神理

平成15年3月号 第1069号

        

巻  頭 の こ と ば

「草は萌え 木の葉は繁り 花鳥の
        色音長閑けき 春となりけり」
(教祖御歌)
暗く厳しい寒さも去り、ホッとする季節である。
芽が勢いよく張る様子は、
神の気の力を感じさせる。
私たちもその気に乗じて力強く勢いをつけたい。
陽光によって陰の気を吹き払うように。


                かんなぎべ  たけひこ
  神理教管長   巫部  健彦
    いの     み  こころ   ただ
    祈りつつ 身も心をも 正しなば
       さき  ま さ き かみ  も
         幸く真幸く 神や守るらむ
   依然としてイラクをめぐる緊迫感が続いております。外交交渉による戦争回避!を
求める声の高まりも聞かれは致しますものの、粛々と行われる国連査察団の判断とは
関わりなく、米国の対イラク攻撃は必至、という見方が強まっている様であります。
 尤も、強硬姿勢を崩さぬ米国に較べ、イラクの姿勢は次第に軟化しているようにも
見受けられぬではなく、米国は是がイラクの常套的な手法だと一蹴していますもの
の、ひたすら戦争回避を求める側にとっては、頼みの綱にしたいという所かと思わ
れます。
 それにしても、米国の対イラク強硬姿勢が無かった場合には、イラクの軟化?も無
かったのではなかろうかと思われます。今回の査察が先ずは粛々と行われたのも、絶
対的な軍事力を背景とする威圧的な行動が進められたればこその事、と申せそうであ
ります。
 軍事力や経済力を背景に、弱い相手を威圧屈服させる姿勢には、卑劣と言える側面
が指摘されぬでもありませんし、それが現代でも行われるという事には抵抗感があり
ますが、結果的には良かったとせねばならぬ一面も、否定できかねる様に感じられま
す。
 約束破りの無法な存在が滅亡するのは必至の所でありますが、その滅亡までの期間
中は、脅威に耐えるだけではなく、危害を加えられる可能性も案じられます。一面、
滅亡までの期間が短ければ、忍耐の期間も短く、危害も少ない事が期待されるという
事であります。
 似たような条件下で、二者択一を迫られる場面は、日常生活の中でも経験する所で
あり、力関係その他で忍耐する人の方が多いと思われますが、その際に肝要なのは、
そうした状態は一時的な妥協に過ぎず、それが惰性化してはならぬという点であります。
 自分の正当性を問い直しつつ、その正当性に確信が持てれば、忍耐辛抱する力が得
られるからであります。最悪事態を回避するには一時的な争いも余儀なし!とする勇気
も留保出来ると思われるからであります。我々としては、その他にも、各国の様々
な姿勢から、我が生き様に資するものを学び取る事も考えながら、推移を・見守りた
いものと思います。
                                             

オノズの道

 

自然(おのずから)(みち)

(さち) (ひこ)

(にん)(げん)()んだら()わり?

 

 (ねん)(しょ)のテレビで芸能人(げいのうじん)有名(ゆうめい)小説家(しょうせつか)科学者(かがくしゃ)、また古神道(こしんとう)宗家(そうけ)という(ひと)(まじ)えて(ふた)つに()かれ、(とう)(ろん)(おこな)っているのを()かけました。

 (だい)は『(ちょう)(じょう)(げん)(しょう)はあるかないか』で、お(しょう)(がつ)(やす)みを()ごす(ほう)(ひま)つぶしにはちょうどよい()(だい)のようでした。

 まず古神道(こしんとう)宗家(そうけ)という(ひと)が、幽霊(ゆうれい)がいるという(ふる)()(しき)(じゅ)(もん)(とな)えるとラップ(げん)(しょう)という(おと)がしだし、(れい)(こん)()かりとなってテレビモニターにうつります。

