神理

平成14年12月号 第1066号

        

巻  頭 の こ と ば


何かを始めて、ある程度になるまでには努力と時間が必要である。

日々の生活も同様である。心のあり方・磨き方で自分自身の生活態度が

変わってくる。

自分が変われば、周囲も変わってくる。これが信仰と言える。

心の奥底にある誠心が生活の中に活かされるからである。

そして、さらに神の後押しを感じることによって、益々光を発するものと成る。

その光は齢と共に眩しくなるように努力したい。


                かんなぎべ  たけひこ
  神理教管長   巫部  健彦
   みめぐみ   あ       おも   とし  せ
   神恵の 有ればぞと思ふ 年の瀬を
   
      た   なづ       わた  ゆ み
        立ち泥みつつも 渡り行く身は
   平成十四年も最後の月を迎えることになりました。雑多な出来事の中を生き抜いた
事が、それこれと思い起こされます。それらの出来事は次第に記憶から遠ざかります
が、それらの出来事への対応の結果は、只今生き続けているとうことになる様であり
ます。
 そうした経過の中で、自分の現状が好ましからぬ状況の場合、ついつい自己弁護に
走り、その原因や理由を他に転嫁しがちでありますが、所詮は自分の対応が不十分な
結果!であり、改めて非力や不徳に気付くと共に、自らの努力不足に思い及ぶ事が肝
要と思われます。
 本年も景気低迷という環境に閉じ込められて、国民の殆どが好ましからぬ状況を強
いられたと申せる様であります。思いがけぬ倒産や解雇その他、個人の誠実な生活姿
勢とは次元の異なる時流に押し流され、悲惨な結末に立ち至った事例も多く見られる
事となりました。
 一方では、生活に余裕のある人々の犯罪も多発し、選良と言われる人達が職権に安
住した不正行為で次々に検挙され、大企業の重役たちが食品の偽装行為に関与する等
で逮捕され、「衣食住足りて礼節を知る」とされる聖賢の言葉が否定される状況も生
じました。
 我々の日常生活には、何らかの変化を求めつつ進められているという一面がありま
す。その変化が明白なのは、手に触れ目に見える「物」であり、その変化には際限が
ない為、凡人には「足るを知る」ことが出来がたく「礼節を知る」には到り難いとい
う事が考えられます。
 言わば、目先の小さな満足を得る事に執着しすぎる為、喜びの大きな満足感に感謝
する筋道から外れる結果を招く訳で、端的には、恵まれた只今を戴いている!という
感謝の気持を基点として、ゆとりある心で歩を進める心構えが望まれます。
 それこれ考えさせられますが、幸いにも一応つつがなく年末を迎える事となりまし
た。自分の対応が全面的に宜しかった結果!とは申しかねますし、寧ろ巡り合わせが
良かったと厳粛に受け止めて感謝せねばならぬ様であります。そうした感謝の気持で
本年を回顧し、そうした感謝の気持で新年にむけての心構えを整えたいものでありま
す。
                                             

オノズの道

自然(おのずから)(みち)

(さち) (ひこ)

無信仰(むしんこう)

 今時(いまどき)中学生(ちゅうがくせい)高校生(こうこうせい)に、(がっ)(こう)(いま)(せい)(かつ)(たの)しい?(おも)(しろ)くない?どう?」と(たず)ねると、()(つう)」という(へん)()(かえ)ってくることが(おお)いそうですが、その“()(つう)”というのが(くわ)しく()いてみると(おお)きな(ちが)いがあるようです。

 (わたし)たちそれぞれが(こころ)(おも)っている“()(つう)”も()らし()わせてみると、(おも)いのほかそれぞれが(ちが)っていることが(おお)いものです。

 (さい)(きん)(つぎ)のような(はなし)()きました。

 ある教会(きょうかい)教徒(きょうと)宗旨(しゅうし)神理教(しんりきょう))の(かた)から教会長(きょうかいちょう)電話(でんわ)で、()(ぶん)(いもうと)(とつ)(さき)()くなったのだが、その(しゅ)(じん)(はじ)()どもも葬儀(そうぎ)こそはしたものの(あと)法事(ほうじ)をせず、遺骨(いこつ)(だい)(どころ)()きっぱなしにしています。

