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Q1  お賽銭には、何か意味があるのですか。

A 元来、お賽銭は、祈願成就の報恩の印として神様に報賽(かえりもうし)として賜る物のことをいいました。
 賜り物は、洗米や金銀などが多かったのですが、時代が下るにつれて室町時代の頃から金銭を捧げることが、一般的になりま した。
  つまり、お賽銭は、供え物の一種ということのようです。
  現代の考え方としては、日頃、神様から生かされ守られていることへの感謝を形として表すという意味があります。
  また須佐之男命は、天上から追い出されるときに贖(アガナ)い物をさせられます。
  その故事から、神理教では私たちが自分では気付かずに犯しているかもしれない罪に対して、させられるより前に自分から  贖い物をすることで禊となると考えます。
  私たちもお賽銭(捧げ物)をして、禊ぎをしているとも云えます。


Q2  飼っていたペットが死んだら、葬儀をした方がいいのでしょうか。

A ペットを家族の一員として飼い、人間と同様に葬儀をする人もいますが、本教では、動物は地の気として生まれてきているの で、死んだ後は、自然に帰るものとして、葬儀は不要と考えます。
  しかしながら、昨今、ペットについての関心が高まっていることもあり、本院では要請されれば、その趣旨に添ってのお祭りを しているようです。
  動物の葬儀については、教内で確立されていない為、今後、意見の分かれることが予想されますが、これについてのご意見 がございましたら、遠慮なく本院の方まで、ご連絡くださ
 い。     

自然(おのずから)(みち)  

                   (さち) (ひこ)

