神理

平成14年10月号 第1064号

        

巻  頭 の こ と ば
聞くところによると、神道は他の宗教より
お供え物が多いとの事。
神道では「ものは神の成り坐すもの」と考えるので、それゆえ
農産物にしろ海産物にしろ全て神のもたらす恵み
として捉えるのである。
その恵に対して感謝の形がお供え物の多さに
つながるのである。
各家庭でも春と秋には沢山お供えをして、あなたの気持ちを伝えて下さい。


                かんなぎべ  たけひこ
  神理教管長   巫部  健彦
    まも     さか          かむ
   守りつつ 栄えゆかまし 神ながら
   
      つた   き    もと つ み をしへ
        伝はり来にし 本津御教
  人間は、いろいろな組織の中の一員として、生きております。広くは生態系と言わ
れる組織の一員であり、狭くは家族と呼ばれる組織の一員という事になりますが、子
細に考えますと、お互いが所属する組織は数え上げかねるほど多い!ということに気
付かされます。
 いわば、生活に身近な組織ほど、その組織への意識が強く、身近でなくなるほど、
その組織に対する意識が薄らぐ結果かと思われます。例えば生態系を組織する一員と
いう意識は、何事かがあって考えさせられる時にだけ思いつく意識!ということであ
ります。
 又、組織から受けている恩恵を強く感じるほど、その組織に対する意識も強まり、
組織の維持発展への関心も高まる様でありますが、巨大な組織の中では、そうした状
況は却って生じがたく、歪められて個人の利益優先に傾く面があるようにも見受けら
れます。
 例えば旧国鉄の場合、国鉄という組織の一員でありながら、その内部に組織された
労組の一員という意識が優先して強かったと申せます。結果的には、国鉄本体が崩壊
して労組も存在できがたく、労組加入者の失職という流れを招いたということであり
ます。
 相次ぐ大手企業の不祥事にしても、その組織内での一部局や一個人の利益優先とい
う姿勢が原因かとも思われますし、公共的な組織内での情報漏洩その他の不始末も、
大きな組織から受けている恩恵に対する認識と感謝の欠如によると、申せそうであり
ます。
 そうした風潮は、いわゆるバブル期にかけて、増幅されたように思います。国民が
あってこその国家という見方を、一個人の自分があってこその国家という風に思い誤
り、国民としての責任は考えず、専ら個人の利益や権利を主張するのに似た在り方で
あります。
 神理教という組織は、本津教という教義を通じて、神様と自分との結びつきを認識
し感謝する人達が組織するものであります。今月は、秋季大祭の月に当たります。我
々としては、そうした結びつきを再確認し、そうした結びつきを強化させて戴き、神
理教という組織と共に、力強い歩みを進み続けられるよう念じつつ、この大祭を奉仕
致したいものと思います。                   
                                             

オノズの道

 

自然(おのずから)(みち)

(さち) (ひこ)

(せん)(ねん)(ねむ)

 

(さい)(きん)『ライオンは(ねむ)れない』、という(ほん)()みました。

(ちゅう)(ごく)(ふる)寓話(ぐうわ)(きょう)(くん)(てき)なたとえ(ばなし))『夜不能眠的獅子((よる)ししは(ねむ)るあたわず、かな?)』が(げん)(だい)だということで、現代(げんだい)政治(せいじ)風刺(ふうし)日本(にほん)変革(へんかく)時代(じだい)にいることへの注意(ちゅうい)(うなが)しています。

 この寓話(ぐうわ)主人公(しゅじんこう)となるライオン王(    おう)小泉(こいずみ)首相(しゅしょう)風刺(ふうし)しているようですが、作者(さくしゃ)はそのライオン(おう)に、「この(かい)(かく)(はば)(てき)は、(そと)にはいません、(うち)(がわ)にいます。

 その(てき)(わたし)は、これか(いのち)をかけて(たたか)います」と()わせています。

 そこには()中元(なかもと)(がい)(しょう)(おも)わせるジャジャネコ(だい)(じん)()(いん)(かん)(りょう)(おお)くを()める(ふと)ったネズミたちが(とう)(じょう)し、(さっ)(こん)(こっ)(かい)のような(そう)(らん)()(つく)ります。

