神理

平成14年11月号 第1065号

        

巻  頭 の こ と ば

困った時はお互いさま

助けられたり助けたりしてお互いが生きている。

特に時間や労力やお金まで費やして尽す奉仕活動は、実践して

みると相手の為だけでなく、自分にも大きな喜びと感動が

与えられる行為であることに気付く。

相手の喜びを見て自分も喜ぶ。

この感動こそ人が本来持っている誠心の芽吹きであり、自分の

心を養う道と言える。


                かんなぎべ  たけひこ
  神理教管長   巫部  健彦
               よ
   ままならぬ 世にはあれども おのづから
   
       みち ひら      かみ  こ
        道や開けむ 神の子なれば
  去る十月の秋季例大祭は、恙なく奉仕できました。何かと事多い中から時間を作
り、準備から片付けに到るまでの諸般について、その場その時に誠意こもる御尽力を
頂いた故の事であり、心ゆたかな時を共有できました事を含め、実に有難く感銘・感
謝している所であります。
 尤も、その我々が心おだやかな場にある時でも、所変われば異様な事件が続出、好
ましからぬ事態も発生している訳で、国内では第二次小泉内閣発足に伴う不透明感
や、拉致事件調査団の報告を巡る不満足感の渦巻きという状況が、見られる事になっ
ております。
 そうした状況も、やがては異なった様相に変化するものと思われますし、政治では
経済不況脱出等の道筋が明示され、拉致事件では信頼できる情報の開示!と言う展開
が望まれますが、その為には、国力や国益に対する強固な国民的関心が不可欠と考え
られます。
 今回、拉致を認めて謝罪した要因の一つとしては、先方の国力衰退が限界に近づい
た点も挙げられそうであります。逆に、当方の国力が評価されている点も考えられます。
 国益について拉致問題解決を優先した点も、先方への圧力になったということの様で
あります。
 主権在民という思想は、国家という枠内のものでありますが、これを主張する人の
中には、国家という意識に欠ける言動が見られます。それでも我が国の場合、たまた
ま国力や国益の回復・増進という戦後の状況が、先細りながら続いてきたと申せそう
であります。
 それ故に、国際社会でも一応の評価を保つことが出来ており、今回の様な事件解決
への端緒の機会を得る事にもなった次第であり、我々としては、個人としては微力で
あっても、少なくとも国益や国力を意識した世論に与する心がけを肝要とすべきであります。
 なかなかに不況脱出の光明が見えがたい状況でありますが、国家と国民との相互関
係と同様、国益や国力も我々の豊かな生活に結び付いております。そうした点も視野
に入れながら、先ずは苦を分かち合いつつも心なごむ家庭を目ざしたいものと思いま
すし、御神護を仰ぎながら、感謝を忘れる事のない日々を過ごされますよう、お願い
申します。
                                             

オノズの道

自然(おのずから)(みち)

(さち) (ひこ)

 

(しょう)中学生(ちゅうがくせい)神理教(しんりきょう)訪問(ほうもん)

二代(にだい)管長(かんちょう)(さま)旧制(きゅうせい)中学(ちゅうがく)(いま)高校生(こうこうせい))の(がく)(せい)さんが(さん)(ぱい)()()りに、(かみ)(さま)(はなし)をされた()(じゅつ)()()(おく)があります。

 戦後(せんご)宗教(しゅうきょう)自由化(じゆうか)同時(どうじ)に、公立(こうりつ)学校(がっこう)特定(とくてい)宗教(しゅうきょう)法人(ほうじん)(ちか)づくこともはばかられることとなりました。

 しかし最近(さいきん)はまた教育(きょういく)要領(ようりょう)改訂(かいてい)影響(えいきょう)か、地域(ちいき)とのつながりや()(いき)(まな)ぶということで、(ちか)くの(しょう)(がっ)(こう)(ちゅう)(がっ)(こう)から神理教(しんりきょう)への訪問(ほうもん)があります。

