神理

平成13年9月号
       第1051号

ライン45

       ***** 巻 頭 の言 葉 *****
 
  「上級怒らば己が至らぬとせよ、下級の背くは己が不徳と恥じよ」

 人は日々の生活・仕事の中で、人に何らかの関わりを持っている。

 今、私たちが足りないのは、「反省」と「慎み」である。

 人との関わりの中で、今「磨き」をかけられている、これは「お行」で

 ある、と感じる心が必要でなのである。

ライン45

管長
かんなぎべ  たけひこ
巫部   健彦
           おだ           まじわり
  わが心 穏やかなれば 交際も
          おだ           かひ         
        穏しかるらむ 甲斐もあるらむ
                               神理教管長  巫 部 健 彦   

 人生は、自分以外の人と交際する中で、進められるものであります。其の自分以外の人というのは、先ずは
家族であり、次いで友人や知己であり、更には地域や職域を共有する人達が考えられますし、広くは、出会
った人すべて!とも申せそうであります。
 そうした交際の中で、関係の悪化が深刻化することになりがちなのは、いわゆる近回りの人!であり、この
ごろでは、夫婦間や親子間のもつれが、離婚や義絶や傷害に止まらず、殺害にまで到る事例が多発している
ようであります。
 また、いわゆる集合住宅の上下・左右や、隣接あるいは近接する住居人相互の争いでも、客観的には解決
至難とは思われぬ事柄をめぐって、殺傷事件にまで発展する事例が、次第に多く見られることになっていると
申せそうであります。
 恐らく双方が、いわゆる近回りの人でなかった場合には、それぞれが神経質に解決を急ぐ事にはならぬと思
われますし、事態を冷静に観察して相手の立場への理解に努め、平穏に妥協する道を選択できることになる
ものと考えられます。
 尤も、世の中には、固執して自説を全く譲らなかったり、扇動して争いを更に悪化させたりする場面も生じる訳
で、それが隣人や隣国との関係に見られる場合には、毅然とした姿勢を貫き通しつつ冷静に対応するのみ、と
いうことのようであります。
 先月十三日、首相の靖国神社参拝が論議騒然の中で実行されました。結果的には、煽情的だった中・韓両国
政府の対応は、冷静に近いものになったと申せます。恐らくは、最重要課題は、靖国や教科書ではなく友好的
な共存!という原点に立ち戻った故の事かと思われます。
 言わば、大新聞社を始めとする論調が『大事』と強調し続けたものを、当事国は『小事』と断じたことになる訳
で、それも根本的には、我が国の国力に対する評価が相反する故の結果と申せそうであります。こうした点を
も踏まえて、個人的な交際においても、自分自身の力を養うことに努めつつ、一貫した姿勢で対応する心がけ
が肝要となるようであります。 

オノズの道

 

自然(おのずから)(みち)

(さち) (ひこ)

社会(しゃかい)奉仕(ほうし)人助(ひとだす)けの()()

 

 最近、例えば携帯(けいたい)電話(でんわ)迷惑(めいわく)メールなどで“出会(であ)(けい)”など、〜(けい)という言葉がはやっているように(かん)じます。

 今のはやりの言い方で、神理教は“なに(けい)”というのでしょうか?

 筆者(ひっしゃ)なりに考えると、“(いや)(けい)”とでもいうのかな、と思います。

 信仰(しんこう)というのは“(いや)(けい)”の本流中(ほんりゅうちゅう)本流(ほんりゅう)と言えますが、今の世の中はそれ理解(りかい)してもらえるまでが大変と言えます。

 

 昨年より皆様のおかげで新しくできた神理会館に“(ひと)とき倶楽部(くらぶ)”が立ち上がり、(きょう)信徒(しんと)地域(ちいき)の方にも開放(かいほう)していろいろな集まりが出来ました。

 余談(よだん)ですが神理教の施設(しせつ)は神理教の使用(しよう)が何にも(まさ)って優先(ゆうせん)、というのが第一(だいいち)条件(じょうけん)で、使わない時間を“(ひと)とき倶楽部(くらぶ)”に利用(りよう)しています。

