神理

平成15年2月号 第1068号

        

巻  頭 の こ と ば

呼吸法では息を全て吐き出しなさいと教える。
吐き出した後、さらに吐けと教える。
吐き出せば、吸い込もうとするのは自然であり理である。
全て吐き出すと言う事は、自分の持っている能力を
全て出し切れ、につながる。
生活に於いても全ての事々に全身全霊の姿勢が
大切である。
その姿勢は自ずと神祖の力を引き込むことになる。

                かんなぎべ  たけひこ
  神理教管長   巫部  健彦
               ゆ
   見えがたき 行く 手なれども 祈りつつ   
        ゆ    ゆ
         行かば行かるる 道や開けむ
  軍事力による米国の対イラク包囲網が、着々と強化されている様であります。それ
だけに、国連査察団の粛々とした調査が、却って不気味に感じられます。又、約束違
反の北朝鮮に対して柔軟化?と見える米国の姿勢にも不審感が募る中で、二月を迎え
ることになりました。
 イラクも北朝鮮も、我々が知らされている情報によれば『脅威』であり『危険』・
『迷惑』な存在であります。両国とも独裁者が権力を握り、国民よりも権力者自身の
地位保全を最優先している様に見受けられる点が、不安感を助長する事になっている
とも申せます。
 それにしても、仮に情報がなければ『脅威』を感じる事もない訳であります。遠く
離れたイラクの場合、その國が大量殺人可能な化学兵器を開発所蔵し、世界的テロ組
織との関連が深いなどという情報がなければ、今ほどの関心は無かった!と言えそう
であります。
 北朝鮮の場合には、いわゆる拉致被害者の帰国という事実に加え、不審工作船との
銃撃戦を実証する映像や実物の公開があり、当今はミサイルや核開発再稼働を宣言。
当方を敵視する過激な強弁も聞かれるだけに、危機感も切実とならざるを得ないとい
う事であります。
 尤も、両国の最高権力者の今後の動向についての情報が不透明な為、危機感が増幅
されている点も考えられます。我々としては、知り得ている情報に基づき、最悪の事
態を想定しての対応を考えながら、事の成り行きを見守る外なし!ということになり
そうであります。
 人生は、過程や結果を想定しながら進められるのが一般的でありますが、最悪の場
面を想定していない為、にわかに頓挫して絶望する事例も生じております。一つに
は、事の成り行きを見守る用心が不十分な為、不慮の結果を招くという側面も考えら
れます。
 両国の動向は、我が国や我々自身に危害が及び兼ねぬ関心事として、見守り続けら
れねばならぬ所と受け止める事が肝要となるようであります。同時に我々としては、
自分自身の身辺についても、日々の成り行きの変化を見逃さぬよう用心する事によ
り、最悪の事態に立ち至る事のないよう、随時適宜に対処する心掛けを怠ってはなら
ぬと思われます。  
                                             

オノズの道

自然(おのずから)(みち)

(さち) (ひこ)


男女(だんじょ)同権(どうけん)なれども…



 ()(ぜん)アメリカ(ざい)(じゅう)()(ほん)(じん)(こう)(えん)で、アメリカの(かか)える(しゃ)(かい)(もん)(だい)について()きました。

 (いま)アメリカでは(こう)(てき)()で、(とく)(せい)()()は、()(てい)(たい)(せつ)だ、()(そだ)てが(じゅう)(よう)だ」とは(ぜっ)(たい)()えない、とのことです。

 ()えばどうなるのでしょうか、(じょ)(せい)権利(けんり)擁護(ようご)団体(だんたい)からの大反発(だいはんぱつ)()けるというのでした。

 どうして大反発(だいはんぱつ)になるのでしょうか、それは、「家庭(かてい)大切(たいせつ)だ、…」と()えば、「では()(てい)(まも)るのは(だれ)だ?」という(はなし)になる、とのことです。

 そうなると、()(てい)()(そだ)ては(じょ)(せい)(いち)(ばん)(てき)しているという(はなし)(かなら)ずなり、結果的(けっかてき)女性(じょせい)社会(しゃかい)参画(さんかく)(さまた)げることになる。

 だから(だれ)(こう)(てき)()で、「()(てい)()(そだ)てが」と()えないのだ、とのことです。

 

 アメリカは()(ほん)(どう)(よう)(たい)(へん)()んだ(しゃ)(かい)()(てい)(かか)えているようです。

 (なつ)(やす)みや(ふゆ)(やす)みにギャング()する()ども(たち)は、(こう)(こう)(せい)から(ちゅう)(がく)(せい)へ、()ては(しょう)(がく)(せい)へと(てい)(ねん)(れい)()している、とのことです。

