戻る
本教質疑応答  Q&A


質問1  注連縄にはどういう意味があるのですか。

    「注連縄」は、神社や神棚によく見られるように、神聖とみられる場所には、必ず張られています。また、神体とされる神木や盤座(いわくら)とされる巨岩などにもよく見られますが、一般的には神前または、神聖な区域
    などに掛け渡し、内と外を隔てて、不浄にふれさせないために用いられるものです。横に張った縄は「雲」を表し、垂れは「雨」を表し、紙では「雷」を表しているとも言われています。神話では、天照大神を天の岩戸からお
   迎え申し上げたあと、再び中に入れないようにするために直ちに天の岩戸に「注連縄」を引き廻らしたとあります。
   こうした事柄をみると、「注連縄」を張り巡らした所は、神聖な場所であることを示す標識の意味を持っているようです。


質問2  なぜ、拝礼前に鈴を鳴らすのですか。

    鈴の本来の目的は、楽器の一つとして作られました。これが古来日本では、言葉には、「言霊コトダマ」があるように、音には「音魂オトダマ」があり魔除けの霊力があるとされ、それが転じて神事の時に鈴を鳴らすようにな
   ったようです。
    それが今では、神に祈願・報恩の祈念を報ずるための合図として用いられるようになりました。

自然(おのずから)(みち)

                  (さち) (ひこ)

自殺(じさつ)()くない理由(りゆう)

 霊祭(れいさい)神道(しんとう)では一・三・五・十年…と祖先(そせん)(まつ)りをします)に(うかが)った(いえ)で、(いま)でも不思議(ふしぎ)なこと、奇跡(きせき)のようなことがありますか?」と()かれました。 筆者(ひっしゃ)は、そんな(あま)期待(きたい)(さそ)うような出来事(できごと)がそんなにあるものか、と(おも)いながら()(かえ)ってみたのですが、結構(けっこう)あるものです。「そういえば、脳幹(のうかん)破裂(はれつ)をした(ひと)が一ヶ月もしないうちに普通(ふつう)(ちか)(せいかつ)をしていますね。 それから、手術(しゅじゅつ)出来(でき)ない(からだ)箇所(かしょ)悪性(あくせい)腫瘍(しゅよう)(わずら)った人が、今は腫瘍(しゅよう)がなくなったという話を聞きましたね」など次々(つぎつぎ)に思い出すものです。 聞く人もびっくりですが、筆者も(われ)ながら(おどろ)きです。 司馬遼(しばりょう)太郎(たろう)はその小説(しょうせつ)妖怪(ようかい)』の登場(とうじょう)人物(じんぶつ)にこう言わせています。神仏(しんぶつ)は人間にどういう力もない。 神仏(しんぶつ)に力があれば病者(びょうしゃ)(なお)り、死者(ししゃ)(よみがえ)り、(とみ)権力(けんりょく)をを()たい(もの)は得るはずだが、古来(こらい)神仏がそうした(ちから)発揮(はっき)したことがない。 神仏(しんぶつ)はただ人間生活の装飾物(そうしょくぶつ)であり、それ以上(いじょう)の力はない。 それだから神仏(しんぶつ)(とうと)いのだ」この両方(りょうほう)の話を聞いてどう(かん)じられるでしょうか。 筆者(ひっしゃ)は、後者(こうしゃ)小説(しょうせつ)登場(とうじょう)人物(じんぶつ)の言葉を(あじ)わい(ぶか)く感じますし、簡単(かんたん)神頼(かみだの)みをするような(あま)い考えを()()りながら神仏(しんぶつ)(とうと)(こころ)()けを(いさぎよ)く思います。 (まも)られていると(しん)じる人には、(こう)不幸(ふこう)(かか)わりなく今のそのままが(まも)られているのであって、(まも)られてないと思う人は(まも)られてないのでしょう。 しかし、信仰(しんこう)の中でこうした大病(たいびょう)()われた方の話を聞いてみますと、「自分の命の先が見えない思いの中に、心の(たよ)りになるものを感じたし、病気が(なお)って生かされてから、なお自分の信仰の足りないところに気付かされました」という貴重(きちょう)体験(たいけん)(つた)えていただきました。