 (ぶつ)(だん)(つく)らないということで、あまりにかわいそうなものですから(わたし)()って(かえ)りましたが、その()(こつ)をどうしたらよいでしょう」と相談(そうだん)されたそうです。

 教会長(きょうかいちょう)は、「そういえば貴方(あなた)(いえ)()(せん)(れい)()(せん)()(れい)(こん)をお(しず)めした()(ふだ))を(きょう)(かい)でお(あず)かりしていますが、(さい)(きん)(まい)りがありませんね。

 お(ちか)くにお()まいなのですからご(せん)()へのお(まい)りもあわせられて、(いち)()(きょう)(かい)にお()しになりませんか」と(さそ)われたのに、「いえ、(じつ)(わたし)()(しん)(こう)(かみ)(ほとけ)(しん)じませんので((いえ)宗旨(しゅうし)神理教(しんりきょう)でも)教会(きょうかい)には()きたくありません」という(こと)()(きょう)(かい)(ちょう)もあきれたようでした。

 そうしたお(はなし)()(ひっ)(しゃ)は、()(しん)(こう)()()っても、(いもうと)さんの()(こつ)がお(まつ)りされないといって(きょう)(かい)相談(そうだん)されるというのは、立派(りっぱ)信仰家(しんこうか)です。

 (かみ)(さま)というのは、()(ぶん)その(ひと)(かんが)えているような(とく)(しゅ)(そん)(ざい)ではなく、自分(じぶん)(いもうと)さんの(たましい)(おや)祖先(そせん)など子孫(しそん)(した)しく(まも)ろうとする(そん)(ざい)なのです。

 そうした(いもうと)さんや(おや)()(せん)(たましい)(たい)(せつ)にすることが(しん)(こう)(はじ)まりです。

 (しん)(こう)というのは(とく)(べつ)なことではなく、()には()えない(こころ)(たい)(せつ)(かんが)えるという(じつ)(にち)(じょう)(せい)(かつ)(なか)にあることですのにね」というようなお(はなし)()わしました。

 そこでもう(ひと)(なや)(はなし)のご(そう)(だん)があったのですが、これも(ほん)(いん)(きょう)()でもよくある(はなし)です。

()(ぶん)(エー)()に、(はは)(いっ)(しょ)実家(じっか)(ビー)()のご(せん)()(かか)えて(とつ)いできました。

 (とつ)(さき)(エー)()(しん)()(きょう)ですが(ビー)()(しゅう)()(ぜん)(しゅう)ですから、お(ぼん)(とき)(エー)()(しん)()(きょう)(きょう)(かい)から(ビー)()(ぜん)(しゅう)のお(てら)から(べつべつ)々にお(むか)えするということで、(たい)(へん)でしたがなんとか(おこ)なってきました。

 (さい)(きん)、ある(しん)()(きょう)(せん)(せい)に『そんな(ひと)つの(いえ)(ふた)つの(いえ)()(せん)をお(まも)りするなどを(なが)(おこ)なってはいけない』と()われて()(ほう)()れています。

(たし)かに(はは)()(ぶん)がいなくなった(あと)()どもや()(そん)(ふた)つの(いえ)()(せん)(まも)らせるのは(もう)(わけ)ないと(おも)うが、どうしたら()いのでしょう」ということでした。


(ひっ)(しゃ)は、(しょう)(らい)(かあ)さんのご(せん)()をその(ぜん)(しゅう)のお(てら)(えい)(だい)()(よう)をされ、そこでお(まつ)りをして(いただ)けばいいじゃないですか」と()うと、(わたし)たちの地方(ちほう)では子孫(しそん)のいない(ひと)位牌(いはい)遺骨(いこつ)(あず)かってはもらえず、いきなり(ごう)()(ばか)などに()れられてしまうのです。

()(ぶん)()(そん)がいないとお(てら)収入(しゅうにゅう)にならないから、ということだと(おも)います」とのことです。

 そこで(いろ)(いろ)(はな)(うち)に、そのご(こう)(れい)のお(かあ)さんもそのご(しゅ)(じん)もその(きょう)(かい)熱心(ねっしん)信徒(しんと)であることが()りました。

