神理

平成14年1月号
       第1055号

        

***** 巻 頭 の こ と ば *****
「捨てる神あれば、拾う神あり」とよく言われるが、苦境や
挫折に立たされた時、自分の実力不足は忘れて「捨てる神」
を恨んだりする。
逆に、順調に事が運んだ時など「拾う神」に感謝したり、陰で支えてくれた
人達に目がいっただろうか。
どんなに小さな事にでも感謝の心を持つ。
感謝は感謝を呼び逆境にも試練としての感謝の気持ちが出てくるかもしれない。
「捨てる神」 「拾う神」、両方に感謝。


                かんなぎべ  たけひこ
  神理教管長   巫部  健彦
   あらたま   とし  はじ     あさ
   新玉の 年の初めの 旦のごと
           
         心すなほに いのらばや日々
 
  
  平成十四年の新春を先ずは恙なく迎えることとなり、ご同慶の至りと感謝しつつ、 改めて、敬宮愛子内親王殿下の
御生誕を敬祝申し上げ、世界の和平進展・国運の回帰復活とともに、ご一家が健勝で御清栄の程を心より祈念いたします。
 それにしても、世界同時不況の波は、本年も暮らし向きを厳しいものにすると言われており、アルカイダなど世界的に
組織されたテロ集団も機を窺っていると思われますし、それなりの覚悟と用心とが肝要という事になるようであります。
 勿論、そうした覚悟と用心とがあっても、被害を全面的に回避できるとは申しかねますが、苦に耐え挽回に立ち向かう
気力は失われぬと思われますし、いわゆる立ち直りの機会をつかむという事例も、現に少なかず見受けられている所で
あります。
 それにしても、イスラム教徒の生活に溶け込んだ信仰姿勢をみていますと、もともと困苦に耐えざるを得ない環境を背景
として生じた宗教かとは思いますが、それにしても、一心不乱の信仰心が生きる支えとなる事を、実証していると申せそう
であります。
 尤も、原理主義を掲げる人達の姿勢には、前近代的な影が殊に顕著に見られますし、概して現代社会に整合しがたい
部面があるようにも感じられますが、それが却って、素朴純粋な信仰姿勢の伝承保全の要因となっているようにも考えら
れます。
 即ち我々の場合は、近代化する生活環境への適応に心が傾き過ぎた為、素朴純粋な信仰姿勢の伝承保全がおろそか
となり、信仰に結びついた生活姿勢が次第に衰退し、従って無用な不安におびえる状態を招いている、というようにも受け
止められます。
 無用な不安は、大きな災禍や自滅さへも招きかねぬ様でありますし、我々としては、そうした点からも信仰と実生活との
関係を見直し、祖恩や神恩に感謝しつつ、素直に御加護を仰ぎ願う時を持つことが望まれます。不安に誘われる事も予測
・覚悟しながら、願わくは、そうした用心と努力とにより、共々に心やすらかな日々を得たいものであります。

  
                                             

オノズの道

幸 彦

       いえ       たから
家  の  宝  
 自然(おのずから)(みち)

              (さち)(ひこ)

  皆様(みなさま)、あけましておめでとうございます。

 (いそが)しいという文字は、(こころ)(りっしんべん)を()くすと書きますが、筆者(ひっしゃ)も四月の大祭まで祝祭日(しゅくさいじつ)がほとんどなく、
気が付けば春季(しゅんき)大祭(たいさい)が終わっていたということにならないようにしよう、と思っています。

 

 昨年(さくねん)の一月に()わした話を思い出し、ご紹介(しょうかい)します。

 現在(げんざい)明星(みょうじょう)会館(かいかん)高齢者(こうれいしゃ)障害者(しょうがいしゃ)対象(たいしょう)とするボランティア活動(かつどう)をする(かた)とお(はなし)
した時のことです。

 筆者(ひっしゃ)は数年前にその方の家族が脳溢血(のういっけつ)(たお)れた事を知っていたので、(すこ)()()いたであろうその時、
是非(ぜひ)()いてみたいことがあったのです。

 特別(とくべつ)養護(ようご)老人(ろうじん)とか心身(しんしん)障者(しょうしゃ)のお世話(せわ)専門家(せんもんか)であった(かた)だけに、身体(しんたい)障害(しょうがい)となった
家族のお世話(せわ)の大変さはご存知(ぞんじ)のはずです。

