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* 本教質疑応答  Q&A

質問1  祖霊殿の中に写真を飾ってもよいのですか。

    先祖は大切にしなければなりませんが、祖霊殿の中に写真を飾ることは、決してよいことではありません。
    理由は、その家の祖霊は御霊璽に鎮まっています。霊殿の中に写真を飾るということは、いつも、写真に対しても手を合わせて拝むということになり、子孫のない霊やとにかく誰かに拝んでもらいたい霊などが憑依する可能性があるからです。どうしても、写真を飾りたい場合は、祖霊殿の外の方が良いと思います。


質問2  神理教はなぜ四拍手なのですか。

    明治時代に神道が神社神道と教派神道に分かれたとき、神社神道は2拍手、教派神道は4拍手となったのが歴史的な区切りのようですが、神理教では、人の魂は四魂(幸魂・和魂・奇魂・荒魂)から成り立っていると教えられています。その四魂を人の感情に置き換えると喜怒哀楽ということになります。
    四拍手ということは、四魂を意味しますが、人の喜怒哀楽の心を一つにして神様に手を合わせ敬うという意味が込められています。と同時に、四魂の安定を神様に願うという意味もあるようです。

自然(おのずから)(みち) 

                    (さち) (ひこ)

(かがや)くとき

 夕刻(ゆうこく)の静かになった境内(けいだい)に、遠く美しく歌声が(ひび)くのを聞くとき、心の(なご)むのを感じます。 先日、そうして本院(ほんいん)境内(けいだい)幼稚(ようち)園舎(えんしゃ)で練習をしている、北九州市小倉少年少女合唱団の定期(ていき)公演(こうえん)に行きました。 定期公演では、日本でもはやったアメリカのディズニィー映画、ライオンキングが上演されました。 小学生から高校生までの青少年・少女の洗練(せんれん)された表現や全体の躍動感(やくどうかん)、熱意にあふれる声の出し方に涙腺(るいせん)(ゆる)むような感動を(おぼ)えました。 当日は後で高校生の卒団式(そつだんしき)も行われるということで、達成感(たっせいかん)や思い出がないまぜになるのか、団員(だんいん)(たち)御礼(おれい)の声もつまりがちです。 毎週の土・日を()めてまで指導される先生や、その練習時間の余暇(よか)を使ってまで自主(じしゅ)練習(れんしゅう)(はげ)む子ども達をかいま見ているだけに、終演時(しゅうえんじ)満場(まんじょう)観客(かんきゃく)からの万雷(ばんらい)拍手(はくしゅ)を聞くと、自分のことのように(うれ)しくなりました。 筆者(ひっしゃ)の頭に“(かがや)くとき”という言葉が自然(しぜん)に浮かんできました。 この時代にしか出せない声、この時代にしか(あじ)わえない新鮮(しんせん)な感動、この時代の考えを()(しぼ)工夫(くふう)し、それが実現すること。『この子達は、今まさに素晴(すば)らしく輝いている』のを()()たりにし、私たち(かんきゃく)の心にもその(かがや)き・(あか)りが移し(とも)される心地(ここち)よさを感じました。『他人の心に灯りを点す』ことができるのは、なんと不可思議(ふかしぎ)で素晴らしいことでしょう。 本教(ほんきょう)の目的である“世の中に役立つ自分を見いだすことで、(みずか)らも(よろこ)びを得るとともに向上(こうじょう)する”とも一致(いっち)します。 そのとき、ふと思うことがありました。『もし休みの日など自分の時間に何もせず無為(むい)()ごしていたら、この定期演奏の日にこの子達は何をしているのだろう? 一日いちにちを自分で考えるのではなく、アニメテレビやパソコンゲームやあるいは、指導され追い回されるだけの(じゅく)(なら)(ごと)心身(しんしん)(つい)やしていれば、どうなっているのだろう』ということです およそこうした輝くときを迎えられることはなく、その経験を自分の将来や次の世代に伝える機会が持ち越されてしまうのでしょう。 私たち現在の社会を支える三十〜五十代の大半は、3K(さんけい)無気力(むきりょく)無関心(むかんしん)無感動(むかんどう))といわれる青少年・少女時代を過ごしてきました。 私たちの少年・少女時代は、どちらかというと後者(こうしゃ)の方が多いのではなかったでしょうか? この子ども達を見て得ることが出来たのは、“人は(みな)自分を輝かすことの出来る機会(きかい)(あた)えられている!”ということでした。 (ぎゃく)に、“自然なる神から与えられたこの素晴(すば)らしい機会(きかい)を、私たちは何度もなんども見逃(みのが)してきているのではないか”ということにもなります。 その素晴らしい機会は、決して合唱団の子ども達ばかりではなく、私たちにも(あた)えられているのです。 与えられている、あるいは与えようとする神の意志に気付(きづ)くか気付かぬかで、その人の生き方は大きく左右されます。 (もと)めて()られる(やす)らぎと、()げても()しつけられる不安(ふあん)との、大きな(ちが)いとなるのです。 今日出来ることを明日に()ばそうとしたり、アルコールやギャンブルに目先(めさき)(らく)を求めて()げてはいまいか? 心や体を何もしないことのみで休めよう、としてはいまいか? 社会(しゃかい)奉仕(ほうし)効用(こうよう)に気付かない、あるいは(わす)れてはいまいか? (おこた)りは本教第一の(つみ)ですが、それは目先(めさき)気休(きやす)めの(らく)ではなく、本当の喜び・安らぎの大切さを教えるものなのです。 一生を通じて自分を輝かす機会(きかい)とは何か。 今忘れ()られつつあるものの基本にして最も大切なことは“祖先を輝かせ、子孫を輝かせる”という、人が太古(たいこ)から当たり前に歩んできたし、これからも歩む道“信仰(しんこう)”だと思われませんか? ご先祖の霊魂(れいこん)安定(あんてい)(いの)り、子孫の繁栄(はんえい)(ねが)うことが、とりもなおさず自分自身を輝かせることになるのです。 六月は本教(ほんきょう)の議会があり、決算・予算・事業報告・計画が審議(しんぎ)されましたが、また布教(ふきょう)方針(ほうしん)心構(こころがま)えについて意見(いけん)()わされました。 その時、ある教会長がこう言われました。「中学生ではもう(おそ)い」仰というのは、決して()しつけるものではないけれど、自然に親から子どもに()()がれてきたものなのです。 それがどこかで途切(とぎ)れたと言えます。 別の教会長がこう言われました。「お(なか)にいるときからお母さんと一緒にお参りを(すす)めています」とても素晴らしいことながら(むずか)しいことですが、これを実践(じっせん)している教会が人も(にぎ)わい、お(かげ)も多く、神の心に(かな)っているように見えます。 (だれ)でもその気になりさえすれば、輝く時を持つことが出来る。 私たちから、私たちの家族から、この喜びを共有(きょうゆう)できるようになりたいものです。