 そのビデオを()ながら、それが(ほん)(もの)であるとかトリックであるなどの()(ろん)から(ばん)(ぐみ)(はじ)まったようです。

 そこで(ひと)()(しょう)(せつ)()が、「そんなことは(みな)(かん)(ちが)いか、いかさまだ。

 だいたい、(にん)(げん)()んだら()わりだ」というようなことを()っていました。

 もう(ひと)()()(がく)(しゃ)は、「そんな()()(がく)(てき)(れい)(こん)(ちょう)(じょう)(げん)(しょう)(はなし)(おと)()がまじめに(はな)していたら、(たと)えば(しょう)(がっ)(こう)()ども(たち)()(みち)()(がく)(じっ)(けん)もなにも()(てい)することになる。

 ()ども(たち)の、()(がく)(たい)する(きょう)()(うば)い、まじめに()()(たい)()(うしな)わせることになる。

科学(かがく)への冒涜(ぼうとく)である」というようなことを(しん)(けん)(うった)えていました。

 (みな)(さま)は、どう(おも)われますでしょうか。

 

 (にん)(げん)()んだら()わり?について

 (さい)(きん)(じゅう)(ねん)(さい)(れい)(さい)(ぶっ)(きょう)でいう(ほう)())に(うかが)ったご()(てい)で、まだ(わか)(とう)(しゅ)(ねん)(ぱい)(しん)(せき)(はな)しかけるのを()きました。

 その(しん)(せき)(いえ)(しゅう)()(ぶっ)(きょう)とのことですが、(おれ)はおまえの父親(ちちおや)母親(ははおや)冥福(めいふく)を、自分(じぶん)(うち)祖先(そせん)一緒(いっしょ)毎月(まいつき)(いの)っているのだぞ。

 おまえの(うち)神道(しんとう)だけれど、(おれ)(うち)(おな)じようにご(せん)()から(まも)って(いただ)いていることをしっかりわかってないといけないぞ。

 おまえがこれからどういう()(かた)をしたらよいのかを、ご(せん)()(まも)られていることをわきまえて、よく(かんが)えてゆけよ」というような(にん)(げん)()のある(はなし)をしていました。(ほん)(にん)も、「うん、わかった。

(じつ)昨日(きのう)バイクで(きょう)のお(まつ)りに使(つか)(ざい)(りょう)(どう)()(はこ)んで(かえ)っていると、(なん)(ひょう)()(たお)れそうになったのだけど、その(とき)(なに)かに(よこ)から(ささ)えられたかと(おも)ったら()()()(もと)(もど)ったよ。

 ()(ぶん)は、()()かすぐにこれは(はは)(まも)ってくれたのだと(かん)じたよ」といった(ふう)返事(へんじ)をしていました。

 

 そこで偶然(ぐうぜん)そのテレビの(はなし)になったのでした。

 (とう)(しゅ)(いもうと)さんが(ひっ)(しゃ)(おな)じテレビを()ていたようで、(にん)(げん)()んだら()わりだ、というのは(それこそ()たわけでもないのに)おかしいですね」という(はなし)になり、(ひっ)(しゃ)は、(わたし)たちは、()んだことがないので()たわけではないけれど、()んだら()わりという(かん)(かく)は、おかしいという()(ぜん)にとても(こころ)(さび)しい(かんが)(がた)ですね。

 (わたし)たちは()(せん)から()んで(にく)(たい)がなくなっても(たましい)となって(のこ)る、と(おし)(かた)()がれています。

また、(れい)(こん)となって()(ぶん)()(そん)()(まも)(たの)しみを()る、と(つた)えられた(かんが)えの(ほう)(おな)()たことがないもの(どう)()(かんが)(がた)としても、(こころ)(やす)らぎますよね」という(はなし)をしました。

 (わたし)たちはこの(かた)(つた)えられたものを、()()()()()()などの()(せん)という()(ぜん)に、もっと太古(たいこ)からの(いま)言葉(ことば)でいうDNA(ディーエヌエー)遺伝子(いでんし))に()(のこ)された、(かみ)からの(おし)えであると(しん)じています。