 (じっ)(さい)()(ほん)(かい)(かく)は、(すで)にアメリカからあきらめられ、今後(こんご)日本(にほん)景気(けいき)()がろうと、アメリカやヨーロッパにとっては(げん)(てい)(てき)(えい)(きょう)しか(あた)えない』など(しん)(ぶん)()ていますが、現実(げんじつ)はどうなのでしょうか。

 内側(うちがわ)抵抗(ていこう)勢力(せいりょく)()けてしまってもう(ねむ)ろうとしているのか、まだ()(よく)()って(ねむ)れないほど(じっ)(こう)への(さく)(めぐ)らせているのでしょうか。

 それともライオン(おう)がもくろむX計画(けいかく)、すなわち『デノミ・新円(しんえん)()()え』が実行(じっこう)され、『巨額(きょがく)(かく)(ざい)(さん)』というものがあぶり()されることになるのでしょうか。

 (ひっ)(しゃ)は8(がつ)()わりに(よう)()(えん)(かん)(けい)で、8(にち)(かん)ほどアメリカにネイチャーゲームの(けん)(しゅう)()きました。

 ネイチャーゲームはたくさんのゲームを(たの)しみながら()(ぜん)(あたた)かさや(たい)(せつ)さに()()く“()(ぜん)(かん)(きょう)(きょう)(いく)プログラム”で、幼稚園(ようちえん)だけではなく(しん)(とう)(しん)()(きょう)(おし)えにも(つう)じるものがあります。

 その創案者(そうあんしゃ)のジョセフ=コーネルさんが()んでいるのは、カルフォルニア(しゅう)のアナンダ(むら)というヨガの(みち)(ふか)める(ひと)たちのコミュニティー(共同(きょうどう)生活体(せいかつたい))でした。

 『()(ぶん)たちは(しゅう)(きょう)(だん)(たい)ではありません』と()うものの、(せい)(かつ)(すべ)てを(むら)()げうつ(よう)()は、(ひっ)(しゃ)には(しゅう)(きょう)()(せつ)()えました。

 (しん)理教(りきょう)以下本教(いかぼんきょう)()きます)もその(おし)えは(ひと)として(おこな)うべき()(ぜん)(みち)で、(けっ)して(しゅう)(きょう)などとは(おも)ってないのですが、(ほう)(てき)(しゅう)(きょう)(ほう)(じん)であるし(しゅう)()からそう()られるのと(おな)じようなことでしょうか。

 (くわ)しくはメールマガジンやこの()(めん)などで(しょう)(かい)したいと(おも)いますが、()(なら)いたいと(かん)じたのはそこで(せい)(かつ)する(ひと)たちの()(しき)(たか)さでした。

 この(しゅ)(きょう)(どう)(たい)がアメリカで((にほん)本でも)(なが)(つづ)きするのは(めずら)しいと()うことでしたが、もう五十(ねん)(つづ)いているようです。

 (もと)(もと)ヨガは()(しき)(たか)めることが(おも)(もく)(てき)(ひと)つですから(とう)(ぜん)のことかもしれませんが、(とお)(いっ)(ぺん)のことを()(かえ)したからといって(つね)()(しき)(たか)まり(つづ)けることはありません。

 そういえばダイエーの王貞治(おうさだはる)監督(かんとく)が、(わたし)たちはもはやチャンピオン(王者(おうじゃ))ではなくチャレンジャー((ちょう)(せん)(しゃ))だ」と()いながら、「チーム()(たい)(まい)(とし)(つよ)くなり、(しん)()(つづ)けている。

 しかし、()のチームがもっと(はや)(しん)()しているのだ」の(こと)()(おも)()しました。

 アナンダ(むら)の人たちは、(たと)えば()(ぶん)(なに)をするのが(むら)(ため)になるのかを()(ぶん)(かんが)()(しき)している(ひと)(おお)いと(かん)刺激(しげき)()けした。

 そこで開教(かいきょう)百二十年(ひゃくにじゅうねん)になる神理教(しんりきょう)()(かえ)った(とき)(わたし)たちの本教(ほんきょう)社会(しゃかい)(やく)()(よろこ)びへの()(しき)はまだ()()めているのでしょうか。

 (ひっ)(しゃ)はアナンダ(むら)のヨガの(しん)()さんとも(しゅう)(きょう)(ろん)()()わしましたが、(はなし)をすすめながら()(きょう)()(おし)えの()()らしさを(あらた)めて()らされました。

