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神理

平成15年5月号 第1071号

        

巻  頭 の こ と ば

指は、他のところに比べて特別に神の気が集まっている。
指の姿は、その人の過去・現在・未来を示すものである。
傷などある人は、因を残さない為に、
善い働きを心掛けるべきである。
指は、善への改めと創造の力を持っている。
神は私たちに、より良いものを創り出させる為に
指を与えて下さった。

                かんなぎべ  たけひこ
  神理教管長   巫部  健彦
     いの       み  こころ    すこ
    祈りつつ 身も心をも 健やかに   
             やしな        かみ   こ   みち
            養ひゆくぞ 神の子の道
 春季大祭は、天侯にも恵まれ、一人々々の心からなる奉仕ご参拝により、にぎわしく仕え奉ることがで
きました。神様に結び付いた銘々の行いが、にぎわしく和やかな場と時を得させて戴くことにもなった次第
で、相互に感謝し合わねばならぬ様にも思われます。

 考え合わされるのは、一人の権力者に結び付いた銘々の行いが、イラク戦争という極めて悲惨な結果を
招いた点であります。いわゆる時の勢いで、そのように成らざるを得なかったとは思われますものの、改め
て結び付き方の難しさを考えさせられます。

 我々の生活は、多くの人々との結び付きに支えられていると申せます。その結び付き方には強弱その
他の相違がありますが、いずれにしても争うことを避けるように務め、妥協して平穏無事な状態を保持する
ことに心掛けるのが、一般的な在り方であります。

 しかしながら、当面の平穏無事を優先しすぎると、妥協の幅を広げざるを得ないことになりますし、不安定
で異様な結び付き状態を招来するに止まらず、やがて何れかが妥協する事に耐えかねる限界に達して破
綻!という結末をたどる事になる様であります。

 いわゆるイラク戦争は、そうした成り行きの中で生じた悲劇と言えそうでありますが、我々としては、生活
に結び付いている組織や、その根幹として厳存する日本という祖国が、イラクに似た状態に傾くことのない
よう、銘々なりに努力する事が肝要と思われます。

 国連という組織が理想的に機能すれば、戦争という悲劇は生じないと思われますし、近所迷惑な行為も
制御抑止されるはずでありますが、それまでの道程が遠い現状の中では、平穏な結び付きに心掛けつつ、国
力を養う道を選ばねばならぬという事になります。

 尤も此の場合でも、当面の平穏無事を優先しすぎぬ心構えが不可欠であります。国力を備えていれば、平
穏が損なわれても一過性に終わるからであります。個人としても同様に、自分自身の力を養う事によ
り、厳しい社会との結び付きを、いささかは平穏状態に緩める事が可能になると考えられますし、そうした心
構えで前進いたしたいものであります。
                                                                     
                                             

オノズの道

自然(おのずから)(みち)

(さち) (ひこ)

 

(にん)(げん)(せい)要素(ようそ)

(ひと)見方(みかた)

 昨年末(さくねんまつ)にはやった、映画(えいが)『ハリーポッターと…』を()られた(かた)はおられますか。

 (ひっ)(しゃ)()どもと(いっ)(しょ)(えい)()()ましたが、(すで)(はっ)(かん)されている(ほん)()みました。

 こうした娯楽(ごらく)目的(もくてき)とした映画(えいが)(ほん)にも“()きるヒント”のようなものを(はか)らずも()()れることがあります。

 まだ(えい)()()されていない4の下巻(げかん)中頃(なかごろ)に、(つぎ)のような言葉(ことば)がありました。

人柄(ひとがら)というものは、その(ひと)目下(めした)(もの)への態度(たいど)物腰(ものごし)()ると、おおよそのことがわかるものである』とあるのを()んで、ドキッ!としたものです。

 ()()(ぶん)は、()(ごと)(ねん)(れい)()(した)(ひと)(かる)()たり、ぞんざいな(くち)()(かた)をしたりしていないかな、と(はん)(せい)したものです。

 (つぎ)()(ぶん)(まわ)りの(ひと)を“この(ひと)はどうだろう?”など、(すこ)()()(わる)()()(まわ)したものです。

 (しょう)(じき)()えば、(みぎ)の“()ず”と“(つぎ)に”は(かんが)えた(じゅん)(ばん)(ぎゃく)だったのですが、こうしたところに(おも)わぬ(ひと)(がら)(にん)(げん)(せい)(あらわ)れることに感銘(かんめい)(おぼ)えました。

 他人(たにん)(たい)する人間性(にんげんせい)見方(みかた)、また自分(じぶん)人間性(にんげんせい)点検(てんけん)する簡単(かんたん)(ほう)(ほう)を、(すく)なからぬ()(げき)(とも)(まな)ばせて(いただ)きました。

 ()(うえ)(ひと)()()おうとすることなく()(した)(ひと)(けい)()することなく、(あい)()(にん)(げん)として(そん)(ちょう)して(せっ)するということは(にん)(げん)として(ひつ)(よう)()()(けつ)なことです。

 

 (あい)()(けい)()すると、()()けば()()をしたりぞんざいな(たい)()()ったりするものです。

(はん)(たい)(あい)()(おそ)れると、()()けば(おお)(ごえ)()したり(おど)しにかけたりしようとするものです。

3.

