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神理                                         2003−12

平成15年12月号 第1078号

        


巻  頭 の こ と ば




年末の大晦日には大祓神事がある。
自分を清める為のものだけではない。
自分が汚れていると、周りの人や尊い神様にまで
その汚れを移すかもしれない。
だから、その前に自分を祓う。
神様や他人に対して申し訳ない、迷惑がかかる。
相手のことを思いやる姿勢。日本人本来の姿がここにある。

「清ければ 神はよるなり 掃き清め
   祓い清めて 神祭りせよ」(教祖御歌)



                かんなぎべ  たけひこ
  神理教管長   巫部  健彦
      た         こころ  ゆ     こころ  
   絶えまなき 心の揺れに 心して
              ふ   たが      みちえら
           踏み違ひなき 道選ばばや

 二大政党対立という図式を示して政権交代を思い描かせながらの総選挙は、凡そ二大政党対立といえる状況は見られる事になりましたものの、結局は少数政党の弱体化を招くにとどまり、絶対安定多数と言われる与党勢力を温存させる結果となりました。

 人間の心は、現在より少しでも暮らしやすい状態を求め続けている、と申せそうであります。いわば現状打開、さらには現状打破ということになる訳でありますが、今回の選挙を始め、今年の大小雑多な出来事の中にも、そうした心理の働きがあったように思われます。

 しかし、現状打破という事態が現実化することになったイラクでは、暮らしやすい生活への期待が裏切られ、身の危険は寧ろ増大している様でありますし、現状打開が試みられたイスラエル・パレスチナ紛争も、前途の展望は全く未開ということの様であります。

 両者とも、民族や宗教を巡っての根深い対立という特殊な障害が要因となっている様でありますが、そうした根深い障害がない場合でも、現状打開はまだしも、現状打破が事態の好転に直結する可能性は、決して高いとは申しかねるものがあると考えられます。

 今回の選挙結果は、政権交代による暮らし向き好転への期待感と、そうした現状打破に伴う危惧感を示していると見取られますし、端的には、選挙のため俄に合併した集団の実行力に対する信頼感の不足が最大の要因!と申せそうであります。

 つまり、我々としては個人の生活においても、期待感を抱かなければ打開・前進は望みがたく、危惧感に欠けたままでは暴走・転落が避けがたく、又、周囲からの信頼が強くなければ幅広い支援・助力は得られぬ、という点に考え及ばねばならぬ様であります。

 申すまでもなく、期待感と危惧感とが程よく作用し合う状態が保持されれば、前途打開への歩みが円滑に進められ、おのずから信頼感も寄せられる事になると思われます。そうした過程をたどって、いわゆる二大政党が熟成するよう望まれますし、我々も亦、当面の困難を打開して、より暮らしやすい生活への歩みを着実に進める事になりたいものであります。
                                             

12月号

自然(おのずから)(みち)

(さち) (ひこ)

(かみ)(しん)(こう)()()あるのか?

(かみ)()るか、(しん)(こう)(ひつ)(よう)

先月(せんげつ)は『(ひと)(さる)子孫(しそん)か?』についてお(はな)ししましたが、その(こころ)(しん)(こう)にも(つう)じるものがあるようです。

 (しん)(こう)をしようとして(かみ)(そん)(ざい)(しょう)(めい)しようとすると、()(みず)(しん)()(ろう)のように(どう)(どう)(めぐ)りに(まよ)()むことがあります。

 信仰(しんこう)をしまいとして(かみ)不存在(ふそんざい)証明(しょうめい)しようとすると、ふと(かみ)祖先(そせん)存在(そんざい)意識(いしき)することがあります。

 信仰(しんこう)(ひと)にとって本当(ほんとう)必要(ひつよう)なものなのでしょうか、そし()()(ひつ)(よう)なのでしょうか。

(かみ)信仰(しんこう)はどちらが先か

また(しん)(こう)(こころ)(ささ)えとなるから(かみ)()るべきだということなのでしょうか、それとも(さい)(しょ)(かみ)()って(ひと)(もく)(てき)()たすために(しん)(こう)(あた)えて(くだ)さったのでしょうか。

 (かみ)存在(そんざい)信仰(しんこう)はどちらが(さき)なのでしょうか。

 (ひっ)(しゃ)(かみ)(しん)(こう)()(なか)がうまく(まわ)って()くための(ほう)便(べん)ではないか、と(かんが)えていた()()がありますが皆様(みなさま)はいかがでしょうか。

(かみ)(しん)(こう)()(なか)(うん)(えい)する(どう)()であるか

 この()無常(むじょう)なもので(ひと)良心(りょうしん)などは(なん)根拠(こんきょ)必然性(ひつぜんせい)もないものなのでしょうか、それとも(なに)(おお)きな()()(そん)(ざい)があるのでしょうか。

 (わたし)たちが(いっ)(しょう)(けん)(めい)()きるのは、ただ()(にん)より()(せい)(かつ)がしたかったり(ぜい)(たく)がしたいからでしょうか、それとも(なに)かもっと(おお)きな(しあわ)せや目的(もくてき)(さが)しているからなのでしょうか。

 (どう)(とく)というものがあるのは、そうした()(そく)()(なか)()みやすくするための(どう)()だけだからでしょうか、それとも(なに)(べつ)意味(いみ)があるのでしょうか。