 家族の世話で手一杯(ていっぱい)であろうはずなのに、何故(なぜ)なおかつ新しくこのような(ほう)()活動(かつどう)を始めたのか、また出来るのかに
興味(きょうみ)があったのです。筆者が、
「今まで奉仕活動に()くしたからこそ、家族のご病気を契機(けいき)に活動から身を()こうとは思われ
なかったのですか」とお聞きしたところ、意外(いがい)な返事がかえってきました。

身内(みうち)特別(とくべつ)養護(ようご)老人(ろうじん)が出て、今まで分からなかったことが沢山(たくさん)()かりました」と言われたのです。(さら)に、
「だって、今までの()(かさ)ねがもったいないじゃあないですか。

 その経験(けいけん)が、自分の家族に()かされるのに」と聞いたときには、その前向(まえむ)きな考え方に不覚(ふかく)にも(おどろ)いてしまいました。

 

 気付(きづ)いたこととは何かを聞くと、

奉仕(ほうし)の人たちと一緒(いっしょ)()ごしている間はとてもいい(かお)をしていたのが、活動(かつどう)()わり(みんな)が帰った後は、その
いい顔がすぐに()えることを自分の家族を通じて知りました」と言われます。

 自分たちが施設(しせつ)に行って奉仕した時に見たいい顔は、当分(とうぶん)(つづ)くのかと思っていたが、そうではないことに気が付いたというのです。

「そうした自分の家族を身近(みぢか)で見た時、障害(しょうがい)を持つことの本当の(くる)しみを知った」ということです。

 今まで理解していたつもりの障害を持つ人の苦しみが、自分の家族を(つう)じてまだまだ()かっていなかったことに気付いた、ということのようです。そして、
「障害を持つ人の苦しみをまだ分かっていない自分を知ったからこそ、もうこれで終わりにするのではなくて、自分の目標(もくひょう)や出来ることが
意識できました」と言われました。

 まさに、他人への奉仕の経験(けいけん)と自分の家族への介護(かいご)両面(りょうめん)から体験(たいけん)した人にしか理解出来ない、また言葉にすることが出来
ない感覚(かんかく)だと思いました。

 

 死ぬかも知れないような大病(たいびょう)をされた方とお話した時に、「私は(かみ)さま(ごと)をしていたにもかかわらず、
自分(じぶん)自身(じしん)健康(けんこう)不安(ふあん)などなかったので、神さまにものを(たの)むなど考えたこともありませんでした。

 けれども、()(ふち)を目の前に見た時、神さま助けて下さい!と願った自分を()(かえ)ると、自分の(よわ)さに気付かされました。

 まだまだ信仰(しんこう)をしなければ足りない、と思いました」と言われました。

 何事も頭の中だけで(すべ)て理解できるものではなく、自分や自分の身近(みじか)で体験しないと理解できないことは(おお)いものです。

 生きているということは、そうした気持ちになりさえすれば、いろいろな(たい)(けん)(とお)して、生きることの意味(いみ)意義(いぎ)(まな)ぶことが出来ます。

 しっかりと生きるということは、生きているからこその(まな)びや修行(しゅぎょう)が出来るのです。

 そうした学びや修行から()たことを、自分や子孫(しそん)や家族や地域(ちいき)のために()かし分かち合える社会が神の国、理想郷(りそうきょう)とも言える
ものではないでしょうか。

 

 この数年、リストラ(企業(きぎょう)人員(じんいん)整理(せいり))とか失業率(しつぎょうりつ)上昇(じょうしょう)話題(わだい)になっていますが、本院にもそうした余波(よは)をか
ぶったように、(こころ)(きず)()った人がお(まい)りに来られることがあります。

 ご自分の事を話して頂いたり、神さまの話をしたり、基本(きほん)祝詞(のりと)意味(いみ)()みを勉強したりしていますが、最近(さいきん)精神的(せいしんてき)に安定する
のに効果的(こうかてき)な方法があることに気付(きづ)きました。

