自然の道
幸 彦
社会奉仕、人助けの善し悪し
最近、例えば携帯電話の迷惑メールなどで“出会い系”など、〜系という言葉がはやっているように感じます。
今のはやりの言い方で、神理教は“なに系”というのでしょうか?
筆者なりに考えると、“癒し系”とでもいうのかな、と思います。
信仰というのは“癒し系”の本流中の本流と言えますが、今の世の中はそれを理解してもらえるまでが大変と言えます。
昨年より皆様のおかげで新しくできた神理会館に“人とき倶楽部”が立ち上がり、教信徒や地域の方にも開放していろいろな集まりが出来ました。
余談ですが神理教の施設は神理教の使用が何にも勝って優先、というのが第一条件で、使わない時間を“人とき倶楽部”に利用しています。
例えば緊急に使う場合、“人とき倶楽部”は他の会場に移る事になっていますし、多人数の参拝者のトイレ使用も受付がいることで常時可能です。
大祭以外の使用は原則的に土足厳禁とし、清掃管理に努めています。
大教庁や本院事務所はいわゆる宗教事務に専念できますし、収入もあまり多いと宗教法人法にも触れますが、電気代くらいは補えています。
全て神理教が主導権を持ちながら時間などの運営管理を任せているわけで、決して本来の神理教のためという使用目的を違えることはありませんので、ご理解願い上げます。
また、ここ数年の正月の初詣やその他の祭に本院周りの参拝者が増えていますが、それらへの貢献も期待されます。
秋には文化祭が催され、北九州市の市長さんも講演に来られる予定です。
この“人とき倶楽部”の集まりにも、書道や生け花や花水彩画や太極拳やジャズダンス他多彩な活動があり、これらも“癒し系”といえるでしょう。
“癒し系”といえば、もう少し具体的なものでカウンセリングもあります。
ここで本題に入りたいのですが、“人とき倶楽部”のカウンセリングと信仰においてのカウンセリングとは“似て非なるもの”と言えます。
いわゆるカウンセリングとは、相談に来る人の悩みや苦しみを聞いてあげることが第一義で、できれば問題点を整理し自分で問題を解決できるように助言を与えることを言います。
“似て非なる”ところというのは、@神と祖先のお守りを頂きながら、A積極的に今の状態を改善する、ということです。
カウンセリングにもいろいろとあり、訴訟や経営相談などでないいわゆる“癒し系”のものだけでも、心理科や精神科は元より命の電話や心身障害や仕事関係やいじめ関係など多様です。
他人の心配事の相談を受けるというのは、聖職とも言える崇高な仕事だと思います。
相談に来る人が、話を受け止められ安心するのを喜ぶのは本人だけではなく、本教で言えばその祖先も同じで、相談をする人とその祖先の感謝の心は徳となって相談を受ける人に返ってくると信じられます。
この徳とはお金や物ではなく目には見えない、いわゆる“天津御空に積む宝”ともいうべきものです。
しかし、その徳と同時に相談を受け止めてもらえる安心、また問題点を整理し助言を与えられる以上に大きな、それだけでは支えきれない苦しみ、を相談を受ける人が負うこともあるのです。
頂く徳と差し引きしてもとても割に合わない、負の徳を負わされる可能性にも気付いて置かねばなりません。
いわゆる昔の人は、皆信仰を持っていたから、人助けをするとそれがそのまま徳になったのでしょうが、今の人がそうした人助けをすることは、筆者から見ると大変危うく思われます。
決して人助けをしてはいけない、と脅しているのではありません。
折角人助けという素晴らしい行いをするのだから、それが自分のためにも生かされるようになっていただきたいと願うのです。
日本で初めてエレキテル(発電器)を製造し、人に役立つ日本の薬草や野菜や鉱物などの産物をまとめたり、芝居の台本や小説を書いたり、科学的な手法を用いて金鉱を探ったり、と多彩な発明・応用・実用の才能を発揮した平賀源内をご存知でしょうか?
最近読んだ村上元三氏の小説『平賀源内』で、作者は源内に次のように言わせています。
「…わしは世間の人間よりいささか頭が進みすぎている。
物理を学んだためか、いまだに神や仏を信ずる気になれぬ」
源内は功利(功名と利益)にさといところがありながら、人の良いところもあったように描かれていますが、江戸時代にも信仰をしない、という人はいたのでしょう。
源内はその知恵で世の為人の為にもなり、同時に名誉と財産も得ているのですが、その最後は何かの弾みで人を殺め獄中死をしたと伝えられています。
人の知恵では気付かぬ神と祖先の計らいを、私たちは多少の知恵があると無いとに関わらず、祖先から受け継いだ教えとして体得したいものです。
信仰無くしてカウンセリングを行って、安心してもらえば良い、治ればもっと良いだけでは、源内が小説の中で味わったような孤独感・寂寥感から抜け出せず、社会奉仕を行ったのにかえって悪因を負ってしまうことを恐れます。
お祭りを行い、神と祖先との関係を意識しながら心がけを改めることを伝えるのが、相談者を救い自分も徳を受けることになるのです。
信仰の形を真似た、目的のない占いや運勢判断でその場の安心や形のみを取り作るのは、かえって迷いを呼んでしまいます。
表面のみを整えるのでなく人間が本来受けるべき安定した、ご先祖ぐるみの充実した安心を得るものでなければ本物ではない。
ここに癒しの本流があると信じますし、本教の教えはそうしたところに生かされるものだと言えます。