神理

平成14年7月号 第1061号

        

巻  頭  言
「人には、国の親・体の親・知識の親・安心立命の教祖・一切の親の祖神の、五の親
の有る事を忘れまいぞ」
(おさとし百二十ケ条)
この様な恵や慈しみによって、今私たちは生きている。
しかし、いつまでもただ与えられる子供の気持では成長はない。この恩にいかに報い
るのか。家族や社会に何ができるのか。
ご恩返しを考えて実践する。そこに、真の感謝が生まれる。


                かんなぎべ  たけひこ
  神理教管長   巫部  健彦
    もの ごと おも  かろ   えら わ
   物事の 重き軽きを選び分け
   
         すす  ゆ       ふ    まよ                    
        進み行きなば 踏みや迷はじ    
  
 桜の開花が凡そ一週間も早かったことなどから、恐らく入梅も初旬に早まるか?と
いう予測に反し、結局は平年なみの中旬に落ち着くことになりました。しかしなが
ら、サッカーW杯の盛り上がりで、例年とは気分の異なる梅雨期を過ごし、六月を終
わる事になりました。
 それにしても、視聴率80%以上と報じられるなど、そのサッカーW杯が、小泉内
閣発足当初に相当する人気や関心を招いているのは、近来の国民感情の一致した盛り
上がりとしては、小泉内閣発足当初と同様、極めて珍しく異常と申すことが出来るよ
うに思われます。
 全身全霊を傾注して競技する姿勢には、人々の心を惹きつけるものがありす。その
競技者の中に繋がりの深い人がいる場合には、一層に熱が入るという事であります。
更に、それが世界一!を目指す高度のものであれ尚更、ということになります。
 しかし今回の場合、家族・親族・友人など、日常的に極めて繋がりの深い人は、寧
ろ少ないと思われます。リーグなどでの応援者は有るとしても80%には程遠く、同
じ日本国民という潜在していた繋がり意識が顕在化して、この様な盛り上がりになっ
たと考えられます。
 尤も、いささか皮肉にすぎる見方をすれば、このW杯の勝敗は、個人の損得とは殆
ど無関係である為、誰もが素直に拘りなく一心に応援できるという事であります。勝
敗いずれかに個人的な損得が絡むとすれば、一致して応援する状況は生じなかった!
とも考えられます。
 それこれ考え合わせれば、損得と無関係な言動は有り得ない!とも言えそうであり
ますし、損得或いは得失を全く度外視して生活できる人は稀でありますが、反面、得
失の選択や損得の計算づくで生きる人が極めて多いとまでは、断じかねるようにも見
受けられます。
 それにしても人生には、その損得や得失を判断せねばならぬ場面がある訳で、その
損得や得失には物質的なものと共に精神的なものがある事を踏まえ、両者の何れを優
先するのかを含めて、広い視野から判断選択する事が望まれます。国会の混迷停滞に
似た事にならぬよう、そうした立場で前途を摸索しつつ、着実な歩みを進める事にな
りたいものであります。
                                             

オノズの道

自然(おのずから)(みち)

(さち) (ひこ)

(わか)さを(たも)()(けつ)

 

 本院(ほんいん)(しん)理教(りきょう)本部(ほんぶ)教会(きょうかい))には地区別(ちくべつ)総代(そうだい)さんが二十人(にじゅうにん)ほどおられ、高齢(こうれい)(かた)(おお)いのですが(みな)さんしっかりと()(ごと)をこなされています。

 この(すう)(ねん)(かん)(すこ)しずつ()(だい)(かわ)っていますが、(さん)(じゅう)(ねん)()(じょう)総代(そうだい)(やく)(つづ)けて(いただ)いている(かた)もおられます。

 元気(げんき)仕事(しごと)をこなすことができるから総代(そうだい)仕事(しごと)もできるのでしょうし、総代(そうだい)仕事(しごと)をされる御神徳(ごしんとく)でご自分(じぶん)本院(ほんいん)仕事(しごと)もこなせるのだと思います。

 (はち)(じゅっ)(さい)(おお)きく()えられたある(そう)(だい)さんと(はな)していた(とき)に、(わか)さの()(けつ)というか(こころ)がけを(はな)して(いただ)きました。

 筆者(ひっしゃ)などより(かみ)()もたっぷりとあって、そんなお(とし)には()えません。

 