 家庭(かてい)事情(じじょう)(おや)(かま)えない、また(おや)がいても(かま)ってくれない(しょう)(がく)(せい)(たち)は、(ちょう)()(やす)みになると(がっ)(こう)()(せい)から(はな)れ、(ちゅう)(しゃ)(じょう)(くるま)(こわ)()()()()ける、というような無法(むほう)世界(せかい)体験(たいけん)するようです。

 (なに)をしても(ひと)()つかりさえしなければ(ばつ)()けることもないことや、()(ぶん)たちの(あく)()()(ひと)(おお)くが(ちゅう)()したり(おこ)ったりしないこと、を()るのです。

 これは、(ほん)(とう)(ほん)(にん)(たち)にとってとても()(こう)なことで、この()ども(たち)(はん)(たい)(うん)()いと(おも)いこむという、()(じゅう)()(こう)(=(かんが)(ちが)い)を()うのです。

その(たい)(けん)(もと)になり、すさんだ(せい)(かつ)をする(おとな)人へと(しゅう)(せい)されないまま(すす)むことが(おお)いのだそうです。

()(ほん)にもその(きざ)しを(かん)じませんか。

 

 アメリカのこうした(しゃ)(かい)(もん)(だい)(けん)(きゅう)する(おお)くの(だい)(がく)(けん)(きゅう)(しょ)が、

『しっかりとした()(てい)(つく)り、()(そだ)てに(じゅう)(てん)()けば(かなら)ずこの(もん)(だい)(かい)(けつ)()()る』と()()っているにも(かか)わらず、それを(じっ)(こう)()()ないのだそうです。

 自由(じゆう)(くに)といわれるアメリカにおいてさえ、(じっ)(こう)しようという(まえ)にその(もん)(だい)()れることさえ()()ないと()うのですから(しん)(こく)です。

 それは()(ほん)でも(おな)じで、(げん)(ざい)(だん)(じょ)(きょう)(どう)(さん)(かく)(しゃ)(かい)(つく)ろうということで、()(いく)(しょ)(はじ)めこのような()(せつ)()(てい)()わりになるような()(ぎょう)()(すす)められています。

 (けっ)してその(かんが)()(せつ)そのものが(わる)いのではなく、そうした()(せつ)(たよ)りすぎ、(ほん)(らい)(ひと)(いとな)みとしての()(てい)(せい)(かつ)()(そだ)てを(ひと)(まか)せにする(しゅう)(かん)(おちい)ることが(もん)(だい)なのだと(おも)います。

 こうした(もん)(だい)()()えながらの()(せつ)(かく)(じゅう)がなされないと、()(せつ)づくりそのものが批判(ひはん)されてしまうことになってしまいます。

 

 御教祖(ごきょうそ)御教語(ごきょうご)第五十節(だいごじゅっせつ)で、『…(おとこ)(おんな)になれず、(おんな)(おとこ)になれず。

(ゆえ)(だん)(じょ)同権(どうけん)なれども、夫婦(ふうふ)同権(どうけん)にあらず。…』と(おし)えておられます。

 どちらが(うえ)とか(した)ではなく、それぞれに(てき)した(やく)(わり)があるはずだ、と()われているのです。

 (いま)アメリカでこんな(こと)主張(しゅちょう)すると、大変(たいへん)なことになるでしょうね。

 日本(にほん)では(しゃ)(しん)()(とき)()かって(みぎ)()(だん)(せい)()ちますし、(しん)(ぜん)(すす)(とき)()(だん)(ある)(とき)(みぎ)(がわ)(ちゅう)(おう)()りを(だん)(せい)(ある)きますが、それは(ほん)(らい)(ちから)(つよ)(だん)(せい)(じょ)(せい)(まも)(かたち)とも()えます。

 (てき)とすれ(ちが)いながら(たたか)(とき)には()()(みぎ)()()()って(ちゅう)(おう)()りに、(しょう)(めん)から()かう(とき)には(ぜん)(ぽう)に、というように、()(けん)(ほう)(だん)(せい)()つことからそれを(たた)えて(じょう)()ということになったように(おも)います。

 (なん)(じゅう)(まん)(ねん)もの(にん)(げん)()きてきた(すじ)(みち)から、このような(しゅう)(かん)()()ってきたのだと()えます。

 それは(けっ)して(つよ)いから()()ってという上下(じょうげ)力関係(ちからかんけい)ではなく、(おもて)()える()(ぶん)()()しく(まも)姿(すがた)(たた)えてということですから、(だん)(せい)(じょ)(せい)(くら)べて(すぐ)れているからということではありません。

(だん)(せい)(じょ)(せい)はお(たが)いに(すぐ)れたところを()っている、(どう)(けん)(そん)(ざい)()えます。

 

