神理

平成13年4月号
       第1046号

ライン45

       ***** 巻 頭 の言 葉 *****
    
 人は感動を求めて、音楽を聴いたりスポーツや映画を観たり、
イベントに参加をしたりします。
 感動は、心を震わし心をみずみずしいものにしてくれるのです。
 感動のない人生なんてつまらないものはありません。
 感動する心は、人の心を潤す神様からの贈り物なのです。
 自分の周囲から感動を探すのも感動につながります。
 

ライン45
管長
かんなぎべ  たけひこ
巫部   健彦
  
 生きて世に  在らむ限りは  思ふべし 
       な      
     為すべき事の  なお有る身ぞと   
 神理教管長 巫部健彦

   形あるものは滅すと言われておりますし、生あるものが死ぬのは、人知・人力の及ばぬ自然
 な成り行きであります。しかも、生態系と言われる仕組みの中で、その死滅は、殆ど他者の生存
 に貢献するという成り行きをたどっている!とされております。
  倒壊した枯木が次第に腐蝕する中で、新しい若木を育てる原生林の歴史的な経過などを見て
 いますと、生きとし生けるものは、そうした枠組みの中で生々流転することになっている、と受け
 止めざるを得ず、人類も決して例外ではないように考えさせられます。
  尤も、『火葬』が行われる現代社会では、人間の死後が枯木同様とは申しかねますが、それに
 しても、その生存中の行為は、子孫や後継者に善悪いずれかの影響を与えますし、後世の人々
 に反面教師的なものを含めての教訓を残す例も見られるという事であります。
   つまり、お互い銘々は、他の生きとし生けるものと同じく、その生前・死後いずれの時点・場面
 でも、何らかの形で必ず他者の生存に関与貢献しているという事になりますし、そうした貢献をす
 る為に只今を生きている、と考えることもできそうであります。
  即ち、只今を生きているということは、他者の為に仕残した仕事がある!という意味合いを含ん
 でいるとも受け止められますし、大小・多少の相違は別問題として、他者の為に価値ある存在で
 ある故に生存している、と考えることも許されそうであります。
  バブル崩壊の後始末に手こずって不況低迷が続く世情の中で、高齢者の自殺が年々に増加、
 その数は既に交通事故による死亡者を超えるとの事であります。自ら死を選ぶ苦衷は推測同情
 されぬでもありませんが,一途な思いに傾きすぎた面がある様にも思われます。
  平素から、『生きる価値がある故に生きている』という受け止め方が出来ていれば、仮に窮地に
 追い込まれても、一途な思いに傾きすぎる事なく、立ち直って御神護に感謝する日を迎えることが
 可能になるかと思われます。そうした生き方を確かめることにも心がけながら、この四月の春季大祭
 を奉仕致したいものであります。

オノズの道

幸 彦

        それい   こころ
      祖霊の心1

()(れい)の心1

()霊祭(れい さい)

 本院(ほん いん)では、春分(しゅんぶん)の日と秋分(しゅうぶん)の日に()霊祭(れい さい)があり、(ほん)殿(でん)の左右に(まつ)られる(せん)()をお(まい)りします。

 教師や教会関係の家のご(せん)()は向かって右、(ほん)(いん)(ちょく)(ぞく)教徒(きょう と)の家のご(せん)()は向かって左に(まつ)られます。

 神理教には、(てん)(ざい)(しょ)(じん)を通じて(せん)()(れい)(こん)(みたま)の(あん)(てい)(いの)るという教えがありますから、教徒(きょう と)以外の方でも安心してご参拝(さん ぱい)下さい。

 神なる()(ぜん)()(せん)を大切にし、その()(せん)の守りにより生活ができる、というのが日本人の(しん)(こう)・心のよりどころともいうべきものです。

 ()(れい)(さい)は、ご(せん)()霊魂(れい こん)(あん)(てい)(いの)り、ご(せん)()の前で楽しく食事をする姿(すがた)を見て安心して頂き、そのご守護(しゅ ご)を願うものです。

(せん)()(まつ)りの(はじ)まり

 お(てら)でも彼岸(ひ  がん)のお参りがあるようで、夏のお(ぼん)とともに(ぶっ)(きょう)()(せん)を大事にする始まりのように思われがちですが、(じつ)は違います。

 仏教には元々(もと もと)祖先(そ  せん)崇拝(すう はい)という考え方はなく、(でん)(らい)したときに()(せん)を大切にする日本人の姿(すがた)を見て、()(せん)祭りをしないとこの国に(しん)(とう)できないという(はん)(だん)があったようです。

 仏教本来の釈迦(しゃ か)を中心にする(きょう)()は、日本の(てん)(のう)を心の中心として()(せん)を大切にする考え方とは(こん)(ぽん)(てき)(あい)()れないところがあるようです。