 (げん)(だい)自然(しぜん)から隔絶(かくぜつ)されたコンクリートの(なか)生活(せいかつ)する(うち)に、()(ぜん)なる(かみ)からのつながりが(ほそ)くなり(わす)()られてしまったのではないかと(かん)じます。

 ()(ごろ)から(かみ)()(ぜん)(ちか)しくさせて(いただ)くことを(こころ)()ければ、こうした(とつ)(ぜん)(へん)()のような(かんが)(がた)にはならないのではないでしょうか。

 

 科学(かがく)への冒涜(ぼうとく)であるについて

 (ひっ)(しゃ)は、(とく)(しょう)(がつ)はテレビを()ることが(すく)ないのですが、()(ばん)(ぐみ)でも(おな)(ひと)(おな)じことを()うのを()かけました。

 よほど()(かえ)しテレビに(なが)れているのでしょうし、(だれ)もそのことに(なに)()わないから(ほん)(にん)もずっと()(つづ)けることになるのでしょう。

 とても(しん)()(もの)(ごと)(かんが)える(かた)のように()()けられましたし、それを()いことにテレビ(きょく)(ひと)たちが()ってあげる(ひと)(ちか)づけないようにしているのではないか、とさえ(かんが)えてしまいました。

 

 (いっ)(ぽう)から()ると()どものためにうなずけるこの(かんが)(がた)も、やはり(べつ)(いっ)(ぽう)から()ると()どものための(ゆめ)(うば)(かんが)(がた)でもあると(おも)います。

 ()どもは()(がく)できっちりと()()れる()(かい)(たい)(けん)しつつも、(どう)()(どう)()(しん)()などの()()()()(かい)(まよ)()む、(ゆめ)(げん)(じつ)(せい)(ごう)のつかない(こん)(とん)とした(こころ)()っています。

 またこのふわふわと(こん)(とん)とした()(だい)()ごすことが大切(たいせつ)で、その体験(たいけん)大人(おとな)(こころ)のどこかに(のこ)っているものです。

 これを(はや)()(がく)(ちから)(ぬぐ)()ってしまおうというのは、やはり(さび)しく(ざん)(ねん)です。

 大人(おとな)になっても()(ろん)だけで()()れる(しかく)四面(しめん)周囲(しゅうい)だけでなく、もっと()(ぶん)()らない、もっと()(よく)()って()るべき不思議(ふしぎ)世界(せかい)があるはずです。

(げん)(いん)があって(けっ)()があるものの、()(がく)(しき)()()れる()()える範囲(はんい)だけのきっちりとした原因(げんいん)結果(けっか)ではなく、もっと(ふか)くもっと(こま)かい(あい)(まい)()()としたものを(ひろ)()(しき)して()きたいものです。

 ()どもの(ころ)()()(すみ)(くら)がりに(なに)かが(ひそ)んでいるような、(こわ)いながらもわくわくとするような(そう)(ぞう)(りょく)(うしな)いたくないと(おも)います。

 (でん)()()かりが(すみずみ)々にまで()(わた)(げん)(だい)、そうした(こころ)(うしな)われるのが()しまれます。

 

(げん)(だい)()(ごと)(くわ)えて(たの)しみも(おお)く、スポーツや(えい)()(りょ)(こう)などの娯楽(ごらく)やアルコール(など)時間(じかん)がつぶれ、いわゆる(ひま)時間(じかん)()っていますが、それは()いことでしょうか。

これらのテレビ(ばん)(ぐみ)もそうですが、(げん)(だい)(じん)が“たいくつ”を(かん)じないように、(つぎ)(つぎ)(おな)()()げるにしてもより()(げき)(てき)()()げ、(けっ)()(てき)()(もん)()()(ない)(よう)となってしまうように(かん)じます。

(むかし)(ひと)現代(げんだい)(くら)べこのような()(らく)(しゅ)(だん)(すく)なかったのですが、()たして(げん)(だい)(じん)(くら)べて(よろこ)びも(すく)なかったのでしょうか。