()(だん)(しん)(こう)もしていない(かみ)()()いにして、(こう)(うん)(はん)(たい)()()などの不運(ふうん)を『ほら、やはり神様(かみさま)はいるのよ』などと便利(べんり)使(つか)うことがあります。

 (かみ)(そん)(ざい)(しん)(こう)(もの)(ごと)(せい)()(あく)()けるための(こう)(しん)(りょう)であり、架空(かくう)のものなのでしょうか、それとも(かみ)存在(そんざい)信仰(しんこう)必要(ひつよう)なのでしょうか。

 (ひっ)(しゃ)(かみ)(そん)(ざい)(しん)(こう)(ひつ)(よう)(せい)を、道徳(どうとく)正義(せいぎ)正当(せいとう)にするために納得(なっとく)させる便宜上(べんぎじょう)()(ゆう)()けだけに使(つか)われているような()がしてなりません。

そうした()(ゆう)()けのためだけの(かみ)(しん)(こう)では、(はん)(たい)(かみ)(そん)(ざい)せず(しん)(こう)(ひつ)(よう)がない()(ゆう)()けにもなるように(おも)うのです。

(はだか)王様(おうさま)

(はだか)(おう)(さま)”という(どう)()をご(ぞん)じでしょうか。

 お(かね)()ちの(おう)(さま)(ぜい)(たく)(もと)める(あま)り、()鹿()(ひと)には()えないという(ほん)(とう)はない()(もの)をあるとだまされて(たか)いお(かね)()わされてしまう、という(はなし)です。

 (さっ)(こん)(しゅう)(きょう)(ほう)(じん)には(ほん)(とう)()いものをあるように(しん)(こう)(うなが)して(きん)(せん)(せい)(きゅう)する、童話(どうわ)の“(はだか)王様(おうさま)”のような(だんたい)があるのは(まぎ)らわしいことです。

 ()(かみ)(さま)でも(どう)()(おう)(さま)のようにあると(しん)じれば(しあわ)せなのでしょうが、(もく)(てき)(ちが)うことからだけでも、()(ぜん)()()しはわかってくるものです。

 ()いものでも(しん)(こう)しているから()(しん)()()るのではなく、そうした(しん)(こう)(かり)にその()()(しん)()()たとしても(なが)(つづ)きの()()ないものです。

(しん)(こう)(さき)()(しん)(とく)(さき)

 (わたし)たちは(しん)(こう)(さき)(おこな)()()ちが(たい)(せつ)なものの、実際(じっさい)にはどうなのでしょうか。

 (ふし)()も   (かみ)()()りは   ()えぬなり

            (ひと)(わす)るる   (とき)のありとも         神徳(しんとく)百首(ひゃくしゅ)

(きょう)()()(うた)にあるように、(わたし)たちは(おう)(おう)にしてその()その(とき)(ふん)()()にのまれ、(かみ)()(せん)から(いただ)(まも)りを(わす)れてしまいがちです。

 しかし(かみ)はいつも()(そん)である(わたし)たちのことを、(おや)()のことを(わす)れないのと(どう)(よう)(まも)って(くだ)さっているのです。

 (かみ)()(せん)から(まも)って(いただ)いているという()(じつ)と、その()(じつ)()(しん)として()()める(しん)(こう)(こん)(ぜん)となりながらも(いっ)(たい)になる姿(すがた)が、(ほん)(ねん)(おのず)(から)なる(ひと)()(かた)といえます。

(かみ)信仰(しんこう)道徳(どうとく)(あん)(しん)

 ()(なか)()くするための(どう)(とく)(ひと)つとして(しん)(こう)()るのではなく、(かみ)()()()があって()(なか)()くなるために(しん)(こう)があり、(どう)(とく)はその(しゅ)(ほう)(ひと)つなのです。

 神道(しんとう)性善説(せいぜんせつ)でも性悪説(せいあくせつ)でもなく、大元(おおもと)(かみ)であると(かんが)えます。

 この(かみ)最初(さいしょ)にあるからこそ、その(かみ)への信仰(しんこう)(まこと)安心(あんしん)への(とお)(みち)になったのだと(しん)じます。

 (しん)(こう)があるから(かみ)()るのではなく、(かみ)があるから(しん)(こう)()るのです。

 (ひと)(さる)(どう)(こん)ではなく(さい)(しょ)から(ひと)()るべくして()ったように、(しん)(こう)(かみ)()るからこそそれに()って()るのです。

 (しん)(こう)という()()えぬ(こころ)(かたち)()(ぼう)()きる(よろこ)びの(こん)(きょ)(いただ)くことになり、そうした()きることへの()(かく)()(しん)()()御神徳(ごしんとく)(いただ)くことになります。

 それが(かみ)()(せん)()(まも)りの(ちから)であり、(さい)(しょ)にこの()(まも)りの(ちから)があるからこそそうした気持(きも)ちになれ御神徳(ごしんとく)(いただ)けるのです。

(はじ)めは(かみ)(そん)(ざい)(しん)(こう)(ひつ)(よう)(せい)

 (かみ)(そん)(ざい)(しん)(こう)(ひつ)(よう)(せい)(はじ)にあって、それが(じん)(せい)()ごす(うえ)での(こころ)()りどころにもなります。

 それは(こころ)()りどころになるために(かみ)(しん)(こう)()るのではなく、その(りょう)(ほう)(こん)(ぜん)(いっ)(たい)となりながらも、まず(かみ)信仰(しんこう)があるのです。

