事記「絵で見る解説文」

D伊邪那岐神は…
  ―― D挿絵の説明 ――
 火の神を生んだ為に伊邪那美の神を亡くした伊邪那岐の神は、たいそう悲しみましたが、いくら悲しんでも伊邪那美の神への思いはつのるばかりで忘れられませんでした。
 なんとしてでももう一度いとしい伊邪那美の神に会いたい、と思いつめられた伊邪那岐の神は、死者の国である黄泉へ女神を訪ねたのです。

*悲しみも神から戴いた感情で、それ自体は決して悪いものではありませんが、悲しみを忘れられず、そのことから心が離れられないのが罪です。
 近親者が亡くなれば嘆き悲しむのは当然の事ですが、遺族は亡くなった方に安心して頂く意味で少しでも早く気持ちを取り直し、また安定した精神・生活状態を保てるように心掛けることが大切です。
 その為に故人の霊祭をして、1、故人が死の自覚が出来・2、生前の罪を祓い・3、死後の役割(子孫を見守る=楽しみ)を知るように、大元の天在諸神に願い祈るのです。
 亡くなった近親者の霊魂に安心して頂きたければ、生きている者が悲しさを故人との楽しい思い出に変えて一生懸命に生きて幸せな姿を霊前に見せてあげる事です。
 自分達が幸せになりたければ、ご先祖の霊魂の安定を祈り私達を守る力を発揮して頂く事です。

 ご先祖は、私達の父母が私達へ思うのと同じく、また私達が自分の子どもへ思うのと同じく、無償の愛情を与える事が幸せでもあるのです。
 それはご先祖の大元の神も同じことです。

 怒りや悔しさなどいわゆる煩悩というのもこれと同じで、それ自体は悪いものではありませんが、そうした感情にとらわれる事が、罪であり穢れとなり、神からの気を受ける事が出来なくなるのです。
 それを解くのが祭り(神の前に連なる)であり、祓い(人の持つ本来の魂の光を顕す)なのです。

 その意味で、ここでは人類の元のご先祖である伊邪那美の神の考え方や行動は一つの罪であることを、この古事記で教えられているのです。
 まさに古事記は、人の生き方を教えるものといえます。
 伊邪那美の神でも間違う事があり、また取り直すことが出来るのだから、私達今の人間にも間違う事がありながら取り直すことが出来るのですよ、と勇気付けられているように受け止めたいものです。
*世界中の神話に似た話があるのは、名前は神道でなくとも、自然=神を敬愛し祖先を尊崇するという考え方は、太古の昔からの人類共通の感覚と言える。


                                                           
***雑誌「神理」地方特派員任命***

 今月、名古屋地区のさまざまな教会の行事や、人物などを取材・撮影し、「神理」に紹 介していただく「地方特派員」が大教庁より任命されました。
 特派員は、岩押頼子先生・橘田和親先生・橘田由美子先生の3名です。
 名古屋大教会の横江教会長のご協力のもと、名古屋地区情報を紹介していただきます。
 名古屋地区の皆様は、3名が取材に伺った際は、ご協力のほど、よろしくお願い致します。
 全国の皆様には、今後いろんな形で名古屋地区の紹介をしていただきますのでお楽しみに!
 なお、特派員は他の地方に於いても任命の予定がありますので、ご協力お願いします

岩押頼子先生

橘田和親先生
橘田由美子先生

特派員だより

誠真分教会穂見祭報告
 去る八月十七日(日)午後十二時より、岐阜県可児市の誠真分教会(名古屋大教会所属)におきまして平成十五年度穂見祭が執行されました。
 今回は吉村文男講義のご長男都旨希くんが太鼓を担当。まだ教師拝命前ですが、七月の夏期講習会参加時、奥方様より御教授頂き「是非祭典で叩かせてほしい」との要望が実現。まだ高校二年生ですが見事な太鼓を披露してくれました。厳粛な中にも賑々しく穂見祭が執り行われ、その後、郷土料理の朴葉寿し(朴葉の葉に包んだ押し寿しのようなもの)や手作りの料理を囲み、それぞれの先祖へ感謝し、賑やかに直会が始まりました。神前は多くの教信徒で溢れ、皆さん楽しそうに話に弾んでいました。

穂見大祭
平成15年8月16日(土)


 曇天の蒸し暑い八月十六日、穂見大祭(永代祭)が本院の大教殿で行われました。ご先祖の霊をお祭りしようと参拝した信者さんは約五十名。神殿に玉串を奉げて、家族の健康と幸福をご先祖にお祈りしました。祭官奉仕は、管長様と本院職員でした。
 渡辺斎教正の講話では、幸魂(親神)、和魂(産土社)、荒魂(墓所)、奇魂(個人の霊殿)の四つの魂を合わせると産須根神になるという御教祖が説かれた『四魂論』を紹介、ご先祖と私たちの心の安定(四魂の安定)のためにお正月、春秋大祭、穂見祭のほか、自宅での朝夕の祈り、年祭、月次霊祭、命日の墓参りなどの参拝の大切さを話されました。そして、次の御教祖の御歌を唱和しました。
 よくいつき
 つかえまつれよ 父母は
 ちかきまもりの わがいえの神

 うぶすねの
 神をまつらば おのづから
 いえやさかえん いやつぎつぎに

●黒木恵美子さん
(長崎教会、苅田町在住)
 父の代からの信徒です。ご先祖の御霊をおなぐさめするために、参拝しないと落ち着きませんね。
●吉牟田喜代子さん
(田川みちしるべ教会)
 毎年、弟夫婦と娘の四人で参拝して、一家が荒ぶることのないようにご先祖にお祈りしています。

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