 本教(ほんきょう)をある程度(ていど)理解(りかい)していれば、よほど荒唐無稽(こうとうむけい)(きょう)()でもない(かぎ)(あい)()()(ぶん)(せい)()され()(かい)()()ます。

 自分(じぶん)立場(たちば)やプライド((ほこ)り)にこだわり、()()をして(しゅ)(ちょう)()(とお)したり(あい)()(おこ)らせることもなく“(ほん)(きょう)はこうである”と(つた)えることが()()るのです。

 メディテーション((めい)(そう))は(しん)(とう)でいう(ちん)(こん)共通(きょうつう)するものが多く、その(しゅ)(ほう)など()(じゅつ)(てき)(すぐ)れていますが、(おし)えについて未発達(みはったつ)部分(ぶぶん)(かん)じました。

 (たと)えば(きょう)(どう)(たい)では(せい)(じゃく)(=(いん))を(たい)(せつ)にしますが、(よう)とのバランスについてはあまり(かんが)えられてないようです。

 ()(もの)も、(たし)かに(おだ)やな気持(きも)ちで(せい)(かつ)する(うえ)には肉食(にくしょく)(さけ)るというのは理解(りかい)出来(でき)ますが、(かみ)から(ひと)(あた)えられたものを(けっ)()(てき)(こば)んでしまうのも(おな)()(ぜん)(たい)(せつ)にする(おし)えとは(おも)えません。

 ある()()(ほん)(きょう)(くら)べものにならない(おし)えであっても、そこにいる(ひと)たちの()(しき)はとても(たか)(ひと)(おお)い、という(いん)(しょう)()けました。

 (せつ)(りつ)五十(ねん)()えてもたくさん(けん)(がく)やヨガの(じっ)(しゅう)(おとず)れ、(あら)たに()みつく(ひと)もいるようですし、(たて)(もの)(ねん)(ねん)(あたら)しくなっているようです。

 その(きょう)(どう)(たい)()(たい)が、五十(ねん)()ってもまだ()()めたまま(かつ)(どう)していると(かん)じました。

 (ほん)(きょう)()教祖(きょうそ)(しん)(とう)(せん)(ねん)(ねむ)りを()まして(くだ)さいましたが、この()()らし(おし)えを()ったまま百年(ひゃくねん)()えたくらいで目先(めさき)のことに(こころ)(うば)われ、また(ねむ)りについては(もう)(わけ)ないと(おも)います。

 (ほん)(きょう)()(きょう)()から()()らしい(おし)えを(つた)えられ、(せん)(じん)(たち)がその(おし)えを()かり(やす)()(くだ)き、()(しき)(ととの)(いま)(しん)()(つづ)けているのだと(おも)います。

 しかし(いま)()(なか)(おお)くの(ひと)(すく)(やす)らぎの(かて)となり()(なか)(やく)だっているかというとまだまだだと(おも)われますし、むしろ(そう)(たい)(てき)には(じゅう)(ぶん)(はっ)()していない状態(じょうたい)にあります。

 極論(きょくろん)すれば(いま)(しん)()(きょう)という()()らしい(ちから)()ったライオンがまた(ねむ)りにつこうとしている(かん)さえ()りますが、それでは(かみ)(せん)(じん)(たち)(もう)(わけ)ない。

 (わたし)たちは、この()()らしい(おし)えを(きょう)(じゅ)しまたそれを(つた)(ひろ)めるチャンスを(あた)えられているのですから。

 (さい)(しょ)(ぐう)()のライオン(おう)()うように、(てき)(けっ)して(そと)にいるなど(かんが)()(にん)のせいにしてはいけないのだと(おも)います。

 (てき)(わたし)たちの(うち)(がわ)、すなわちまず(こころ)(なか)にあるのです。

 (おこた)りを(はじ)めとする(なな)つの(つみ)(こころ)(なか)から(はな)れ、(ふたた)び“(せん)(ねん)(ねむ)り”に(おちい)ることなく、しっかりと()()けて()(ぶん)(ほん)(きょう)()いては()(なか)(ため)(なに)()()るのかを見定(みさだ)めて()きたいものです。

  




