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*質疑応答  Q&A

祓いの字について
 今回のQ&Aは、元朝日新聞の校閲部の記者をしておられた方からの手紙にお答えしたものです。
 本院からの新聞チラシで、節分・厄祓いの案内に対して、自分のお名前・住所・立場を明らかにされての質問、と言うよりご指摘でした。
 私たちは神理教の教義を知っていても、それを場合に応じて具体的に使えるようになりたいものです。
Q.
 “おはらい”の時は“祓”の字でよいのですが、“やくばらい”の時は厄をはらいのけるので、“払”が正しいですよ。

A.
 私たち神理教では、“やくばらい”の時でも“祓”の字を使います。
 日本人が古くから信奉する神道の一派である神理教の教義に、言霊があります。
 言葉の本言(その言葉が本来持つ意味)と、呪力(例えば「お幸せに」という言葉がその作用を伴うといった)等を言いますが、ここでは 本言についてお話しします。

 質問者の『はらいのけるから』というのも言霊学から言う本言の一つです。
 神理教では、祓うの本言を『日(=霊=火)・顕せ』と説いています。
 簡単に言うと、もとは『日顕せ』と言っていたものが、言い慣らされるうちに『祓い』となったのだという説です。
 語呂合わせ、こじつけのようで、ご不審もあることでしょうが、言霊学の考えは本居宣長等の国学者も研究しているものです。
 祓いは神の力を戴いて、人が本来持っている神の分霊である霊=日=魂の火を顕すために罪・汚れを“はらう”ので“祓”という字を使っています。

          神理雑誌 編集部

自然(おのずから)(みち) 
                                                            彦

()(れい)(こころ)2

 (せん)(げつ)()(こう)(げん)(いん)として、ご(せん)()(れい)(こん)()(あん)(てい)から()(そん)()(こう)(あじ)わうことを4つほどあげてみました。 (こん)(げつ)はこの4つの(げん)(いん)への(たい)(しょ)(ほう)(かんが)えながら、()(れい)(こころ)(さぐ)ってゆきたいと(おも)います。@(せん)()からの(とく)()れる(なくなる)。

(わたし)()いことで()()ることはしますし、(わる)いことはしません。
 もちろん(しん)(こう)など、(いま)までの(しゅう)(かん)にないことをわざわざ()()ててする(ひつ)(よう)(かん)じませんが、(わる)いことが()こることはありません。まあ()(なか)(うん)ですから、ずっとこのままとは(かぎ)らないでしょうが、(いま)(こころ)がけを()える(ひつ)要は(かん)じません」という(ひと)がいます。
 (ひっ)(しゃ)もそんなことを(かんが)えていた()()がありました。 しかし、(わたし)たちは()(だん)(なに)()ない(げん)(どう)(あく)()があるように()()られたり、(ぜん)()でさえ()(かい)()けることもあります。 (のり)()に『…ゆくりなく(おか)しけむ (もろ)(もろ)(まが)(ごと)(つみ)(けが)れ…』とあるように、()(ぶん)では()()かずに()(にん)(きず)つけたり、(ぜん)()(こう)(どう)していても()(にん)(あく)()()()られ、(にく)しみや(うら)みを()けることがあります。
 こうした(にく)しみや(うら)みがしこりのように(のこ)ることを、(つみ)(けが)れというのです。 また、()(なか)にも(けい)()()(けい)()があるように、()(なか)(なみ)にのまれてもろくも(しず)んでしまうことがあります。 そうした()(たい)への(ぶっ)(しつ)(てき)(せい)(しん)(てき)(たい)(せい)(ねば)りが()(せん)(まも)りである、と(ほん)(きょう)では(かんが)えます。 (いま)、そうした()(せん)(まも)りの(うす)(ひと)(おお)いように(かん)じます。

 ご(せん)()(ぜん)(あく)(あい)(なか)ばした(こころ)がけや(こう)(どう)から、(とく)がない(じょう)(たい)、またはあっても()(そん)使(つか)()たした(じょう)(たい)(とく)()れるというのです。その(じょう)(たい)()(ぶん)()()くことが(だい)(いち)ですが、では()()いたときにどうすれば()いか。 (わたし)たちは、()(ひと)(めい)(わく)()けずに()きている、などということは(けっ)してなく、(たと)えば()()(もの)(いのち)()べずには()きられないし、(くるま)使(つか)うなど(かん)(きょう)(けが)さずに(せい)(かつ)できないし、(にん)(げん)(かん)(けい)(すべ)(たい)(とう)でないように(ちゅう)(さい)()(しょう)(にん)など(いっ)(ぽう)(てき)(ねが)(ごと)(そう)(だん)をせずに()(なか)()ごしてはゆけません。 ()(にん)(めい)(わく)()けるのなら()んだ(ほう)がよい、(など)というのは()(なか)(せつ)()をわきまえていない(かんが)(かた)です。 (わる)いことをして(めい)(わく)()けるのではなく、こうした(ねが)(ごと)(そう)(だん)(はじ)()(にん)()()()をを(わずら)わせるものがあります。
 こうした(めい)(わく)()けていけないものではなく、()けられる(めい)(わく)(えん)(りょ)をせずに()けた(ほう)()い、と(すこ)()(らく)(かんが)えてはいかがでしょうか。 ()(にん)のためにそうした(めい)(わく)(こうむ)(ひと)は、(とく)()めているのです。