 (すこ)()(だん)()べますと、(たと)えば(だい)(きょう)殿(でん)(きょう)(かい)(じん)(じゃ)(じょ)(せい)(うし)ろに(すわ)らないといけない、ということではありません。

 (だん)(じょ)(ふた)()(たま)(ぐし)(ささ)(けん)じる(とき)には、その(しゅう)(かん)(したが)うことがあっても(かみ)(さま)(まえ)(すす)むという(しょ)()は、(しん)()(せっ)(きょく)(てき)(ちか)づこうとする(こころ)(あらわ)れです。

 (ろう)(じゃく)(だん)(じょ)がいたわり(ささ)()いお(たが)いの(ちょう)(しょ)()かし()いながら、(まえ)(まえ)へと(すす)(こころ)(たい)(せつ)です。

 (こっ)(かい)でも(しょ)(かい)()(いん)(いち)(ばん)(まえ)に、(とう)(せん)(かい)(すう)(かさ)ねた()(いん)ほど後方(こうほう)(すわ)るように、(うし)ろの(せき)()めるのが(けん)(じょう)()(とく)とは(けっ)して()えません。

 

 (さっ)(こん)()(ほん)でも()(てい)()(そだ)ての大切(たいせつ)さを()えば(だん)(じょ)(きょう)(どう)(さん)(かく)(しゃ)(かい)(はん)(たい)する(ふる)くさい(かんが)えを()っていると(うたが)われるような、(ほん)(まつ)(てん)(とう)(ふう)(ちょう)(ひろ)がりつつあるように(かん)じます。

 (わたし)たちは古神道(こしんとう)のそして()(きょう)()このような(おし)えを(いただ)いているのですから、(けっ)して()(なか)(へん)()()(なが)されることはありません。

(わす)れてはいけない()(ほん)(じん)、それ()(ぜん)からの(にん)(げん)本来(ほんらい)()(かた)をはっきりと()()(ひょう)()(こうどう)したいものです。


 
 今回は会話調になっています。
質問を ○ 、応答を * とします。

○有り難うございます、今手紙を書いていた所でした。

*直接手を下したということではなかったのですね。
安心しました。
○勘違いする様な書き方でした、申し訳有りません。

*私はMさんの言われるような修行の完成した者ではありませんが、一生懸命お祭り
をさせて頂きます。
○宜しくお願い致します。

*Mさんの生年は昭和27年7月ですから辰年の生まれ、つまり卯年の孕みですか
ら、木の性ですね。
 私の生年は3才下の昭和30年5月ですから未年の生まれ、つまり午年の孕みです
から火の性で、Mさんとは相性が良いようです。
○何か少しホットしました。

*Mさんは脾臓や口や乳に、病気やけがをすることが多いですか。
○口は口内炎が良く出来ます。
後、虫歯だらけです。
 よく舌を噛みますが、これといったけがや病気はありません。
乳は、けがや病気をした記憶はありません。

*先ほど言った部分の病気や怪我は神からのお知らせですが、その部分の病気や怪我
については死に至る病にはつながらないと御教祖は教えています。
○安心しました。

*反対に肝臓や胆のうや腎臓や膀胱や膵臓や目や耳に、お知らせを頂いた時は要注意
です。
○20歳の時肝臓を壊しています。(現在もB型肝炎で保険に入れません)
 今時点で胆のうは解りませんが、母は胆のう癌で逝きました。
良く膀胱炎になります。
 耳は「メニエール病」といって1年中大きな耳鳴りがしています。
 目は右が傷ついています。
 後、上下の筋肉がおかしく首を傾けないと良く見えません、そして色弱です。
 その他は精密検査をしないと分かりませんが、最近非常に体調が悪いです。

*神理教の御教祖は医師をされた時期がありましたが、”祈れ薬れ“と教えられてい
ます。
 ご自分でも大元の天在諸神に祈りながら、良い病院や医師や薬に出会えるように機
会を持つ努力が必要です。
○多分、手紙を見たらあきれ返ると思いますが、何につけても縁がありません。

*私も勉強になりますので、遠距離ですが遠慮なくご連絡下さい。
○ありがとう御座います。

*神理教は日本人が古くから信奉してきた神道ですから、数珠は使いません。
 お手紙が着いてお祓いをしてお返しする時に、お守りをおつけしましょう。
○ありがとう御座います、宜しくお願い致します。

○すいまケん、これは何と読みますか?「脾臓」
*”ひぞう“と読みます。
 
 話は違いますが、8月にボランティア(神理教以外)で行っているネイチャーゲー
ムの研修会で、アメリカのサンフランシスコから車で6時間ほど北東のシエラネバダ
山脈の中腹のアナンダ村に行くのですよ。