 そうなればある意味(いみ)人間(にんげん)ではなく、本能(ほんのう)のままに行動(こうどう)する動物(どうぶつ)のようになり、(あい)()からの信頼(しんらい)(しん)(よう)(うしな)ってしまいます。

 (はや)()(てん)せずにゆとりを()って(あい)()(にん)(げん)(せい)(どう)(さつ)し、(あい)()()(けん)()(かい)()(ぶん)(かんが)えを()べたいものです。

 (みな)さんも()(ごと)(しゅ)()やボランティアの(かい)などで、いわゆる“(にん)(げん)(の短所(たんしょ))を()る”また“そして()(ぶん)()(かえ)る”ということはありませんか。

 ()(ぶん)(にん)(げん)(せい)()(かえ)、というのは(たい)(せつ)なことだと(おも)います。

そこで筆者(ひっしゃ)は、人間性(にんげんせい)には(なに)要素(ようそ)として必要(ひつよう)なのだろうか、(かんが)えてみました。

 

()きる()(ほん)(よう)()

 まず()(しょく)(じゅう)(せい)(かつ)して()(うえ)()(ほん)要素(ようそ)ですし、これに()(ぞく)やそれを(ささ)える(しゃ)(かい)、そしてその()(ざい)である()(ぜん)があって(ひと)()きることが()()ます。

 “(ひん)すれば(どん)する”という(こと)()がありますが、これが(きょく)()(てい)()すると、()(にん)(もの)(うば)っても、という(せい)(しん)(じょう)(たい)(おちい)ることも(かんが)えられます。

 しかし()(しょく)(じゅう)の3つは(せい)(かつ)して()(うえ)()(ほん)ではあるけれど、それだけ()たされたからといって(にん)(げん)(せい)(つちか)われるのでしょうか。

 (わたし)たちはこの3つがないとたちまち(こま)るものの、ある(てい)()()たされたからといっても、それでもまだ()ないと(おも)うこともあります。

 ()(きょう)()(おし)えられる(しち)(ざい)(いち)(ばん)()(むさぼ)り』です。

 ()(しょく)(じゅう)がいくら満たされた人でも人間性においては疑わしい人も見受けられますし、反対にこの3つが(じゅう)(ぶん)(そろ)ってなくとも(ゆた)かな(にん)(げん)(せい)(ゆう)する(ひと)がいます。

 

自分(じぶん)信仰(しんこう)

 (ひと)(だれ)であれ、()(ぶん)(しん)(こう)()っているものです。

 (たと)えば“()(ぶん)(しん)(こう)()たない”というのも(ひと)つの(しん)(こう)でしょうし、それは()(ぶん)(しん)じる、つまり()(ぶん)(しん)(こう)しているということなのでしょう。

 また“()(にん)(しん)じない(また)はある(とく)(てい)(じん)(ぶつ)()()(にん)(げん)だ”と()めつけるのも(おな)じで、それは()(ぶん)(ほう)(すぐ)れているという(しん)(こう)ではないでしょうか。

 (ひと)(くち)(しん)(こう)といっても()(ぶん)()(しん)(おも)いから(はじ)まって、()(ぞく)(しゃ)(かい)()(ぜん)(せん)()()(そん)へと(かんが)えの(およ)(はん)()(ひろ)がれば、(しん)(こう)にも(あつ)みや(ふか)さに(ずい)(ぶん)(ちが)いが(しょう)じてくるものです。

 そう(かんが)えると(だれ)もが(しん)(こう)()っているものの、その(しつ)(りょう)によって(にん)(げん)(せい)()わってくると()えます。

 

信仰(しんこう)(しつ)(りょう)

 ()(ぶん)だけ(ちゅう)(しん)(かんが)えるのではない(しつ)()(しん)(こう)を、(まい)(にち)()(かさ)ねるという(りょう)をもって(おこな)(つづ)けることが、(にん)(げん)(せい)(ひと)(がら)(みが)()げてゆきます。

()(きょう)()(だい)(さん)(せつ)に、(かみ)(たい)して(しん)(こう)(こころ)なき(ひと)は、(ひと)(たい)しても(しん)(よう)せられぬ』と(おし)えられています。

 ()(しょく)(じゅう)()(ほん)として、(ひと)として()たり(まえ)のより(あつ)(ふか)(しん)(こう)()つことが(にん)(げん)(せい)(つちか)(よう)()となるのです。

 もし()(しょく)(じゅう)(じゅう)(ぶん)()たされない(ひと)でも、(しつ)(たか)(しん)(こう)とそれを(もと)める()(りょく)()しまない(ひと)は、(ゆた)かな(にん)(げん)(せい)(あん)(しん)()ることが()()るのです。

 

(しつ)(たか)(しん)(こう)

 (しん)(こう)(しつ)(たか)(りょう)()やすためには、(なに)(こころ)()(どころ)とすれば()いのでしょうか。

 (すこ)しはしょった()(かた)ですが、(しつ)(たか)(しん)(こう)(もと)めるならばその(はしら)(けい)(しん)(そん)()(しゅう)(やく)され、(けい)(しん)(そん)()(ふか)めて()けば(ほん)(きょう)()()く』と(ひっ)(しゃ)(しん)じます。

 

()(ぶん)(にん)(げん)(せい)()(じゅく)()(ぶん)(短所)は見られることで(あい)()(はん)(せい)()(かい)(あた)え、(あい)()()(じゅく)()(ぶん)()ることで(みずか)らが(はん)(せい)するとするということがあります。

()(じゅく)(にん)(げん)(せい)というものは(もち)(ろん)(ほこ)るものではないけれど、(すべ)(かく)して()せないようにするもの((かく)せないから()(じゅく)なのでしょうが)でもない、ということが()えそうです。

()(ぶん)(たん)(しょ)()(にん)(さま)(はん)(せい)(ざい)(りょう)になれば、(けっ)して(たん)(しょ)(あく)()めつけられるものではなく、(かん)(よう)なことはそうした(たん)(しょ)()()(ぶん)をいかに(せい)(ちょう)させるか、ということです。

まさに(にん)(げん)(しゃ)(かい)というものはお(たが)いがぶつかりもまれながら(いも)(かわ)()かれるザル(芋樽(いもだる))のようなもので、お(たが)いが(ちょう)(しょ)(たん)(しょ)をもって(せっ)することでお(たが)いの(にん)(げん)(せい)(みが)()()となる、と(かんが)えたいものです。

 本教(ほんきょう)(まな)(しん)(こう)(しゃ)(かい)(せい)(かつ)(りょう)(りつ)させながら自身(じしん)(せい)(ちょう)させ、より(ゆた)かな(にん)(げん)(せい)をもって()(やく)()(しゅう)()(なご)ませる(にん)(げん)となりたいものです。


    第13回神理未来委員会基調講演  平成14年2月23日  於、明星会館 
                            神理未来委員会委員長 横江 春太郎

「私の20世紀」(その1−12) 