 ここがわかっているからこそ、『()きていることは(ぐう)(ぜん)であり、そのまま()きていても()んでも(おな)じである』(など)とは(けっ)して(おも)わなくなるのです。

 ()きていることに(かん)(しゃ)()()、『それならば(なに)(かみ)なる()(なか)にお(かえ)しをしたい』という()()ちになれるのだと(おも)います。

なべて()に   ()のなき(もの)は   ()かりけり

          (かみ)我身(わがみ)の   (もと)()らずや      ((もも)一枝(ひとえだ)

()(へい)()(まん)から(かん)(しゃ)(ほう)()へ((ことわり)活用(かつよう)

 こうした()()ちになれることが(かみ)(ことわり)からも(はじ)めということがわかれば、(たと)えば()(へい)()(まん)()(あん)からは()いものが()まれるはずがないことが()かります。

 ()(へい)()(まん)()(あん)(みずか)らの(こころ)(くら)くし、それは(かお)(いろ)(けん)(こう)(えい)(きょう)すると(とも)に、(ほん)(らい)ある()(ぶん)(ちから)()すことが()()ません。

 (もと)(かみ)(そん)(ざい)(しん)(こう)(ひつ)(よう)()ることが(かみ)(ことわり)として()かっていれば、(じん)(せい)はもっと()(らく)(おお)(もと)のご(せん)()(たよ)り、(かん)(しゃ)(ほう)()(あか)るく(あん)(しん)(せい)(かつ)(おく)ることが()()るのです。




    

            管長様が解説する御教祖の御歌   『人道百首』より

    己れ只 心一つで 己が身を

       生し殺すの 果となるなり


 人間のいとなみは、肉体的なものと精神的なものとの二つに大別できる、と考えられております。一人の人間のいとなみでありますので、この二つがどこかで接点を持つということも考えられていることは、申すまでもないところであります。
 現今では、心因性といわれる病気、つまり心の持ち方が原因となって内臓その他の肉体的組織機能に障害が生じるというかかわり方が証明されることとなっています。
 つまり、心と体とのかかわり方は従来考えられていたほど遠回りのものではなく、ほとんど直接的と言えるほど密接している点が、はっきりしてきたわけであります。
 もっとも、我々の肉体は、極めて精妙につくりなされており、凡夫の日常的な精神的打撃には充分に対応できると共に、できなかった場合の復元力もかなり強いということのようであります。
 それゆえ、いわゆる心痛や鬱屈の時を持ちながらも、それが肉体的な障害とはならずに済んでいる次第であり、この点は決して見落としてはならぬところであります。

 取り返しのきかない肉体的障害が生じるのは、肉体に備わる絶妙な機能という条件に甘えすぎた結果である、と申せる場合が多いからであります。
 我々としては、心の持ち方が体の死ということに直結しかねないことを踏まえ、体が備え持つ絶妙で寛大とさえ言えそうな機能や組成に甘えすぎぬよう留意せねばならぬわけであります。
 そうしたことと共に今一つ考えておかねばならぬのは、我々は個人として生きているだけではなく、社会の一員として生きている、という点であります。社会の一員という立場が失われると、ほとんど生存しえないという点であります。

 時代と共に、いわゆる自殺は、事故死と共に増加しているように見受けられます。
 極論にすぎるかもしれませんが、そうした自殺は、事故死の大部分を含めて、社会の一員としての生き方に欠ける点があった故のこと、と言えなくもないように思われます。
 結論的には、社会を甘く見すぎていたか、社会の寛大さに甘えすぎていたかを原因とするもので、そうした心の持ち方が責められねばならぬということではないでしょうか。
 生きているということは、信仰的には生を与えられているということになりますが、何にしても社会の一員としての貢献が期待されているということであります。
 そうした受け止め方ができれば、体とともに、いわゆる身を生かす生き方に進むことができる訳で、そうした心を養うよう努めることが肝要と考えるべきであります。
 我が心の持ち方が人生を左右するという御教示を重く受け止め、日々をゆるがせにすることのないよう、ともどもに心掛けて生き貫くことになりたいものであります。     



  幸福への出発

    第21集   子宝を宝に育てる 

             親の育児書



 子供は授かり物と言いますが、正に神の子なのです。「神様から命を授かり先祖から身体を受け継いで誕生」するのです。子供の命と身体は神と先祖の大きな愛により存在しているのです。子供は決して親の所有物では有りません。両親は責任として神と先祖その大きな愛の働きのために子供の育つ良い生活環境を造る必要が有ります。
其の為には一番先に両親が自分の心を育てる事が重要なポイントになります。
子供の誕生は両親も赤ちゃんも全てが一からの同時出発になるのです。子供を育てながら親の心も同時に育って行くことが大切です。
「親の心を育てるために神と先祖が子供を授けた」のです。「子供が居ることで家庭が楽しく賑やかで未来に大きな希望が持てる」大きな家族の喜びと楽しみがあります。