 (みっ)つの『かく』ということを(こころ)がけておられるそうです。

 まず(いち)(ばん)は、『(あせ)をかく』ということだそうです。

(いく)つになられても(はたけ)(にわ)()(ごと)(まい)(にち)()かさず、(あせ)をかいておられるということです。

 (ひっ)(しゃ)はこのあたりでは、ついて()けないかなとあきらめ()()です。

 ()(あせ)はたまにかきますが、(あせ)()くほど(からだ)(うご)かすことは、()(ごと)(がら)もあり(すく)ない(ひと)(おお)いでしょう。

 

 ()(ばん)()に、『()()()をかくこと』だそうです。

 (しょ)(どう)(かい)()、また(ぶん)(しょう)()())くことが(あたま)()(げき)(わか)さを(たも)つということのようです。

 文章(ぶんしょう)日記(にっき)などでもいいようですが、皆様(みなさま)よろしければこの神理(しんり)雑誌(ざっし)にも投稿(とうこう)(いただ)ければ、(いち).(わか)さを(たも)ち・().()(しん)(とく)(いただ)かれ・(さん).(ほん)(きょう)(ため)になる、という(いっ)(きょ)(さん)(とく)となりますから是非(ぜひ)どうぞ。

 (うれ)しかったこと、()()いたこと、()(ぢか)(ひと)(おこな)いや(こころ)がけの()()らしさなど、F()A(ァッ)X(クス)でもメールでもお()ちします。

 ()(げき)(おお)きい(ぶん)だけ、より(おお)きく(わか)(がえ)ることができるでしょう。

 

 三番目(さんばんめ)は、『(はじ)をかく』だそうです。

 一番(いちばん)二番(にばん)実行(じっこう)自信(じしん)があった総代(そうだい)さんも自分(じぶん)(くび)をかしげていましたから、これは実行(じっこう)しておられないのかもしれません。

 でもその(ふた)つで(はち)(じゅう)(すう)(さい)までお(げん)()なのですから、(わたし)たちも()()るところをから実行(じっこう)するようにしましょう。

 そこで『(はじ)をかく』ですが、筆者(ひっしゃ)はなるほどと(おも)うところがあります。

 ()(だん)(わたし)たちは(ぐう)(ぜん)に(()(ぶん)ではかこうと(おも)わずに)(はじ)()くことがありますから反対(はんたい)に“(はじ)をかくまい”という受身(うけみ)心持(こころも)になっているものです。

 ここでいう『(はじ)をかく』とは、わざと(しっ)(ぱい)(あやま)ちを(おか)すということではなく、(しっ)(ぱい)(はじ)(おそ)れない、ということだと(おも)います。

 ()(ぜん)も、『まずハイと()え、そしてわからないところは()くように』と(おし)えられる(きょう)(かい)(ちょう)のお(はなし)をしたことがあります。

 人間的(にんげんてき)信頼(しんらい)関係(かんけい)必要(ひつよう)ですが、信頼(しんらい)する(ひと)から()われたことは(まえ)()きに()()もうとする()(よく)(たい)(せつ)、ということのようです。

 

 ()(きょう)()()(こん)(ろん)で、()(こん)(ひと)(あら)(みたま)についての(はたら)きを次のように()かれています。

 荒霊(あらみたま)本言(ほんげん)(その言葉(ことば)本来(ほんらい)もつ意味(いみ))は、アタアリカ((あだ)()りか)といって(おこ)(いきどお)(こころ)(つかさど)ると()われますが、(どう)()()(なか)(せっ)(きょく)(てき)(はたら)きかけ、(いっ)(しょう)(けん)(めい)()きようとする()(よく)(つかさど)ると(おし)えておられます。

 (おこ)(いきどお)(こころ)(かみ)から(あた)えられた(たい)(せつ)(かん)(じょう)でありその()(ゆう)自分(じぶん)(ため)ではなく()(ため)(おこ)るべき)もありながら、(あら)(みたま)()(りょく)(ふり)(おこ)(ちから)(はっ)()するのです。

 (おこ)ることは(わる)いこと、という()(しき)からか(げん)(だい)は『そんなに(りき)まずにゆっくりと()きていけばそれでよいではないか』という(かん)(かく)(つよ)いようです。

 しかし、(はじ)(おそ)れずに(いっ)(しょう)(けん)(めい)ということも(たい)(せつ)です。

 『(あわ)てず(おこた)らず』という(こと)()がありますが、(あわ)てずだけが(せん)(こう)(おこた)らずという意欲(いよく)(こころ)をこめる)を重視(じゅうし)しないのが現代(げんだい)風潮(ふうちょう)のように(かん)じます。