4、私の20世紀、 (その1)のおわりに
 今回は私の20世紀、 (その1)として申し上げて参りました。
 お互いに、過ぎ去りました20世紀、それなりに思い出をお持ちのことと思います。
 今回は、私なりに年代を分けまして、小学校時代から旧制中学校時代そして警察官時代の前半迄と、戦前、
戦中、戦後の私なりの20世紀を振り返ってみました。そんな時代もあったのかとあらためて感じられる方も見
えることと思います。たまたま、平成12年11月5日(日)朝TVで、女優の原ひで子さんの、 「波乱万丈」を見ま
して、この中で例えば、鶴田浩二演じる特攻隊の出撃、アメリカ軍の空襲による無数の爆撃投下、そして、食糧
を得るために農村に買出しに出かけ大事な着物に対して、大根一本とカボチャ一個が投げつけられる場面の
惨めさは、戦中、戦後の直後を経験した方にしか判らないのであります。今、悲惨なかつての戦争を振り返りま
したとき、ユネスコ憲章の一文が身に染みて感じられるのであります。ユネスコ、それは国連の教育科学文化
機関のことをいいますが、その憲章の一文に「戦争は人の心の中で生まれるもので、人の心に平和の岩を築
かねばならない」とあります。まさにその通りであります。

 さてここで、 (その1)のしめとしまして、二点を付加して申し上げてみたいと思います。
 その一点目、それは今の時代、強い向かい風が吹いております。人生には、 「上り坂」 「下り坂」 「真坂(まさ
か)」の3つがあるといわれます。多くの人にとりましては今、「まさか」に直面しているものと思います。こうした
時代、現実は素直に受入れて自分なりの全力投球も必要かと思います。今お互いが勝負時と考えてみるので
あります。勝負時には思いきって勝負すること、勝負することで勝敗は後のこと、今必要なことは勝ち負けより
全力を尽くすことだと思うのであります。

 次に、2点目、それはこのたびのこの ”私の20世紀、 (その1)“
をまとめ上げましたときの平成13年9月7日(金)毎日新聞朝刊「みんなの広場」らんに次の二点の掲載が目に
止まりましたのでこれ又、付加したいということであります。私はこれを読み感じましたことは、まず初めに、 『戦
争を語り継ぐ使命負った世代』8月29日本欄、中学生の「戦争体験者の生の声を聞こう」を頼もしく拝見しまし
た。…
…私が折にふれて思うことは、「戦争を体験し、記憶に残せている最後の世代」が私の世代であるということ
です。
 終戦時に5歳だった私。父が戦死し、旧満州からの引き揚げ途中に兄妹3人を亡くし、母と2人で病院船でや
っと帰国しました。その間の出来事は、おぼろげでも強烈な印象として残っています。
 投稿者は、 「戦争体験者が高齢化しているから早く多くのものを吸収しなければ」と言い、 「それが自分たち
の世代の責任かもしれない」とつづっています。こういう誠実な若者がいることは未来を明るくし、無益な戦いを
2度としてはならないということに希望が持て、うれしい限りです。
 そのためにも、しっかり語り継いでいく私たちの世代の使命と責任を強く感じています。】

 につきましては、まさに、私もそれなりのことを考えまして今回の題名を取り上げ、その中で「戦争を体験し、記
憶に残せている最後の世代」との思いで述べさせていただいたところであります。次に、【 『今は戦時中より
ひどい状況かも』 今年50歳を迎えたか、迎える、かつての教え子たちのクラス会があった。
その際、各自の近況報告があったが、異口同音に出たのは生活の不安であった。子育て真っ最中の者、これ
から学校に入れなくてはならない者など、 「いつリストラに遭うかを考えると先の見通しが立たない」とのことで
あった。
 ある者は「何度も転職を余儀なくされた」など、暗い話ばかり。ストレスがたまり既に死亡した者もいて、今まで
にないクラス会になった。
 帰りの車中で考え込んでしまった。子供のころに味わった戦争の恐怖、不安よりも今日の状況は見方によっ
てはひどいのではないか。安易に首切りをする。バブル時に浮かれていた不動産業、ゼネコン、銀行の負の部
分が国民の生活を不安に陥れている。それらをコントロールできず借金王国を作った政府、単なる一人の首相
の人気だけでは克服できまい。国民に、足が地についた幸せを願う。】

 につきましては、たしかに、戦争の恐怖、不安よりも今日の状況は、見方、考え方によってはもっとひどいので
はないのか、それはいろいろな批判はありますが、戦争中は子供心なりに、国のため、戦い抜くためには「欲し
がりません勝つまでは」と必死の生活で、それなりの生き甲斐はありました。しかし、今の時代、その心の支え
となるものが見失われていること、加えて、国内外情勢の現在の姿は、これからの未来の日本の進路に大き
な危惧を抱くのであります。
 つまり、今の日本の国は今後どうなっていくのかという思いを痛切に抱く、その主な事例を国内で挙げれば
◯食料の半分以上を輸入に頼り
◯産業は海外生産などで空洞化の 傾向に
◯少子、高齢化社会のなか、増え 続ける医療費とこれに伴う揺れ る社会保障制度
◯昨年春、失業率5.5%に達し 止まる気配のないリストラ、今 年は六%になるといわれており ます。
そして、
◯1日90人もの人が人生を悲観 して自ら命を絶つという実態。
 こうした中で、1春闘の闘の1字がゆらぎけり―と今、うたわれていますように、未曽有のこの不況の中で、2
002年の春闘がスタートするのであります。ところが本来、春闘の狙い目は賃上げ、しかし、今年の春闘は賃
下げをめぐる攻防といわれ、更にその上で雇用確保が生命線ということから、労組側にとってはまさに、ガケッ
ぷちに立たされた春闘ということであります。
 それに加えて国外情勢も又、米国の同時テロ多発事件で、これが今後共日本に波及する政治、経済そして
治安情勢の行方が憂慮されるところであります。こうしたこともふまえて今回の話を受とめていただければと思
うのであります。