 どの(がく)(ねん)(せい)()()(ぼう)()(ぎょう)()くようですが、(しん)()(きょう)としてもそうしたところからの(ほう)(もん)があるのはとても(うれ)しく(かん)じるものです。

小学校(しょうがっこう)低学年(ていがくねん)学習(がくしゅう)目的(もくてき)は、地域(ちいき)にある五万(ごまん)平方(へいほう)bの境内(けいだい)存在(そんざい)理由(りゆう)何故(なぜ)ここにあるのだろう)というところでしょうか。

二十人(にじゅうにん)ほどの()どもが、てんでにノートに()()けてきた(しつ)(もん)(つぎ)(つぎ)にぶつけてきます。

(しん)()(きょう)ついて(なに)()きたいのかな、とこちらも興味(きょうみ)があります。

「あのぉ…、(しん)理教(りきょう)にはどんな動物(どうぶつ)がいますか?」などと可愛(かわい)質問(しつもん)をします。

「イノシシや(さる)(いま)はこないけれど(たぬき)やイタチや(へび)もいるし、(いけ)(まえ)()ればわかるようにアヒルや合鴨(あいがも)(さかな)(むし)などたくさんいるよ」と()うと、「え〜!」と(おも)()(おどろ)いています。

「なんで(かみ)(さま)(おが)むのですか?」という(しつ)(もん)に、「あなた(たち)、お(とう)さんお(かあ)さんやお()()ちゃんお()()ちゃんと(いっ)(しょ)(じん)(じゃ)やお(てら)()をあわせて(おが)んだことある?

 ()(ぶん)()()()ちになると(おも)うし、()()()ちになると()()()とお(ねが)いしたことが(かみ)(さま)()いてもらえることもあるよ」と(こた)たものです。

 (しょう)(がっ)(こう)(こう)(がく)(ねん)学習(がくしゅう)目的(もくてき)は、(しん)理教(りきょう)何時(いつ)からどうしたいきさつでここにあるかということのようです。

 (じん)(ぐう)(こう)(ごう)(したが)(かんなぎ)()()()(せん)である(もの)(のべ)()(ほく)()(きゅう)(しゅう)()(えん)()()たいきさつや、(ほん)(いん)のある(とく)(りき)(しゅう)(へん)()(めい)()()ちを(せつ)(めい)しました。

 ()どもながらに(しん)()(きょう)にも興味(きょうみ)があるようで、神様(かみさま)(なん)のお(ねが)いをするのですか?」などの質問(しつもん)があります。

「それはたくさんあって、(たと)えば(けっ)(こん)(しき)をして()(たり)(すえ)(なが)()(しあわ)せでその()どももそのご(せん)()(みな)(こころ)()()りた(よろこ)びを(あじ)わえますように、とか()きたい学校(がっこう)合格(ごうかく)しますように、とか病気(びょうき)(なお)りますように、とか(いえ)立派(りっぱ)()ちますように、とか(しょう)(ばい)(はん)(じょう)とかお(そう)(しき)とかたくさんあるよ」というと、また(おどろ)いています。

(むかし)(ひと)はみんな(なん)でも(もの)(ごと)(おこな)(まえ)に、(かなら)神様(かみさま)報告(ほうこく)相談(そうだん)してから(はじ)たのだよ。

 みんなも(なに)かする(とき)は、お(とう)さんやお(かあ)さんや(せん)(せい)()ってからするでしょうし、(かい)(しゃ)などでもその(せき)(にん)(しゃ)(はな)してから()(ごと)をするよね。

 (いま)(すく)なくなったけれど、(かみ)(さま)()(うえ)(ひと)(ほう)(こく)してから(おこな)うとうまくいくことが(おお)いという(にん)(げん)()()がお(まつ)りになったのだよ。