※先月号のつづき
@陰陽師とは神社神道系のシャーマンだと思っていますが、また別の部類なのでしょ
うか?について…

 広辞苑などを見ると、陰陽道は中国の陰陽五行説と神道が習合し日本で独自に発達
したものとあります。
 陰陽道を行う者を陰陽師といい、平安時代には天文・暦また地相や物忌み方違えを
観たり加持祈祷を行う役人でした。
 シャーマンの定義もいろいろと解釈があるでしょうが、自らをトランス(忘我・恍惚)状態
において神や霊と交信し、預言や治病を行うのですから、陰陽師=シャーマンとは言え
ないようです。
 歴史的に観ると、シャーマン的な要素はありながらも、天文・暦という分野では自
然への知識と経験を取り入れた理論的な信仰技術と言えそうです。
 宗教・信仰には必ずシャーマン的な要素があることはご理解のことと思いますが、
知識と経験をどれだけ取り入れているか、という見方も大切だと思います。
 神社神道系のシャーマンというよりも、神社を除き神道系の理論的な信仰形態とい
った方が良いように思います。

Aまた神理教でも同じようなことが行われているのでしょうか?について…
 同じようなとは、
 1、同じような目にも鮮やかなマジックショーを行うような手法と、
 2、同じような陰陽道の理論・手法を使っているか、との二つに受け取れます。
 1、の同じようなといわれても、映画のように派手な術を使うことはありません。
 けれどもそうした興味を大切にしてお話をすると、治らないと思われていた体や心
の病が治ったり、うまくいきそうもないと思われていた事業が成功したりしたとき、
派手な術を使ったときと同じような感動があるのではないでしょうか。
 人の大元の祖先である神↓祖先↓親↓自分と途切れることなく御神徳を伝えるとい
う本来の通り道を確保すれば、”…何事も思いのままになるのみか、生きては人に尊
まれ死しては氏神となりて、汝が子孫を守ること疑いなかるべし。“となるのです。
 2、のおなじようなについては、賀茂・安倍・土御門家の詳しい手法は知らないも
のの、理論や手法は近いと想像されます。
 最初にあげた賀茂家は神理教の巫部家、さかのぼっては物部氏の高祖饒速日命を同
じ先祖としていますし、巫部家にも陰陽五行の思想や理論が伝わっているからです。
 ただそうした理論を持ち陰陽の手法は使いますが、神理教は祭を大切にします。
 祭は、神様の前に連なることであり、神に祈り願うには祭を一番の方法とする、と
いう教えが受け継がれてきているからです。

B陰陽師とはどういった儀式なのか?について…
 陰陽師とは、というより陰陽道とはという方が正確だと思います。
 神理教の手法は陰陽道と似ている部分は多いと思われますが、自分たちを陰陽師と
思っている者はいません。
 神官であり、神理教の教師であると思っています。
 映画では護摩を焚くようなことを行っていますが、神理教では日本古来の神式で行
います。
 画像的に似たものは釜鳴り神事がありますし、他には神水の法や禁厭の法や神占い
の法があります。
 理論的には、宇良奈比真伝で占う方法は日本で独自に発達した物部氏の陰陽の理論
を基本に行いますし、その陰陽の理論から病気の部位について神祖の教えを解釈します。
 その儀式の手法・奥伝については、映画で見るような派手なものではなく、神式で行
います。
 細かい技術や解釈の方法などは、本教の教師になって教えられることになります。

Cどうすればなれるのか?について…
 神理教に伝わる神術を学びたければ神理教の教師になり、神道の基礎理論や祭式を
学び、力というよりも清明な心が身に付けば、理論・技術書を授与され、具体的に教 えら
れます。
 他の陰陽師のなり方は私は知りません。
 神社庁にでも問い合わせられて、土御門家の系統の神社を調べればよいのではない
でしょうか。

Dどういう思想や宗教的要素があるのか?について…
思想について
 自然は神であり、私たちが存在するのは存在をする意味があるはず、という自然=神へ
の信頼が、神道の思想の元です。
 私たち人間や生物を産み造られた神は大元の祖先であり、親が子や子孫を大切にす
るように、神は私たちに悪意など持つ理由はなく、ただ恵み慈しまれる存在と信じます。
宗教的要素について
 神が大元の先祖であり私たちを慈しんで下さる存在であれば、私たちは普段どうし
た心掛けで過ごすべきか、ということになります。
 神の元に帰る、神から戴いた霊魂を曇らせないように清く保ち且つ磨き、体も神からの
借り物として大切に使うという心掛けが大切です。
 そのために、それを保つために神に教えられ伝えられた神術を以て、自分や周囲の人
の、心身の健康を保つということが宗教的な要素でもあります。