 さて、今、私は、ご教祖の「吾妻日誌」を読ませていただいておりますが、その内容からご教祖のすばらし
い、精力的な、かつ前向きの在りし日の姿に感銘を受けているところでありますが、そうしたご教祖のご生存中
のご偉徳そして又、厳しい歩みを今、この委員会に大いに取り入れることが大事なこととの思いをさせていただ
いているところであります。
 以上でありますが、さて、後半の(その2)につきましては、次回の機会にお話させていただきます。今回はこ
れで失礼します。ご静聴ありがとうございました。
                                                  ―おわり―

管長様が解説する御教祖の御歌/『人道百首』より


 人の身は 神の社と 思ひつつ
           穢さぬように なせよ人々


 生きとし生ける人は霊跡(ひあと)であり、神の分霊をいただくことによって生まれ生きている、と信じるの
が本教の原点であります。
 我々が、肉体的にも精神的にも活動できているのは、神の分霊としての魂が宿っている故のことと受け
とめられる訳であります。
 すなわち、魂は神そのものに近いと申せますし、従って、お互いは、本質的には尊厳な存在であり、相互
に敬意が払われるのが当然でなければならない存在!!ということになります。
 我々としては、一人ひとりの人が本質的には極めて貴重で尊厳な存在である!!という点を踏まえて交際
せねばならぬことになります。
 そうした基本的な姿勢が一致していれば、相互理解も円滑に進められることとなり、それなりに敬意を感
じ合うことにもなると思われます。 

 それにしても、みずからが本質的に尊厳な存在!!ということを厳粛に受け止め、それに似つかわしい生活
姿勢を保持せぬ限り、敬意を得ることは不可と考えるべきであります。
 つまり、いささかの敬意も寄せられない場合には、みずからの生活姿勢に相当の誤りがある!!という反省
がなされねばならぬということになる訳であります。
 申すまでもなく、我々の日常生活は、清濁が入り混ざった中で営まれており、その濁との接触は全く避け
がたい所であります。 
 それは、魂によって活動する心と体が直面する所ということになりますが、その魂は、心と体の働きに反
応もしていると申せます。
 従って、たとえば体が大きくそこなわれて心が痛むことになると、魂そのものの活力も弱まり枯れること
になりかねぬということであります。
 また、心の在り方で体がそこなわれることになる事例は証明済みの所でありますが、それが魂の活力を
弱めることにつながるという点も考えられる訳であります。

 ケガレは気枯れ、といわれております。通俗的には、活気を枯らすもの、と解して差しつかえないと思い
ますが、その要素のようなものは日常に充満していると申せます。
 しかも、それとは気付きにくいものもあり、いつとなく活力をそぎ活気を弱めることになるということであり
ます。
 上掲の教歌は、そうした現実を踏まえての御教示であり、我々としては決して穢されぬよう充分に用心
せねばならぬと思います。
 また、日常的に穢されつつあることを前提として、そのケガレを払い除く努力も怠ってはならぬ、とすべき
であります。
 そうした思いと共に朝夕いのりを捧げることにより、おのずから生き生きとした一日一日を持つことになら
ねばならぬと考えます。

 幸福への出発
 
  
  第14集 自律神経を管理している
        にごみたま
         和  魂


 
自律紳経は交感神経と副交感神経の陰と陽の働きを持っています。この自律神経の神経細胞にも遺伝
子がギッシリと入っています。この自律神経には神様の働きの交感神経が有ります。これは人間の創造
主が神の子の証としてDNA(デオキシリボ核酸)の中に天在諸神の神意を具体化させる為の仕組みを授
けて神様が人間として誕生させているのです。神様はこのDNAを人間は人間として犬は犬として全ての
動物や植物に固有のDNAを持たせ、それぞれの姿と形と特性を持たせて創造され誕生させて地球の大
自然と人間の永続を守護されています。
このDNAを持っている動物や植物は全て地球家族の一員なのです。
 人はこのDNAの中に先祖の願いとして遺伝子が存在しているのです。この先祖の遺伝子が副交感神
経の働きなのです。このDNAは神様が「人間としての形と五臓六腑等の内容と知性や理性等の機能を持
たせて」神の子としての責任と義務を厳しく管理しています。
その働きを持っているのが自律神経です、人の体の中には60兆個の細胞が有ります。
その細胞の一つ一つの中にDNAが配置され、そのDNAの中の節目と節目に遺伝子が存在しています。
この遺伝子の主となるのが「持って生まれた心の和魂」なのです。
この和魂の中に「性格と体質」が有るのです。この性格の中に「徳として働く部分と罪の祓いとして働く
部分が」遺伝子の中で強く反映され、幸・不幸の原因として働き、結果として健康で幸せな部分と病気や
怪我などの不幸が起きる部分が有ります。和魂の働きは「持って生まれた心」なので潜在意識や無意識
の働きが強く、人から注意をされると無意識にすぐカーと腹を立てて言葉や行いで罪を作る事が多く成る
のです。
これを「宿命」と言うのです。先祖の霊(心)が「この世に祓い残した罪で苦しんでいるのに子孫ま
でがその上に罪を積み重ねるため」あえて子孫に罪の祓いとして病気を起こして知らせているのです。そ
れは和魂の働きが遺伝子のATGCの四つの単位の治癒力を弱める配列に変えて子孫に神への奉仕と
罪の祓いを託しています。
神理教は四魂の働きを整え罪の祓いが整然と出来る宗教なので「ほとんどの
病気は平癒」するのです。神様は子孫の罪の祓いをいつも待っておられるのです。 「神の子として善にな
す奉仕と神の救いを」、 和魂が氏神として産須根の神の神位を頂くためには子孫の強い信仰と神様への
奉仕の実践を先祖が望んでいるのです。
「神様の教えを心と行いで実践すれば」体の中では自律神経の
陰と陽のバランスが正しく整い心が安定し健康になるのです。子孫の善行は先祖の霊に働き「和魂が氏
神となり子孫の強い守護霊として」働くのです。
 副交感神経の和魂は脳細胞の真ん中の「間脳」にあります。
この「間脳の一番大きな仕事はホルモンの
管理」です。間脳は視床・視床下部を管理しています。視床・視床下部は人間の生命維持の基本になるホ
ルモンの司令室なのです。病気も寿命も子宝も体に対する変化は全てホルモンが強く関係しています。病
気の中で三大疾患と言われるガン・心臓病・脳疾患そして高血圧・糖尿病等はホルモンの異常が大きな
原因なのです。ホルモンは多すぎても病気、少なすぎても病気なのです。
「神様の平等の原則を一番強く受けているのがホルモン」です。
ホルモンは内臓の肝臓やすい臓と胆嚢や副腎などで多く造られています
。血液中のホルモンの濃度センサーを視床・視床下部が持っていて、異常が有ればすぐ間脳に知らせて
間脳で決定をして、視床下部が各臓器にホルモンの増減の指令を出すのです。しかしホルモンの異常は
内臓の異常(病気)から発生している事が多くて「ホルモンの関係している病気は治りにくい」と言われて
います。しかしホルモンの全ての原因は和魂の間脳の中の「持って生まれた心(遺伝子)」にあるのです。