 (いま)(ほう)(こく)というよりお(ねが)いの(ため)のお(まつ)りになっているけれど、(かみ)(さま)への報告(ほうこく)は、お(とう)さんお(かあ)さん・(せん)(せい)への報告(ほうこく)相談(そうだん)と同じで大切(たいせつ)なことだよ」と(はな)しました。

 (ちゅう)(がく)(ねん)(せい)(がく)(しゅう)(もく)(てき)は、(いま)までの(しつ)(もん)(ふく)みながら、(しん)()(きょう)(はたら)(わたし)たちの(しょく)(ぎょう)への(ねつ)()などの()(しき)調(ちょう)()のようです。

 しかし、(ちゅう)(がく)(おんな)()らしい()(わい)らしい(しつ)(もん)もあります。

「お(まも)りの(なか)には(なに)(はい)っているのですか」と()くので、ご(しん)(たい)(ほし)(やま)などの自然(しぜん)から(かがみ)(つるぎ)真榊(まさかき)神離(ひもろぎ)などへの(へん)(せん)(れき)()(ぐう)(ぞう)(すう)(はい)(はなし)もしながら、「お(まも)りを(たい)(せつ)にしようとする(こころ)(だい)()なので、その(もの)(なに)かは()(ひつ)(よう)のないもので、(なか)()けて()ようなど(おも)わない(ほう)がいいよね」と()()と、()(ろく)(にん)(おんな)()がとても動揺(どうよう)しています。

 そこで質問(しつもん)があり、(なか)()たら、(なに)(たた)りがあるのですか」と()くので()うてみると、(じつ)(ひら)けて()ていたと()うのです。

(ひっ)(しゃ)(すこ)(おど)かして(たの)しもうかなあ〜、という()()ちを()(まん)して、「お(まも)りの(なか)()るということは(かみ)(さま)(しん)(よう)しないという(こころ)(あらわ)れでもあるので、お()をして()けたお(まも)りはお(かえ)しして、(あたら)しいお(まも)りをお()けすればいいよ」と(こた)えました。

そうすると、このような(はなし)はやはり(きょう)()がある(とし)(ごろ)のようで、(わたし)はとっても()()くお(まも)りを()っているのですが、(とも)(だち)(さわ)らせてあげるともう()かなくなるのでしょうか」と()きます。(ひっ)(しゃ)は、「お(かね)(しな)(もの)()くなるけれど、()()()むほどに()くように(かみ)(さま)(ひと)(しあわ)にする(ちから)というのは()けてあげればそれ()(じょう)(いただ)ける(もの)だから、どんどん(さわ)らせてあげるといいよ。

()(にん)(さわ)ったら()()()くなるようなお(まも)りは(ほん)(もの)ではないと(おも)うよ」と(こた)えました。そして、(ひと)(やさ)しくしたり(しん)(せつ)にする(こころ)は、()せば()すほどもっと()()てくるものだから、お(まも)りを(さわ)らせてあげるのと(おな)じで(まわ)りの(ひと)(よろこ)ぶことをすれば、()(ぶん)(うれ)しくなるし(おお)きな(こころ)()ことが()()るようになるよ」と(はな)したことでした。

 (たず)ねてき(しょう)(ちゅう)(がく)(せい)(いち)(よう)()っていることは、(よう)()(えん)(よう)()にも()っていることだけれど、()()える(かみ)(さま)がおられて、それはみんなのお(とう)さん・お(かあ)さんなのは、(そん)(とく)(かんが)えずに(まも)って(くだ)さることを(おも)えばわかるよね。

 そのお(とう)さん・お(かあ)さんを(たい)(せつ)にすれば、(かなら)()(ぶん)(こころ)(ひろ)くなり()(なか)のことがよく()えるようになって、()(ぶん)にとっても(しゅう)()(ひと)にとっても(とく)になるのだよ」とお(はな)ししています。

 