Eどういう義が存在しているのか?について…
 神の望まれることはこの世を神の世とすることであり、人間を中心として生きとし生きる
ものが幸せに充実して暮らせる世の中を、この世に形として実現することです。
 そのために、私たち一人一人はどうした心得で生きるべきか。
 世のため人のために役立つ自分と、その役立つ喜びを得るために生きている自分や
自分の家族のみでなく、先祖ぐるみの霊魂の安定を得ることの大切さを学び気づくべ
きなのです。
 そのために、何が本当に大切なものなのかを学び知るために、人間の歴史を積み重
ねての神から与えられた英知を持って、自然=神を知ることで神に近づくことにある。
 そのための陰陽五行説であり、具体的に神に近づく方法を知る、という義が存在す
るのです。

〈編集より〉
 先日の陰陽道の返事を出した本門仏立宗の学生さんから、以下のようなメールが来
ましたので、以下にご紹介します。
 う〜ん?というところもありますが、思ったより理解して頂いたかと思います。
 霊魂安定の具体性の話を比較するまでに到れば、彼我の差が歴然とするのでは、と
感じました。
 最後に返事も加えました。
 こうした返事を考えるときに、矛盾なく答えが導ける教えを大成された御教祖は、本当に
偉大だと実感させていただきます。

〈頂いた御礼の言葉〉
 神務御多々の中、ご丁寧に返信くださり誠にありがとうございました。
 私の質問事項の中に不適切な表現があったことを、ここに謹んでお詫び申し上げます。
 私の理解したことを述べさせていただきますと…。
 神↓祖先↓親↓自分と途切れることなく御神徳を伝える、という本来の通り道を確
保する方法として陰陽五行説があり、その理論的実践の信仰形態が陰陽道ということ
になる、という捉え方でよろしいでしょうか?
 また、今回の本当に丁寧な返信によって、今までTVなどで見ていた陰陽師につい
て考え方が変りました。
 ただ単に派手に行われているように見えるだけで、そこには深い義が存し、自然=神に
感謝し、先祖を敬い、すべての魂の安定を願う心があることがわかりました。
 除霊とは生きている人間のみを尊み、悪さをする霊を強制的に払う儀式だと思って
いましたが、陰陽師は霊を払うのではなく、その霊自体の幸せを願い、その魂の安定
を考えて儀式を行っているんですね?
 「魂の安定」という表現は素晴らしいと感じました。
 当然のことながら教えの違いはあるものの、こうしてメールでいろいろとお話を聞 かせ
ていただいていると、仏教思想と通じるものが多くありました。
 仏教にも四恩報恩という教えがあり、恩に感謝し報いることの大切さを教えています。
 親・衆生・国王(国土)・三宝(仏・法・僧)の以上が四恩ですが、親の恩とは、
父母のみではなく先祖も含めた方々です。このうち、国王(国土)の恩が自然=神に
感謝することだと思います。
 私も世のため人のために動き、ご先祖を大切にして、全ての魂の幸せを願って仏教
を説いています。
 さらに広く説いていきたいとも願っております。
 物事に対する新しい見方を教えてくださってありがとうございます。
 また何かの折にメールなどさせていただくこともあるかもしれませんが、その時は
どうぞ宜しくお願い申し上げます。
合掌(^人^)

〈上への返事 巫部〉
 ご丁寧なお返事恐縮ですし、嬉しく思います。
 雑多に書き連ねたにもかかわらず、良く理解していただいていると思い、この点もかいが
あったとホッとしています。
 少し失礼な言い方もあったかと反省しています。
 『…その理論的実践の信仰形態が陰陽道ということになる、という捉え方…』につ
いては、若干説明の必要を感じましたので付け加えます。
1、私たちは、神理教の手法=陰陽道という捉え方をしていません。
 古神道は、本来人間に備わり伝えられる古くて新しい信仰であり、陰陽道の理念・手法は
その一部を形成するものの全てではない、ということです。
2、霊魂安定の具体的な方法には、教えを日常に取り入れることが基本ですが、そうした
信仰形態と神術が基本的なものから上級まで多様に体系化されて存在します。
 それは葬儀・霊祭(先祖祭り)・病気平癒や地鎮祭などの祭式、霊魂観、人体本
言、言霊などを包括する教義です。