 ()(にん)(めい)(わく)()けるいうことは()きていく(うえ)(ひつ)(ぜん)(もの)でありながら、()(にん)()けた(めい)(わく)(だれ)かに(かえ)してゆく、というのが(ほん)(らい)(ひと)()(かた)です。 ()けた(ほん)(にん)(かえ)すことが()()ないからしょうがないのではなく、(かえ)すのは()(ぶん)(まわ)りにいる(だれ)にでも(かえ)してゆくべきです。()らずに(めい)(わく)()けていることも()(しき)し、()けた(めい)(わく)より(おお)くのものを(しゃ)(かい)にお(かえ)し((ほう)())することを(こころ)()けましょう。 (きょう)(かい)(ほん)(いん)での(ほう)()(はじ)め、(いえ)(きょう)会や(ほん)(いん)()()わせることが、お(かえ)し((ほう)())の(れん)(しゅう)(こころ)()ましょう。
 (ほん)(いん)(かえ)られ(せい)(そう)(ほう)()をされる(かた)()(れい)()うと、「いいえ、(かえ)らせて(いただ)くこと()(たい)がただ(こころ)(たの)しく(うれ)しいし、(ほん)(とう)にここで(げん)()(いただ)きます」と()って(くだ)さいます。
 また、()(ぶん)()(しん)()(えき)のためだけに(こう)なっているつもりの()(ごと)が、(じつ)(しゃ)(かい)(やく)()っていたということもありますが、その(こころ)()(しゃ)(かい)(せい)(かつ)()かし、()(なか)(やく)()()()ちになることが(たい)(せつ)です。 そうすることで(かみ)(こころ)()(ちょう)()わせ(かみ)(ちから)(いただ)き、()(ぶん)()(ぶん)(いえ)(とく)()めることになるのです。

A(かみ)()(せん)からの(とく)()()える。 (せん)(げつ)書き()べたように、(かみ)()(せん)からの(とく)()()えるというのは、()(せん)(ひと)(はしら)または(ふく)(すう)(ばしら)、また()(ぶん)()(しん)(つみ)(けが)()まることから、(かみ)()(せん)からの(とく)(みち)()ざされてしまうことをいいます。(ほん)(きょう)(のり)()に『…(かご)()(もの)()(まえ)()ながら (たす)(まも)(こと)()さざる(くる)しき(なや)みを()け…』とあるように、()(そん)(くる)しみを()()しの()()ない(かご)(なか)(ろう)(ごく))から()るようなもので、なんとももどかしい(くる)しさを(あじ)わうことになります。

 ()(そん)(なに)をしてもうまくいかない、ということになります。B(とく)のないご(せん)()(みちび)かれる。 これも(せん)(げつ)()()べましたが、(とく)のないあるいは()(とく)(せん)()でも()(そん)(たい)(せつ)(おも)()()ちは(だれ)しも(おな)じですが、()(かく)しをして()(そん)(みちび)くようなものです。
 ()(そん)(なに)もせずとも(もの)(ごと)()くない(ほう)()いてゆく、ということになります。 ABについても()(ぶん)()()くことが(だい)(いち)ですが、では()()いたときにどうすれば()いか。 (おお)(もと)(かみ)である(てん)(ざい)(しょ)(じん)(せん)()(れい)(こん)(あん)(てい)をお(まつ)りをして(いの)る、ということを(おこな)うべきです。 お(まつ)りを(つう)じて(かみ)(ねが)うのが(いち)(ばん)(ほう)(ほう)である、と()(きょう)()(おし)えておられます。 ()(だん)()(せん)(ひと)とは(まも)(まも)られる(かん)(けい)にあるのですが、そのバランスが(くず)れると(りょう)(ほう)とも(わる)(じょう)(たい)へと()()んでゆくのです。 ()(せん)(ひと)両方(りょうほう)(あわ)せて(すく)えるのは(おお)(もと)(かみ)しかいないわけですが、そこに()()(まつ)りを(おこな)うのは、()きている(わたし)たちなのです。(しん)(とう)(せい)()(ゆう)(せん)するというのは、まず()きている(わたし)たちが(かみ)()(せん)からの(みち)(ただ)(たい)(せつ)さと(ほう)(ほう)()()(まつ)りを(じっ)(こう)しなければいけない、ということを(おし)えているのです。C(かみ)()(せん)からの(ばつ)ではなく、お()らせ・(うった)えがある。 (びょう)()(さい)(なん)(かみ)からのお()らせとして、()()めることが()()たときにどうすれば()いか。
 (ほん)(きょう)には『((じん)(たい)(ほん)(げん)(こう)(しん)()(こえ)』という、()(きょう)()(ちょ)(しょ)(もとの)()()(そう)(かん)がまとめなおした(ほん)があります。
 (びょう)()(さい)(なん)(いただ)いた(さい)には、それも(かみ)()(せん)のおはかりと()()めて(べん)(きょう)されたり、(ほん)(きょう)(きょう)()(せん)(せい)にお()きするなどされてはいかがでしょうか。