 一時的に一挙に距離がちぢまりますね。

 そこではメディテーションの自由参加も可能と言うことで、神理教の鎮魂とよく似
ているので楽しみにしています。
 そこの教えは ”人には神性があることに気づく“ということを主眼とするようで
すが、神理教では ”人は神の分霊である“と考えますので、ここもちょっと似てま
すよね。
 あちらはインドに原点があるようでこちらは日本、考えると世界中に神道の原点が
自然にあると言えるでしょう。
 
 神道は、例えば神理教には御教祖はおられるものの、その教えは御教祖が創られた
ものではなく、自然に出来た=天が造ったものです。
 キリスト教は、ユダヤ教などに原点を持ちながらもその名が示すようにキリストが
創ったいわゆる人造教で、そこでは神と人間は絶対に違うもの、別の存在と教えま
す。
 人間の親は子どもの出来が悪いとしても、気でも違わない限り良い子と同様の愛情
を与え、あきらめることはあっても見捨てたり殺すことなどはありません。
 しかし、ノアの箱船のように、人間を自分の子孫、自分の分霊と思うことの出来な
い絶対的な神は、出来の悪いと判断した人間を水に沈めてしまうのですね。
 それは陶芸師が心魂を込めて作った愛しい陶器でも、ほんの小さな傷でも認めると
涙をのんで割ってしまうのと同じです。
 
 このように私たちが信じる本当の神は、私たちを子孫として・子孫だからこそ必ず
守ろうとなされている神理(しんり=かみのことわり)を理解して、ご一緒に心から
お頼りしましょう。
 神は、どうしようもない私たちに対してその場はあきらめることはあっても、見捨
てることは決してありません。
 神様と人間の関係は、陶芸師と陶器の関係ではなく、大元の先祖と子孫の関係だか
らです。
 
 本人が自分が知っていたり知らない内に犯した罪を詫び(謝り)、また先祖の苦し
みを救って下さい、という意識を持ちさえすれば、神はきっと救って下さると信じましょう。
 
 たたりというのは、普段から正しい信仰を行っていない、いわゆる耐性のない(=
神と先祖の守りの薄い)人が受けやすいものです。
 悪いことも行っていないが良いこともしていない、という人などは”悪いことをし
ていない“という意識が強いだけに、なおさら ”どうして自分が?“という気持ち
になり精神的にも落ち込むことになります。
 もしこちらで行うお祭りでいくらかでも効果が現れれば、その為に何を行えば良い
のかもご一緒に勉強しましょう

神理教独立までの軌跡

※来年平成16年は独立110周年を迎えます。

神理教独立までの主な軌跡を、「神理烈烈」「はじめての神理教」から
抜粋し、まとめてみました。

 『神道は近世まで、「教団」として存在したことはありません。
祈願をしたり、初もうでに行ったり、あるいは地鎮祭や結婚式
など宗教的儀式を司るものとして機能しました。
組織体として信者を積極的に獲得しようとするわけでもなく、いわば〈待ち
の宗教〉と言ってもいいでしょう。
 神道が〈待ちの宗教〉から脱却していくのは、明治維新が引き金となります。
時代の演出により、近代天皇制の理論的根拠として歴史の表舞台に登場させら
れた神道は、「国の宗教」として、台頭するキリスト教に対抗する使命を負わ
されました。
ここに、〈待ちの宗教〉であり手段も組織も持たなかった神道が、キリスト教に対
抗するため否応なく宣教への道を模索し始めるのですが、この過程で
生じたのが佐野経彦たちの「教派神道」なのです。
 教派神道には十三派あり、明治政府の宗教行政の産物として一派独立が順次公
認されていきます。まず明治九年に黒住教、神道修成派、十五年に神宮教、
出雲大社、扶桑教、神道大成教、神習教、御嶽教、二十七年に神理教、禊教、
そして三十三年に金光教、四十一年に天理教となっています。
 しかし、神理教独立への道は決して平たんなものではありませんでした。
明治十七年、神道に一大転機がもたらされました。
太政官布達によって「教導職」が廃止されたのです。
つまり、「国が、神道を広める運動に直接手を貸すのをやめた」ということです。
神道普及から手を引くにあたって、政府は「すでに教会を認可されていながら
所属教派が決まっていないものは、自由にその所属教派を選択してよろしい」と、
内務省寺社局より口頭示達を出しました。神理教にとっては独立のチャンスでした。
 ところが、正論を吐くがゆえに経彦を快く思っていなかった神道事務局が、意地で
邪魔をしたということもあり、結局、独立までさらに十年を待つことになります。
 その後、神理教は分教会五十、信徒五十万人を誇る大教会となり、明治二十四年、
経彦は帝国議会に対し、九九〇名の信徒総代と連署で神理教会の独立を請願する
一方、翌二十五年には内務省に〈独立願い〉を提出しました。
 こうした紆余曲折を経て明治二十七年十月十九日、遂に経彦の活躍が実り、自ら教
会や教師を任命できる教派神道として神理教会に正式な
一派独立が許可されたのです。
 独立を得るということは大変なことで、神理教が任命する教師は公務員に準じるも
のでした。また一教の管長は勅任官として県知事と
同等の待遇を受けるものでした。』