(みそぎ)に思う

 夏の講習会(こうしゅうかい)目玉(めだま)の一つは、明誠(みょうじょう)(たき)早朝(そうちょう)五時から行われる“(みそぎ)”です。

 “(みそぎ)”は、“()()ぐ・()(すす)ぐ”という言葉を(もと)本言(ほんげん)とするようです。

 “()()ぐ”と言えば筆者(ひっしゃ)はこの一年ほどで、お(なか)(まわ)りを中心に8sほど“()()ぐ”ことに成功しました。 病気(びょうき)ではないかと心配下(しんぱいくだ)さる()きもあったくらいですが、健康(けんこう)診断(しんだん)ではまだ3sほど()らさないと、と言われました。 お(かげ)で、少し高かった肝臓(かんぞう)(あたい)中性(ちゅうせい)脂肪(しぼう)標準(ひょうじゅん)となり、(むかし)(ふく)()られるようになって、自己(じこ)経済(けいざい)効果(こうか)もありました。 読者(どくしゃ)皆様(みなさま)へもお裾分(すそわ)けをしたく、()えない(なや)みを()ちの(かた)もおられるでしょうが、私の()(ほう)工夫(くふう)をお話しします。@意欲(いよく)体重計(たいじゅうけい)Aおかずを()やしてもご(はん)()らす・野菜(やさい)ジュースB呼吸法(こきゅうほう)の三つです。@アメリカによく行くという人と話していて、()こうには大きな人が多い話になり、ポップコーンやフライドポテトが(やす)いという話を聞きました。「でも、そうして(よこ)に大きくなった人は、自己(じこ)調整(ちょうせい)の出来ない人として軽蔑(けいべつ)されるような社会(しゃかい)風潮(ふうちょう)もあるのですよ」という話を聞き、少し自尊心(じそんしん)(きず)つけられたような気持ちとなり、“意欲(いよく)”が()きた(わけ)です。 動機(どうき)がなんであれ、それが自分の“意欲(いよく)”をかき立たせるものが必要(ひつよう)です。 自尊心(じそんしん)見栄(みえ)も、(かみ)から(あた)えられた(よく)の一つであることから、(むさぼ)りやその反対(はんたい)(あせ)りとならないように気を付ければ、使(つか)いようですね。 体重計(たいじゅうけい)も“意欲(いよく)”を()すために()ったのですが、最初(さいしょ)脂肪(しぼう)(はか)れる(もの)をと思ったものの、高価(こうか)なので単純(たんじゅん)な物にすると二千円(じゃく)でした。 結果的(けっかてき)体重(たいじゅう)()れば脂肪(しぼう)も減るようですから、これで十分(じゅうぶん)でした。 朝夕(あさゆう)結構(けっこう)(たの)しみになるものです。Aご(はん)を七から八(わり)くらいにして、その(ぶん)おかずや野菜(やさい)()るようにしました。 野菜(やさい)ジュースを()むように心掛(こころが)けましたが、五百ogで二百円を()(みせ)を見つけることが出来(でき)ました。B呼吸法(こきゅうほう)は、『はじめての(かみ)理教』に、長呼吸法(ちょうこきゅうほう)鎮魂法(ちんこんほう)として紹介(しょうかい)していますので、無理(むり)なく(かみ)(ちか)づく(みち)としても是非(ぜひ)(らん)(いただ)きお(ため)し下さい。 こつは、(いき)()くときに下腹(したばら)をへこめる(すぼめる)ことで、これによってお(なか)筋肉(きんにく)使(つか)意味(いみ)があるようです。 以上、(かみ)祖先(そせん)感謝(かんしゃ)の気持ちを持ちながら(つづ)けると、そんなに無理(むり)をすることなく出来ます。 途中(とちゅう)()めてまた(おこな)うことを()(かえ)すのは健康(けんこう)にも良くないのですが、ストレスの多い世の中ですから、一時的(いちじてき)()べるのは(かま)わないことです。 だからこそ、(かみ)祖先(そせん)に心を(つう)()わせながら(つづ)けることが大切(たいせつ)なのです。 余談(よだん)が長くなりましたが、(かみ)(つう)じるのに二つの方法(ほうほう)があります。 一つが(みそぎ)代表(だいひょう)される修行(しゅぎょう)であり、もう一つが日常(にちじょう)生活(せいかつ)の中から(まな)びながら(みずか)らを(みが)くことです。 御教祖(ごきょうそ)が“難行(なんぎょう)苦行(くぎょう)はいらぬこと”と(おし)えられたのは、一人であるいは()(たす)()い、大変(たいへん)日常(にちじょう)()()く中で世に役立(やくだ)(よろこ)びを(あじ)わいながら(かみ)(つう)じるのが、自然(しぜん)(みち)ということだと()()れます。 難行(なんぎょう)苦行(くぎょう)修行(しゅぎょう)もそれが(かみ)から(あた)えられたものであれば、夏の講習会(こうしゅうかい)でも(おこな)っているくらいですから(けっ)して非難(ひなん)されるものではありません。 最近(さいきん)(たき)(ぎょう)をする人の話で、自然(しぜん)一体(いったい)となる快感(かいかん)自然(しぜん)の一つひとつまで見えてくる(おどろ)きの感覚(かんかく)を聞いてなるほどと感銘(かんめい)を受けました。 ただ、気を付けなければならないところがあるように思うのです。 それは、難行(なんぎょう)苦行(くぎょう)(ふか)めれば(ふか)めるだけ、もっと(ふか)(なに)かもっと(とうと)(かみ)(ほとけ)(つう)じられるのでは、という修行(しゅぎょう)(むさぼ)りとも言える陥穽(かんせい)(落とし穴)にはまることです。 そして、世のため人のためそして自分のためという本来(ほんらい)目的(もくてき)見失(みうしな)い、あるいはバランスを(くず)すことです。 しかし(おこな)以上(いじょう)は、その修行(しゅぎょう)目的(もくてき)をしっかりと見定(みさだ)めることが必要(ひつよう)です。 自分が修行(しゅぎょう)(つう)じて何を()ようとしているのか、そしてその得たもので社会(しゃかい)に何をお(かえ)しすることが出来るか。 心を(しず)め、一端(いったん)でも(かみ)()()える(よろこ)びを(あじ)わえること、その(よろこ)びと(かみ)(つう)じる()(がた)さや(やす)らぎを周囲(しゅうい)の人に(つた)え、()かち()うことが大切(たいせつ)です。 ただ(かたち)のみを(おこな)えば(かみ)(ちか)づけるというものではなく、心が入らなければ(まが)(かみ)()()かれることさえあるのです。 また修行(しゅぎょう)魅力(みりょく)(あじ)わうのは良いものの、修行を理由(りゆう)日常(にちじょう)生活(せいかつ)()(はな)したり現実(げんじつ)から逃避(とうひ)をするようなことがあってはなりません。 日常(にちじょう)生活(せいかつ)の中にこそ身近(みぢか)自然(しぜん)修行(しゅぎょう)が出来る主体(しゅたい)であって、難行(なんぎょう)苦行(くぎょう)はその手助(てだす)けとなる(じゅう)のものなのです。 日常(にちじょう)生活(せいかつ)修行(しゅぎょう)()でもあると(かんが)えることが出来(でき)れば、毎日(まいにち)がより充実(じゅうじつ)したものになります。 難行(なんぎょう)苦行(くぎょう)日常(にちじょう)修行(しゅぎょう)(あいだ)にあるものに、(しん)(ぜん)奉仕(ほうし)社会(しゃかい)奉仕(ほうし)があります。 告白(こくはく)すると、筆者(ひっしゃ)()ずかしながら最近(さいきん)まで奉仕(ほうし)意味(いみ)奉仕(ほうし)(よろこ)びというものがわかっていませんでした。 また、すぐには使(つか)わない教義(きょうぎ)勉強(べんきょう)をしたり、(おな)じく使(つか)うことの(すく)ない祭式(さいしき)勉強(べんきょう)一生懸命(いっしょうけんめい)にする人の心が理解(りかい)できていませんでした。 ある時本院(ほんいん)への奉仕(ほうし)(だん)(かた)たちと(からだ)を動かしていて、その(つら)さに思わず無心(むしん)となっている自分に気が付いたとき、(かみ)(そば)存在(そんざい)するのを(かん)じたのでした。 (たと)えば八月は穂見祭(ほみさい)(お(ぼん))の墓参(はかまい)りがありますが、前もって(あつ)くて()()()う中を(くさ)むしりをすれば、ご先祖(せんぞ)(よろこ)びを感応(かんのう)する事ができます。 日常(にちじょう)奉仕(ほうし)修行(しゅぎょう)とメリハリをつけながら、(とも)(しん)()(ちか)づきましょう。