 例えば緊急(きんきゅう)に使う場合、“(ひと)とき倶楽部(くらぶ)”は他の会場に(うつ)る事になっていますし、多人数の参拝者(さんぱいしゃ)のトイレ使用も受付(うけつけ)がいることで常時(じょうじ)可能(かのう)です。

 大祭以外の使用は原則的(げんそくてき)土足(どそく)厳禁(げんきん)とし、清掃(せいそう)管理(かんり)(つと)めています。

 大教庁(だいきょうちょう)本院(ほんいん)事務所(じむじょ)はいわゆる宗教(しゅうきょう)事務(じむ)専念(せんねん)できますし、収入もあまり多いと宗教(しゅうきょう)法人法(ほうじんほう)にも()れますが、電気代くらいは(おぎな)えています。

 全て神理教が主導権(しゅどうけん)を持ちながら時間などの運営(うんえい)管理(かんり)(まか)せているわけで、決して本来(ほんらい)の神理教のためという使用目的を(たが)えることはありませんので、ご理解(りかい)(ねが)()げます。

 また、ここ数年の正月(しょうがつ)初詣(はつもうで)やその他の(まつり)に本院(まわ)りの参拝者が()えていますが、それらへの貢献(こうけん)期待(きたい)されます。

 秋には文化祭が(もよう)され、北九州市の市長さんも講演(こうえん)に来られる予定です。

 この“(ひと)とき倶楽部(くらぶ)”の集まりにも、書道(しょどう)()(ばな)花水(かすい)彩画(さいが)太極拳(たいきょくけん)やジャズダンス他多彩(たさい)活動(かつどう)があり、これらも“(いや)(けい)”といえるでしょう。

 “(いや)(けい)”といえば、もう少し具体的(ぐたいてき)なものでカウンセリングもあります。

 

 ここで本題(ほんだい)に入りたいのですが、“(ひと)とき倶楽部(くらぶ)”のカウンセリングと信仰(しんこう)においてのカウンセリングとは“()()なるもの”と言えます。

 いわゆるカウンセリングとは、相談に来る人の(なや)みや(くる)しみを聞いてあげることが第一義(だいいちぎ)で、できれば問題点(もんだいてん)整理(せいり)し自分で問題を解決(かいけつ)できるように助言(じょげん)(あた)えることを言います。

 “()()なる”ところというのは、@神と祖先のお守りを(いただ)きながら、A積極的(せっきょくてき)に今の状態(じょうたい)改善(かいぜん)する、ということです。

 カウンセリングにもいろいろとあり、訴訟(そしょう)経営(けいえい)相談(そうだん)などでないいわゆる“(いや)(けい)”のものだけでも、心理科(しんりか)精神科(せいしんか)(もと)より(いのち)の電話や心身(しんしん)障害(しょうがい)仕事(しごと)関係(かんけい)やいじめ関係など多様(たよう)です。

 他人(たにん)配事(しんぱいごと)相談(そうだん)を受けるというのは、聖職(せいしょく)とも言える崇高(すうこう)な仕事だと思います。

 相談(そうだん)に来る人が、話を受け止められ安心するのを喜ぶのは本人だけではなく、本教(ほんきょう)で言えばその祖先(そせん)も同じで、相談をする人とその祖先の感謝(かんしゃ)の心は(とく)となって相談を受ける人に(かえ)ってくると信じられます。

 この徳とはお金や物ではなく目には見えない、いわゆる“天津(あまつ)御空(みそら)()(たから)”ともいうべきものです。

 

 しかし、その徳と同時に相談を()()めてもらえる安心、また問題点を整理(せいり)助言(じょげん)(あた)えられる以上に大きな、それだけでは(ささ)えきれない苦しみ、を相談を受ける人が()うこともあるのです。

 (いただ)く徳と()()きしてもとても(わり)に合わない、()の徳を()わされる可能性(かのうせい)にも気付(きづ)いて()かねばなりません。

 いわゆる(むかし)の人は、皆信仰を持っていたから、人助けをするとそれがそのまま徳になったのでしょうが、今の人がそうした人助けをすることは、筆者(ひっしゃ)から見ると大変(あや)うく思われます。

 決して人助けをしてはいけない、と(おど)しているのではありません。

 折角(せっかく)人助けという素晴(すば)らしい行いをするのだから、それが自分のためにも生かされるようになっていただきたいと(ねが)うのです。

 