“たいくつ”というのは(ひと)つのエネルギーである、と()いたことがあります。

“たいくつ”を(かん)じるからこそ(もの)(ごと)(ふか)(とら)えようとし、より(ふか)(しん)(じつ)、より(あつ)(よろこ)びを()られることに()()けば、(げん)(だい)(じん)よりも()(らく)(すく)ない(むかし)(ひと)(ほう)(しあわ)せであったのではないでしょうか。

 

 (ちょう)(じょう)(げん)(しょう)やご(せん)()(はたら)きをおもしろおかしく()()げることについては、この(かた)(たち)(おな)(はん)(ぱつ)(おぼ)えるものの、その(ちゅう)(かん)(しん)(じつ)存在(そんざい)していることに()()くべきだと()えます。

  最近益々悩む人の多いことです。
 教会や教師の悩み事への対応として、参考になればと思います。
 初めてご相談のこちらは東京の方で、何か強迫観念にとらわれているようです。
 悪霊に襲われている、吉祥寺の国際宗教・超心理学会経営の神社に行ったがその神
社と悪霊はグルのように感じる、等と手紙にありました。
 いろんな自分を呪うような声が、次々に聞こえてくるそうです。
 そこで、このようなお応えと提案をしてみました。
佐野匡郎様
 九州の神理教本院でも寒い日が続きますが、よく見ると木々のつぼみは膨らみ、梅 も
ポツポツと花を開かせています。
 お手紙拝読しました。
 大変の様子が汲み取れます。
 神理教の御教祖はご自身が医師だったこともあり、『祈れ、薬れ』と教えておられます。
「神と祖先にご加護を祈りながら、良い医師や薬に巡り会えるように努めなさい」と言わ
れているのです。また、『詫びて祈り 詫びて願わば 喜びて神や助けんなしのまにま
(自分の心掛けや行いに良くなかったこと、自分で気が付かない内に思い込んでいる
誤った心持ちを、素直にお詫びしてお願いすれば、神様は願いのままにお助け下さる
ものなのです)』と教えておられます。
「災難があるというのは、ただ単に呪いや祟りというふうに考えずに、神と祖先がそ
うした災難を通じて自分の心得違いを教えて下さろうとしている、と受け止めるべきである」
と言われているのです。

 解決までに色々な手法が考えられますが、まずそうした素直な気持ちになられ、よ
ろしければ、まず神理教本院でお祓いと心身健康の御祈願をさせて頂きます。
 幾分かでも状態が良くなれば、次に御先祖の霊魂安定のお祭りをしたり、生年月日
や体の悪い部分からお心掛けを一緒に振り返るなどしてはいかがでしょうか。
 遠くてお越しになられないでしょうから、生年月日と普段身につけられている小物
(ペンやハンカチなど・後でお返しします)を添えてお送り下さい。
 御初穂(お礼)はお心のままで、決まりはありません。
5千円〜が多いようですが、多寡を云々することはありません。

 現代人は、神様やご先祖に手を合わせることを忘れがちです。
 悪いことをしてないから悪いことが起こるはずがないと勘違いして、災難が起きた
時にはつい他人のせいにしてしまうものです。
 普段からお近くの産土神社の清掃など神前奉仕をされることは、社会奉仕以前の行
動としてより大切だと思います。
 お近くでは埼玉の鷲宮町や横浜に神理教の教会があり、そちらからお祭りやご相談
に伺ったり、そちらへお参りされ神前奉仕をされたり、直接の指導を受けることも出来ます。
 神とご先祖のご加護がありますよう、お祈り申し上げます。
                                         神理教本院

 