神理

平成13年8月号
       第1050号

ライン45

       ***** 巻 頭 の言 葉 *****
 
  今、私たちは先祖の残したものの上に生かされている。
  先祖が多くのものを残してくれた様に、私たちも子孫の為に何をどう残すか考えねばならない。
  人は善と悪の両面を持っており、出来れば善の部分を残すことが喜ばしい事ではある。
  しかし、善を残そうとするならば、悪の部分を一つでも多く減らすことを考えるべきであろう。
  日々の中で、悪因を無くしていこうとする努力こそ自分を磨くことにつながり、その磨かれた
  光は「徳」として子孫へ残るのである。

ライン45

管長
かんなぎべ  たけひこ
巫部   健彦
かむ       あらわ   い      ひと 
神ながら 顕れ出でし 人なれば 
    ひと   かみ   こ   あき   かみ   こ        
   人は神の子 明つ神の子
                                              
                           神理教管長  巫 部 健 彦  

 天地万物は、いわゆるビッグバンなるものによって創出された!ということになっているよう
であります。しかし、そのビッグバンなるものが発生する原因を追求し続けた場合、結局は不
可解で立証説明しがたい働きを持つ存在!に辿りつくものと思われます。
 クローン技術の進歩によって、人間の皮膚や臓器のみならず、人間そのものを作ることさえ
可能な時代が来る?とも言われております。仮に実現したとしても、これ亦、別の存在によって
創りなされた素材と機能とを、よろしく利用したに過ぎぬという事になります。
 そうした不可解な存在によって、天地万物の素材や機能が創りなされる成り行きを、我が国
では『神ながら』と言い習わして来ました。我々人間が、微妙な経過の中で生まれ、精緻な
機能を伸ばしつつ生き得ているのも、まさしく『神ながら』であります。
 つまり我々は、御神慮に基づき御神徳に支えられる中で、めでたく生まれ出で、つつがなく生
き続け得ていると言うことになりますし、其の活力の根源は、神の分霊として銘々の体に鎮まる
魂である!とするのが、本教の信仰であります。
 いわば、『神』と『魂』とは親子関係にあると申せますし、本教で「人は神の子」というのは、そう
した意味合いに拠るものであります。従って更に推論すれば、『神』は大神霊・親神であり、人は
小神霊・子神という受け止め方に達することになります。
 即ち、いささか言い憚られますが、論理的には『人は総て明つ神=現人神と申せる存在』という
ことになります。我々としては、そうした尊厳な御存在に近づくことも可能な資質を備えている!と
受け止め、たゆまぬ精進努力が肝要!とすべきであります。
 衣食足りて礼節を知る!と言われて来ましたが、現状は、その衣食等に執着するのみで、礼節
には結び付いていないと申せます。我々としては、もともと資質を備えて相互に尊敬され合うべき
存在!である点に思い及び、衣食等に偏向した関心を是正することにより、神の子としての安心を
取り戻す中での生活を、着実に推し進めねばならぬと考えます。