何やら以下のような一見不気味に思われるメールが、外国から送られてきました。
 
質 問
 こんにちは、初めてお便りいたします。
 ホームページ等で布教されている『Y・T様』にお世話になっております。
 本日お便りいたしたのは、私自身に憑いているものが非常に厄介なものらしく自由
になれません。
 私の人生大変でした、良く生きていられたと思います。
 今まで お祓いは少し諦めていましたが、このまま逝ったら私自身が恨みを残して
しまいそうで…。最近 再度真剣にお祓いしようと動きだしたら、以前にも増して色
々起きています。
 それは通常考えられない事が、よくおきます(私自身は慣れてしまっていますが…)。
 今回は体調もあまり良くなく、どうしてよいか分かりません。
 日本に帰って御祓いすればよいのですが、突然の国税局からのクレーム、急に仕事
を失った等の問題が幾つもあり、此処を離れるわけにはいきません。
 そこで質問ですが、修行をされた方で此方に住んでいられる方(御祓いの出来る
方)はおりませんでしょうか?
 但し、私は20年ほど前にお祓いをして頂いた方の命をたってしまいました(お祓
いをして頂いた後 亡くなりました)。
 完全な修行をされた方でないと、私自身『同じ様な事が起きては…』と不安です。
 御忙しい所申し訳有りませんが、宜しくお願い致します。
 
応 答
 お便り有り難うございます。
 大変な思いをしていらっしゃるようですね。
 申し訳ありませんが、そちらで活動している神理教の教師はいません。
 T師は神理教の教師として登録されていますが、そのホームページでもことわって
いるように神理教の手法だけで活動をしてないようです。
 T師にお世話になるのならそのまま、神理教にお頼りになりたいのならば神理教だ
けに頼るというのが良いと思います。
 信仰というものは、あちらでダメならこちらというのでは、その場限りの救いは得
られるかもしれないものの、それを何回も繰り返す内にまた元の苦しみのみか、それ
以上の苦しみを受けることがあるからです。
 神理教の教えは、神理教のホームページ(簡略化していますが)に載せています。
 悩み苦しみは、神や祖先からのお知らせと受け止め、その原因を伺い考えるという
気持ちが大切です。
 ご自分の心の持ち方や祖先の祀り方を見直すと反対に大きなお陰を頂けるチャンス
を与えられていると、前向きにお考えになることです。
 ただ、今お話ししたように、お祓いをすればそれで良いということはありません
が、とりあえずあなた様の持ち物、例えばハンカチとかボールペンなどを送って頂
き、本院から遙かに離れてもお祭りをするという方法がありますがいかがでしょう
か。
 先にお話ししたことをお考え頂き、苦しみの内容を具体的に記入されて郵送下され
ば、そうさせて頂きたいと思います。
 ご質問があれば、またこのメールへどうぞ。

        