その為には親が安心をして子供を育てられる環境を作る努力が必要です。生活を安定させて「優しさと寛大さを親自身の心の中で子供の成長に合わせて成長させる努力」が必要です。それは自分の性格を良い性格に作り変えることなのです。
子供の誕生は神と先祖が与えた自分への希望と未来なのです。
夫婦を冷静に良く考えてみれば、妻は妻の両親の元で今まで育って来たのですから、その自分が育った生活環境しか知らないのです。自分の母親がして来た事を当たり前として自分も同じ行き方をしているのです。
夫も同じ事です。自分が育ってきた生活環境はなかなか変えられないものです。
父母の力関係はそのまま自分の夫婦関係に同調するのですが、夫婦が育ってきた環境が同じならあまり問題は起こりませんが、ほとんどの家庭で夫婦のなんらかの性格的な違いが有るものです。
しかし生まれて来る子供には今の家庭が育つ家庭環境になるのです。

自分達の未来は、この子供の心の成長に大きく左右されることを夫婦は知る必要があります。「当然なるべくして成る結果をこれから築いていく」のですから「子育てがいかに大事で大変なのか良く自覚して子宝を宝にする育児法を勉強し習得」する必要があります。
その育児法の第一は「子供は親の鏡(神我見て何時でも神様は見ています)」と言う事をしっかりと親が自覚をして先ず夫婦の仲を良くする事、その為には夫婦お互いが自分の欠点を良く知って性格を神の心に近づける努力が必要です。
夫婦で欠点を言い合うのではなく、「相手の立場になって考える事」です。性格を良くすることは持って生まれた先祖の因縁(遺伝の中の罪の部分)を良くすることなので、性格の持っている自律神経と血液の浄化が出来るので血流が良くなり頭の回転も良くなるのです。
しかし性格を良くすると言う言葉は簡単ですが実践は大変な努力が必要です。ほとんどの人が一生かけても性格は変わらないのが現状です。
そこに不幸の原因(罪)が病気や事件事故の原因として働くのです。性格の中にある罪の祓いが清濁を分ける神の平等の原則により神の子として当然の理(祓い)として働くのです。神理教の「敬神尊祖の信仰は人ではなく自分の性格を自分で良くする教え」なのです。

人の悪い性格を責めるのではなく、神様が私にその人の性格を通して御教えをして下さっているのだと考える事が性格の浄化になります。
「信仰とは物の考え方と物の見方を勉強する事が信仰です」子供を素直で明るい性格にしたいのなら、敬神尊祖の信仰の中で自分を磨き子供の心を育てる生活環境を、先祖の守りと神の救いのある生活を目標に奉仕と罪の祓いの信仰を実行する事が大切です。

不幸の原因は信仰の無い家庭に起こりやすく、持って生まれた先祖の徳と罪の重さに比例します。先祖の残してくれた徳(先祖の守り)は自分が無意識の内に作る罪の祓いとして使うから、やがて無くなるのです。
無くなれば必ず自分の性格的な罪の祓いとして他人から被害を受けることになります。
徳は心と行いで積むものです信仰も奉仕も心(性格)の浄化を伴う事が信仰であり奉仕なのです。
ところが先祖の原因次第では他人ではなく身内からも被害を受けることも有るのです。
先祖間のトラブルは身内間のトラブルとなり、心の行き違いが不信感となり色々な出来事が重なり被害を受ける事になるのです。身内間のトラブルは墓と先祖祭りと持って生まれた自分の性格に関係が有ります。親子でも同じことが言えます。

幸せは先祖の守りと神の救いの働きを受けられる信仰が大切です。先祖の守りとは和魂の働きで守護霊です。しかし和魂はあなたの性格の幸・不幸の原。因なのです。
罪を作るのも和魂です事件や事故を起こすのも和魂です。和魂は性格です。性格は欲望の影響を強く受けます。
反射的に我欲の心が働くと周りの状況が見えなくなるのです。我欲は善と悪の判断が出来なくなるので罪を作る結果になるのです。和魂は脳細胞の中心の間脳にあります。そしてこの間脳はバイオリズムを基本に脳波を出していつも先祖と交信しているのです。夢を見たり、虫が知らせる、うわさをすれば影等の第六感と言われる霊感の一種です。
つまり自分と先祖は常に交信しているので家族事件や事故は予感として察知できるのです。しかし守護霊として守りがあるのは罪の祓いをしっかりして和魂の性格を良い性格に変えて行かなければ、神様から産須根の神の位を頂くことが出来ません。

産須根の神となられて初めて守護霊となり子孫を守る事が出来るのです。先祖の守護霊の守りとは時間的な不一致の働きで事件や事故に合わないで済む様に一生懸命守られます。神の救いは、もし先祖の守りが間に合わなくて事件や事故に遭ったとき命を救う働きです。

身体はすべて神様が創造されて神の子として休むことなく新陳代謝の働きを受けています。この代謝活動は壊れた細胞を修復したり疲れた細胞を若返らせる神の働きです。このように神様はいつも神霊(幸魂)を通して働かれて居られるのです。
事件等の他人からの危険は幸魂の神霊が危険を察知して祓うべき罪と比較してから、その事件になるまえに知った人に出会ったり又は犯人の気が変わったりする救いの手が差し伸べられるのです。この様に私たちが安全に生活をする為には「敬神尊祖の信仰がいかに大切かを今一度家族皆で話し合うことが必要」な時代に成っているのです。