 日本で初めてエレキテル(発電器(はつでんき))を製造(せいぞう)し、人に役立(やくだ)つ日本の薬草(やくそう)野菜(やさい)鉱物(こうぶつ)などの産物(さんぶつ)をまとめたり、芝居(しばい)台本(だいほん)小説(しょうせつ)を書いたり、科学的(かがくてき)手法(しゅほう)を用いて金鉱(きんこう)(さぐ)ったり、と多彩(たさい)発明(はつめい)応用(おうよう)実用(じつよう)才能(さいのう)発揮(はっき)した平賀(ひらが)源内(げんない)をご存知(ぞんじ)でしょうか?

 最近読んだ村上元三氏の小説『平賀(ひらが)源内(げんない)』で、作者(さくしゃ)源内(げんない)に次のように言わせています。

「…わしは世間(せけん)の人間よりいささか(あたま)が進みすぎている。

 物理(ぶつり)を学んだためか、いまだに(かみ)(ほとけ)(しん)ずる気になれぬ」

 源内(げんない)功利(こうり)功名(こうみょう)利益(りえき))にさといところがありながら、人の良いところもあったように(えが)かれていますが、江戸(えど)時代(じだい)にも信仰(しんこう)をしない、という人はいたのでしょう。

 源内はその知恵(ちえ)()(ため)人の為にもなり、同時(どうじ)名誉(めいよ)(ざいさん)()ているのですが、その最後(さいご)(なに)かの(はず)みで人を(あや)獄中死(ごくちゅうし)をしたと(つた)えられています。

 

 人の知恵(ちえ)気付(きづ)かぬ(かみ)祖先(そせん)(はか)らいを、私たちは多少(たしょう)の知恵があると無いとに(かか)わらず、祖先から()()いだ教えとして体得(たいとく)したいものです。

 信仰(しんこう)()くしてカウンセリングを(おこな)て、安心してもらえば()い、(なお)ればもっと良いだけでは、源内(げんない)小説(しょうせつ)の中で(あじ)わったような孤独感(こどくかん)寂寥感(せきりょうかん)から()()せず、社会(しゃかい)奉仕(ほうし)(おこな)ったのにかえって悪因(あくいん)()ってしまうことを(おそ)れます。

 お祭りを(おこな)い、神と祖先との関係(かんけい)意識(いしき)しながら心がけを(あらた)めることを(つた)えるのが、相談者(そうだんしゃ)(すく)い自分も(とく)を受けることになるのです。

 信仰(しんこう)の形を真似(まね)た、目的(もくてき)のない(うらな)いや運勢(うんせい)判断(はんだん)でその()の安心や形のみを取り作るのは、かえって(まよ)いを()んでしまいます。

 表面(ひょうめん)のみを(ととの)えるのでなく人間が本来(ほんらい)()けるべき安定(あんてい)した、ご先祖(せんぞ)ぐるみの充実(じゅうじつ)した安心を得るものでなければ本物(ほんもの)ではない。

 ここに(いや)しの本流(ほんりゅう)があると信じますし、本教の教えはそうしたところに生かされるものだと言えます。

                       

  * 素朴な疑問 *
      Q & A


 Q1 神道の家で、毎朝、祖霊殿にお茶をお供えしてもいいのですか。
 

  A  お茶は一般的なお供えものの例にはあげられていませんが、山野の物の一つと考えられますから
     お茶の葉のままでも、お茶をたててお供えしても結構です。
     お供えは誰にするのか、神か祖先かといいますと、例えば霊祭では両方にということになります。
     お茶も仏教式にお茶梼?などというのはいけませんが、お茶を献じると考えればお供えとして、不合理
     ではないように思います。
     献茶式というお祭りは神道にもあり、本院では以前に大祭で執り行なったことがありますし、最近は
     お正月に若水神事とは別に行なっています。
     故瀬戸総監はお茶はお供えすると祖先は大変喜ぶ、と言われていました。
     嗜好を満たすというよりも、お水より手が込んでいるので手厚く感じて頂けると言うことでしょうか。
   

 Q2 動物を轢いた車は、お祓いした方がいいのでしょうか。
 
  A  お祓いをするに越した事はありませんが、塩で祓う程度で十分だと思います。
                         

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