教会紹介

添田分教会
所在地 福岡県田川郡添田町
教会長 久保田 峻
       く ぼ た  たかし

平成十四年春季大祭 清掃奉仕

 添田分教会の設立は、昭和三十四年です。その前年のある日、初代教会長に激しい
神憑りが始まり「教会を開いて人々を救う以外に、家の存立はない」という神示によ
り開教したと聞いています。また、初代教会長の主人(私の父)が、近代医学では治
らない病気に罹り、神理教の門をたたいたのが入教のきっかけだったとも聞きました。
父はその後、御神徳をいただいて八十四歳まで、元気に教会の布教師を務めました。
 私が入教しましたのは、四十歳の後半頃、人知れず体調が悪く、通勤の約十五分が
体の負担になってきました。ある日、通勤の車のなかで、自分の死期を感じるように
なり、神様にすがる思いで信仰を始めたのきっかけです。
 私自身が信仰してよかったことは、心が優しくなったこと、夫婦が睦まじくなった
こと、子供たちが素直になったこと、兄弟の仲が落ち着いたことです。信仰とは、神
様を通じて、家の内から病気や貧しさ、争いをなくして、安定した家庭を作ることだと思
います。
 だから入信を迷っている人には、「種をまかなければ、収穫は期待できません。神
理教という畑に、良い種をまいて、大きな収穫をいただきましょう」と言っています。
 教会の主な年間行事は、毎月二十二日の月例祭、四月の春季と十月の秋季大祭(ど
ちらも二十二日)です。この時の料理でいつも作る「旬の煮つけ」が好評です。
 私の不思議な体験をご紹介します。それは小学校四年生頃と記憶していますが、高台
にある友だちの家に行き、家のまわりを自転車に乗って遊んでいました。ところが
ブレーキをかけるのが遅れて、急斜面の土手に自転車もろとも落ちたのです。一瞬意
識を失い、気づくと頭が下、足が上になり、回転しながら落ちていきました。死がそ
こに迫っているのが、子どもの自分にもよく分かりました。それからどのくらい時間
が経ったのか分かりませんが、私の頬にやさしくそよぐ風で目を覚ましました。生き
ているのです。かすり傷ひとつ負っていませんでした。
 神様の御加護をいただいたのでしょう。この体験は五十年を過ぎた今でも、年に何
回も思い出します。 また、信仰らしきものを始めた頃、朝晩、神前で大祓祝詞を何
度も奏上していました。ある夜、低頭していた私の脳裏に閃光が走ったのです。私に
は何が起きたのか分かりませんでしたが、それからは生まれ変わったように健康にな
りました。当時は単身赴任中で、祝詞に集中できていたのでしょうが、この経験が教
会の二代目を継ぐ原動力になったと思います。
 それから見聞きしたことですが、私が高校生の頃、顔以外の全身に「イボ」が出来
ていた若い女性が両親と三人で、毎日参拝に来ていましたが、わずかの間に、全身の
「イボ」が消え去ったことを教会で聞いて、神様の力の偉大さに驚くばかりでした。
 皆さんはどう思われますか。
 一方、現実の世界では、社会主義の崩壊、バブル経済の破綻、ヨーロッパの国々の
経済統合など、かつてない地球規模の変革の波が押し寄せています。人も社会も変化
を意識せずに、明日は迎えられないときが来ているように思います。
 宗教でも基本的なものは大切にしながらも、新しい時代に即応できる変化が必要で
はないかと考えます。神理教は来年、独立一一〇周年を迎えます。これは先人、諸先
輩のご苦労のうえに、今日があるのだと感謝の念に絶えません。この節目に、神理教
も新しい時代に対応して、さらなる発展を祈念致します。私も努力します。