「原因は先祖の心(霊)が管理している無意識や潜在意識が働く間脳(性格)の中にある」のですから「自
律神経の副交感神経を乱して」内臓の働きを性格的に弱めているのです。
これが体質なのです。「和魂と
荒魂は主と従の関係」にあります。性格が主で体質が従なのです。性格のままに体が働くのです。 「性格
は喜怒哀楽の全てに関与しています。」 和魂の間脳は先祖の心が強く働くために欲望に対しては無意識
の内に体が反応して「つい出来心とか誰も見ていないのでとか、反射的に罪をつくる」行動をしてしまい、も
し見つかれば、後になってどうしてあんな悪いことをしたのかと反省するのですが、見つからなければ罪を
作った意志も無くなり繰り返し罪を重ねることに成ります。
 しかし人間の心の弱さは自分に甘い体質を持っているので「作る罪も自分本位に正当化」する考えにな
るので取り返しのつかない結果が待っているのです。
 小さな罪も繰り返しているうちに罪と感じなくなるのが一番怖い事なのです。結果として「自分は何も悪い
ことはしていない」と思ってしまうのです。
人間が「一番作りやすい罪が言葉で作る罪」です。悪口、うわさ、
意地悪、うそ、無視等も性格的な無意識のうちに作る罪なのです。こんな罪でも必ず子供たちが病気で先
天的な罪の祓いをさせられているのです。
その罪の祓いを和魂の間脳の支配する副交感神経に影響して
体のリズムを崩して発病します。その上に遺伝子の治癒力の弱さが加えられて病気が慢性化していくので
す。罪を持って生まれるのが間脳の和魂です。罪を表現するのが肉体の荒魂です。罪を祓うのが後頭葉
の奇魂です。性格は時として遺伝子の持っているバイオリズムを崩す事も有ります。
これをストレスから来る自律神経失調症といいます。
ストレスは心で感じるものなので和魂の間脳で感じているのです。
ストレスが溜まると体の中では血液中(赤血球)の酸素を内臓の細胞が消化不良を起こして
活性酸素を造るのこれも病気の原因です。信仰は奉仕と罪の祓いから始めます。
 和魂は守護霊です。 良くするも悪くするも 自分の考え方と行いから



第四章 教祖の霊観
 第三節 諸魂の作用(働き)
幸魂の性質2

・幸魂と奇魂の区別
 本章の第二節に大国主命が幸魂、奇魂に出会う場面がありますが、この時幸魂と奇魂という二つの魂
が同時に海上より光を放って浮かんで来たのではありません。
 幸魂の中の奇魂が離れて別個の活動をしたのです。
 もし、大国主命の本魂である幸魂が奇魂と同時に飛び出したのでは、そんな問答は出来ないはずであ
ると、教祖の御理解を述べました様に、幸魂が四魂中の本魂であると御教祖が確信されて居られる事
は、他の学説(例えば、本居翁は魂を和魂と荒魂の二つとし、幸魂奇魂は和魂の別名である)等と違った
御観念に深く注意しなければなりません。
・幸魂の帰着するところ
 そうして、この幸魂は天神より賜った本魂であるので、人は死すればこの魂は天神の御許へ帰るもので
あると決定されて、四魂論に【万葉集に、
 久堅乃 天路知背流 君故爾 日月母不知 戀渡留加毛、又 王者 神西座者 天雲乃 五百重乃下
 隠賜奴、又 布施於吉天 吾波許比能武 阿射無加受 多陀爾率去天 阿麻治思良之米とあって、『久
方の 天路しろせる…』というのは、君は天にのぼりて天上を統治するということなり。
 又、『天雲の 五百重の下に 隠れます…』とは、死んでは幸魂が天上に神昇りすることをいうなり。
 又他にいまして天路(天上の道、神の道)を知らしめ給えということなり。
 又後作、忌機殿(神聖なハタを織るための建物)儀式に、『咎無ば 歸常世国云々』又続日本紀景雲三
年十月の詔にも『如是在む人等をば 朕心天給ひて 見行云々』とも。
 又古今集に『翔りても 何をか魂の 来ても見むからは、ほのほ(炎)となりしものを』 。
 又宇都保物語(平安中期の物語、後の源氏物語)には『天翔りても 如何甲飛なく 見え給ふらむ』とも、
又源氏物語にも『降乱れ 寒き空を なき人の 天かけるらむ 宿ぞ戀しき』とも読みいでたるなり。
 これは後の世のものながら、天上に幸魂が帰る事をこの世までよく人の伝えたしるしになむ】
と教え示されて居られる。又、
 久方の 天津御祖の みむすひの
    神の造りし わが幸魂 (皇道百首)