 また、何かあれば遠慮なくご連絡下さい。
 私も、仏教というもの自体に誤解しているところもあるかも知れず、溜めているも
のもあります。

        

         鹿児島分教会
所在地 鹿児島市上竜尾町12−30
教会長 宮本 憲二

 当教会は昭和三十五年、初代教会長の宮本竹曜先生によって設立されました。宮本
竹曜先生は、元来信心深い方で、独学で姓名学などの易占も修めておられました。
 ある時、宮崎県の神理教教師に知遇を得て、宗教について、信仰について、人間に
ついて、いろいろと話し込んでいくうちに学んだ易占や自分の信条などと共鳴するこ
とを知りました。また、教育者として神道を学び、日本固有の神々に深い関心を寄せ
ていましたところから、入教したと聞いています。本院に行って講習を受け、故瀬戸
総監をはじめ、多くの師の指導をいただいて教会設立に至りました。
 初代教会長の宮本竹曜先生は、私の伯母に当たる人で、伯母夫婦に子供がなく、私
が中学生のころから養子になる約束を交していたそうです。子供心にもやさしかった
覚えのあるこの伯母が大好きでした。
 私は社会人になってからの入教でしたが、先祖を敬う気持が強く、人を導く喜びに
心労を惜しまない教会長としての伯母の姿に感銘して、さらに精進する気概を高揚さ
せられたものです。私自身は信仰について、「人間としての正しい生き方を模索する
こと」「執着心を捨て去ること」「安心立命を得ること」を基本に置いて、日々信者
さんと触れ合い、日夜研鑽を重ねていますが、私が二代目の教会長として今日あるの
は、初代教会長である大好きな伯母の導きにほかならないことを痛感しています。
 十六年前、初代教会長の伯母が帰幽して私が二代目教会長を継承させていただきま
した。当教会では、二月三日の節分星祭と毎月第三月曜日の月例祭を恒例行事にして
います。鹿児島は土地柄でしょうか、星祭が盛んで信者さんの厚い信仰に支えられて
いるのが実情です。
 悩みのある方、困っている方には、「とりあえず神前に通ってご覧なさい。信仰に
特効薬はありませんが、神様にお縋りすれば薄紙を剥ぐように、事態は今日より良い
方向に進んでいきますよ」と申し上げています。神理教の教義中心の教えには、近
年、物議をかもした新興宗教のような即御利益的な激しさはありませんが、古代から
連綿と受け継いできた穏やかな日常を願う人びとの心情に応えるやさしさがありま
す。
 私自身、私や家族に何が起ろうとも、神の前に手を合わせ、今日一日の御加護をあ
りがとうございました、と言えるようになりました。ここにも初代教会長である伯母
の指導に負うところが大きいと感じています。
 私は毎回ではありませんが、数年ごとに本院の大祭に参加しています。そのたびに
神域に身を置く快い緊張感を味わい、雑念を払いのけたすがすがしさ、清涼感を覚え
て帰路につきます。こうして心新たにできるのも、本院が遠く離れているからかもし
れません。「ふるさとは遠きにありて思うもの」という格言がありますが、私には
「心のふるさと」として、本院を実に頼もしい拠りどころと考えています。
 私の不思議な体験をご紹介します。それは平成十年一月二十九日の早朝のことで
す。起床した私が教会の神前に参りますと、顔見知りの女性信者さんが、そこに控え
ているのです。私が声をかけようとすると、その女性信者さんは私の家の玄関の方に
向かって、スーッと消えてしまったのです。翌三十日、女性信者さんが病死されたと
聞きまして、あれは生霊だったのではないか、「葬儀のことなど、後あとのことをよ
ろしく」と言うために、私の前に現われたものだと思われます。その姿はスカートの
柄まで、鮮明に記憶していますが、わずか一、二秒の出来事で、人間の深淵な魂に触
れた貴重な体験となりました。
 当教会は、鹿児島市の旧市街地にあり、歩いて十分位のところに西郷隆盛を祭った
南州神社もあります。南国の風光のなかで、非力ながらも教義の勉強と布教活動を重
ねています。鹿児島にお越しの折りには当教会に足をお運びください。