管長様が解説する御教祖の御歌/『人道百首』より

           ま
やれいたや さてくるししと 待たむより
おおみ       も
    大御しるしは 今と思へよ
                                
 人生は試行錯誤を繰り返す中で進められるものと申せます。それは、なかなかに自
分の思い通りには事が運ばず、考え直し行い直さざるを得ないからであります。
 そうした試行錯誤は、人類の歴史が始まって以来、一人ひとりがそれぞれに行った
ところと考えられますし、その公約数的なものは人生の指針となっている訳でもあります。
 我々としては、そうした先人の試行錯誤の成果があるため、試行錯誤しないですむ
部分が随分多大なことを知り感謝すべきであります。
 しかし、時の流れと言うこともあって、古くから伝えられたものは、古いからとい
うだけで忌避されがちなようで、せずともすむ試行錯誤?が行われているようにも思
われます。
 そして、それ故に、避けることができたはずの痛みや苦しみをみずから招くことと
なり、周囲にまであらぬ迷惑を及ぼすことにもなっている事例が見受けられます。
 もっとも、たとえば徒歩から車社会へ!!とか、大家族から核家族へ!!などの変
化に対応して、新しい試行錯誤も行われなければならぬことは申すまでもないところ
であります。
 我々としては、そうした新しい試行錯誤を行う場合でも、果たしてそれが全く新し
い試行錯誤であるか否かを、一応は問い直してみることが必要となるようであります。
 たとえば、我々の先祖は、肉体的な痛みや苦しみを受けた時、それを和らげいやす
ために全く新しい試行錯誤をした訳ではなく、そのまた先祖の試行錯誤の成果を利用
した訳であります。
 この点は今も全く同様で、現にわれわれの場合も、先人が試行錯誤の末に得た成
果、すなわち医薬や医術によって、そうした肉体的苦痛を除くことになっているので
あります。
 このことは、精神的な痛みや苦しみからの脱却についても、ほとんど同様と言えそ
うであり、先人の在り方を知ることにより、かなりの痛苦は味わうことなく避け得ら
れるのではないでしょうか。
 我々としては、いわゆる精神的な痛みや苦しみに出会った場合、まずは平素の不用
心・おこたりによるものではない点を問い直すことにならねばならぬと思います。
 その結果、何とも緩和解消できぬ場合には、試行錯誤、つまり自分自身が直接的に
努力しなければならぬものと受け止め、真剣に心と体を動かすことになるべきであります。
 冒頭の御教歌は、そうした痛みや苦しみは、その人の現状が不当なものであり、充
実さらには向上すべき機会として神が与え給うたもの!!と御教示されている訳であります。
 肉体的な健康の保持には、それなりの努力が必要ですし、体力向上にはさらなる努
力が不可欠であり、痛みや苦しみは、その努力の不足を知らせ給う御神意とも考えら
れます。
 このことは、精神的な痛みや苦しみについても言えるところであり、我々として
は、そうした受け止め方で御神意を仰ぎつつ、その緩和解消に当たらねばならぬとい
うことであります。 

        

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独立110周年記念
キャッチコピー決定!!

 来年平成十六年、神理教は独立110周年を迎えます。
 それを記念して、皆様からキャッチコピーを募ったところ、多数のご応募があ
りま した。

 そして、決定いたしました!
キャッチコピー
歴史ある古きよき教えを
             新しい時代へ

 この言葉を合言葉に、独立110周年を迎えていきたいと存じます。
 また重ねて、多数のご応募、ありがとうございました!
神理教本院
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 幸福への出発
   