 ようするに霊の発現である魂の中で、霊の本性そのままの働きにあるのが幸魂で、魂の本魂となり常に
清々しい状態であって、死してはこの本魂は天神の御許へ帰るものであると、決定されていることが窺わ
れる次第であります。
奇魂の性質
・知的で冷静な奇魂 
二、奇魂の本言を御教祖は「カム・ソヒ」にして、カムの切りク、ソヒの切りシでクシであると考えられています。
 奇魂の「くし」は霊怪しき、奇しき等という意と同じ語であって、知的判断の及ばない不可思議な事実に
出会った時に表わす言葉である様に、その作用も活動も奇しく妙なる働きをなすものです。
 これを心理学の面から言えば、知識作用の判断力が及ばない不可解な出来事や物を言い表わす言葉
です。
 知的作用は常に相対的で冷静なものですが、感情は絶対的で興奮性のものであり、その興奮している
感情を落ち着いた状態に戻らせるものは常に知識作業です。
 奇魂はこの様な性情のものであり、冷静に物事を処理していきますので、事業をする上に於ても色々な
助けをするものですから、この作用が大国主命の成功の助けになった事はすでに述べた様に、大国主命
の幸魂の中から出た奇魂の働きです。
 又、一神を二神に祭る場合、磐門戸神の奇魂を祭ったものが奇磐門戸神である様に、又大国主命の奇
魂を大物主櫛甕玉命とも称え奉っていることで明らかです。
・奇魂と夢
 又人の魂が夢の中に姿を見せるのもこの奇魂であります。
 御教祖は奇魂について四魂論に
【奇魂は本魂(幸魂)に添いたる魂なれば、人の思想が起こる処にして、これぞというのは難しいが、常に
人の思いやりというものなり、遠くものを思いはかる心にて、寝ている間は天神の御許にも行き通い、大空
の気中を奇日にかけ歩きけるなり、されば、この魂は本魂が天に帰りし後は、大空の気に添いて氏人の
上を守るなり】
と説いて居られます。この奇しく妙なる性情の働きは色々と各方面に現れて、人の向上発展を助成し、又
寝て居る間は天神の元へ行き通い、人に夢をもって吉凶を知らせるものです。
 千萬に 思い別れて 奇みたま
  くすしく物を 思ふなりけり(皇道百首)

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独立110周年記念

 来年平成16年、神理教は独立110周年を迎えます。
 

歴史ある古きよき教えを
             新しい時代へ

 
神理教本院
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平成15年度 年間祭事行事
開教123年 独立109年 生誕169年 昇天97年


4月  15(火)・16(水)    春季大祭
         21(月)      幸彦社(15年の題は「町・街」)

5月      16(金)      17時、みあかし祈願祭
         18(日)       熊本北地区ブロック研修会
         未 定        近畿地区ブロック研修会

6月  7(土)・8(日)      名古屋ブロック研修会
     14(土)・15(日)    未来委員会
         未 定         議会・教務委員大会
         未 定        長崎地区ブロック研修会
         30(月)      11時 大祓  16時 焼納祭

7月      未 定        熊本南ブロック研修会
         13(日)      11時 大元稲荷神社 夏越祭
     24(木)〜27(日)    夏期講習会(青年部総会)

8月      16(土)       11時 穂見大祭

9月      23(祝)       11時 祖霊祭

10月  15(水)・16(木)    秋季大祭
          19(日)      独立記念日

11月   上 旬・中 旬       七五三
          23(祝)      11時 新穀感謝祭

12月       31(水)      11時 大祓  16時 焼納祭


☆★☆ 素朴な疑問 ★☆★
     
 Q & A

Q1、「五風十雨」と昔の人はいったそうですが、どういうことですか?

A、 5月に一度風が吹き、十月に一度雨が降るのが、天下泰平のしるしだと言う意味です。風は沢山
の雲や霧を吹き掃い、ちり、あくた、ごみ等を吹き掃う。水は、雨が降るとうっとおしいが、水不足になると
、降雨を干天の慈雨と言って喜びます。風も雨も大切な神(自然)の恵みなのです。

Q2、神理教の名前の由来を教えてください。

A、 造化宮境内の末端に手水舎があります。手水舎には、けや木の一枚板が掲げられ、右から左へ
「設神理以奨俗」とかかれています。これは「古事記」の序文に出てくる言葉であり、天武天皇が乱を治
め即位した後の政道をたたえた言葉の中に「天皇の政治は陰陽五行の運行が正しく行われ我国固有の
神の道を復興して良俗を奨励しすぐれた徳風を行き渡らせて、その及ぶ国の範囲を広められました」とあ
ります。この中の「わが国固有の神の道を復興して良俗を奨励し」とありますが、これが「設神理以奨俗」
なのです。神理教の名はここから付けられたのです。、どんな人にもその裏側には、その人の守霊がい
るとのことですが、本当ですか?

    


講習会報告

 3月27日、熊本県腹赤教会(西辻しげ子教会長)に於いて、葬儀に関する講習会が開催された。
 午前は、葬儀の流れ・準備・打合せ事項・各神事式次第など。午後からは、祭式作法の練習に励んだ。
 葬儀は、突然のことであり十分な知識と準備が必要となってくる。葬儀執行する祭官としては、日頃の
練習が大事である。各自反省すると同時に、今後の勉強を約束し散会した。

――参加者(敬称略)−−
西辻しげ子・田中芳子・田中稲子・大津ミツ子・大津 学・大澤冨美子・藤岡栄子・中島裕子・橋本静子・
牛島 久・池上良助・富松清香・久富美奈子・伊東清友・久保田峻・久保田洋子・瀬戸真智子。
本院より、瀬戸出張。


幸彦社献歌

 4月21日(月)、 幸彦社で献歌祭が行われました。今年の題は「街」「町」。毎年、献歌を行っている
お二人に、お話を伺いました。


境 君恵さん(小倉南区志井)

 「父も歌が好きだったので、子どもの頃から歌に興味はありました。ただ、正式に先生に付いたわけでは
なく、三十年以上前に志井の婦人会で一年ほど勉強した程度です。献歌を始めたのは平成九年から。
ボケ防止になると思い、題が出たら一生懸命考えています(笑)。私は民謡を習っていますが、『小倉節』
の中に『安部山の桜』という文句があって、それで今年初めて安部山に桜を見に連れて行ってもらいました。
今年の歌は、その時に思い浮かんだものです。」
阿部 信子さん(田川市平松町)

 「父が昔お世話になったお宅に子どもがなく、 『恩返ししたいので、親孝行と思って養女に行ってくれ』と
頼まれ、阿部の家に来てから、もう50年になります。義父はすぐに亡くなりましたが、義母は10年間寝た
きりに。
介護する私を、毎月お参りに来ていた先代の瀬戸先生が、いつも励ましてくれました。おかげさまで子ども
たちも心やさしく育ち、ご近所の皆さんも温かな方ばかり。感謝の毎日です。今年は、ご縁をいただいて暮
らすようになった、この町のことを歌に詠みました。」

