管長 |
かんなぎべ たけひこ |
巫部 健彦 |
生きて世に 在らむ限りは 思ふべし |
な |
為すべき事の なお有る身ぞと |
神理教管長 巫部健彦 形あるものは滅すと言われておりますし、生あるものが死ぬのは、人知・人力の及ばぬ自然 な成り行きであります。しかも、生態系と言われる仕組みの中で、その死滅は、殆ど他者の生存 に貢献するという成り行きをたどっている!とされております。 倒壊した枯木が次第に腐蝕する中で、新しい若木を育てる原生林の歴史的な経過などを見て いますと、生きとし生けるものは、そうした枠組みの中で生々流転することになっている、と受け 止めざるを得ず、人類も決して例外ではないように考えさせられます。 尤も、『火葬』が行われる現代社会では、人間の死後が枯木同様とは申しかねますが、それに しても、その生存中の行為は、子孫や後継者に善悪いずれかの影響を与えますし、後世の人々 に反面教師的なものを含めての教訓を残す例も見られるという事であります。 つまり、お互い銘々は、他の生きとし生けるものと同じく、その生前・死後いずれの時点・場面 でも、何らかの形で必ず他者の生存に関与貢献しているという事になりますし、そうした貢献をす る為に只今を生きている、と考えることもできそうであります。 即ち、只今を生きているということは、他者の為に仕残した仕事がある!という意味合いを含ん でいるとも受け止められますし、大小・多少の相違は別問題として、他者の為に価値ある存在で ある故に生存している、と考えることも許されそうであります。 バブル崩壊の後始末に手こずって不況低迷が続く世情の中で、高齢者の自殺が年々に増加、 その数は既に交通事故による死亡者を超えるとの事であります。自ら死を選ぶ苦衷は推測同情 されぬでもありませんが,一途な思いに傾きすぎた面がある様にも思われます。 平素から、『生きる価値がある故に生きている』という受け止め方が出来ていれば、仮に窮地に 追い込まれても、一途な思いに傾きすぎる事なく、立ち直って御神護に感謝する日を迎えることが 可能になるかと思われます。そうした生き方を確かめることにも心がけながら、この四月の春季大祭 を奉仕致したいものであります。 |
幸 彦 |
それい こころ |
祖霊の心1 |
教師や教会関係の家のご 神理教には、 神なる お 仏教には 仏教本来の 日本人として天皇を ご 死後の世界にいるご もちろん人に 死というと 生きているときに それは、 本当の幸せとは何かというと 私たちは、本来神の こすような 不幸の原因 もし私たちが 本教の教義からその原因を考えると、@ご ご しくらいあっても私たち子孫が A神からの徳が ご 後の世界)にいるとき、 B徳のないご どんなご 良い方向に また、そういう子孫の C神・ 神や徳のあるご 私たちは、それを罰ではなく神やご ご そこでご ご 次に子孫に何を また、子孫が自分の力を 私たちは自分が幸せになりたいと思えば、ご ご では私たち でしょうか。 神理教の ( を 自分も不安ご |
***本教質疑応答*** Q&A |
犬猫の飼い方
Q.
子どもが仔犬をもらってきて、家の中で飼っています。
生後2ケ月まで玄関に置いていましたが、トイレのしつけもできたことで、段々とリビングへ上がってくるようになりました。
回りは自然もありますが、毛虫が非常に多く外に犬小屋を置くのは抵抗があります。
最近、神理教の先生に、
「本来犬というものは、外で飼うべきもので、家に入れるべきではない。
また、家畜などは様々な霊をもらいやすく祓うのが大変です。
せめて玄関で飼うようにした方がいいですよ」と言われました。
以前、神理雑誌で猫が家の神前に座っていてほほえましい様子が掲載されていました。
猫は家の中にいてよくて犬は駄目、と言うのは理不尽に感じます。
神理教の教えとして、本来はどうあるべきなのでしょう?
A.
まず御質問にお応えします。
基本的には、本教の教えとしてもその先生の言われる通り、と判断します。
古神道の考え方を伝える、神理教の教え。
人間が昔から交わってきた犬や猫、また牛や馬や豚や鶏やうさぎ、との関わり方。
最近見直されてきた、心を癒す部分でのペットやイルカなどとの関わり方。
そうしたものを比較しながら、では自分達はどうした関わり方をするべきかをご一緒に考えましょう。
神理教では、家畜(犬や猫他)を本言(その言葉が本来持つ意味)でキタリモノ(気・足り・物=生命を満ち足りるまでに戴いた物)と教えます。
人は天の気(神霊)を分け戴いた物であり、動物は地の気を分け戴いた物である、と考えるのです。
こんなことを言うと、ますます混乱してしまわれるでしょうか。
しかし、ここから考えるべきことは、神殿と霊殿を壁で仕切るように、人と動物もどこかで仕切りを付けておくことが必要だということになります。
御質問では犬と猫との話になりますが、今まで人間と付き合ってきた歴史を振り返ればいかがでしょうか。
“雪やコンコ…”の童謡にもありますように、雪が降ると犬は喜んで庭を駆け巡り、猫はコタツで丸くなる、とあります。
そんなもの(関わり方)ではなかったのでしょうか。
犬は昔は外にいたものだ、ということで、猫と犬との差別、という考え方ではないように感じます。
現在は癒しのために飼われることもあるので、犬の種類によっては猫的に?家の中で飼われることもあるのかもしれませんし、それが絶対に悪いと断言するものでもないように思います。
ただ衛生面には犬も猫も気をつけなければなりませんし、清潔を気にする人は動物の毛なども気になるものです。
動物を家で飼っている人もいるし、いない人もいるわけで、飼っていない人にとっては、犬でも猫でも家の中で飼うことに違和感がある人も多いでしょう。
そうした忠告をして下さるということは、自分は違和感を持っていなくとも、
「犬は外で飼うものという感覚の人がいて、その人達に気を使ってあげるのならば、外で飼えるものはそうした方が良いかもね」ということではないのでしょうか。
霊的な考え方については、やはり動物も感情を持つ生き物ですから、あまりに人間同様に扱うのも考えものです。
また、動物へ感情移入をし過ぎることへは、注意をするべきでしょう。
『せめて玄関で飼う方が…』と先生が言われたというのは、そうした意味でしょう。
神理教の祝詞にも、迷った魂というのは、木・石・水・土に付く、と教える部分があります。
それと同じように、犬・猫・蛇などに付くということもあるのです。
普段から大元の神への信仰を忘れず、人ともペットとも適度の付き合いをしてゆく、ということが大切のようですね。
神理雑誌 編集部