管長様が解説する御教祖の御歌/『人道百首』より

※『たより』の二二七号(昭和六十三年一月)〜三五二号(平成十年六月)に
毎号、教祖様が詠まれた人道百首を管長様が分かりやすく訳し、解説したものが
掲載されました。これは、さらにそれを簡潔にまとめたものです。

                                         
わがものと 思ふはおろか 世の中は

  神のみいつに いかし尊し


 乳児の様子を見ていると、周辺にある物は皆わがもの!!という振る舞い方が感
じられます。わが意にかなわぬ事があると、泣き叫んで我意を通す場面も
見うけられます。
 つき合う相手が、親から家族へと広がり、さらには家族以外にも及ぶ中で、い
わゆる社会性が養われはするものの、乳時期のかげりは消え失せがたいと
言えそうであります。
 自分の計画が予定通り極めて順調に進んでいる時など、ついつい周辺の好条件
などに考え及ばず、自分一人の力!!と思いこむ経験は、だれもが持つところ
のようであります。
 いわゆる権力者が権力を誇示する背景にも、選良といわれる人々が自身の
おごりに鈍感な背景にも、乳児期のかげりあり!!と申すことができ
そうであります。
 しかし、申すまでもなく、お互いが生存しえているのは、その乳児期に昼夜を
わかたぬ母親の保育があったればこそのことであります。
 ほどほどに現在を過ごしているのも、陰に陽に多くの人々からの助力をいただ
くことが行われ続けていればこそのことであります。
 そうしたことは、思慮の上では理解済みのところでありますが、実生活の上で
はつ いつい忘れがちというのが一般的な実態であります。
そのついつい忘れがちが放置され続けると、ついつい思慮が及ばぬ
ことになりかねぬ訳で、充分に自戒せねばならぬと思われます。
 その他にも、おだてに乗せられるなど『わがもの』と思いこむ愚に引きこまれ
る条件は、かなり多いと考えられます。
 しかし、いわゆる時流にのるなどして一時的に『わがもの』顔ができたとして
も、その永続は果たしえぬということであります。
 冒頭の御歌は、そうした成り行きを、大局的な視点に立って達観されたところ
を御教示くださったものと申すことができます。
 つまり、地に生きるものは皆、相互に補い合わぬ限り存続しえない存在として
位置づけられている!!ということであります。
 すなわち、人類全体としても、その人類の一員としても、他の存在を抹殺すれ
ば、みずからも存在しえない仕組みの中にある訳であります。
 当今では、地球的な視野に立っての環境保全が考えられることとなり、フロン
その他のガスや森林伐採も問題化される状況であります。
 しかし、これに較べますと、個人の在り方に対する相互理解は、かなり甘くゆ
るいままの状態が続いていると言えそうであります。
すなわち、このままの状態が続くとすれば、自然環境は保全される
としても、人間社会は壊滅?ということになりかねぬやにも思われます。
 我々としては、わがもの!!と思い誤る愚に引きこまれぬ用心を
しながら、感謝の中での前進に当たらねばならぬと言うことになります。
 

        