「それならばいっそのことお(かあ)さんの(いえ)(しん)()(きょう)()(きょう)(かい)(きょう))して、(きょう)(かい)(えい)(だい)(さい)()されれば、(すく)なくとも()くなって()(じゅう)(ねん)(あいだ)(べつ)にお(まつ)(いただ)けます」とお(はなし)すると、(いえ)(かえ)ってお(かあ)さんに(はな)して、(りょう)(かい)()られればそうします」ということになりました。

 そこで(べつ)(しん)(じゃ)さんが、(じつ)(わたし)もそうして(とつ)(まえ)実家(じっか)のご(せん)()もお(まも)りしているのですが、そうして(いっ)(ぽう)祖先(そせん)(きょう)(かい)やお(てら)(あず)けるのは()(そん)として(つめ)たいように(おも)うのですが…」という(しつ)(もん)がありました。(ひっ)(しゃ)(わたし)たちの(ほう)から(かんが)えればそうした()(かた)()()るかもしれませんが、ご(せん)()()になって(かんが)えるとどうでしょう。

 ()(ぶん)()(ぶん)(むすめ)(とつ)(さき)(いえ)のご(せん)()()()ねすると(おも)われるし、(とつ)(さき)のご(せん)()(こま)った(とき)はお(たが)(さま)とまずは()いとは(おも)っても、やはり(いっ)(けん)(いえ)()(いえ)(どう)(きょ)するのは(いき)()まるものではないでしょうか」とお(はな)しして“なるほど”ということになり、“(わたし)(いえ)(かんが)えましょう”ということになりました。

 お(はな)しする(うち)(じつ)(ビー)()にはその(ほう)(おとうと)がおられるのだが、(いま)のお(かあ)さんは(もと)より(しょう)(らい)(ビー)()()(せん)(まも)ることもしないと(せん)(げん)されたことが()かりました。

「どうして(おとうと)さんは(ビー)()()(せん)を、お(かあ)さんがおられなくなってもお(まも)りしないというのですか」と(ひっ)(しゃ)がお()きしても、(おとうと)()わっていて、(せん)()は要らないと()うのです」とのことです。

 (さい)(しょ)(もど)って“()(つう)”と()(ぶん)(おも)(ひと)にも、こうしたことを“()(つう)”と(おも)(ひと)もいるのです。

 その“()(つう)(ひと)”の(かん)(かく)がこの(かた)ばかりではなく、(さい)(きん)祖先(そせん)がいらないという(ひと)()えて“(あたら)()()()(つう)”になりつつあるように(かん)じます。

 (たと)(しょう)(しょう)()(さい)があっても(せん)()()(そん)(まも)(しん)(じょう)()(かい)()()れば、(せん)()()()えない(ざい)(さん)でこそあれ、()(せん)とご()(ぶん)(ため)にお(まつ)りをすれば、(けっ)して(じゃ)()になるものではなく大きな(おおきな)(とく)(いただ)けることに()づきたいものです。

 (わたし)たちは()(また)から()まれたのではなく、(せん)()()てるということは()(ぶん)()(しん)(そん)(ざい)()(ゆう)()てるような(むな)しく(かな)しい(こう)()です。

 ()(さつ)(けん)()などという(かんが)えは、このような(かんが)(ちが)いから()まれるように(おも)います。

()(きょう)()御歌(みうた)に、

なべて()に ()のなき(もの)は ()かりけり

       (かみ)()()の (もと)()らずや 

  (もも)(ひと)(えだ)があります。

(すべ)ての(もの)(ごと)(げん)(いん)(けっ)()があるように、()(ぶん)(もと)(おや)(せん)()ひいてはその(すべ)てを()()された(かみ)であることを()どもや(しゅう)()(ひと)(たち)(つた)え、()(しん)(こう)()(まん)にならない(しゃ)(かい)にしたいものです。



