自然の道
幸 彦
自殺が良くない理由
霊祭(神道では一・三・五・十年…と祖先祭りをします)に伺った家で、「今でも不思議なこと、奇跡のようなことがありますか?」と聞かれました。 筆者は、そんな甘い期待を誘うような出来事がそんなにあるものか、と思いながら振り返ってみたのですが、結構あるものです。「そういえば、脳幹破裂をした人が一ヶ月もしないうちに普通に近い生活をしていますね。 それから、手術の出来ない体の箇所に悪性腫瘍を患った人が、今は腫瘍がなくなったという話を聞きましたね」など次々に思い出すものです。 聞く人もびっくりですが、筆者も我ながら驚きです。 司馬遼太郎はその小説『妖怪』の登場人物にこう言わせています。「神仏は人間にどういう力もない。 神仏に力があれば病者は治り、死者は甦り、富や権力をを得たい者は得るはずだが、古来神仏がそうした力を発揮したことがない。 神仏はただ人間生活の装飾物であり、それ以上の力はない。 それだから神仏は尊いのだ」この両方の話を聞いてどう感じられるでしょうか。 筆者は、後者の小説の登場人物の言葉を味わい深く感じますし、簡単に神頼みをするような甘い考えを断ち切りながら神仏を尊ぶ心掛けを潔く思います。 守られていると信じる人には、幸・不幸に関わりなく今のそのままが守られているのであって、守られてないと思う人は守られてないのでしょう。 しかし、信仰の中でこうした大病に遭われた方の話を聞いてみますと、「自分の命の先が見えない思いの中に、心の頼りになるものを感じたし、病気が治って生かされてから、なお自分の信仰の足りないところに気付かされました」という貴重な体験を伝えていただきました。
御教祖の御歌に、
『節の間も 神の守りは 絶えぬなり
人は忘るる 時のありとも』があります。
“自分が神に守られていると思っていてもいなくとも、あるいは神の守りを忘れていても、神は絶えず私たちをお守り下さること”を教えられています。 神徳を蒙った(戴いた)からあるとか蒙らなくともあるなど、受け止め方は違っても、私たちは神と祖先から見守られている、というのが古来からの一貫した日本人の感覚です。 その感覚が、地球環境の温暖化や悪化とあいまってか、変質しているように感じます。 自分は家族や社会や国家、ひいては自然環境とは切り離された存在として生きている、という勘違いが一般化しているように思うのです。 そこで本題にはいるのですが、たいていの場合苦しいから死んでしまうといっても、自分で自分の命を断ってしまうことで楽になることはなく、かえってもっと苦しむ結果になることに気付かねばなりません。 やくざ映画の借金の取り立ての場面で、「死んでも追いかけるからな」と凄む言葉を聞くことがあります。 法律の目をかい潜って、臓器を取ったり、子孫から取り立てるということなのでしょう。 借金取りとは事情は違っても、正面から取り組まず嫌なものから逃げようとすればするほど、ますます嫌なものとなって追ってくるもののようです。 自殺をして臓器を取られることはないものの、子孫の苦しみを目の当たりに見せられて何も出来ないもどかしい苦しさを味わうのは同じです。 元々、体も心も神から貸し与えられたものであることが意識できれば、それを傷つけたり捨ててしまうというのは、畏れ多いことです。 昨今、自他の命を軽く考え無造作に扱う風潮があるのは、命を伝えた親や家族は元より、命を与えた神のことを考えに入れることを忘れたからです。 人工のガラスや壁紙や床で囲まれた部屋の中にいるのを居心地がよいと思い、自然の光や風を受け止めた枯れ葉や大地の暖かみを汚いとか不衛生と思い間違えているようです。 幹から切り離された枝が、人工の栄養液につけてもやがて枯れてしまうことに気付かず、その栄養液の味を本当の旨味と勘違いしているようなものです。 家庭や社会環境などからか、占いや運勢などの技術には興味を持ってもその大元の自然=神の存在を意識できず敬う習慣がないという、おさなさからくるわがままで自他を傷つける衝動的な行動に移る人が増えているのを感じます。 御教祖は、“火水の巻”の“身のつとめの理”の中で、『霊は神の借物であるから…神にかえすときに疵をつけるわけにはいくまい。…疵がついたなら直すがよい。それでも人間の知恵才覚では直すことが出来ぬから、一心にすがれば神が直して下さる。…』と教えられています。 自殺はそうした経緯を考えず神と祖先の好意を無視することですから、祓えないことはないにしても、大変な後戻りです。 生きている人で不要な人はいないので、それを自らが自らを不要な存在と宣言するのと同じですから、神と祖先への反抗とも言えるわけです。 自らの命を断つことが、自分や周囲の人の迷惑になることはあれ、何一つ救いになることはありません。 例え今の立場が周囲に迷惑を掛けているものであろうと、神と祖先への反抗の方が罪が重く、今の迷惑の何倍もの迷惑がかかると心得なければなりません。 先月号でも述べましたが、人は他人に迷惑を掛け恩義を受ける生き物です。 それを償うには神と社会に奉仕して、頂いたもの以上にお返しするという心掛けが大切です。 死ねば、大切なこの世で、もうかえすことが出来ません。 神に戴いた祝福された人生を共に喜び分かち合い、精一杯生き抜きましょう。