*****************************

平成16年
独立110年を迎えます。


*****************************

 幸福への出発
   
第十一集
 遺伝子は身体の仕組み
   だけではない
     生きる全てにある

  
人の一生はドラマチックな側面と堅実な筋書きの中に今、自分が存在しています。
堅実な筋書きは神の子として神様が創造されたものです。ドラマチックな生き方は先
祖が演出したものです。脇役に兄弟や父母、エキストラに友達や近所、そして舞台装
置が家を中心に町や村、自分の人生劇場は作家も主役ももちろん自分です。芝居なら
必ず最後は正義か愛が勝つのですが、自分で書いたドラマはどうなりますか。堅実さ
なのか、波乱万丈なのか、スリルとサスペンスなのか、冒険ものなのか、恋愛ものな
のか。しかし多くの人は「時の流れに身を任せ型」が無難に過ごせる様です。世界の
偉人賢人と言われる人は筋書きを超越して世界は「空・無」から始まると悟り修業に
入られました。自分の持っている能力の限界に挑戦するのです。私達には到底出来な
い修業です。神様は無理な修業はするなと言われます。「日常生活の毎日が修業」な
のです。修業の本意は「奉仕」なのです。先祖の書いた筋書きの目的は先祖が産須根
神に成るストーリーなのです。その筋書きの「重要性」は「子孫の繁栄」に有りま
す。その為に実践しなければならない事が先祖の残した『罪の祓い』なのです。
 神様の堅実な筋書きの中に『神の救い』が有ります。その仕組が「新陳代謝」の働
きです。この「代謝活動が神の清湯を分ける働き」で、罪の祓いで壊された細胞の遺
伝子を作り替えて正常にする神の働きです。ドラマチックな筋書きの目的が子孫の繁
栄ゆえに、『直接的な神への奉仕』が先祖の望みなのです。
 神理教の教えは御教祖の神の教えであり「御教祖が実践された医学」なのです。医
学の本質は御教祖が病気と正面から取り組まれた『神の道を基本とした心の道』なの
です。自分のドラマの結果は「心次第」と言えますが、結果は今現在の自分と家族の
状態が教えて居ます。「信仰に対する心の取り組みかた」の結果です。
 先祖の要求は「家系の永続と子孫の繁栄」です。
 神様の要求は「神の子としての尊敬と実践」なのです。  
 幸福の条件は「神と先祖の要求を受け入れる事」です。これこそが物凄い筋書きに
なりドラマチックな生涯となります。その第一歩は『神理教の教え』です。この教え
は「良い物の考え方と物の見方」の実行と心がけなのです。実行は「先ず身体を善に
向かって動かす事」そして「言葉で罪をつくらない事」です。人間はとかく「楽な力
に流されやすいし自分にあまい体質」を持っています。そして自分のことは棚にあげ
「人には厳しい」事を要求します。それが「自我」となり人を支配する『罪』をつく
る事になります。人はそれぞれ「先祖の守」を受けています。「言葉でつくる罪」は
「その人の先祖まで巻き込む」ので「必ず神の道」に照らされて罪の祓いをさせられ
ます。その人の先祖から見れば自分は他人です。他人の子孫に対しては「とても厳し
く謝罪を要求してきます。」先祖を巻き込んだ罪の祓いは「神経の病気」になる可能
性があります。『口は禍のもと』なのです。信仰はまず自分を良く知ることが大切で
す。自分のことが何も判らないのに自分を磨くことは出来ません。無くて七癖と言わ
れています。『人間は完全な神の子として、自分に厳しく行ないを管理する義務』が
有ります。ホームドラマのヒロインは「自分の短所も長所も」有りのままを演じてい
ます。見ている人は第三者の立場で客観的にそれぞれの感想を持って見ています。自
分も職場で近所で友達の間で第三者から客観的に行ないを見られているのです。自分
はいつもヒロインと同じ立場で生活をしているのです。自分のことは何も知らずに
「自分が一番正しい」と思って人を見下した言動は「罪を重ねるばかり」で子孫がそ
の罪で苦しむ事になり、子孫のその苦しむ姿に涙して自分も苦しむ結果となるので
す。自分を知るとは『自分の長所と短所を知る』事です。その近道は今日一日を振り
返る事です。人に対して言った言葉や態度、そして相手の反応や態度等で自分の持っ
て生まれた「性格」がわかります。『神の子としての優しい心・思いやりの心・いた
わりの心』が自分の心の中に有ったか無かったか反省する心のゆとりが必要です。自
分で「自分の性格の判断が出来れば」信仰の意識が高まり「良い性格に修正」するこ
とが出来ます。自分を通して先祖の罪が祓われて行くのです。
 「自分は何時でも何処でもホームドラマのヒロインの役者」を演じています。家族
や知人は「第三者としての厳しい目と家族や知人としての優しい目の両方」を持って
います。ヒロイン(自分)に対する「忠告や意見」はより良いドラマにする為と快く
聞き入れ髏Sの余裕が大切です。
 自分の行く道は 自分が決めて 自信を持って実践する 自分のドラマ
 神の道も人の道も家族と一緒に歩む幸福を 自分で書いた人生のドラマ

 
               

      