質問

 早速のお便りありがとう御座いました。
 知り合いに「AG宗」が御祓いに最適と聞き、20年ぶりにお祓いをして頂こうと
相談に行きました。
 ところがご先祖供養1人に付き10万円と言われました。
 先方は私の現在の境遇(健康・経済的に苦しい)は知ってます。何か ”ビジネス
“の様な感じを受け、寂しい気持ちに成って帰ってきました。
 今の私にお金は有りません。
 少し良くなってからのお礼、という事で宜しければお願いいたします。
 神理教に頼ったのは、T師が良い方のようですので、それを信仰する元の方で力の
ある方にお会いできるのではと考えたからです。
 前のメールでも言いましたが、昔私を祓ってくれた方の寿命を絶ってしまいました。
 T師は無料奉仕で私を助けようと努力して頂いてますが、T師に何か問題を与えて
しまうのが心配で、直接お便りしました。
 T師を信仰すると言う様な考えは一切なく、私は神を信仰します。
 後一つ、もし私が自由に成ったら、私に他の人を助けられる力を得ることは出来ま
すでしょうか?
 詳しくはお手紙にて書かせていただきますが、私に解る事は非常に大きい幸運と、
それと同じもしくはそれ以上の悪運を感じます。
 だから凄い人生です、宜しくお願い致します。

応答

1、金銭について
 金銭については、ご心配いりません。
 古事記(御存じかな?)の素戔嗚尊が高天原から追放される時に、髭や爪を抜かれ
千倉の置倉に置くようなたくさんの財産を取られて、とあります。
 私たちは自分の思い違いやご先祖の苦しみから、病気や災難を受けたり財産を無く
したりするわけです。
 それを奪われるのではなく自分からあがないものとして出すかどうかという事です
から、お気持ちで結構ですし、気持ちがあっても金銭がなければそれで良しというこ
とになります。

2、人を助ける力について
 私たちは基本的に自分たちも助けて頂きながら、他人も助けるべき役割を持ってい
るといえます。
 そうした気持ちになって頂くことは素晴らしいことで、神前・社会に奉仕すること
が自分自身を救うことにもなります。
 本教には、人を救うことを自覚すべき教師と本教を信仰する信徒という区別はあり
ますが、目的は上の意味で同じと言えます。
 そうしたお気持ちになれば、信徒としてまた教師として人助けをする方法がありま
すし、勉強をされればそれが出来ることになります。

 メールの幾つか気になる点を確認します。

1、完全な修行について
 もちろん祈る者の心の状態や修行の進み具合については個人差がありますが、私た
ちは大元の神、天在諸神を信仰するわけですから、極端に言うと誰がお祭りしても、
懸命に祈る限り同じ結果になると思われます。
 祈る者の能力もさることながら、祈る人は天と水面下に漂う悩む方の間で船をこぐ
船頭のような者で、悩む方の助かろうという強い思いとそのために大元の神に頼り、
頼る為の術を学ぼうとする意識が大切なのです。

2、お祓いをして頂いた方の命をたった、について
 それが、取り付いた物などの霊的な物が原因ならば、私たちは決死の思いをしても
対処しなければならないと思います。
 しかし、それが現実の暴力的な物であれば、全くとは言わないものの私たちの守備
範囲とは少しずれています。
 その点、立ち入るようですが具体的なことをお話し頂けませんでしょうか。
 追伸
  生年月日も教えて下さい。

        