 日本人として天皇を(けい)(あい)する習性(しゅうせい)を持ちながら、()(ろん)(じょう)からはその()(てい)をせざるを得ない(かっ)(とう)や、(せん)()祭りの(せん)(もん)()のようでありながら生まれ変わりなどという個人中心の(きょう)()との()()(かん)(おぼ)えます。

 (せん)()を大切にするのは、例えば日本の古い形が残るとされる(おき)(なわ)習俗(しゅうぞく)のように、日本人が(ほん)(らい)強く持っている、いわば(しん)(とう)の考え方なのです。

(せん)()の幸せ

 死後の世界にいるご(せん)()にも、喜び楽しみはあるのでしょうか。

 もちろん人に()(せい)があるように、ご(せん)()のお考えも(いち)(よう)ではありませんが、その点本教の(きょう)()は、(おお)(かた)のお(こた)えをすることができます。

 死というと(おそ)ろしさとか(つら)さや(くる)しさを(れん)(そう)しがちですが、本教ではそればかりとは考えません。

 生きているときに(たの)しみがあるように、死後も楽しみはあるのです。

 それは、()(そん)()(まも)るという楽しみで、生まれ変わってしまってはできないことです。

 ()(じん)こじんが生まれ()わって行きながらその目的を(たっ)(せい)するのではなく、家族・社会そして(せん)()ぐるみで、人が(ほん)(らい)()るべき本当の(しあわ)せを(もと)める、というものなのです。

 

 本当の幸せとは何かというと(じゅう)(じつ)した(あん)(しん)であり、(ほん)(きょう)(りゅう)に言うならばご(せん)()と自分(れい)(こん)(あん)(てい)であり、すなわち神の心と(いっ)()することなのです。

 私たちは、本来神の(ぶん)(れい)(わけみたま)なのですから。

 (けっ)して自分以外の人の(きょう)(せい)(きゅう)(さい)のためと(しょう)して行う、(せん)(のう)(しょう)(がい)()(けん)を起

こすような()(げき)(もと)めるものではありません。

不幸の原因

 もし私たちが(だれ)にも(めい)(わく)をかけない(そんなことないのですが)生活をしていたとしても、ご(せん)()(れい)魂の()(あん)(てい)が原因で、不幸を(あじ)わうことがあります。

 本教の教義からその原因を考えると、@(せん)()(とく)()れる(なくなる)。

 ご(せん)()(とく)がない、つまり私たちのご(せん)()(せい)(ぜん)(こう)()(ぜん)(あく)(あい)(なか)ばし{少

しくらいあっても私たち子孫が使(つか)()たし}(とく)()(とく)()が少ないとき、世の中の(なみ)()(ゆう)され()(こう)(あじ)わうことがあります。

A神からの徳が()()える。

 ご(せん)()(私たち子孫}が(せい)(ぜん)に大きな(つみ)(おか)し、(こころ)()(ちが)いのままで(かく)(りよ)(死

後の世界)にいるとき、(おお)(もと)の神から()(せん)を通じて(いただ)く徳を()()れさせてしまいます。

B徳のないご(せん)()(みちび)かれる。

 どんなご(せん)()でも()(そん)を守ろうとされるものですが、徳のない・また(れい)魂の安定していなご(せん)()の守りは()(かく)しをして子孫を(みちび)くようなものです。

 

 良い方向に(みちび)くつもりが、反対に(がけ)()(けん)な方向に押しやってしまうことになるのです。

 また、そういう子孫の姿(すがた)を目の前に見ながら助け守ることができないという、(くや)しさを味わうことになるです。

C神・()(せん)からの(ばつ)ではなく、お知らせ・(うった)えがある。

 神や徳のあるご(せん)()から病気や(さい)(なん)を通して、私たちにお知らせがあることがあります。

 私たちは、それを罰ではなく神やご(せん)()からのお知らせとして受け止め、そのお心を(うかが)う心持ちで、(みずか)らの行動や、(せん)()げた()(せん)の魂の静まりどころを()(かえ)る心がけが大切です。

(せん)()(のぞ)み(()(れい)の心)

 そこでご(せん)()は、()()の自分がどうあることを(のぞ)み、()(そん)の私たちに何をして()しいと思われているのでしょうか。

 ご(せん)()自身は()(そん)(はん)(えい)を見て楽しむとともに、その繁栄に守りを()えたいと願われるのです。

 次に子孫に何を(のぞ)むのかというと、ご(せん)()()(しん)が正しく守りが添えられるように、その(れい)(こん)(あん)(てい)(おお)(もと)の神に(いの)って()しいということです。

 また、子孫が自分の力を(はっ)()して安定した生活を()ごす姿(すがた)を見て、(せん)()自身も安心したいと(のぞ)まれているのです。

 私たちは自分が幸せになりたいと思えば、ご(せん)()(れい)(こん)(あん)(てい)(てん)(ざい)(しょ)(じん)