 御教祖(ごきょうそ)御歌(みうた)に、

(ふし)()も 神の(まも)りは ()えぬなり

      人は(わす)るる 時のありとも』があります。

“自分が神に(まも)られていると思っていてもいなくとも、あるいは神の(まも)りを忘れていても、神は()えず私たちをお(まも)(くだ)さること”を教えられています。 神徳(しんとく)(かかふ)った((いただ)いた)からあるとか(かかふ)らなくともあるなど、()()(かた)(ちが)っても、私たちは神と祖先(そせん)から()(まも)られている、というのが古来(こらい)からの一貫(いっかん)した日本人の感覚(かんかく)です。 その感覚が、地球(ちきゅう)環境(かんきょう)温暖化(おんだんか)悪化(あっか)とあいまってか、変質(へんしつ)しているように感じます。 自分は家族や社会(しゃかい)国家(こっか)、ひいては自然(しぜん)環境(かんきょう)とは()(はな)された存在(そんざい)として()きている、という勘違(かんちが)いが一般化(いっぱんか)しているように思うのです。 そこで本題(ほんだい)にはいるのですが、たいていの場合(ばあい)(くる)しいから()んでしまうといっても、自分(じぶん)で自分の(いのち)()ってしまうことで(らく)になることはなく、かえってもっと(くる)しむ結果(けっか)になることに気付(きづ)かねばなりません。 やくざ映画(えいが)借金(しゃっきん)()()ての場面(ばめん)で、()んでも()いかけるからな」と(すご)む言葉を聞くことがあります。 法律(ほうりつ)の目をかい(くぐ)って、臓器(ぞうき)()ったり、子孫(しそん)から取り立てるということなのでしょう。 借金取(しゃっきんと)りとは事情(じじょう)(ちが)っても、正面(しょうめん)から()()まず(いや)なものから()げようとすればするほど、ますます(いや)なものとなって()ってくるもののようです。 自殺(じさつ)をして臓器(ぞうき)()られることはないものの、子孫(しそん)(くる)しみを()()たりに見せられて何も出来ないもどかしい苦しさを(あじ)わうのは同じです。 元々(もともと)、体も心も神から()(あた)えられたものであることが意識(いしき)できれば、それを(きず)つけたり()ててしまうというのは、(おそ)れ多いことです。 昨今(さっこん)自他(じた)(いのち)(かる)く考え無造作(むぞうさ)(あつか)風潮(ふうちょう)があるのは、命を伝えた親や家族は元より、命を与えた神のことを考えに入れることを(わす)れたからです。 人工(じんこう)のガラスや壁紙(かべがみ)(ゆか)(かこ)まれた部屋の中にいるのを居心地(いごこち)がよいと思い、自然(しぜん)の光や風を受け止めた()()大地(だいち)(あたた)かみを(きたな)いとか不衛生(ふえいせい)と思い間違(まちが)えているようです。 (みき)から()(はな)された(えだ)が、人工の栄養液(えいようえき)につけてもやがて()れてしまうことに気付(きづ)かず、その栄養液の(あじ)本当(ほんとう)旨味(うまみ)勘違(かんちが)いしているようなものです。 家庭や社会(しゃかい)環境(かんきょう)などからか、(うらな)いや運勢(うんせい)などの技術(ぎじゅつ)には興味(きょうみ)を持ってもその大元(おおもと)自然(しぜん)=神の存在(そんざい)意識(いしき)できず(うやま)習慣(しゅうかん)がないという、おさなさからくるわがままで自他(じた)(きず)つける衝動的(しょうどうてき)行動(こうどう)(うつ)る人が()えているのを感じます。 御教祖(ごきょうそ)は、“火水(ひみず)(まき)”の“()のつとめの()”の中で、(れい)は神の借物(かりもの)であるから…神にかえすときに(きず)をつけるわけにはいくまい。…(きず)がついたなら(なお)すがよい。それでも人間の知恵(ちえ)才覚(さいかく)では(なお)すことが出来ぬから、一心(いっしん)にすがれば神が(なお)して下さる。…』と教えられています。 自殺(じさつ)はそうした経緯(けいい)を考えず神と祖先の好意(こうい)無視(むし)することですから、(はら)えないことはないにしても、大変な後戻(あともど)りです。 生きている人で不要(ふよう)な人はいないので、それを(みずか)らが自らを不要な存在と宣言(せんげん)するのと同じですから、神と祖先への反抗(はんこう)とも言えるわけです。 自らの命を()つことが、自分や周囲(しゅうい)の人の迷惑(めいわく)になることはあれ、何一つ(すく)いになることはありません。 (たと)え今の立場が周囲(しゅうい)迷惑(めいわく)()けているものであろうと、神と祖先への反抗の(ほう)(つみ)(おも)く、今の迷惑(めいわく)何倍(なんばい)もの迷惑(めいわく)がかかると心得(こころえ)なければなりません。 先月号でも()べましたが、人は他人に迷惑(めいわく)()恩義(おんぎ)()ける()(もの)です。 それを(つぐな)うには神と社会に奉仕(ほうし)して、(いただ)いたもの以上にお返しするという(こころ)()けが大切です。 死ねば、大切(たいせつ)なこの世で、もうかえすことが出来ません。 神に(いただ)いた祝福(しゅくふく)された人生(じんせい)(とも)(よろこ)()かち()い、精一杯(せいいっぱい)()()きましょう。