現代は宗教の多様化による宗教不信になっています。金儲けのための新興宗教などによる悪いイメージが底流にあり無宗教者が増えています。そのため善悪の境目が無くなりつつあります。悪い事をしている人に注意をすれば逆に殺される危険が有るのです。
日本の治安もだんだん欧米に近くなりつつあります。
人間が又近所に住んでいる人が一番怖い世の中に成ってきています。
この社会で子供や孫たちを育て躾をして行かなければならない今の世の中には、神と先祖の守護が何より大切な事なのです。
先祖の導きにより神理教とご縁を結んでいるのです。家族でよく話し合ってこの幸せを子供たちと永続できる信仰を心がける事が大切です。
信仰の中心は神様です。幸せの原因は先祖の中にあります。信仰の目的は自分の性格の浄化なのです。心からの敬神尊祖の実践を喜んで奉仕することが生かされている事なのです。
        


研究のページ


 先月(便所)に続き少し専門的のように感じたので、ここでお答えします。

質問
 家の屋敷内に水道管を通す場合に御祈願を依頼された場合、@御神名とA式次第を教えて下さい。
 この場合も、B祝詞を作るのですか。

応答
 先月同様に、御祈願を依頼するということは、依頼者として何か感じるところがあるのでしょうから、応えて差し上げるべきだと思います。
 水まわりについても生活に大切なものですから、お祭りをされる事をお勧めします。
 南西(裏鬼門)から水を引くのは凶、といわれます。
@御神名について
 守護をお願いする神名は、先月も申し述べた通り神理教では何のお祭りでも第一に大元から守護し命令を下される天在諸神(あめにますもろもろのかみ)です。
 その天在諸神の中にも、十柱神のうち水兄・国常立神と水弟・豊雲野神です。
 次にその天在諸神の命令を受けて実際に働かれる配祀諸神の中にも、五祖神のうち水波之女(弥都波能売)神、また鳴雷神・大国主(大己貴)神・少彦名神の御神名を称えます。
 鳴雷神は雷の神様ですから、雨を連想させるように水を司る神と信仰されてきました。
 大国主(大己貴)神と少彦名神は医薬の神様であり、祝詞に”…生薬の足薬…“とあるように清潔で健康に良い水を戴きたいという願いが信仰となっています。
A式次第について
 清祓→(大祓→)祓い行事→降神の儀(神離を用意)→水道配管工事報告祝詞→祈念詞→玉串拝礼→両断再拝→昇神の儀。
B祝詞を作るのですか
 @の御神名を入れてAの順で祝詞を奏上します。



                 *** 教 祖 の 道 統 *** 


   長崎教会 教会長 大教庁式務局長 花岡 勝成

     第四章 教祖の霊観
       第四節(その一)鎮魂(つづき)


鎮魂と招魂の違い
 鎮魂は霊の一作用が調和を乱し他魂より強い活動を起こした場合、これを静かに鎮めることであり、その多くの場合は荒魂が活動を起こした時であって、荒魂の本性です。
 他の諸魂が染悪しない様に守ろうとする時に調和を乱して、憤怒したり又猪の様に向こう見ずに突き進む様なことがある為、これを鎮静する方法であります。

魂の分離による害と調和の必要
・鎮魂の目的(第一義)
 又霊威は荒魂を取り鎮めて和魂だけの活動にまかせておく時は、活動の元気は次第に消え失せ向上発展の精神が衰えて来るので、荒魂の作用を起こす方法である為に、鎮魂も霊威も単にある一つの方法のみでは出来ません。
 必ず両者の力が合わさって完全を期するものですから、霊威のない鎮魂はないと同時に、鎮魂のない霊威はないのです。
 従って本教でいう鎮魂とは魂結びも霊威も、又鎮魂も一切を加味した修法をさして鎮魂というのです。
 即ち、特に脱出した魂を引き戻すと同時に、調和がとれず活動の足らない魂を振り起こす処の方法であると同時に、又魂が天賦の調和を常に保って行く様にするのが、鎮魂法であることを理解しなければなりません。
 霊の発現である魂の本魂である幸魂は前に説明した様に『スガカミ』の意味であって、霊と同体の魂で清浄にして汚れのない魂でありますから、荒魂の突出した活動や和魂の活動が衰えたり悪くなったりして、幸魂の徳を汚されない様に十分に調和を保つということが第一義です。
 即ち、天祖天照皇大神が天孫降臨に先立って、饒速日命に十種の神宝を授けて天降らせられた御心は茲にあります。
 魂が調和のとれた活動から飛び出さない様に、汚れのない清浄なる魂であるべしと、特に御心を注がれた様です。
・鎮魂の目的(第二義)
 しかし、人間は根国底国より来る罪穢れに染んだ清濁混合の大地気に生まれおるから、その気に触れて染悪し荒魂がその本性から離れた活動をする場合(そんな人間が居た場合)は、これを鎮静しなければなりません。
 もしこれをそのままにしていたら粗暴な人間になり、闘争を好み身を亡ぼす基となります。
 又荒魂が非常な活動をする場合は、和魂の活動は全く押し込められた状態にありますから、只荒魂だけを鎮めても和魂の活動が休止同様であれば、和魂の本性は失われて身体も精神も弱々しい人間となり、憂鬱悲哀(気が晴れず、人生を悲しく哀れむこと)に陥って、疾病災害の基となりますから当然身を起こす事が出来ません。
 これが鎮魂の第二義であります。
・父母の気に影響される
 人間は神の霊と同じ質のものを授かって生れ出たものでありますが、霊の発現作用には高下多少の違いがあり、その差は父母の気を受けることによって違います。
 霊は神から授かるものでありますから、一切無差別で一切性善であることは既に述べましたが、しかしその霊も大地気にふれて染悪することもありますし、又父母の気を受けて染悪することがあるということも述べました。
 これによって見ますと母の胎内にある時、神より授かった霊も父母の気に染まることも納得されるでしょう。
 俗に人はあの子は生まれ付きおとなしい子だとか、生まれ付き意地の悪い子だとかいって居るが、これが両親の受けた結果であり、生まれ付きおとなしい子は、例えば霊の発現である魂全体を十の活きがあるとしたならば、四魂の平均点数はどちらつかずで平等でありますが、和魂が平均点数を得られず、わずか一の力の活動の外出来ない為に、生まれ付きおとなしい子が生まれる。
 又生まれ付き荒々しい子は、荒魂が他の平均点数をうばって、一魂にその大半を集めた為です。
   