(おや)(なな)(ひか) (てん)(ざい)(しょ)(じん)(べつ)にして、(わたし)たちの(いち)(ばん)(まも)(がみ)はご(せん)()です。 (おや)(なな)(ひか)りとは、(ゆう)(りょく)(しゃ)やお(かね)()ちの()どもをうらやんだり(けい)(べつ)して使(つか)われることが(おお)いようですが、()(せん)(こころ)(さっ)するに()(せん)(ちから)にはおおいにすがるべきです。
 もちろん()(せん)(まも)りだけで(せい)(かつ)()()つわけではなく、()(そん)()(しん)()(りょく)(ひつ)(よう)です。 それぞれが()(りつ)しながらもお(たが)いを(まも)りあい、それが()()るように(おお)(もと)(てん)(ざい)(しょ)(じん)(いの)るというのが、(ひと)()(ぜん)()(かた)なのだと(おし)えられます。

神理

平成13年5月号
       第1047号

ライン45

       ***** 巻 頭 の言 葉 *****
 苦労はすればよいというものではない。
 苦労は不幸である。不幸と嘆けばさらに不幸になる。
 幸福である、と自分になげかけ、
 日々の些細な幸福を積み重ねる事こそが人生経験ではなかろうか。
 神様は、常に幸福を与えようと働いているのに、
 それを探し見つけることが出来ずにいることが多いのである。
     教祖御歌
          「ふしの間も 神の守りは 絶えぬなり
                  人は忘るる 時のありとも」 
ライン45

管長
かんなぎべ  たけひこ
巫部   健彦
       
  代々を経て 親より子へと おのづから
       伝はり来にし 道ぞ尊き
             
神理教管長  巫 部 健 彦                   
                                           
  春季大祭は、両日とも天候に恵まれ、多くの参拝者と共に、にぎわしく御奉仕することとな  
  りました。御神護が頂けたと感じているのは、当方一人だけではなく、参拝された方々すべて
  に共通する所かと思いますし、有り難い事と感謝している次第であります。
  そうした感謝の時が多ければ申し分ない訳ですが、我が国でも非人間的で残忍異様な犯罪が
  続出、教育改革が論議される中で、来年度から新教科書が採用される事となりましたが、その
  検定をめぐり、中国や韓国などまでが異義を唱え注文をつけている様であります。
  凡そ推測できるのは、その中国や韓国の歴史教科書が、殊更に失政や禍根の数々を特筆大書
  しているとは思われませんし、寧ろ国家の発展や民生の安定に貢献尽力という様子を、時には
  誇大に強調しているのではなかろうか?という点であります。 
  中には怨念を伝えるものも有るやに思われますが、発憤を促す効果は期待できても如何?と
  いう所であります。怨念や我が過去の非の逐一を話しても、我が子の健全な成長に役立つ訳で
  はなく、これは義務教育期間の教科書についても同様と申せます。
  我が国が、国際社会の中で先進国の一つに数えられるのは、長い歴史を通じて培われたもの 
  が有ったればこその結果と考えられます。教科書が、そうした我が国の姿を正当に伝えなかった
  為、異様な国状を招いた点は、否定しがたい所と受け止められます。
  尤も、我が国の歴史と共に、我々が重く考えねばならぬのは我が家の歴史であります。即ち
  ご先祖の遺徳を忘れてはならぬということであり、異様な国状を招いた原因としては、教科書
  よりも寧ろ、この点に欠ける家庭が増えた点を挙げるべきかと考えます。
  言うまでもなく教育の原点は家庭であり、その師は親でありますが、その師としての両親の 
  立場が『父母』ではなく『男女』という傾向にある点も、改められねばならぬ所と考えさせら
  れますし、そうした視点から我が家庭の在り方を改善する中で、我が子・若い世代・自分自
  身の健全な生活の実現に心掛けることが肝要と考えます。