***1 口 話***

神理図十三番

両親の積善によりて、子孫の繁殖をなす

名古屋大教会教師会長 横 江 春太郎

 私共、名古屋大教会では、平成十四年度秋季大祭(十一月十七日)式典前に、
恒例 の一口話として、みだしの題名に基づき行ないましたので紹介させて
いただきます。
 ご教祖の数多い著書の中に「神理学入門」という本がございます。明治十二年
六 月、ご教祖四十七才の時にまとめられたものであります。本教を学ぶ上で最もよ
いと いわれております。
 そして、故・瀬戸政光元総監は、この「神理学入門」を「神理にゅうもん」として
一冊の本にとりまとめられてみえます。大変判りやすく勉強になります。又、ご教祖
は、「神理学入門」を基に「本教神理図及び本教神理図解」をまとめてみえるのであ
ります。
 本日はこの神理図の中の一つ、第十三番を取り上げ一口話とさせていただくもので
あります。ただ、以前、私が名城開館で継続実施しておりました地元自主研修会
の中 で、この神理図につきましても一応勉強しておりましたので、参加されました方々に
は重複することになりますが、勉強は何回でもよいのではないかとの考え方で行わせ
ていただくものであります。そして、本教発展のためにも努めてこうした話は続けたいものと
考えているところであります。
 さて、この神理図は第一番から第十六番迄ございますが、今回はその一つを勉強する
ものであります。ご教祖は、この項についてその例示として次のように説かれてみえる
のであります。
 ここに一組の夫婦がいます。この夫婦には今迄災難というものには会わず、毎日を
平穏に過ごし、少しばかりの行き過ぎがありましても、それはすべてよい事として周
りの方々に喜ばれており、そして、仕事も順調に進み、社会的な地位も次第に上って
いきます。
 子供達もそれぞれ独立し繁栄していきます。これはなぜだろうかと思うのでありま
す。たしかにこの夫婦は、つねに人生精一杯生きる努力をされてみえることは事実で
あります。
しかし、よくよく振り返ってみますと、この夫婦の両親は大変に心清々し
い人達でした。神様より教えられた人の道、それは本教大意の中にございますが、この
人の道とは神を敬うことであると説かれてみえるのであります。
つまり、
この神を敬うとは、心を直く行ないを正しく、親によく仕え兄弟の仲睦じく、
夫婦和順、役仕勧集怠る時なく、世のため人のために
善き事をなすと云うと説かれてみえます。
即 ち、神を敬うとは、心は正直で言動は正しく、親孝行し兄弟夫婦の仲はよく、子供を
よく育て与えられた仕事に精を出し、国のため世のため人のために心から尽くすこと
と教えられてみえますが、この両親はそうした気持を常日頃抱かれまして忘れること
がなかったので、現世においては人々から愛されたのであります。
このように神様より与えられた人の道をひたすら守られた両親でしたから、
この両親は世を去られます
とすぐに日の若宮、つまり高天原に帰られることができて高天原の天津神達にも誉め
られ、そしてその分霊は産土の宮所に鎮められ、つまり生れた土地の守り神としての
氏神となることができるのであります。
更に、天津神達から「子孫を長く守りなさい」と命令を受けられて産須根神、
つまり祖先の神となられるのであります。
 こうしてこの両親は、共に産須根神になられて子孫の家や身体に付添って下さ
いま すので、その子孫に少しの災いもなく、合せて天津神達からもご神徳を
いただいておりますので、することなすことすべてが順調でますます栄えて
いくことになるのであります。
 これは本当に不思議なことであります。
 と、以上神理図第十三番では説かれてみえるのであります。まことにありがたい
お話でございます。こうした教えの話をもとにしまして、この点、初めにも申し上げま
したが、ご教祖のこの「神理学入門」を受けられまして、故・瀬戸政光元総監は、
「神理にゅうもん第十二」で両親善を積む者は子孫繁昌をなすとして次のようにまと
めてみえましたので、ここで付加して申し上げてみたいと思います。

 親、子、孫三代そろって悪人はいない。親が悪いとその子か孫に必ず善人が出る。
先祖、親、子、孫は一本の縄であって先祖や親の善悪によって子孫はつくり出される
のであります。
 世の中には誠実で一生懸命働いているのに貧しい人がいるかと思えば、のんきに遊
んで暮らしている人がいます。一方は働いても貧しく、一方は遊んで暮らしている人
がいます。一方は働いても貧しく、一方は遊んで暮らしていても裕福なのです。
大変な矛盾であります。
 一見たしかに矛盾しているようですが、人間は肉眼で見える世界と見えない世界の
二つに生きており支配されております。見える世界だけだったら、たしかに現実の世
の中は矛盾だらけであります。
しかし、見えない世界をのぞいて見ると、この不平等がなる程と理解され現実の
矛盾こそ平等だとうなずかれるのであります。世の中には善人であるのに
不幸の絶えない人、不まカめで他人に迷惑ばかりかけて生きているの
に結構楽しく暮らしている人がいます。
あんなに悪いことをしているのによくバチがあたらないものだと首を
かしげたくなる人がいます。神様は善いことを褒め悪を罰します。
しかし、その神様の心が直ちにあらわれてこないと思われるフシが私共の周囲
には多くあります。
それは神様は私共を一人ひとり切り離してでなく、私共と先祖を一つにして支配
しているからであります。善人が善をなしつつ、なおかつ苦しまねば
ならないのは先祖の悪を自分の善によって償いつつあるからで、つまり借金をしてい
るのと同じであります。その善が利子だけを払っているのか、利子に元金をいくらか
つけて返済しているのかここが問題であります。
見えない世界では、人と人との取引のように怠納は許されない。
利子だけはどうしても支払わねばならないのであります。
従って、利子に幾らかの元金を加えなければ「善人」とはいえず、つぐないにも
ならないのであります。祖先のしたことであるのに馬鹿らしいと思う人がいますが、
しかし私共はそこから外れることのできない生きものであります。悪い人が悪をしな
がらなお、罰を受けずに過ごせるのは先祖の積善がその悪をつぐなうからであります。
先祖の積善という貯金があるからで、借金をしても先祖のもので返しているので
あります。
 しかし、先祖の蓄えにも限りがあります。やがて先祖を裸にしてしまい自分は借り
で首がまわらなくなり、その責を子孫にとらせねばならなくなるのであります。
 と、以上説してみえるのであります。私共はこうしたご教祖の教えを守り、その上
で瀬戸元総監の話に耳を傾け、子孫のためにも積善の日々を送ることに心がけたいも
のであります。
 今回は神理図第十三番を取り上げさせていただき一口話といたしました。