                古事記「絵で見る解説文」
  
G伊邪那岐はいわれたとおり…
  ―― G挿絵の説明 ――

 伊邪那岐の神は言われたとおりに待っていましたが、伊邪那美の神はいっこうに姿を現してくれません。
 様子をうかがっても、うかがい知れない静けさが漂うばかりです。
 やがて辛抱しきれなくなると、ついに扉を押し開け中に踏み込んでゆきました。
 あたりは地の底の一点の明かりもない闇です。
 決心した伊邪那岐の神は、髪に挿した櫛を抜き、歯を一本折るとそれに火を灯して分け入りました。

*一本蝋燭について
 私たちは神棚に蝋燭を灯す時、一本ではなく二本にします。
 これは、伊邪那岐命のこの話(故事)から来たことなのです。
 暗く恐ろしい黄泉の国へ伊邪那美命を失った悲しさや悔しさと、それを取り戻せるかどうかもわからない不安を持って、伊邪那岐命は櫛の歯を一本折って、心細く闇の中を進んで行きます。
 そうした寂しい状態を不吉と見て、一本蝋燭が嫌われたのです。
 またそうした不吉などという理由とは見方を変えて、神前や霊前を明るくして差し上げようという気持ちから、一本などにせずに、ということでもあります。
 普段のみでなく、葬儀や通夜祭の時でも二本にされることをお勧めします。
 また、神酒瓶や榊立てなども左右に置きます。
 塩や水玉は、お供えと同じで一つずつで結構です。
 
                                                         
 
         「 本 院 職 員 紹 介 」


松岡 功さん(まつ おか  いさお)

 松岡功さんのお祖父様・大助さんは大阪市内での教会活動から大正十五年、大阪府交野市で神理教・哮が教会を開きました。現在は、松岡さんのお父様が二代目の教会長を務めています。さらに、母方のお祖母様も神理教の信徒と、生まれた時から神理教とは深いご縁があった松岡さん。しかし子どもの頃は、あまりそのことを意識したことはなかったとか。
 やがて松岡さんは社会に出て「普通の仕事」に就きます。
 転機は、その仕事を辞めて少し休憩していた頃に訪れました。
「管長様が哮が教会に来られた時、お話させていただく機会がありました。そこで『本院に来てみないか』とおしゃっていただいたんです」
 それが、ちょうど平成六年、独立百周年の年のことでした。
 松岡さんの仕事は庶務課。「要するに雑用係ですね」と謙遜しますが、例えば大祭の時に宿泊や布団、食事の手配を行ったり、県庁や法務局に出向いたり、たまにお祭りに同行したり、夜間の緊急の連絡に対応したりと、なかなか多忙です。

「管長様のカバン持ちとして、各地の教会に連れて行っていただきます。教会の雰囲気が違えば、皆さんの考え方もそれぞれ違う。いろいろな角度から神理教を見ることができて、勉強になりますね。裏方は楽しい仕事です」
 いつもは本院の中で一日を過ごすことが多い松岡さん。「神域の中でうろうろさせてもらっています。新鮮で気持ち良くて、とても居心地がいいんです。自分には合っているんでしょうね」。
 そんな松岡さんの趣味は、祈念詞用の笛を作ること。教修生がみんな笛を吹いているのを見て、見よう見まねで作ってみたのが始まりでした。地元の方から教えてもらって、自ら竹をとりに行きます。初めは、なかなかいい音が出ませんでしたが、何本も作るうちに、段々要領が分かってきたそうです。

「音が出た時の感じがたまりませんね。やりだしたら、おもしろくて」
 これまでに百本近く作ってきたというから、大したものです。
 しかも、それだけではありません。もともと笛には譜面がなく、口伝えで教修生から教修生へと受け継がれていました。そこで、松岡さんはあることを思い立ちます。
「総務局長にお願いして、指づかいの譜面を作っていただいたんです。笛があって、譜面があって、テープに吹き込んだものがあれば、初めての人でも練習出来ますからね。若い人も、楽からなら入りやすいかもしれない。笛は、一つのきっかけになるんじゃないでしょうか。できるだけ笛をたくさん作って、できるだけ多くの方に吹いていただきたいですね」
 松岡さんには三歳になる娘さんがいますが、三歳検診の時、「お父さんの仕事は?」と聞かれて、「ふえ!」と答えたそうです。「大祭の時、私が笛を吹いているのを見ていたんでしょうね」と目を細める松岡さん。「子どもの成長を見るのが楽しみです」とにっこり。
 来年、神理教は独立百十周年を迎えますが、松岡さんにとっても来年は本院へ来て十年目という区切りの年。それだけに、来年の大祭への思いはひとしおのようです。
「一人でも多くの皆様のご帰院をお待ちしています」