古事記「絵で見る解説文」

 古事記は日本に残る一番古い本です。
 日本の神話に始まり、歴代天皇の事績や歴史が記されています。
 神理教では、あかね書房(赤羽末吉氏の絵・舟崎克彦氏の文)の全6巻の古事記の絵本を使って神話
の話をします。
 文章や絵が時代を良く考察していて、素材として左右のどちらにもこだわらず公平に思えるからです。
 絵本というと大人は軽く見がちですが、子どもにもわかるものの、大人のためにも人の生き方の基本とし
て教えられることの多い絵本だと思います。
 実際に教会やご家庭で使われる場合は、本屋さんで購入されることをお勧めしますが、その心を神理教
の考え方を加えてお伝え頂ければと、本教のための解説文を作ってみました。
 もちろん、他の古事記の話や絵本に適用されても結構ですが、当初の絵本に沿って解説しています。
 古事記の読み方について考察したものですから、絵本だけでなく古事記全般にお使い頂ければ幸
いです。

日本の神話 第一巻
 くにのはじまり
読み手の方へ
*本来絵本はただ読むだけで充分で、聞き手が勝手に想像を楽しむものです。
 ここでは、教えを伝える意味で以下の事を記述していますので、目的に応じてお使い下さい。
*以下を全て言いつのる必要はありません。
*相手に応じて小出しにしないと飽きられます。
*物語の面白さを損なわないためには、本文以外の講師の説明をなるべく少なめに。
*何を伝えたいのか(物語自体の面白さ・日本の歴史・本教との関連・天在諸神の功徳・本教の
教え・生活に生かす心得や考え方)を前もって考えておきましょう。
*御教祖の教えを織り込みましょう。
*出来れば、上巻(神話の部分)だけでも全体を読んで(絵本以外にも解説書が多数あります)おけ
ば、流れがより良く分かり説明が滑らかになるし、話に肉付けが出来る。
*出来れば伝えたい大切なものは、これを見ずに話すようにしましょう。

聞き手への語り・古事記について
(大切なものは☆)
☆皆さん古事記を知っていますか?
伊邪那岐命の黄泉(死者)の国への冒険、天照皇大神の天の岩戸隠れの話、素戔嗚尊が八岐大蛇を
退治する話、稲葉の白兎、海幸彦と山幸彦、倭建命の遠征の話など。
☆天才記憶者・稗田阿礼の誦習を太安麻呂が七一二年に選録文字化された日本で一番古い書物。
*偽書説もあったが、太安麻呂の墓が発見されるなど信憑性が上がる。
*本居宣長(江戸時代の国学者)より本格的な研究が始まる。
 本居宣長は ”古事記伝“、御教祖は ”太古記伝“を著す。宣長は三魂説、御教祖は四魂説を唱える。
*四六駢儷体の美文で、訓読用の漢字。
*記紀(古事記712と日本書紀721)の違い。記は国風で叙情的、紀は漢風で叙事的。
 御教祖は、古事記の方が信頼できるとする。
☆上・中・下の三巻に別れ、上巻は神代つまり神話、中巻・下巻は人代つまり歴史説話。
 この日本の神話六巻は古事記の上巻を簡略にまとめ絵本にしている。
*受講者は『信徒の祝詞』など、天在諸神の神名を記したものを用意するとよい。

序・表紙
☆時代考証に留意して、着物や持ち物が描かれ絵本化、核心をつかんだ美しい文章。
*左右の思想に偏ることのない公平な絵本。
 (故)赤羽末吉の絵 ・舟崎克彦の文。トモ企画で刊行、あかね書房で発行。結構高度な割に、幼児
の頭にも染みこむ。
☆お父さんお母さん、あるいはお祖父ちゃんお祖母ちゃんの膝の上で聞く声や体のぬくもりの心地
よさも伝えましょう。
☆今、神話はどこで教え語られているか?
 以前は、学校・祖父・祖母・父・母。今は、学校ではここの部分は軽く流すか触れる程度。多くは教師
の資質や思想から、その心を伝える能力がないか反対に伝えることを避けようとする風潮。
 日本古来の神話・歴史を伝えるのは私たちで、それは誰にも頼れません!
*大きな題だけでなく、小題や巻数、絵と文の作家や書店の名前も読みましょう。
*最後の作家の紹介や年数や住所や本の値段は読む必要ありません。
*表紙の裏の何も書いてないところも、あきない範囲で時間を掛けて見せましょう。