◇■御案内◇■

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平成14年度講習会等 予定

11月17日(日)広島地区ブロック研修会
11月23日(祝)本院、一日講習会
12月7・8日(土・日)短期講習会(教師対象)

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平成16年
独立110年を迎えます。

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☆★☆ 素朴な疑問 ★☆★
     
 Q & A

Q1、葬儀について、神理教の家では、仏葬は認められているのですか。

A、 神理教の家でも先祖を仏教で祀っておれば仏葬はやむを得ません。もともと、
仏教伝来までの日本人は、全て、神道で先祖を祭り、葬儀も行っていたのですが、徳
川幕府が葬儀を仏式でするよう号令したことから、今日に至っております。神道以外
の教で祀っている先祖を神理教に祭祀することを改祭といいます。神道に改祭するの
は、元へ帰るわけです。従って改祭するよう布教に努め、多くの人々を救ってあげた
いものです。


Q2、大祓詞奏上を必要とする祭事を教えて下さい。

A、 代表的なものは、宅神祭(家祓)・地鎮祭・上棟祭・井戸掘・井戸埋・霊魂安
定祭・通夜祭及び後祭等ですが、祭典における式次第は、祭事によって少し異なる場
合がありますが、それは、本院大祭の式次第を規範として省略されたり、加えられた
ものです。したがって祭式作法では、「礼の九要」に示されているように「時・処・
位に応ずる」ことが大事です。
 大祓詞も、その時に応じて取捨できるのです。

あとがき


  今月はいよいよ秋の大祭の月となります。
 十三日(日)・十四日(月・祝)の休み明けの平日大祭ということで、参拝者の数
が心配されます。
 皆様お誘い合わせの上、お元気にお帰りになられますようお待ちします。

 九月の始めに神理教大教庁の責任役員、職員合同の定例の庁内会議が開かれました。
 議題の一つに二年後、平成十六年の独立記念式年大祭について話し合われました。
 曜日はどうか、という話になり暦を見ると十五日・十六日は木・金となっていました。
 そこでいろいろと検討された結果、十六日〜十八日の金〜日の三日間挙行されるこ
とが決まりました。
 学校も休日に当たり、ご家族での帰院など便りが良くなります。
 内容は段々と協議されてゆくことでしょうが、是非皆様でお帰り頂き、大きな御神
徳を受けられると共に、本教の一つの大団円の記念碑としたいものです。

 筆者は八月の下旬にアメリカのヨガの修行をするコミュニティー(生活共同体)に
行く機会がありました。
 私が神道の牧師?と紹介されたことで向こうの方も興味を持ったらしく、是非お話
をしようということになりました。
 違うところもありながら共通する部分も多くありました。
 共有する問題として話し合ったのが、『今、社会から家庭から信仰が失われつつあ
る』ということでした。
 私の方から話し始めたのですが、それはアメリカの社会でも共通の問題である、と
のことでした。
 『隣の芝生は…』などと、よその家に限らずよその国はよく見えるものですが、同
じ悩みを持っているのだな、と感じました。

 信仰の希薄化が生きる目的や価値をも薄れさせ、国家引いては世界の停滞の一つ原
因になっているのでは、と思います。
 停滞は国家単位だけでなく、信仰の中心である教団の停滞にも責任があるように感
じます。
 教団の停滞を防ぐ手立てとしてそのコミュニティーでは、@新しい指導者を養成す
る、A一人一人に役割を与え責任を分担する、などをあげていました。
 教団と指導者の候補がほんの少し勇気を持ち、ほんの少し無理をしてでも役割を果
たすことを協力して達成しようとする、というものでした。

 これらは普段から行っているはずのものですが、気がつけば緩んでいたことかもし
れません。
 もう一度見直し、新たな決意をもってともに取り組んでゆきましょう。
 社会や教会や家庭の中で、自分は新しい指導者なのだ、指導者となるべきなのだ、
という意欲のある人が育って欲しいものです。

 マガジンハウスという書店から『ダカーポ』という隔週の雑誌(320円)が出ています。
 そこに生命倫理について宗教法人に取材したものが載ってあり、神理教についても
とりあげられています。
 10月2日500号『神様のヘルプ・宗教A』ですのでよろしければ本屋さんで見て下さい。

(幸)

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