             



              特派員だより  「先祖と迎える本院大祭」

 今回の秋季大祭には、十五名が帰院する事が出来ました。
 大祭日は通常十五・十六日ですが、横江初恵教会長と共に数名の教信徒が、先発隊として十四日に帰院します。
 昔は夜行列車で十五日の早朝に着き、大祭奉仕後は再び夜行で名古屋へという強行軍でしたが、時が移り、博多までの新幹線開業に加え、駅からはすぐにモノレールに乗り換えられます。「のぞみ」を利用すれば約三時間半で本院に到着です。
荷物を宿舎に置いて、本殿、教祖殿への参拝を済ませると、早々に、先発隊の行動開始です。供花を調達するグループ、掃除をするグループに分かれ手際よく作業が進められます。バケツ、柄杓、タオルを手にして納骨殿と墓所に向かいます。

 納骨殿には、当教会関係の四基のロッカーがあり、また萩尾の墓所には、昭和四十七年建立の教会開祖御夫婦の墓と教信徒の墓、昭和六十年に故人(現教会長ご主人、光明大人之命)の遺志に沿って建立された、横江家の墓の三基が南面して横一列に並んでいます。

 心を込めて、ロッカー内や墓石の汚れを拭き清め、茂る雑草を抜き、各自持参した思い思いの供物を捧げます。
 横江教会長の「まず、お墓を綺麗にしてご先祖様達に喜んでいただき、その喜びの祖霊と共に本院大祭を迎える事は、神理教の教えにも沿った事であり、重きを置きたい。感謝と思いやりの心は、生きている人だけに向けるのではないのですから、一輪の花でもいいのです」との考えから大祭前日の帰院が始まりました。

「写真左から横江重信先生、水野宣言先生」





 こうした教会長の意を理解し、その為に仕事の都合をつけて参加してくださる方々には、感謝の気持ちで一杯です。
 教会長の娘さんが、生前の光明先生に「何故、遠い九州にお墓を建てるの?」と問いかけたところ、「遠い近いは関係無い。近くても来ない者は来ない。
遠くても来る者は来る」と答えられたそうです。

 大祭最終日の納骨殿と墓前の後片付けに至るまで、一生懸命仕えてくださる方々の心を、ご先祖様達だけでなく親神様もしっかりと受け取ってくださると思います。

 作業を終えすがすがしい気持ちで、青年部として奉仕の方、祭官奉仕の方、楽人奉仕の方とそれぞれに大祭二日間を有意義に過ごしました。
 無事日程を終え、慌ただしく荷物を整理して小倉駅へ。