         稲 荷 宮 教 会
  
くす ぐん ここのえまち
所在地 大分県玖珠郡九重町野上青山通り

 教会長 高
《たか》昌伸《まさ のぶ》

 稲荷宮教会は、内野勝之前教会長によって昭和27年に設立されました。きっかけ
は前教会長が、中国東北部のノモンハンに出征した時、お稲荷様の、病気で苦しむ人
たちのために、加持祈祷をしなさい、とのお告げを受けたためと聞いています。
 その内野前教会長が、平成12年8月に他界され、私が継いだわけですが、葬儀を
管長様に執り行っていただきました。その時の管長様の出で立ちが、初おろしの夏の
装束で、大変感激しました。内野前教会長がどんなにお喜びかと、管長様の荘重なな
かにもすがすがしいお姿に感涙したものです。
 私が入信したのは16歳の時です。父が教会の教師をしていたこともありますが、
もともと胃腸が弱くて悩まされていまして、信仰におすがりしてみてはと思ったから
です。お陰様で現在は、元気にお務めしています。
 と申しましても、信仰生活が必ずしも順調だったわけではありません。まず、教会
長を継承するに当たり、とても不安でした。正直何も知らない私に人様を導くことが
できるのか、教会をうまく運営できるのか。
 そんな迷える私を助けてくださったのが、本院の巫部総務局長と瀬戸局長でした。
快く出張講習に応じていただき、つたない私への懇切丁寧な教えに、少しずつですが
自信が芽生えてきました。
 また、青年部の一員として本院を訪れるうちに、いろいろな人たちと交流を重ねる
ことができて、信仰への確信が持てるようになりました。この3月には神璽鎮座祭を
瀬戸局長に行っていただき、さらに9月には教会設立50年の大祭を挙行できたの
も、これまでご指導いただきました皆様のお陰と感謝しています。
 私共の稲荷宮教会は、玖珠郡九重町の住所でご推察いただけると思いますが、山の
中にあります。まさに山間の一軒家といった雰囲気で、信仰生活にはもってこい、し
かし生活には不便というのが実感です。
 そんな環境のなかで、春・夏・秋の大祭、月例祭、大星祭の年中行事を執り行って
います。 100名ばかりの信者さん、教師の方々のご協力のもとに作る、祭事の時
の赤飯、ちらしずし、炊き込みごはん、だんご汁は、今や名物料理になっています。
ほんとうの田舎の味なのです。
 神楽の奉納や樽や桶の太鼓も恒例の祭事になっています。
 大祭では本院の先生による講話を毎回実施しています。料理や太鼓はともかく、こ
うした講話や講習会などを通して、神理教の教えを信者さん以外の方にも広めていき
たいなと考えています。話を聴くことで、不登校の子どもが学校に行きはじめた、病
気が治ったという例もあります。
 私は月並みですが、先祖の供養と自己反省を信仰の基本に置いていますが、今ひと
つの「迷っている人を助ける」までには、なかなか達していません。また、入信を迷
っている方には、まず本院の大祭に参拝されることをお勧めしていますが、大祭の折
に教師の話を聴いてもらうことも大切だと思います。
 そうした意味でも本院大祭の土曜・日曜の開催、短期講習の復活をぜひお願いしま
す。地方から本院へ、根気強く教えを説くことが、人を助ける道につながると信じて
います。
 長々とお話申し上げましたが、当教会の年中行事や催事などは、すべて内野前教会
長がやられていたことを踏襲したものです。教会長になってまだ日の浅い私として
は、早く一人前になって信者さんや教師の方々を指導できるようになればと、日々努
力しています。

◇■御案内◇■

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平成14年度講習会等 予定

11月17日(日)広島地区ブロック研修会
11月23日(祝)本院、一日講習会
12月7・8日(土・日)短期講習会(教師対象)

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平成16年
独立110年を迎えます。


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幸福への出発
  第八集
   我身が残す遺伝子は
     子孫の幸福の鍵となる。