         哮 が 教 会
  
   か た の し き さ い ち
所在地 大阪府交野市私市8―18―8

 教会長 松岡 和彦
《ま つ お か》昌伸《か ず ひ こ》

 哮が教会は、大正15年に2代管長の伊豆彦様のお導きにより、大阪分院として設
立されました。設立者は、松岡神明大教正(分院長)で、わたしの父です。
 教会名の「いかるが」と言いますと、奈良県斑鳩町、聖徳太子のことを連想される
ようですが、当教会の『いかるが』の出典は、本教ご教祖、巫部経彦代神様から遡っ
て七十七代の高祖、饒速日之命が、河内の国の哮が峰に天降りしたとの古事に因んで
の教会名となっています。
 この饒速日之命は、天照皇大神の御孫にあたられ、弟の天孫、邇邇芸之命の曾孫、
神倭伊波礼比古命(神武天皇)の大和平定のおりには協力して、長髓彦を討ったとさ
れています。饒速日之命は教会に近い「磐船神社」や奈良県天理市の石上神宮に祀ら
れています。
 教会の所在する交野市は、奈良と大阪に跨がる生駒山系の裾野にある大阪側に存在
し、巫部家ご先祖にも縁深い土地とも申せます。
 大阪分院が、現教会名になったのは、昭和21年6月のことで、教会長の襲職にも
拘っています。
 わたしが入教させていただいたのは、分院長が帰幽した終戦直後の6月でした。終
戦の年は18歳、進学(広島高師)先で原爆を受け、当面はもっぱら闘病という状態
でした。
 しかし、戦後の生活はいずこの方々も同じく苦しい事でした。
 そのなかでも、田園都市といわれた当地へは、まず炭坑離職者の方々や、広島、長
崎からも転入者があり、そのお世話に当たることともなっていました。
 記述が前後して申し訳ありませんが、中国との戦争前にあった台風は覚えて居りま
して(第一室戸)、離れの窓を飛んできた小石が音をたてて割ったことを覚えていま
す。
 先年襲った阪神・淡路大震災は、人々の住家のみならず、各家墓地まで大荒れに壊
されてしまいました。妻や子はとにかく辿りつける縁者、信徒の家に行き、呆然とし
ている方々に、手助けできるところから整理作業を致しました。
 天災は、今回のように突然来るものですが、わたしどもは、常日頃から助け合いの
生活も大切にしなければならない点を、実は教えてくれたのだと受け取っています。
このためにも、お互いの情操がいりますが、原点は何といっても、常々の信仰の力が
望まれるのではないでしょうか。
 終戦直後にご就任された現管長様も、戦後復興の時代のために大変ご苦労を重ねら
れたのではと思いますが、幸いにご健康と拝察、しかもめでたい『喜寿』を、教信徒
のご祝福をお受けになり、わたしども大祭後のご祝宴席に侍らせていただきました。
 ところで、当教会の主要行事は、春秋の大祭です。この時ばかりは信者さんが寄り
合い、信仰の講義に励みます。中祭として、神仕えに尽くされた教師方の慰霊と先祖
霊祭を大切な祭儀と位置づけています。
 寒期の祭典は厳しいですが、出来うるかぎり努力して、朝拝・夕拝の実践によっ
て、安心報謝の心を捧げ、「本教大意」の理念に近づけるよう心掛けています。
◇■御案内◇■

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平成16年
独立110年を迎えます。


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 幸福への出発
   第九集
     DNAは神なり
      遺伝子は先祖なり