 特に次回は、記念すべき春季大祭です。より多くの教信徒の皆さんと共に帰院できる事を願い、来年へのエネルギーとして本院の空気を体一杯に受け、新幹線に乗り込みました。



献饌式後の挨拶

平成十五年十月十五日
式務局長 花岡  勝成

【禊より 心のけがれ 祓うこそ
   神の心に かなうなりけり】


 禊とは、言うまでもなく自分の体にある罪や穢れを
祓う為に、水をかぶったり滝にうたれたりして、身を
すすぎ清める事でありますが、この禊をする必要はな
いと言うのではありません。私達信仰する者にとりま
しては、欠かす事の出来ない大事な神事であります。
 禊をする事によって、体の穢れを祓い清めると同時
に、心をも清めると言う大切な目的もある訳です。
 従って、禊と言うものをもっと広い意味で考えます
と、水をかぶったり滝にうたれる事だけではなく、
私達が毎日神前に侍り、合掌して祈る事も禊の内に入
るのではないでしょうか。しかし、私達はややもする
と、禊や祈りと言う形にだけとらわれこの「心を清める」
と言う処まで気が付かないと言うか、考えが及ばない場合がある様にも思えます。
 「心」とは、コロコロ変わるものであります。ですが変わるから心を改める事が出来るのですから
良いとも言えるのです。只それが善い方、つまり神の御心に叶った方へ変わるか、それとも自分に
都合の良い、自己中心的な方、悪い方へ変わるかであります。
 神理雑誌の十月号の中で、総務局長さんが「おのずから」の処で、他人のせい、自分のせいに付いて
述べて居られました様に、私達は自分に都合の悪い事であれば他人のせいにし、良い事であれば自分
のせいにしがちでありますが、それも自分の心の判断であります。
 従って、私達の心の状態は、何時も正しい判断、又、誤りのない決心が出来る様に保っていなければ
ならないと言う事であります。
 その為には、やはり身体の穢れだけではなく、心の汚れをも祓い清める禊でなければならないと言う
事になります。
 「心の汚れを祓う」と言う事は、心は常に善い方へコロコロと変わる事の出来る素直な心、きれいな
心の状態、つまり神の御心に叶う心になると言う事であります。
 例えば、自分の進む道が楽な下りの坂と、苦しい登りの坂との二手に分かれていたら、どちらを選ぶ
でしょうか。人情としては誰しも楽な下りの坂を通りたいと思うでしょう。しかし、それでは神様の
御心に叶う心ではないと言えるのです。
 神様から与えられた試練だと受け取り、苦しくても登り坂を一歩一歩確実に、力強く登りつめる事が
出来れば、やがて神様から御褒美として「御陰」を頂ける結果となるのです。
 日常生活をしてゆく中で、様々な苦しみや辛い事が沢山ありますが、その度に私達は楽な事と比較し
て愚痴をこぼしますが、それでは自分の心が幼稚なままの状態で、少しも成長していないと言う事で
あります。
 やはり、体が成長し大人になる様に、心はそれ以上の成長が必要であるのです。日常の苦しみや悲し
みは、そうした自分の未熟な心を成長させる為に「神から与えられた試練である」と、苦しみを『苦』
とせず「有り難く」受け入れる事の出来る心に、成長させる努力が必要であります。
 こうした『努力』も禊の一つと思いますし、むしろ、水をかぶったり滝にうたれたりする禊よりも、
この様な心の禊の方が辛く実行し難いのではないでしょうか。
 魂=心ではないのですが、心の元が魂でありますから密接な関係ではあります。では、その違いを
考えて見ますと、魂は神から頂いたものでありますから、神に近いものであります。御教祖は「頂いた
と言うよりも借りて居ると思いなさい」と教えて居られますので、かなり近いものと言えます。
ですから、神前に参い侍り祈る事によって、私達の魂は清められる様に造られています。
ところが心は色々な事に染悪されやすい人間に近いと言いますが、人間そのものではないでしょうか。
良く私達は「あの人は人間性がどうも」と言った表現をしますが、これは、その人の心の状態を見て
判断し距離をおく場合があります。ですから自分の心は自らが造って行かなければならないのであり
ます。
 魂は神に祈る事によって清めてもらえますが、極端な表現ではありますが、心は神にも他人にも頼
る事が出来ないと言えるのではないでしょうか。
 そして、この魂は余程の事がない限り穢れる事はありません。何故なら、今申しました様に私達の
魂は清明なる親神様から分け頂いたものであるからです。
従って、魂が穢れるのではなく、心が穢れている場合が多いのです。
 私達の元は魂であって体ではありません。ですから、心と言うものは私達の元である善良な魂と、
上手く調和のとれた状態である事が、非常に重要な事であると言えるのです。
 私達の心が、善良な魂の意志とは反対の方向へ進む為に、色々な病災が身の上に降りかかる原因
となる場合が多いのです。
ですから、こうした事も考え合わせながら、禊つまり信仰を進める事が大切であると言えるのです。
 七罪の元であります、怠り、詐り、貪り、憤り、慢り、憂い、恨み、の心を、自分の心から取り
除く『禊』が大切であります。



                             あ  と  が  き

 今年もいよいよ最後の月になりました。
 皆様にとってはどんな一年だったでしょうか。

 春秋の大祭やその準備奉仕、夏期講習会や青年部・未来委員会にはたくさんの方にご帰院頂きました。
 また、教会の大祭や出張講習会やブロック研修会に出向させて頂き、ここでも多くの方とお会いできました。
 神理教の議会や、地元の総代会や婦人会などの会議や研修旅行を通じてお話が出来、付き合いを深められました。

 私たちの普段の生活は仕事や学業が中心ですが、いわゆる人間らしい生活とは社会奉仕が中心だと思います。
 そして社会奉仕の根本は神前奉仕です。
 準備と大祭に奉仕し、神と祖先とに接する大切さやその実際を学び、直会を楽しみます。
 祭りの厳粛さと直会の開放感という、緊張と弛緩が肉体にも良いように、精神的にも健康の源となるのだと思います。

 ある教会の大祭に伺い、その教会長先生が高齢ながら熱心にお話をされるのを見ました。
 その教会は小さなお子さんの比率が高い賑やかな場をお持ちですが、教会長のお話は子どもには難しいところもあるようです。
 教会長はご熱心の余り、三十分も越えたところでもう一度同じ話をされようとするのをご家族に注意されたりしています。
 しかし、大人も子どもも集中して静かにお話を聞いています。

 普段の講演会や演説会で話の内容に興味がないとき、最初にざわつくのは大人で、次に子どもが走り回る姿をよく見ます。
 しかし、こうした場ではいかに私たちがつまらない話をしようとも、大人は聞いてくれますし、子どももそれにつられます。
 大人が聞くから、子どももそれを見習い聞くのです。
 筆者は、古い日本の良いところで今なされてないのはこれだな、と感じました。

 祭りに家族で参加するというのは、今の日本人にとって忘れられつつある姿です。
 しかし、そこに言葉で伝えられない教育がある、と言えそうです。
 来年春は独立百十周年の式年大祭で、金・土・日のどなたにも参加しやすい日程です。
 ”温故知新“という言葉がありますし、古事記の序文にも ”神理を設けて俗を奨む“ があります。
 是非万障繰り合わせてお帰り頂き、ご家族でこうした良い習慣を継続頂きたく、ご案内申し上げます。

                                  (幸)
  

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