 自分の中に先祖や親の過去のデーター(遺伝子)が有り、過去が大きく支配してい
るのです。コンピューターでも過去のデーターを基本にして明日の答えを出すので
す。過去が有るから未来も有るのです。正に人生は過去の上に成り立っているので
す。「神様には最古の過去」が有り「最新の過去」が有り「壮大な未来」が有るので
す。自分には最新の過去が有り、最新の現在が有り、また最新の未来(子供・孫)が
有るのです。遺伝子は過去の世界(先祖)を現在(自分)に表現しているのです。心
が未来(子供)の予言をしているのです。心(喜怒哀楽)とは『気』なのです。「元
気の気」「やる気の気」「気持の気」「浮気の気」です。気(心)とは「空気と同
質」なのです。空気とは「日の若宮」で「電波」の有るところです。電波とは霊波
(電波と類似波)なのです。
 脳細胞は「脳神経」です。神経(電流と類似質)は「自律神経」と「感覚神経」で
す。自律神経の前頭葉(幸魂)が交感神経(プラスの電流)で、間脳(和魂)が副交
感神経(マイナスの電流)です。電流も電線の中で、一秒間に+と−にものすごい速
さで交互に切り替わっているのです。さらに早くなれば電線を飛び出して電波になり
空気の中を自由に飛び回ります。テレビや携帯電話などの通信電波として活躍しま
す。信仰も神と先祖の「陰陽」のお祭りを数多く交信(お祭り)をすればするほど自
律神経が脳波として空気の中に飛び出すのです。これを「霊感」と言うのです。霊感
の初期は夢に有ります。また「虫が知らせる」とか「噂をすれば影とやら」等です
が、霊感の本質は先祖との交信です。信仰とは先祖を産須根神にする為に『神様に奉
仕と罪の祓い』が基本なのです。遺伝子は脳波のリズムを持っています。それがバイ
オリズムです。このバイオリズム(脳波)が身体の健康のリズムをとっています。こ
の遺伝子のリズムを先祖が管理しているのです。先祖が『産須根神となって』脳波を
働かしていれば、子孫の霊感は強く働くのです。先祖のお祭りは多ければ多いほど脳
波が強くなります。しかし誰でも霊感が強くなるのでは有りません。先祖が選んだ子
孫だけが強くなるのです。その仕組が遺伝子のバイオリズムの中にあるのです。その
為には先ず「先祖を産須根神」にする信仰とお祭りの回数が必要になります。先祖の
生前の罪の祓い、また代々受け継いだ家系的な未祓いの罪等があり「なかなか容易に
罪の祓い」は出来ないものです。だからこそ『神様に直接的な奉仕』と『祭り』が絶
対に必要になるのです。この事が『神の子』としての「義務」であり「証明」なのです。
 自分の幸・不幸は「性格」が握っています。性格は先祖が罪の祓いをさせるために
「わざと罪のある」性格を与えて「自覚」をさせているのです。性格は「自覚を持っ
て」直す努力を自分がしないと直らないのです。つまり『自分が性格を直せば先祖の
罪が消える』のです。だから人は全て「性格」を持って生まれるのです。これが「神
様の清濁を分ける働き」の中の一つです。この性格を持っているのが「氏神となる和
魂」です。この和魂は「自律神経」のマイナスの電流を持っています。この和魂の性
格が強ければ「マイナス思考」が強く「短気で怒りっぽく」「自分中心で気が強く」
「好き嫌いがハッキリする」「熱しやすく冷めやすい」「自分が一番正しくて悪いの
は人のせい」「自分が一番可愛い」等の性格になります。この性格的な病気の多くが
「自律神経失調症」です。この病気は治癒力を低下させるので「あらゆる病気の原
因」となります。だから「先祖が病気を通して罪の祓いをさせている」のです。この
性格を「健全な性格」に変えるのが「我が家の神殿で子孫を守る奇霊」です。プラス
の交感神経を持っている「幸魂」は和魂の持っている「性格が強すぎる」と「神」の
働きが弱くなるのです。人間は99パーセント先祖の肉体を受け継いでいるからで
す。奇魂は幸魂の神の働きをカバーする魂で「神の道を基本とするプラス思考」なの
です。唯一「性格をコントロール出来る神様の働き」の仕組みを持っている良識の魂
なのです。この奇魂を「運命」と呼ぶのです。我が家の奇霊と自分の奇魂が強ければ
「幸福な家系と健康な自分」が当り前として存在します。また弱ければ不幸の連続が
存在するのです。DNAは神様が与えています。しかし先祖(親)が授けた遺伝子は
少ない数で要所を管理して守っています。過去の善悪の上に現在が有るので「家系の
過去は自分の命を左右する」仕組みを持っているのです。
 過去は消えて無くなるものではない。諺の「親辛抱・子楽・孫終い」とは
 大きな過去の中に 小さな今の自分が有り もっと小さな明日が有る
神理教は 大きな過去の上に もっと大きな今を造り 壮大な明日を約束す
第四章 教祖の霊観