 
この身は神と先祖の在処です。
 心は子孫に残す財産です。
 「子孫に残す心」が財産(徳)か借金(罪)かで、子孫の繁栄か滅亡かの進路の選
択を「神」は厳しく子孫に要求します。その要求が遺伝子の治癒力の強弱です。それ
は先祖が「我が子孫だけには幸せと繁栄」を願っているからで、先祖が「あの世に行
って初めて霊の世界」が理解出来るから、子孫に要求を強く求めるのです。それが遺
伝子の治癒力が変化を起こすので信仰の重要性が増すのです。
 しかし神様はDNAの中に訓練により強化させる遺伝子を組み込んでいます。これ
が「抵抗力」です。ほとんどの病気は適当な運動と食事療法で良くなります。身体の
中の遺伝子の弱い治癒力を体外的にカバーするのです。昔から「食は神なり」と言わ
れています。現代の食生活は大変乱れています。現代ほど健康思考が高まっている時
代は無いと言われているにも関わらず、特効薬的な健康食品を求めているのです。家
庭の中が欧米風に様変わりして家族の健康を考えた食造りがおろそかになり、「簡単
な食事」が主流となり、「インスタント食品やファーストフードなど」の食品が食卓
を占領しています。大自然の恵みの野菜は、多くの品数を食べることにより「栄養素
の相乗効果」で「素晴らしい薬効食品」と成るのです。食品の全ては「神様(自然)
が造られた」ものなのですから。
 あらゆる動物や昆虫は神様が定めた食べ物だけで生きています。人間だけが地球上
のあらゆる食材を調理加工して食べています。人間が「神の子」として永続するため
に「地球に少しの変化が有っても」生きていく為に、どんな食材でも食べて行けるよ
うに「木火土金水」の働きを内臓が持っているのです。動物は地球の変化にとても敏
感です。「食物連鎖」の変化は死を意味します。それなのに人間だけが「空気を汚し
・水を汚し地球環境を悪く」しています。現在は「神の子から人の子そして罪の子」
と「心が狭く小さく」なってきている為に『自分の事で心がいっぱい』で子供のこと
も、家庭のことも、地域のことも、国のことも、世界のことも、とても考える余裕が
無くなっている人がだんだん増えているのです。「あらゆる食材は神が造られた物」
です。食材はこの美しい地球で生産しているのです。汚い地球からの食材はやがて人
類の滅亡へ進む事になります。『食は神なり』神はきれいな所を好まれます。
 神様のために『この美しい地球を』神理教の一人一人が「汚さない努力」をしまし
ょう。この努力が「神様への奉仕」となり大勢の人の救いになります。また子孫に安
全な地球を残す責任を果たす事にもなります。
 DNAはそれぞれに「きめられた働き」があります。DNAの持っている特異性を
活かした食材を選ぶ必要が有ります。野菜は「色のバランス」が大切です。赤色・青
色・黄色・白色等の食材の組み合わせにより「活性酸素」や「成人病」等を改善する
薬効の働きがあります。穀類は柔らかさや硬さのバランスが大切です。「穀類の糖分
は脳を活性化」します。欧米では頭が良くなると言って日本食がブームになっていま
す。もともと日本人の体質は穀類を食べる様になっているのです。肉類は油のバラン
スが大切です。特に肉類は高度の蛋白質があり穀類(豆類)等の蛋白質といっしょに
食べれば、お互いに足りない部分を補って身体に良い蛋白質を吸収します。魚貝類に
は海の中にしかない「ミネラルや無機質」等を多く含んでいて、食材として最高のも
のです。これらの食材を上手に組み合わせることにより『家庭で出来る健康食』とな
るのです。野菜などの食材は製薬会社の栄養剤や薬の原料です。同じ原料から造るの
に、人の身体はどの製薬会社も造ることの出来ない栄養素を必要なだけ必要な時に簡
単に造ります。「これが神が与えたDNAの働き」なのです。『食事の乱れは心身の
乱れ』となり先祖が与えた遺伝子の働きを乱して「抵抗力と治癒力」を弱めます。そ
の結果、病弱な体質になり根気の続かない・やる気が出ない消極的な性格となりま
す。
 信仰は神を祭り拝む事が大切ですが、家庭の中では母は母として、父は父として、
子供は子供として、自分の与えられた仕事や行ないを確実に実践することが「幸福の
種」なのです。家族同士がお互いに安心して暮らせる信仰と実践です。「自分のする
べき事はちゃんとする」事で家族が安心出来るのです。「これを思いやり」と言うの
です。自分のする仕事で手を抜いていませんか。人のすることが気になりませんか。
今日を振り返ってみる余裕が有りますか。人に対して不平や不満が有りますか。信仰
は心を磨き奉仕の中から人間の命の大切さを習得するのです。