 

 最近(さいきん)、『大往生(だいおうじょう)とは』という高齢(こうれい)博多(はかた)人形(にんぎょう)作家(さっか)(はなし)()みました。

 (だい)(おう)(じょう)とは、(じん)(せい)(まん)(きつ)(あん)(しん)して()えることが()()る、ということでしょうか。

 これにも(だい)(おう)(じょう)(じょう)(けん)(みっ)つあるのだそうです。

 (ひと)つは、『()(くに)()まれてよかった』。

 (ふた)つは、『()(まち)()めてよかった』。

 (みっ)つは、『()(ひと)()()えてよかった』だそうです。

 (わたし)たちにその(みっ)つが(いま)(そろ)っているか、もし()()(まえ)にして()いることがないか、と()われるとそれこそ()(あせ)()(おも)いがします。

 

 (ひと)()(まえ)に、()()(かい)、その(まえ)()()(だい)とあるのかもしれませんが、(くに)()(じょう)については、()()えて()(ぶん)(ちから)(およ)()(ぶん)はありません。

しかし()(ぶん)(まち)くらいから(した)は、自分(じぶん)努力(どりょく)すれば(なん)とかなる部分(ぶぶん)()えてきます。

 『()(ひと)()()う…』、に(いた)っては(かぜ)(ただよ)(くも)のように()きることは()いようで(けっ)してそれだけでは()()ません。

 ただ神様(かみさま)御心(みこころ)のままにと物事(ものごと)をなおざりにするのではなく、()()(じん)なことには(みずか)らの(あら)(みたま)(ちから)(はじ)(おそ)れずに(ただ)す、という気持(きも)ちになるべきです。

 (げん)(じつ)()(なか)(いっ)(しょう)(けん)(めい)()()いてこそ、そうした(かぜ)(ただよ)(くも)のような(きょう)()(すす)むことが()()るのです。

 

 ()(ひと)()()い・()(ひと)()()い・(ひつ)(よう)()(じょう)(うら)みや(にく)しみを()わない()(じん)(せい)(あゆ)みたければ、()(ぶん)()(しん)(こころ)(きよ)めることが(たい)(せつ)です。

 “()(ぶん)()われば()(かい)()わる“といいますが、そうした(こころ)がけから()()けば(まち)がそして()(かい)()わっていた、というようになりたいものですね。

        

         教  祖  の  道  統
     現代語化
      長崎教会 教会長 大教庁文化局長  花 岡 勝 成
「教祖の道統」は8章まであります。
 3章までをまとめており、希望者には実費で頒布致します。お問い合せは本院までご
 連絡ください。