 第一節 霊の本能 (生まれつき持っている性質)
・何故、神と人の霊は同質か
 神と人とは本体は同一でありながら、表への現われ方に違いがあります。
 神は現象の上に認められた霊の実在をいい、人は霊を本質とするけれども、霊が肉
体というものから束縛を受けている事を認めたものです。
 又神とは、神と人の同一本体である霊性(霊が持っている特色)が最も良く表われ
たものであって、人とは、その霊性が物質的制限、つまり、精神面より金銭等の物質
に重点をおいた考えから、脱することが出来ないと言えます。
 それ故に神と人との違いは、霊性の量が深いか浅いか、或いは高いか低いか、又、
大小の違いによるものである事は、前章の『教祖の神観』や『教祖の人生観』におい
て述べました。
 又、単に神と人というだけでなく、宇宙一切のものもこの霊性の違いによって区別
されますので、霊の一表現であるといえますから、宇宙一切も神という事が出来ます。
 しかし、この様に広い意味において霊を取り扱う事は、非常にむずかしい問題であ
りますから、ここでは霊としての発現(現れ出ること)をなす神及び人の霊性につい
て研究する事が最も適切です。
 御教祖も霊に就いては、神と人間を中心として教えて居られます。
 神と人の霊は同質のものである事を、これ迄度々述べて来ましたが、どうして神と
人の霊は同質であるといえるのか、何故霊が神と人と同じものであるかを、本章にて
確かなものにしようと思います。
 あらましを言いますと、人間の持って居る霊(タマシヒ)は天神より賜ったもので
ありますから、天神の分霊である『ワケミタマ』であり、その霊は神と同一のものです。
 この理を引証しますと、神理教要に
【大宇宙は神の舎、人体は霊魂の舎なり。
 家に主あり、国に君がある様に、主がある為に家があり、君がある為に国があり、
神がおられる為に宇宙があり、霊魂を宿す為に人体があるのは表裏一体にして、変わ
ることがないのは神の定めしものなれば、空に五星あれば腹に五つの内臓があり、空
に天、地、黄泉あれば人に、首、胴、足の三つがある。
 この、五星、天、地、黄泉の活動はみな天神の御功徳によるものである。この、五
臓、首、胴、足の働きにより、見たり聞いたり、食べたり飲んだりできるのは不思議
であるけれど、これは皆霊魂の御功徳によるもので、霊魂がなくてはこの様な事は出
来ないのである。
 丁度大海原を航行する船のように、舵取りをする船長や乗組員が乗ってない船はい
ずれ転覆するように、人の体は父母の生みたるものなれど、魂は今も天津産巣日神よ
り授かったものであり、その親の親の元をひたすらにたどれば神にして、末は人である。
 神の気中にあって、神の定め給いし嫁ぎの道を行いつつも、安全に世の中を渡れる
人なれば、一つの息も神に通い、人のなす事総て神は承知である。
 この様に、神と人が相通うことは影が形より離れず、声がこだまになって返ってく
るように、善い行いをすれば、神はそのお返しとして幸福を与え、悪い行ないをする
者には、神はこれを咎め罰を与えられのは、神と人とは元は同体であるからである。
 天地の活動があるから人の体は動き、調和した四季があるから人の心は和らぎ、万
物が成育すれば人の心も育つのは、人心はもともと神と同じで、顕幽の違いがあるだ
けである。
 神と同じである故に、人の本性は無善無悪にして、強いて言えば善である。
 それ故に、神の恵みをうけて、神と位を同じくし、神と楽しみを同じくし、神と同
じく道を守るべきを、この地界に降り邪道に迷い、人の造りし誤った教えに入り、善
であるべき本性を失い神と遠ざかる為に、神とはどんなものか知らず、又、霊魂の元
は神と同じである事をわすれ、現世(人の世界)にて悪い行ないをする為に人に憎ま
れ、死しては神の罰を受け、子孫を守ることが出来ず子孫は滅びる。
 だからといって、人の世は真っ暗闇であると嘆かなくてもよい。
 神は目には見えないが、その暗さも神である。
 神は神で人は人で、別々であると思ってはいけない。
 人の霊魂は即ち神の分霊なり、それ故に善も悪も必ず神に通じる。
 神は、目に見えないと思い込むことはない。
 神は即ち我身なり、我身はやがて神になる故に、神の形を知りたいと思えば己の形
を見よ。
 神代の有様を知ろうと思うならば、今の人の世の中の状態を以て考えるべし。
 自分の成り行く末を知ろうと思えば、神の由来、神の形を窺い知ることであり、神
と人の元は同じである。
 おろそかにする事なかれ】
と、神と人は一体であることを現実的に教えておられます。
 神と人との霊が一体であることが明らかになれば、霊の本性がどんなものであるか
という事も大体知る事が出来ますが、更にこれを詳しく説明しましょう。
(つづく)
        