  人間は神様に絶対服従の
    天命を受けています。
      神の子として…

  地球は神様が一番大切に
    しておられる所です。
      私達も地球を大切に

第四章 教祖の霊観

  第一節 霊の本能 (生まれつき持っている性質)2
・霊の本性とは(霊と魂)
 さて、神及び人に共通である霊性を表現する時、霊を魂の漢字を用いております。
 中国でも霊は神霊であると理解し、又『神の精明は霊という』という様に、霊妙不
可思議で、どんなに細かいことでも優れて巧みなものは総て霊といいます。
 これは、第二章の『教祖の神観』の中で、中国人の天神地祇に対する観念から来た
霊の解釈であり、又霊をこの様に解釈しているから、自然にその神観も霊妙不可思議
という意味に於て、天地自然の現象を神と認める様になったのでしょう。
 又魂は、分析的であり相対的であって、総て形式に対しての実質、肉体に対しての
精神という様に、霊というものの中に抱かれている相対概念であります。
 我国の古典に於ても霊と魂の区別は中国と比べても大差なく、霊は総合的で、魂は
分析的な概念であることを現わしています。
 又、霊はその本体であって、魂は本体の作用の上に用いられた様に考えられます。
 例えば、霊と言った時は極めて漠然であって、その範囲は極めて広いが、魂といっ
た場合はかなり具体化して、幸魂、和魂、奇魂、荒魂といいますが、この様な場合に
幸魂、奇魂ということはなく、矢張り『魂』であって、その作用の上に認められるも
のです。
 そうであるから霊といい魂といっても、どちらも『タマ』又は『ヒ』『ムスビ』と
読み、国語の上では霊も魂もほとんど区別はありません。
 即ち、日とは火、日、彦、姫などと同じく優秀なものを称えた言葉です。
 『ムスビ』の『ムス』は息子、息女又は苔生等にて、生き生きしている意味で、
『ビ』は日と同じく優秀性であって、活動発展を意味したもので、『産霊』とある御
神名の文字が最も良くその意味を表わしています。
 その霊の本言(その言葉の本来の意味)はどのようであるかと言えば、御教祖は、
「霊は産巣日大神の鎮まり坐すところの日の御国より、大神の御恩頼により授かり賜
りし産霊の霊であるから『タマハリシヒ』と教えられる様に、霊の本体は『ひ』にあ
るので、その日は産巣日の日であって、産巣日神より賜ったものであるから、これを
恩頼的に解釈することも出来ますが、神がこの世に成されることは何一つとして、恩
頼の他ないのでありますから、『タマハリシヒ』を言葉の意味だけで恩頼的に解釈す
るのは間違った考えであり、御教祖の真意は直感の意であります。
 神の分霊であること、神霊と人霊は同一系統であるという実質的の意味であります。
 又、一切は恩頼でなければ何であろうか。
 世の中には恐るべきものや、狂暴なものにも、その霊性の存在を認めこれを祭っ
て、禍悪が来ない様に願うので、恩頼には無関係であるという者も居るが、霊そのも
のは最初から恐れるべきものではなく、又狂暴なものでもない。
 これは霊の本質が染悪したものであって、その禍悪の来ない様に願うのは、霊の本
質が染悪しない様に願う霊の本能の働きで、恩頼に少しのキズをも付けない意味の外
にないのです。
 故に、霊即ちタマハリシヒの意は天津産巣日神より賜る日であるからタマハリシヒ
であって、直感を意味するものであり、その事実から理解されたものであるというこ
とが明らかであります。
・霊の本能
 では、その霊の本能は何であるかと言えば、『教祖の神観』の章で述べましたが、
イキモチが霊の本能であると答えなければなりません。
 なぜかと言えば、神からのタマハリシヒでありますから、神の分霊であり、神と同
一の霊でありますので、次の様に解決しなければなりません。
 御教祖が「神と人とは同体である」という、主たる教えはここにあります。
 つまり神の本体はイキモチであり、そして人は神そのものの分霊であるから、その
分霊(人)の本能もイキモチでなかったならば、神人一体であることも、又人は神の
分霊であるということも出来ないはずです。
 神人一体を唱え、人は神の分霊を賜っているものである以上、人の霊の本能もやは
りイキモチであることは、動かす事の出来ない確かなものであります。
 そして神と人との区別は、つまりイキモチの高下、大小によるものと述べたこと
が、ここに於てはっきりと納得されることと思います。
 総て、人間のイキの中で向上発展の活動をしているから、又自然の力に対して服従
することを身に付け、又は道理に従うようになるのです。
 人は、万物の中でも別段に一切の恩恵を頂いている事など、神の本性に一致した内
容を総ての人間の本性の上に認められることから、神と同一である霊の本能的働きで
ある事が確認出来るのです。
 では神と人とに共通である霊は、その本性に異なるところはないけれど、神の霊と
人の霊とは量の深浅、高下にあって、神よりも人の霊はその量が浅く、小さなもので
す。
 しかし、段々に成長し修行してある種の体験を得れば、神の霊に到達出来る可能性
を持っているのです。
 天照皇大神はこの霊の発達が非常に高かった神でありますので、御功徳が天之御中
主神と並び称えられる様になられました。
 それは、いわゆる霊の本質が共通であるから、同一点(天之御中主神)まで進む事
が出来たのです。
 これまでの点に付いては、前章の『教祖の人生観』で学んだ事柄ですから、良く考
えれば理解されると思います。
 そこで、霊は神と人の区別はなく同一の本体を持っているから、神人一体である事
が納得出来ると同時に、同質である霊が異質な霊に分かれようとする働きは、どんな
場合に発生し、どの様に作用するのかという疑問が起こるのは当然でありますから、
今からこの事に付いて研究して見ましょう。
第一節終り(つづく)
               