神理

平成13年6月号
       第1048号

ライン45

       ***** 巻 頭 の言 葉 *****

 つい感情的になって、瞬間的に怒ってしまうことが度々ある。
 怒りは怒りを呼んで取り返しのつかない場合が多々ある。
 怒りは自分を忘れてしまい、神の働きも止めてしまう。
 子供の少々のいたずらには、本気で怒る大人はいない。
 子供より何につけ一段高いところから見ていて余裕があるからである。
 半歩でも一歩でも離れて高いところから見ようとする努力。
 そこに神の働きが生れてくる。

 「人は怒るとも己は怒ることなかれ」(御教誡)

 

ライン45

管長
かんなぎべ  たけひこ
巫部   健彦
        いきる ちから  そな
おのづから 生きる力の 備はりて
   あらわ      こと わす
   顕れいでし 事な忘れそ 
 人間は、環境の動物とも言われております。いわゆるバブル時代には、そのことに気付かぬまま 浮かれた、
為に予測できぬまま迎えたバブル崩壊という急変に慌てふためき、景気低迷の続く昨今は、一般的に気分も
閉塞沈滞!と申せる状況であります。

 尤も、閉塞状態や沈滞ムードは、凡そ誰にとっても好ましからぬところであり、従って脱出や打破への意欲
や気力を温存しているのが、多くの人々に共通する常態と言えますし、問題は、どこまで辛抱できるか?と言
うことになりそうであります。

 その辛抱や忍耐の為にも望まれるのは、仮に今よりも厳しい状況に追い込まれたとしても、俗に『上には上
があり、下には下がある』とも言われているように、それこれと視野を広げて照らし合わせ、なお自分は恵まれ
ている!という点に気付く事かと思われます。
 又、今ひとつ肝要と思われるのは、新しい展開への可能性を模索する期待感であります。即ち感謝すべき
現状であるとの認識に立ち、新しい展開への期待感を持つ事が出来れば、脱出や打破への意欲や気力を
温存できる!ということであります。 先頃、圧倒的な流れに乗って俄かに小泉内閣が誕生し、今なお過去
最高の支持率を持続していますが、これは、何かを仕出かしそうな新首相の気概に、多くの国民が温存して
いた意欲や気力が共鳴した故の成り行き!ともうすことができそうであります。

 バブル崩壊の先例や、前途不透明な部分も少なからぬ点を踏まえた上で、その温存していた意欲や気力
の更なる活性化に踏み切ったとすれば、この降って沸いたような気運は、相乗効果として一層の高まりをしめ
すことになる!とも考えられます。
 人間には『生きる力』が備わっており、その力の強い人が格好の気運に乗る!と言えるようにも思われます
が、いずれにしても信仰は、その『生きる力』の活性化に不可欠な『行』とすべきであり、そうした受け止め方
での生活を心掛けることにより、いかなる環境の中でも生き抜く事が出来る自分創り!に励みあいたいもの
であります。