  第十二集
 我身にも限りが有り
 年齢は成長のあかし

 
一年三百六十五日を長く感じるか短く感じるかは「持って生まれた性格」の中に有
ります。長く感じる人は「心に病がある人」なのです。長く感じるだけ人より多く年
を取ります。年は心で取ります。老化は身体の中の『代謝活動』に比例します。「悩
みや苦しみ等の心の病は多くの代謝活動を浪費」します。浪費する体力は「活性酸
素」を攻撃する『酵素』の生産が低下するので「老化現象」が早く現れます。遺伝子
は自分の寿命を管理しています。活性酸素はその遺伝子を壊します。「壊された遺伝
子が病気の原因」として身体に症状が現れて来ます。その症状を修復するために『多
く新陳代謝を浪費』するのでその分「寿命が短くなる」のです。
 神様は『神の子としての身体の仕組み』を授けています。先祖は『子孫の繁栄』を
願って「心を授けた」のです。 『その心が持って生まれた心』なのです。
 持って生まれた心が「性格」なのです。その性格の中に先祖の罪をわざわざ持たせ
て「自覚をして祓ってほしい」先祖の願いが込められているのです。 『その罪の祓いとして
苦しみや悩み』が有るのです。つまり「病気の原因と罪の原因が神の道でつながっている
ので罪の祓いをすれば病気が治る」のです。『壊された遺伝子を新陳代謝で修復する
とき、信仰により罪の祓いが出来ていれば神様の正常な遺伝子に修復される』ので
「同じ病気には二度とかかりません。」 その病気になる原因の遺伝子が、神様の祓い
により、正常な遺伝子に修復され治癒力の強化が出来るからです。
「たとえその病気にかかっても知らないうちに治る」からです。『もともと身体は神
様から預かっているので病気など無い健康な身体が当たり前』なのですが、心は先祖
が残した財産なので「貯金か借金か」で結果は大きく変わります。「一日を長く感じ
る人はそれだけ祓う罪が多い」のですから、『自分の心の持ち方を神の道に近づける
努力と罪の祓い』を性格が変わる迄続ける信仰が必要です。性格を変える近道は「笑
うこと 喜ぶこと」です。「この笑うこと喜ぶことは健康の基本です。」『笑うこと喜ぶことは
神様の心に一番近い』心のはたらきなのです。『神様の心は愛です。』愛は自分に
厳しく人に優しい心の温もりを言います。年輪は「楽しさの数であり喜びの数」でもある。
「苦しみや悲しみは年とともに過ぎて行く長い苦渋の道」でもある。
その選択は先祖から受け継いだ心の(性格)の中に有ります。先祖から受け継いだ
遺伝は「同じ先祖なので自分だけではなく家庭全体で受け継いでいる」のです。
幸福か不幸かの選択は『家族全体で人の道・神の道をお互いに助け合って素直な心で』
実践する必要が有ります。
 一日を短く感じる人は「心の年を取りません。」 それは遺伝子の持っている「リズム」の
お陰です。日の若宮と言われる「陽」のリズムが強く働き「自分から楽しい雰囲気」を
つくり、多くの人を楽しくさせて結果として自分が一番楽しんでいるから「年を取らない」の
です。『笑うかどに福来たる』とは満ち足りた心には健康と幸せがある、 「神の子として
最大限の救いがある」から60兆個の細胞が元気で若さをいつまでも保っているのです。
しかしその基本は先祖の中に有るのです。「先祖が残した徳か罪で」子孫の性格が
「暗い陰性か明るい陽性か」の心を持って生まれるために『遺伝子のリズムを乱して
暗い短い人生となる』のか又は『神の子として明るく楽しい人生を送る』かは、その
原因が家族との生活習慣と自分の性格に有ります。
それが「家系」となるのです。しかも自分の知らない先祖(遺伝子)の中に原因が有るの
ですから仕方がないと諦めている人や気がつかずに一生を終わる人もいます。信仰は
「自分を見つめる心と自分を良く知る心」を養います。自分を良く知った上で「御教えを
日常生活の中で生かして実践をしていく」事が『長寿』の基本となるのです。
家 族(家系)の永続の中の一員として運命を神様と先祖から頂いているのです。「自分
の行ないと考え方は子孫の性格に強く影響を与えます。」子孫の幸不幸に対して自分
も重要な原因を与えている一員です。「神の道と人の道」は幸福の道しるべです。年齢は
神様が与えた「神の道の実践」が刻まれていくのです。明るく楽しい人は時間の
無駄がなく年を取らない人生です。世の中には良いお手本や悪いお手本がたくさん有り
ますが、しかし多くの場合「人の事」と無関心になりやすく「お手本」にはならず「ほとんどの
人が我が道が正しい」と我が道を正当化するのです。信仰をしながら「神の道の実践」は
難しく「自分を弁護する言い訳が多くなるのです。」これが持って生まれた「自分中心の
性格」なのです。
 年輪は過去のものではなく、これから刻む重要な未来のベースなのです。
 信仰とは自分の心と姿を写す鏡(神我見)を持つことが信仰である。
 徳とは奉仕の中に有り奉仕する心に有るのです。喜んで楽しんで奉仕を。
               

      