      

☆★☆ 素朴な疑問 ★☆★
     
 Q & A

Q1、手水の作法について教えて下さい。

A、 (1)右手で柄杓に清水を汲み、左手にかける。(2)柄杓を持ち替えて、右
手にかける。 (3)再び柄杓を右手に持ち、左の手のひらに水を受け、その水を口
に含んですすぐ。口をすすぎ終って、もう一度左手に水を流す。 (4)柄杓を立て
て、その柄に水を流してから柄杓を伏せて正しく置く。 (5)手拭で手をぬぐう。
ハンカチもしくは懐紙でもよい。

Q2、神の気を頂けといいますが、人間も気を持っているのですか?

A、 病は気からと言います。人間も気を持っているので、病気は自己の気と神の気
が異質である場合に嵩じてくるのです。つまり病は、神気の導入を自己の気が妨げて
神気の欠乏から生じることになるのです。従って、祭りによって神気をより多く頂い
て生活にうるおいと元気を得たいものです。

※先月号の訂正
Q1、 毎月の霊祭の式次第
 (1)清祓詞(祓行事)、(2)大祓詞(3)月例霊祭 詞(天神奏詞を兼ね
る)、(4)祈念詞、(5)玉串拝礼、 (6)両段再拝。
Q3、 初穂見祭の式次第
 (1)清祓詞(祓行事)、(2)天神奏詞、(3)初穂 見祭祝詞、(4)穂見祭
祝詞、(5)霊祀霊前告詞、  (6)祈念詞、(7)玉串拝礼、(8)両段再拝。



※全国の教会をご紹介します。  神理教教会名一覧 順不同

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鹿児島県
鹿児島分教
あとがき

 今年も残すところ一ヶ月となりました。
 読者の皆様には、今年はどのような一年だったでしょうか。
 会う人皆 ”忙しい“と言われる方が多いように思われます。
”類は友を呼ぶ“と申しますが、筆者が会う人だけがそうなのでしょうか。
 自分がそうだと言うと一緒くたになってしまいそうな、話まで急いでしないといけ
ない雰囲気になりそうで、差し控えてしまいます。

 よく忙しいという字は、心(立心偏)を亡くすと書くと説明されますが、心を亡く
さない忙しさというか精勤を楽しみたいと思います。
 忙しさにかまけ、家族との触れあいや周りの人への心配りを忘れたりしないように
したいものです。
 そういえば忘れるという字の方が、もっとそのまま心を亡くすになっていますね。
 元々、家族や周囲の人との触れあいは、ほんの少しの心配りを調味料として、本来
人の心を和め安らげるものといえます。
 人それぞれが持つ忙しさの中に、触れあいの楽しさを自分の安らぎとし、それをま
た周囲に発信してゆきたいものです。

 今年は地方教会での講習会などもかなりの数が行われました。
 それらの講習会で新しく講師として勉強されたり、また初めてお祭りに奉仕される
方もおられました。
 そうした新しい、あるいは初めての方が、
『神理教の恥にならないように、失敗をしないように…』と力を込めて努力される姿
を見ることは、とても新鮮に思います。
 そうした方に筆者は声を掛けて、
「いやなに、失敗をしたとしたら、それは貴方が悪いのではなく、それを教えた私た
ちが悪いのです。
安心して、失敗を恐れずに取り組んで下さい」と言います。

 初心の方は注意をせずとも一生懸命ですが、私たちが気を付けるべきは初心を過
ぎ、いわゆる中級・上級になった時です。
 もう出来ると思って緊張感を失う、合理的という理由の手抜きをする、まだ伸びる
自分の能力に自分から見切りを付ける、などにはなりたくないものです。
”生々化々“世の中と同じく人は常に神の意志をお受けして良い方向に変化・発展す
る存在なのですから、常に神様に近づこうと自分を高めてゆきたいものです。
 初級として目先の技術を身につけながらも、長い目で見た時に常に進化を志す自
分、より良いものを作りなす家・社会の一員となりたいものです。        
    (幸)

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