      

☆★☆ 素朴な疑問 ★☆★
     
 Q & A

Q1、平成14年2月20日帰幽の場合。
   月参りの時はどのような式次第ですか?

A、 次の式次第を基本として下さい。 (1)清祓詞、(2)霊祀霊前告詞(又は
   先祖いのりのことば)、 (3)祈念詞。 なお、神理の中心は「本を軽んずるな」で
   すから、毎月、月例祭を執行して、神様に死者を加護して頂くことが、最も大切で
   す。


Q2、平成14年2月20日帰幽の場合。
   一周年祭の命日は何日になるのですか?


A、 平成15年2月20日です。

Q3、平成14年2月20日帰幽の場合。
   初穂見祭はどのような式次第ですか?


A、(1)清祓詞、 (2)祓行事、 (3)天神奏詞、 (4)初穂見祭祝詞、
  (5)霊祀霊前告詞、 (6)祈念詞、 (7)玉串拝礼、 (8)両段再拝。

Q4、心に神の光を入れよといいますが、どうすればよいのですか?

A、 神理を学び実行し、神理にかなおうと努めること。また、神の心にかなうよう
   に、何事も祭りの延長と思い、神を中心において考え、神心を先行させ人心は
   次の次にして判断していくことです。そして、善い事も悪い事も感謝することです。

あとがき

 お陰で秋季大祭もほぼ好天に恵まれ、無事に終えることが出来ました。
 物心またご自身のお体を使われてのご奉仕とご理解・ご協力のたまものと、心から
御礼申し上げます。
 誠に有り難うございました。

 好天の中にも秋の空は変わりやすく、十五日は一時間ほど本降りから土砂降りとな
りました。
 十五日は広島の福永教会による地主社への鳥居の奉納式がありましたが、ちょうど
その時間が雨となりました。
 雷が鳴り出した時に祭典が始まり、ポツポツと落ちだしたかと思うまに本降りとな
りました。
 青年部の皆さんが、自分はずぶ濡れになりながらも、祭官や参拝者に傘をさしかけ
て下さいました。
 祭主の私としては、申し訳なく思いながらせめて元気いっぱいに祝詞を読み上げさ
せて頂きました。

 祭事が終わり、教会長がお礼にこられて言われるのに、
「今日は良かった。
清めの雨が降ってくれた。
 雨が降って地が固まるというし、神様は喜んでいる」でした。
 福永教会の大祭は、天気予報が雨といっても降らないことが多いくらい普段はお天
気に恵まれた教会です。
 こうした時に雨が降るのはさぞかし残念に思われたと考えていたら、全くその反対
でした。

 頂いた状況を全て神からの戴きものと受け止める姿に、祭主の私の方が励まされました。
 不可思議な神様のお力を戴いたといっては喜び、当たり前のように戴く日々のお守
りに喜び、このように不思議とも思えるたった一時間の雨に当たっても喜ぶことが出来る。
 そうした心境に進むことが出来ることも不思議で有難いことだと感じ入りました。
(幸)

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