第三章 教祖の人生観
 第四節 人生の帰着(結末)(7)
日界・月界と顕幽が分かれた訳
・伊邪那岐、伊邪那美まで(小見出し@)
 考えをめぐらすに、黄泉は重く濁れるものにして神のおられる所ではないが、是を
司る神ありて清濁をはっきり分明される所であることが明らかに判るであろう。
 そうして、日界は顕明事を司り、黄泉は幽明事を司る処となる。
 この顕幽がどうして分界したのか引証すると「神理教要」に
【その古(昔)は、天地黄泉水火木金土の五星も、是に附属する数多の星も無形なり
しが故に、顕と幽との区別はないが、その有様を考えるに、大昔無始の時より神とい
うもの虚空(空間)にまして、極まりて極まりもなく、尊くまして静かなり、静かに
して動けり、静かにして動くは奴の力なり。
 この神ありて産巣日神の二柱神化成り玉いける。
 故にこの神を天之御中主神と申し奉る。
 さて、その産巣日の二柱神ありて御中主神の奴の力を助けて活動する基を高皇産巣
日神のなし、高皇産巣日神のなしたまいしを神産巣日神の力を以て、その奴がいよい
よ活動する奇しく妙なる基をなせり。
 故に、宇麻志阿志詞備彦遅神、天之常立神化成給いて陰陽たがいに和合して、国之
常立神、豊雲野神、宇比遅邇神、須比遅邇神、角杙神、活杙神、大戸之遅神、大戸之
弁神、面足神、綾惶根神化りにて、水土木火金の五つの気ととのいて、その始め海中
に一むら雲の浮かびたる如きものありしが、その物久羅下なし多佗用幣理しが、阿志
詞備なして萌え騰りし物、即ち、天津日と成りて残れる物は日経りければ、この大地
も黄泉も五つの星も又附属の衆星も各々高皇産巣日神のかけ玉いし八重棚にかかり
て、神産巣日神の御功徳を以てそこを施さし、左廻りにめぐりて日がかゝれば昼とな
り、日がかくれば夜となることなり。
 これ第一の顕と幽との区別にして天地開闢といえり。
 さて、この後まだこの地球は多佗用比てしまりなきが故に、天津諸々の大神達、高
木神、産巣日神の二柱神に沼保古を授けて、この多佗用幣流大地を修理固成せよと言
寄し給いぬ。
 ここに二柱天降りたまいて天神の詔のまゝに嫁継ぎしたまいて子孫の弥次々に栄え
る道をはじめ給えり、これ第二の顕と幽との区別なり。
・天照皇大神と素盞嗚神の誓い(誓い)と 追放(小見出しA)
 こうして諾冊二柱神の生み給いし御子沢にませど、その中に天照皇大神と月夜見
神、素盞嗚神ませり。
 ここに伊邪那岐神大変喜び詔して、吾は子を生みて生みのはてにこの貴の御子を得
たりとのり給いて、即ち御顕玉の玉の緒も由良由良に取り由良かして天照皇大神にた
まい、詔て汝命は高天原を知せ(治めよ)と事依し給いぬ。
 月夜見神には汝命は蒼海原の潮の八百重を知せと事依し給いしに、天照皇大神は命
令に従われたが、月夜見神(素盞嗚神)は従わずヒゲが胸のあたりまで伸びるほど泣
きさけぶので、日の大神(伊邪那岐神)問い給いしに、
「吾は母の国根の国に行きたいと思う故に泣く」と、これに伊邪那岐神の怒って曰
く、「汝はこの国に住むべからず、汝がもしこの国を支配すれば必ず害う事が多いで
あろうから、望むまゝに行け」と詔り給いき、故に月夜見神は願って曰く、
「今吾は教え(父である伊邪那岐神の指示)のまゝに根の国につかむ。
 故に高天原の神(天照皇大神)にお目にかかって退らむ。
 願いのまゝに伊邪那岐神は許し給いき。
 さて、素盞嗚神は天(高天原)にのぼらむとし給うに、天照皇大神はその神の荒ふ
る事を知っておられる故に、益荒男(男性)の御装をなして待ち問い給うには、
「汝は何故にのぼり来つるや、必ず善き心にはあらじ」と宣りたまえば、素盞嗚神
は、「吾は異き(怪しい)心なし」天照皇大神詔はく、
「然らば汝の心の清明なるは何を以て知らす(証明する)」ここに於て素盞嗚神詔わく、
「請う(願う)姉と共に誓わむ、その誓約の中に必ず子を生まむ。
 もし吾生む所の子に女あらば濁心ありと思ほせ、もし男なら清心と思ほせ」と、各
も各も天之安河を中に置きて宇気比(誓いをし)たもう時に天照皇大神女を得、月夜
見神(=素盞嗚神)男を得、故に天照皇大神素盞嗚神の心を知ろし玉いて曰く、
「後から生まれる五男子は物実我物(自分の持物)によれり。故自分我子也。
 先に生みし三女子は物実汝物也、故に即ち汝が子なり」かく詔り分け給いぬ。
 さて、先に生まれまし多岐理媛神、次に市寸島比賣神、次に田寸津比賣は胸形の女
三柱神なり。
 後に成りませる五柱男子の中にも正哉吾勝々速日天之忍穂爾神は天照皇大神特に愛
でて常に脇にいだいて育て給いぬ。
 さて、その後素盞嗚神は勝速日に荒びける故に諸神共に千座の置戸(罪の償いとし
て科した多くの台にのせた祓い物)を負わせて、神夜良比岐(高天原から追い払う)。
(つづく)
*** しんり幼稚園50年記念祝典 平成14年6月15日(土)***

 六月十五日、「しんり幼稚園」の五十年祝典が神理会館で行われました。
 祝典には末吉興一北九州市長をはじめとする来賓の皆さんや、他の幼稚園の園長先
生、元園長並びに職員、父兄の皆さんなど約百名が出席。園長である管長様に続い
て、末吉市長ら来賓の挨拶がありました。そのあと、職員の皆さんによるお祝の歌
や、 「どんぐり会(父兄の会)」 の皆さんによるお祝の劇なども披露され、和やか
な雰囲気の中、懐かしい思い出話に花を咲かせたり、五十年の重みをかみしめたり、
新しく始まる五十年に思いを馳せたり、思い思いに楽しい時間を過ごしていました。
 誕生から半世紀。そして、さらに新しい半世紀へ。これまで送り出してきた数多く
の「しんりっ子」たち、そしてこれから巣立つであろう「しんりっ子」たちの活躍が
本当に楽しみです。

