自然の道
幸 彦
輝くとき
夕刻の静かになった境内に、遠く美しく歌声が響くのを聞くとき、心の和むのを感じます。 先日、そうして本院境内の幼稚園舎で練習をしている、北九州市小倉少年少女合唱団の定期公演に行きました。 定期公演では、日本でもはやったアメリカのディズニィー映画、ライオンキングが上演されました。 小学生から高校生までの青少年・少女の洗練された表現や全体の躍動感、熱意にあふれる声の出し方に涙腺の緩むような感動を覚えました。 当日は後で高校生の卒団式も行われるということで、達成感や思い出がないまぜになるのか、団員達の御礼の声もつまりがちです。 毎週の土・日を埋めてまで指導される先生や、その練習時間の余暇を使ってまで自主練習に励む子ども達をかいま見ているだけに、終演時に満場の観客からの万雷の拍手を聞くと、自分のことのように嬉しくなりました。 筆者の頭に“輝くとき”という言葉が自然に浮かんできました。 この時代にしか出せない声、この時代にしか味わえない新鮮な感動、この時代の考えを振り絞り工夫し、それが実現すること。『この子達は、今まさに素晴らしく輝いている』のを目の当たりにし、私たち観客の心にもその輝き・灯りが移し点される心地よさを感じました。『他人の心に灯りを点す』ことができるのは、なんと不可思議で素晴らしいことでしょう。 本教の目的である“世の中に役立つ自分を見いだすことで、自らも喜びを得るとともに向上する”とも一致します。 そのとき、ふと思うことがありました。『もし休みの日など自分の時間に何もせず無為に過ごしていたら、この定期演奏の日にこの子達は何をしているのだろう? 一日いちにちを自分で考えるのではなく、アニメテレビやパソコンゲームやあるいは、指導され追い回されるだけの塾や習い事に心身を費やしていれば、どうなっているのだろう』ということです。 およそこうした輝くときを迎えられることはなく、その経験を自分の将来や次の世代に伝える機会が持ち越されてしまうのでしょう。 私たち現在の社会を支える三十〜五十代の大半は、3K(無気力・無関心・無感動)といわれる青少年・少女時代を過ごしてきました。 私たちの少年・少女時代は、どちらかというと後者の方が多いのではなかったでしょうか? この子ども達を見て得ることが出来たのは、“人は皆自分を輝かすことの出来る機会を与えられている!”ということでした。 逆に、“自然なる神から与えられたこの素晴らしい機会を、私たちは何度もなんども見逃してきているのではないか”ということにもなります。 その素晴らしい機会は、決して合唱団の子ども達ばかりではなく、私たちにも与えられているのです。 与えられている、あるいは与えようとする神の意志に気付くか気付かぬかで、その人の生き方は大きく左右されます。 求めて得られる安らぎと、逃げても押しつけられる不安との、大きな違いとなるのです。 今日出来ることを明日に延ばそうとしたり、アルコールやギャンブルに目先の楽を求めて逃げてはいまいか? 心や体を何もしないことのみで休めよう、としてはいまいか? 社会奉仕の効用に気付かない、あるいは忘れてはいまいか? 怠りは本教第一の罪ですが、それは目先の気休めの楽ではなく、本当の喜び・安らぎの大切さを教えるものなのです。 一生を通じて自分を輝かす機会とは何か。 今忘れ去られつつあるものの基本にして最も大切なことは“祖先を輝かせ、子孫を輝かせる”という、人が太古から当たり前に歩んできたし、これからも歩む道“信仰”だと思われませんか? ご先祖の霊魂の安定を祈り、子孫の繁栄を願うことが、とりもなおさず自分自身を輝かせることになるのです。 六月は本教の議会があり、決算・予算・事業報告・計画が審議されましたが、また布教方針、心構えについて意見が交わされました。 その時、ある教会長がこう言われました。「中学生ではもう遅い」信仰というのは、決して押しつけるものではないけれど、自然に親から子どもに受け継がれてきたものなのです。 それがどこかで途切れたと言えます。 別の教会長がこう言われました。「お腹にいるときからお母さんと一緒にお参りを勧めています」とても素晴らしいことながら難しいことですが、これを実践している教会が人も賑わい、お陰も多く、神の心に適っているように見えます。 誰でもその気になりさえすれば、輝く時を持つことが出来る。 私たちから、私たちの家族から、この喜びを共有できるようになりたいものです。