おわり

☆★☆ 素朴な疑問 ★☆★
     
 Q & A

Q1、神社にはどうして鳥居があるのですか?

A、 神話の「岩戸開き」で常世長鳴鳥というニワトリを集めて鳴かせた時以来、神
前にニワトリの止り木をつくり、神社の聖域を示すようになったと言われておりま
す。聖域(鳥居)に入る前には、一礼して中央を歩かぬように通って下さい。

Q2、宗教は質素というイメージがありますが、贅沢な生活はいけないですか?

A、 贅沢とは身分にふさわしくないおごりです。神は只で全てのものを生かし働か
れています。
 元来、人間も神の前には、自然の一物であるから、人間以外の生物が自然に逆らう
ことをしないように、人も神の御心を尋ねてそれに従って行くことが大切です。必要
以上に派手に生活することは、他人の分までうばうことになり、むさぼりの罪として
己を誡めねばなりません。      

あとがき
                           
 厳しい寒さの中で迎えた新年で、本院では何年かぶりで神苑の池も凍りました。
 人が夢を見るのは、天神のはからいで、まだ見ることのできない後の事を見せてく
ださるということです。将来おこるであろう善い事や悪い事を、夢をとおして見せて
くださるのです。
 その夢にも起こるべき事を其のままに見る場合と、物にたとえて見る場合があります。
 私自身に降りかかる大変な事があるときは、祖父・祖母かまた父・母の姿を夢に見
せてくださるのです。その姿は生前と少しも変わることはないのです。
 人は神様から霊魂を授かって人として生まれ、人の人たる道を尽くして一生を終
え、死しては其の魂は天上に帰り、子孫を守る神となるのです。夢にその姿を顕す時
は、喰べたり唄ったり喜んだり話したり、また驚いたり悲しんだりと様々の婆を顕す
ことがあります。
 その姿や様子で、病気や災難を知らせてくれます。しかし、中には夢に姿を顕す事
が出来ないひとがあります。生前に人の道を尽くさなかったので、魂が天上に帰る事
が出来ずに、黄泉の神の咎を受けて、子孫の悩み苦しむ姿を見ても、助けることが出
来ず、子孫の夢に懸かる事が出来ないのです。
 見る夢も様々で、姿を見せても話す事ができず、声を聞きながら姿は見えず、ま
た、他人の夢に顕れても子孫の夢には顕れないなど様々です。
 昼寝してまどろに見るは忽ちあり、宵に見れば明日、夜中に見ればあくる日、夜更
けて見れば三日の内に、暁に見れば久しくしてあるしるしなりと教示されています。
 「夢うらなひ伝」から例をあげます。
 水は清浄なる物なれど井に見ては深く、川に見ては清く、沢に見てはかくれ止ま
り、瀧にては物音することありき、神に願し事叶うしるしなり。
 石はおもく動かざる物に見るべし、引くと見ればむつかしき事あり、なぐると見れ
ば人と争い有り、石築をなすと見れば己一人にして物を成就するしるし。
 宮につきし事は凡て鳥居・玉垣など皆思う事のしるしなり。
 餅は思わざる富貴来るしるし。などです。
 わたしたちは、夢を見る事が少ないし、見てもそれを覚えていないのです。少ない
のは、わたしたちの見る力が弱いからなのです。
 夢は子孫を守ろうとする祖先からの働きかけなのです。悪い夢を見たときは、神と
先祖を祀れと教示されています。
 二月十六日は教祖生誕祭です。教祖殿で十一時より祭典が執り行われます。直会の
準備をいたしておりますので皆様ご参拝ください。
(誠)

戻る