(元職員のお話)
 森田 涼子 さん(昭和58年〜63年)
 池畑ちさと さん(昭和58年〜平成3年)
「しんり幼稚園」は広いし、自然に恵まれているし、子どもたちにとっては申し分の
ない環境だと思います。なにしろ、わざわざどこかへ出かけなくても、園内でいろい
ろな体験ができるのですから。例えば、自然の変化だけでなく、節分や七五三といっ
た神理教の行事を通しても四季を感じることができます。こんな幼稚園は、他にはち
ょっとないかもしれませんね。自然の中でのびのびと遊んだり学んだりした毎日は、
子どもたちにとってかけがえのない思い出になることでしょう。私たち旧職員も、離
れてみてしみじみと「しんり幼稚園」の素晴らしさを感じています。

***幸彦社献歌 (平成十四年度)***

兼題 【春】 (14年5月22日、幸彦社の神前にて奉読献歌致しました。)

蹌踉と 辿れば一期の 別れかも
     眼下おぼろに 春の川見ゆ
光りさす 心の春を迎へばや
     つつしみ拝む 日々の祈りに

おぼろなる 甘き薫りを 何事と
     仰ぎし見れば 春宵の藤
春まけて偲ぶ櫻の咲きにけり
     植ゑにし故人の愛でしまにまに
阿蘇の春 闘志ひそめて佇めば
     野火燃え立ちて連峰展らく
神苑の 南に向きし 山肌の
     春の陽あびて 蕨立ち初む
草木萌え 芽吹く息吹きの 春風は
     清々しくも 有り難きかな
時として踏み迷ふとも春の夜の
     花の香に逢ふ 時を待たなむ
鶯の 声さわやかに 此の春も
   清掃奉仕 たのしみにけり
春寒の 枝から枝へ 舞ひ飛びて
   声も高らに 春告げの鳥
孫達の 笑顔にやさし 春の風
   かそかに吹きて 微笑を誘ふ
清らかな さへづりに 心洗はれて
   佳き一日の 春の始まり
新米の父と母ですと 仰せける
   皇太子ご夫妻 春の陽いっぱい
春の日の 参道市に 色そへて
   祝ふがごとく 花びらの舞ふ
陽だまりに やや膨らみて 芽吹きたる
   杏の莟 愛らしきかも
カルストの 台地に 春の陽 かがよひて
   岩陰に嬉し 翁草咲く
芽吹き初めし 花壇の中の 小さな芽
   心がはづむ 春の日の朝

保 雄、健 彦、祐 彦、正 史、利 夫、誠 一、啓 徳、 清
清 三、ひとし、信 子、悦 子、テイ子、良 子、まこと、こと子、亜希子

※姓の五十音順に掲平成14年5月16日(木)
                

*** 第54回 夏期講習会のご案内 ***

本教の教義の探求・研鑽・祭式等の熟練を目的とします。
これからお道を学びたいと思っている方、そして経験豊かな方も、ぜひ受講して頂き
たくご案内申し上げます。
●日程  7月25日(木)〜28日(日)
●会費 30、000円。(25日の昼食から28日の昼食までと宿泊費含む)
    高校・中学生15、000円。
    小学生以下無料。
    日帰り20、000円。(期間前後の宿泊・食事は実費を御願いします。 別途資料は
実費必要)
*同封の、申し込み用紙に必要事項をご記入の上、大教庁へ郵送かFAXにてご送
付下さい。
*費用は当日受付けます。当日の申し込みは 出来ません。
*携帯品は、白衣・袴・足袋・筆記用具・信徒の 祝詞・祭式教本・水行着など。
*教本・水行着などは、当日も頒布いたします。
お早めにお申し込み下さい。

TEL 093―962―4537
FAX 093―962―4634
神理教大教庁

********************************

〜青年部総会の御案内〜

青年部総会を開催致します。本年も夏期講習会期間中ですので、ぜひ講義も受けて頂
きたいと思います。
    … 記 …
日 時 平成14年7月27日
    総会は17時(受付けは随時大教庁)
会 場 明星会館4階
会 費 5000円(夕・朝食、宿泊込み)
 多数のご参加をお待ち致しております。尚、青年部に所属されてない教会
に於いても、お申し込みを受けさせて頂きますので、ご一報下さい。
以上
青年部本部