平成15年度 年間祭事行事
開教123年 独立109年 生誕169年 昇天97年


4月  15(火)・16(水)    春季大祭
         21(月)      幸彦社(15年の題は「町・街」)
5月      16(金)      17時、みあかし祈願祭
         18(日)       熊本北地区ブロック研修会
         未 定        近畿地区ブロック研修会
6月  7(土)・8(日)      名古屋ブロック研修会
     14(土)・15(日)    未来委員会
         未 定         議会・教務委員大会
         未 定        長崎地区ブロック研修会
         30(月)      11時 大祓  16時 焼納祭
7月      未 定        熊本南ブロック研修会
         13(日)      11時 大元稲荷神社 夏越祭
     24(木)〜27(日)    夏期講習会(青年部総会)
8月      16(土)       11時 穂見大祭
9月      23(祝)       11時 祖霊祭
10月  15(水)・16(木)    秋季大祭
          19(日)      独立記念日
11月   上 旬・中 旬       七五三
          23(祝)      11時 新穀感謝祭
12月       31(水)      11時 大祓  16時 焼納祭
☆★☆ 素朴な疑問 ★☆★
     
 Q & A

Q1、神殿と仏壇を向い合せに祀ると悪いといわれていますが、なぜですか?

A、 神と仏がけんかするわけでもなく、神殿も仏壇も、祀るのに良いとされる方向
は東向きか南向きと同方向であり、従って一方を正しい方向へ祀れば、向い合せ
た一 方は逆になり、背を向けることになるからです。

Q2、神様との関係を深めるにはどうしたらよいのですか?

A、 よく拝み、よく祈ることで、神との接触を頻繁にして、神へ感謝と反省の心で
常に対し、常に誠心を捧げようと心を遣うことです。こうした神との絶えない接
触に よって、神との縁が深くなり、その神縁が運を引き出す基いになるのです。

     

あとがき

 霊魂の本言はタマワリシヒで、神より賜った霊であります。
 人が死ぬと、新しく神殿を設けて葬儀を行います。その神殿に天在諸神をお迎えし、五十日祭まで死者を守護して頂くのです。
亡くなった日から十日毎に霊祭をして、五十日後に始めて祖霊殿に合祀します。
その家の祖となっていくのです。このことは次の様な意味が
あります。
1、生前の罪けがれを祓って清い霊にする。
2、死の自覚を深める。
3、死後は、子孫の守神となる。
 このことを悟ってもらう為なのです。
その為には葬儀や霊祭は単に死者を慰めるだけでなく、死者として如何にあるべきかをさとしているのです。
 葬儀から十日、二十日、三十日、四十日、五十日と霊祭をとりおこないますが、こ の五十日の間に先に述べた三つのことが出来ていれば、死者はその家の産須根神として、子孫の守り神になることができるのです。決して省略などしてはならないのです。
 人は、肉体的な事実だけで死者になるのではありません。死がシヒイヌルとの教示のように、死者の霊魂が鎮まるべき処に、安定していなければならないのです。
 幸魂は天在諸神のみもとへ、和魂は産須根大神のみもとへ、荒魂は墓所へ、奇魂は子孫の家の霊殿に鎮まって、それぞれ子孫の守りとなって働くのです。
 死を悟り、生前のツミやケガレを祓い、死後は子孫の守りとなることが死者としての道なのです。
 本教の霊祭祝詞は、霊を慰めると共に、教えを説くものです。
子孫は祖霊に仕え、祖霊を正し、祖霊はそれによって子孫を導く力をつけるのです。祖霊を正すことは、同時に
自己を正すことを意味しているのです。
 我が国では古来から祖先の霊を祭るのに、日本書紀神代の部に『イザナミノ尊は、火神を生んだ時に、焼かれてこの世を去った。そこで紀伊の国の、熊野の有馬の村に葬った。
 土地の人がこの神の魂を祭るのには、花のある時には花をもって祭り、また鼓や笛を吹き鳴らし、大旗小旗を立てて歌い舞いながら、祭る。』とあります。
 二十一日は春分の日で、春の祖霊祭が執り行われます。ご家族おそろいでご参拝ください。
(誠)

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