 それは自分で気付いて(おこな)(ひと)もいるし、そうでない人はこちらからお話しすることにしていますが、神前(しんぜん)清掃(せいそう)(いや)しと
社会(しゃかい)復帰(ふっき)基本(きほん)としてお(すす)めしています。

 (かんが)えれば()たり(まえ)の話で、何をするにも(まつり)最初(さいしょ)にするように、社会(しゃかい)(ばたら)他人(たにん)に奉仕をする前に、
神前(しんぜん)奉仕(ほうし)から始めることが順番(じゅんばん)と言えます。

 その順番が(わす)れられたところに、現代(げんだい)社会(しゃかい)疲弊(ひへい)原因(げんいん)があるのだと筆者(ひっしゃ)思います。

 

 心や体に大きな(きず)()った人と話していると、家族に大切(たいせつ)にされている人もいますが、そうではなく邪魔(じゃま)にされる人も多いように
感じられます。

 私たちの社会や家族に心身(しんしん)に傷を負っている人は、私たちの()わりにそうした傷を負っていてくれるのだと考えるとどうでしょう。

 ほんの少しの運命(うんめい)(ちが)いで、その心身の傷は(じつ)は私たちが受けていたのかも知れません。

 そう考えると、社会や家族の中で心身に傷を負っている人は、健康な人の()()わりになって、私たちが負うべき(つみ)(けが)れを背負(せお)って(くだ)さっている。

 世の中に無駄(むだ)な物・無駄な人は一つ・一人もないと言いますが、それどころか家のまた社会の(たから)として大切にしていくべき事を、神さまは
教えておられると()()めたいものです。

 障害者もその家族も健常者(けんじょうしゃ)と同じく、皆が心の(そこ)から(むね)()って生活する社会になりたいものです。

                

☆★☆ 素朴な疑問 ★☆★
     
 Q & A

 
Q1 大祓(おおはらい)について教えて下さい。

 A 大祓とは、伊邪那岐命が、黄泉(よみ)の国でお受けになった、罪や穢(けが)れを洗い流そうと、水を浴びて身体を清められた
  故事に由来し、人が、知らず知らずのうちに犯してしまった罪や過ち、心身の穢を祓い清めるために行う神事を「大祓」といいます。
  毎年、六月と十二月の二回、その月の末日に行います。
  六月の大祓を「夏越(なご)しの大祓」といい、十二月の大祓を「年越しの大祓」といいます。
  平安時代初期の法制書『延喜式(えんぎしき)』にも、六月と十二月の大祓が記されています。
  大祓には、「形代」(紙を人の形に切り抜いたもの)に、名前と年齢を書き、さらにその「形代」で身体を撫でて息を吹きかけます。
  そうすることにより、自分の罪穢を移し、それを海や川などに流したり忌火(いみび)で焼き、身代わりに清めてもらいます。
  また、疫病や罪穢を祓う「茅(ち)の輪(わ)くぐり」の神事も行われます。


Q2 七福神について

 A 福徳の神様として信仰される代表的な神様が、「七福神」であります。
  この信仰は、室町時代の末期の頃から生じたものとされ、当時の庶民性に合致して、民間信仰として育てられました。
  特に農民、漁民の信仰として成長し、現代に生き続けています。
  「七」の聖数に当てて組み合わせられた、大黒天・恵比須・毘沙門天・弁財天・布袋・福禄寿・寿老人の七神があてられました。
  このうち寿老人は、福禄寿と同体異名であるという説もあることから、寿老人の代わりに吉祥天(きっしょうてん)を入れることも
  あります。
  また、大黒天は、インドの神様ですが、「大黒」が「大国」に通ずるところから、出雲大社に祀られている大国主命と混同されてい
  ます。
  大黒天、毘沙門天、弁財天は、仏教出身が明らかですが、他の恵比須、布袋、寿老人、福禄寿についての文献が少なく、布袋、
  寿老人、福禄寿は、中国の道教、神仙観とされています。
  「七福神」は、中国から輸入された思想と、古来より日本で信じられていた俗信と、仏教思想とが入り混じって生じた、信仰である
  と伝えられています。
  七福神が、夢まくらの宝船に乗って現われると福が授かるといわれ、縁起がいいとされています。
  また、七福神は瑞祥の象徴として、絵画や彫刻、芸能の題材としても、よく使われています

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