神理

平成13年7月号
       第1049号

ライン45

       ***** 巻 頭 の言 葉 *****

  身の回りの事や仕事で、雑事雑用に振り回されてイヤになってしまう、と言う人がいる。
  しかし、この世に雑用はないのである。
   雑にするから雑用であり、どんな些細な事でも大切に行った時、それは雑用ではなくなる。
  一挙手一投足に心を込める。
  その積み重ねが大きな成果を生む事は当然であり、普段からの自身の心の持ち方で次第である。


      ただ       おの
 「おのれ只 心一つで己が身を

       
 い   ころ   はて
        生かす殺すの果てとなるなり」 

                         (教組御歌)



 

ライン45

管長
かんなぎべ  たけひこ
巫部   健彦
こころ       できごと   まな   
心して 世の出来事に 学びなば
   ふ    たが   かんながら
  踏みや違へじ 随神なる道  
 
  平成十三年も後半を迎えることとなりました。依然として不況の尾の切り放せぬ状況が続いては
 いますものの、威勢よく変革を強調する小泉内閣への期待感もあってか、心のかげりには薄らぎが
 生じ始めているようにも感じられます。

  この内閣に対する支持率は過去最高ということでありますが、前内閣の支持率が低すぎたとは言
 いながらも、その支持率の高低差も亦、過去最大ということではないかと思われますし、そのこと自体
 が大きな変革!とも申せそうであります。
  原因としては、とても駄目!と思い込んでいた事=小泉総理大臣=の実現により、多くの人々の閉塞
 感が打破された点も、挙げられねばならぬと考えます。概して言えば、外部からの刺激によって、内な
 る心の状態が変化した!ということになります。
  尤も、外部からの刺激に対しての内なる心の受け止め方には、人それぞれの心の状態による相違が
 ありますし、仮に同一の人物に対する同一の刺激であっても、時と場が違えば強弱その他に相違が生
 じかねぬ、ということのようであります。

  情報過多といわれる中での生活は、外部からの刺激に反応するばかり、ということになりがちであります。
  それを受け止める心の状態が正常に安定していない限り、前進・後退や右往・左往の繰り返しに終始
 する事になりかねぬと思われます。
   乳幼児期を始めとして、外部からの刺激が人格の形成に寄与するところ多大なことは、誰もが認めて
 感謝せねばならぬ所でありますが、心の成長形成には、他の生物とは異なる所として今ひとつ、その人
 なりの思索の積み重ねという努力!が考えられるべきであります。

  そうした思索の積み重ねという努力が不十分なため、人間らしからぬ犯罪が横行しているとも申せそう
 でありますし、我々としては、外部からの刺激についても、いわゆる心を養う機会という受け止め方で、成
 るべくんば前後関係にも配慮を廻らしつつ対応し、進歩につながる変革の道を選択することに努めねばな
 らぬと考えます。