@その昔、…
*真ん中に描かれているのが、天之御中主神、その両側に伊邪那岐神と伊邪那美神、以上の三柱の
神が天在諸神十八柱のどの部分に位置するかを確認。
*それまでは高皇産巣日神に始まる陽と神産巣日神に始まる陰であったのが、初めて男女の区別が
対照の形となった。   (つづく)
A伊邪那岐神と伊邪那美神は…
*淤能碁呂島の解釈
 淡路島の側の小島とも、日本とも、地球とも、太陽系とも、銀河系とも、宇宙全体とも取れるが、ここで
は大きく解釈したい。
B神々は島へおりると…
*人類として初めての結婚式。
☆男が先に声を掛ける。
 古来、なべて力の強い男が、上位・下位というより向かって右側で守る。たまには女性の方が力が
強い夫婦もいるが。那岐(伊邪那岐神)は柱の左(神前に向かって右から始まり左から時計回り)
から、那美(伊邪那美神)は柱の右から回る。異性に声を掛けるという難しいことは、男性の役割。
 ”男女は平等であるけれども、同権ではない“という御教祖の教え。
 それぞれの特性を生かした役割がある。
☆先に女が声を掛けて失敗(不具の神が生まれる)したとき、天在諸神に伺う。
 事業を行う前に祭(例えば結婚式や地鎮祭)をするという習慣の始まり。
☆祭と占いで願い伺ったこと。
 神に願う一番良い方法は祭(前・列なる)。いわゆる占いの元は、本教の宇良奈比真伝。
*おおらかな性観念。
 女性やその生理の血などを汚れとしない。血を見て痛みを連想し、その恐怖から逃れられない
ことが汚れ。
 那岐「あなたの体はどうなっていますか?」
那美「私の体は成り成りて成り足らない所が一所あります」
那岐「私の体は成り成りて成り余る所が一所あります。
 だったら、あなたの成り足らない所を私の成り余るところで塞いで国作りをしましょう」
 日本書紀にも、いざ国生みをするときにその方法が分からない。
 その時、セキレイが二神の前に飛んで来て腰を振るのを見、それに習って国生みが出来る。
☆神道と、仏教やキリスト教と同じ宗教とはいっても似て非なる所。
 性や飲食を禁忌としない。
 性は子孫繁栄のために、飲食は神祖と共に生の喜びを分かち合い感謝すると共に、生の存続
のため栄養をつけるために当然必要のこと。
C二人は国を作った後も…
*火の神は迦具土神のことで、伊邪那美神はこの火の神を女陰から出すときに負ったやけどが
原因で黄泉国へゆくことになる。
☆いわゆる八百万神の始め、本教でいう配祀諸神でその十四柱にない神は、本教では天神地祇
に含まれる。
 国土や自然の神や衣食住の神や火の神を始めとする木火土金水や人間の先祖など。
*天在諸神は命令をする神、配祀諸神はその命令を受けて世の中を良くするために実行する神。
☆神代はもう終わってしまったわけではない。
 私たち人間も配祀諸神の一神で、今も神代なのであり、後世のために大切な毎日を過ごしている
ことを自覚すること。
☆神道の神髄は多神を大切にしながら、大元の神である天在諸神の一神に帰するというのが本教の考え方。
 神道は決して多神教と決めつけられるものではなく、むしろ大元の神という一神教の考え方が忘れ
られている。
D伊邪那岐神は…
*世界中の神話に似た話があるのは、名前は神道でなくとも、自然=神を敬愛し祖先を尊崇するという
考え方は、太古の昔からの人類共通の感覚と言える。
Eそこは地の底の死者の国だ。…
F伊邪那岐は…
*見てはいけないものを見たいという人間、殊に男性の心理。
 これも世界神話に共通のもので日本の童話にも同じパターンが多く見られる。
 最近(平成13年夏)見た、宮崎駿監督のアニメ映画『千と千尋の神隠し』の最後の部分で、女の子は
振り返らない。
G伊邪那岐はいわれたとおり…
Hしばらく進むと…
I伊邪那岐はおそろしさのあまり…
J追手はみるまにせまってくる。…
Kだが、山ぶどうを食いつくすと…
L(絵のみ)
*絵の桃は、時代考証からするとこの時代こうした白桃は日本になかったようで、もっと小さな
山桃の一種だったようである。
 ここは、絵的なものを重視し、あえて白桃を使ったと解説されている。
☆桃は神道、殊に本教にとってとても大事なもの。
 本教は、御教祖のご先祖である饒速日命(皇室のご先祖邇邇芸命の兄)から物部氏を通じ教えを
伝えられた神道であるが、その大きな教えの一つに御神宝(かんだから)がある。
 本教の教師になれば、十種の神宝を御神宝として頂くが、これは桃の枝から出来ている。
 古事記の此処の所の話が故事として、古くから巫部家に御神宝として伝えられてきたものである。
Mたまりかねた伊邪那美は…
*死の始まり、離婚の始まり、とも言われるが命の継続性の認識を新たにするためとも受け取れ
るし、男女の陽と陰の働きの分担とも受け取れる。
 ここで ”しめころすと“あるのは、原文を ”縊り殺す“と読むからで、
御教祖はそうではなく、
『”縊り懲らす“が本当で、黄泉の神伊邪那美といえども神が人を殺すはずがなく、懲らしめるのである』
という風に教えておられます。
 だから、ご先祖がよくない行いをして、今は黄泉の国にいることから子孫の運勢が衰えていると
しても、子孫がこの理に気付き祭を通して大元の神にご先祖の罪の解除を願うならば、伊邪那美神
を始めとする日の神が、罪を犯したご先祖をお許しになり、子孫の運勢は自ずから良くなるのです。
Nこうして生きのびた伊邪那岐は…
☆本教の清祓いや神社の祓詞は、この禊で伊邪那岐命が祓い落とされたように、私たちの知らずに
あるいは故意に犯した罪・汚れを神の大きなお力で祓い清めて下さい、とお願いするもの。
*この清祓いや祓詞は言霊といい、こうした祝詞の言葉を声に出すことで、悪いものを祓い良いものを
引き出すという力が出る、と日本人は古来から行ってきた。
 あげられることの出来る祝詞は、祭主と一緒に声を出し ”我が心清々し・天在諸神守り給え幸わえ
給え“など、積極的に唱えると言葉のたましいが、その働きをすると信じる。
*人間はこの理に気付き、自分から行うという自力と、大元の天在諸神に助けていただくという
他力の両方から、自分と世の中を良い方向に変えていこうとする生き物。
*ここにあげられた天照大御神が天在諸神十八柱のどの部分に位置するかを確認。
 また、本教ではこの神の呼び方がたくさんある中で、天照皇大神と称えるようにしています。
*月読神は本教では月夜見神と書きますが、御教祖は素戔嗚尊(ここでは須佐之男命)とともに
配祀諸神の十四柱に入れながらも名前が違うが同じ神である、と説いています。
☆ここの部分の話から、死自体が汚れであるという考え方が出たようであるが、それは間違い。
 死に伴う、悲しさ悔しさや肉体が朽ち果て知らない世界に行くかもしれないという恐怖心も神から
与えられた感情ながら、その感情にとらわれこだわり続けると罪・汚れとなる。
 それを祭や塩を使って祓うのが日本人の慣習であり文化である。
☆古事記はただ読んでも面白い神話ですが、もう一歩進めて、この神話が私たちに何を語りかけ
ているかに気付けば、神・祖先との繋がりが理解でき、より安定した精神・生活の糧となります。

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