(いの)り、ご(せん)()(れい)魂を安定させたいと思えば、自分たちの幸せな姿(すがた)を見ていただき安心して(いただ)けば良い、ということになります。

(せん)()の望みに応えるために

 では私たち()(そん)は、ご(せん)()(のぞ)みに(こた)えるために()(たい)(てき)に何をするべきなの

でしょうか。

 神理教の(きょう)()の話からさせて頂くと、私たちと()(せん)()(こん)(くわ)しくは別の()(かい)に)の(しず)まり(どころ)である、本院や教会((さき)(みたま))・地元の()()(がみ)である(うぶ)(すな)(じん)(じゃ)

(にご)(みたま))・お(はか)(あら)(みたま))・家の(しん)殿(でん)または(れい)殿(でん)(くし)(みたま))にご()(れい)がないか

()(かえ)り、お参りを()かさず心の(つな)がりが切れないようにすることです。

 

 自分も不安ご(せん)()(れい)魂も不安定な時には大元の神に祈り、まずご(せん)()の安定を、(つぎ)にそのご(せん)()の守りを祈ることが()(せん)の心に応えることになるのです。

 (さき)(みたま)(しず)まり(どころ)、本院の春の(たい)(さい)のお帰りをお待ちします。    つづく

 
***本教質疑応答***
       Q&A

 犬猫の飼い方
Q.
 子どもが仔犬をもらってきて、家の中で飼っています。
 生後2ケ月まで玄関に置いていましたが、トイレのしつけもできたことで、段々とリビングへ上がってくるようになりました。
 回りは自然もありますが、毛虫が非常に多く外に犬小屋を置くのは抵抗があります。

 最近、神理教の先生に、
「本来犬というものは、外で飼うべきもので、家に入れるべきではない。
 また、家畜などは様々な霊をもらいやすく祓うのが大変です。
 せめて玄関で飼うようにした方がいいですよ」と言われました。
 以前、神理雑誌で猫が家の神前に座っていてほほえましい様子が掲載されていました。
 猫は家の中にいてよくて犬は駄目、と言うのは理不尽に感じます。
 神理教の教えとして、本来はどうあるべきなのでしょう?
A.
 まず御質問にお応えします。
 基本的には、本教の教えとしてもその先生の言われる通り、と判断します。

 古神道の考え方を伝える、神理教の教え。
 人間が昔から交わってきた犬や猫、また牛や馬や豚や鶏やうさぎ、との関わり方。
 最近見直されてきた、心を癒す部分でのペットやイルカなどとの関わり方。
 そうしたものを比較しながら、では自分達はどうした関わり方をするべきかをご一緒に考えましょう。

 神理教では、家畜(犬や猫他)を本言(その言葉が本来持つ意味)でキタリモノ(気・足り・物=生命を満ち足りるまでに戴いた物)と教えます。
 人は天の気(神霊)を分け戴いた物であり、動物は地の気を分け戴いた物である、と考えるのです。
 こんなことを言うと、ますます混乱してしまわれるでしょうか。
 しかし、ここから考えるべきことは、神殿と霊殿を壁で仕切るように、人と動物もどこかで仕切りを付けておくことが必要だということになります。

 御質問では犬と猫との話になりますが、今まで人間と付き合ってきた歴史を振り返ればいかがでしょうか。
“雪やコンコ…”の童謡にもありますように、雪が降ると犬は喜んで庭を駆け巡り、猫はコタツで丸くなる、とあります。
 そんなもの(関わり方)ではなかったのでしょうか。
 犬は昔は外にいたものだ、ということで、猫と犬との差別、という考え方ではないように感じます。

 現在は癒しのために飼われることもあるので、犬の種類によっては猫的に?家の中で飼われることもあるのかもしれませんし、それが絶対に悪いと断言するものでもないように思います。

 ただ衛生面には犬も猫も気をつけなければなりませんし、清潔を気にする人は動物の毛なども気になるものです。
 動物を家で飼っている人もいるし、いない人もいるわけで、飼っていない人にとっては、犬でも猫でも家の中で飼うことに違和感がある人も多いでしょう。
 そうした忠告をして下さるということは、自分は違和感を持っていなくとも、
「犬は外で飼うものという感覚の人がいて、その人達に気を使ってあげるのならば、外で飼えるものはそうした方が良いかもね」ということではないのでしょうか。

 霊的な考え方については、やはり動物も感情を持つ生き物ですから、あまりに人間同様に扱うのも考えものです。
 また、動物へ感情移入をし過ぎることへは、注意をするべきでしょう。
『せめて玄関で飼う方が…』と先生が言われたというのは、そうした意味でしょう。

 神理教の祝詞にも、迷った魂というのは、木・石・水・土に付く、と教える部分があります。
 それと同じように、犬・猫・蛇などに付くということもあるのです。

 普段から大元の神への信仰を忘れず、人ともペットとも適度の付き合いをしてゆく、ということが大切のようですね。

         神理雑誌 編集部
 

戻る