   

管長様 喜寿祝 祝賀掲載の御案内

日頃より神理教の為にご尽力頂き感謝しております。
さて、管長様におかれましては、この度めでたく喜寿を迎えられ益々ご壮健でいらっ
しゃいます。この慶びは私達全国教信徒の慶びであります。この慶事のしるしを「神
理雑誌」の祝賀掲載で表わしたく思います。
御家族全員でお祝い出来ます様に左記の如く御案内申し上げます。
祝賀掲載料
  お一人 1、000円 (高校生以下は500円)
ご家族全員でのお申し込みをお待ち致しております。
全国教信徒各位
神理教大教庁

   

☆★☆ 素朴な疑問 ★☆★
     
 Q & A

Q1 「ブロック研修会に参加するには、どのような手続きが必要ですか。」

A  教会に所属している人は、所属教会を通じて申込むことができます。また、教
  会に所属していない人は、本院に申込めばよいのです。

Q2 「大祭時以外でも、帰院時に宿泊できるのですか。」

A  宿泊可能です。いつでも安心して親神様の御元に侍り、親神様と合体を計っ
    て下さい。
     なお、できるだけ事前に申込んで頂ければ幸いです。

Q3 「6月号Q1、墓前の祝詞の所で祖霊拝礼詞を奏上すとありますが、あのまま手直し
   しないで奏上すればよいですか。和魂は産土社に、荒魂は墓所に、奇魂は此霊舎
  に、和魂は産土社に、荒魂は此の墓所に、奇魂は霊舎にと変えなくても良いですか。」

A 先月号の回答は、墓参りの式次第的考え方に基づいての回答でした。祖霊拝
 礼詞の祝詞文中「和魂は産土社に、荒魂は墓所に、奇魂は此霊舎に」を、墓前でのお
 参りでは「和魂は産土社に、荒魂は此墓所に、奇魂は霊舎に」に変えて奏上すべきで
 あり、また、より真心を表すことになります。また、更にていねいに言えば、霊前・
 墓前のそれぞれに此を此何々家の、に変えます。
      
雑記

「所ジョージがまたまた宣伝してましたねー。宝クジですよ」
「一億以上でしょ。今は」
「そうですよ。高額になりましたねー」
「まさに、ジャンボですなー」
捕らぬ狸の皮算用で色々と思いを巡らし、暫しの幸せの時を持っていました。
 もし、当っタラ。もしも、当レバ。
「当っても遊べば三年ですかね、使い切るには」
「イヤ、貯金でしょう」
 二人とも、当っタラ、当レバの「タラ・レバ」は絶対無いと確信しての話しである
から気軽に大きな話をしていました。
 その時、その家の小学校五年生の女の子が横から口を出してきました。
「パパ、チョット前、ママと喧嘩してたよね」
「お客さんの前で、そんなこと言うなよー」すこし照れた笑顔でした。
「パパ、お金とママとどちらがいい?」
「そりゃ、ママさ」
「一億円でも?」
「うん」
「百億円でも?でも喧嘩してた」
「ママはお金にかえられない」
「ホント!」
女の子はすぐ立ち上がって、台所の母親の方へ走っていきました。

 その場の話の流れや雰囲気で、一億円なら売ってもよい、などと、父親はついうっ
かりと冗談のつもりで言ってしまいがちなのですが、この父親はそうではありません
でした。
 子供が真直ぐに直線的に質問してくるのに対して、この父親も真直ぐ答えました。
こういう父親の態度は実にりっぱで素晴らしいことでした。
 子供の質問を軽くあしらったり、肩透かしをくらわせたり、皮肉な言葉で答えたり
するのは禁物と思いました。
 この女の子は普段から母親のことを大事に思っていたに違いありません。
 そんな大事な母親のことを父親も大事に思っているかどうか確かめたかったのでし
ょう。
 父親のしっかりした返事を聞いて女の子はどんなに安心したことでしょう。
 私は思わず心の中で「あなたは偉い。満点パパだ!」と叫んでいました。


教祖御歌
「父も神 母も神なり 那伎那美の 其の神あとの 末のすゑまで」
「あなたうと かしこかりける 神のあと 此を約めてぞ 子とは言ふなれ」
終り

  

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