管長 |
かんなぎべ たけひこ |
巫部 健彦 |
あらは いま い み |
現れて 今を生きゆく 身なれども |
あらは よ し し |
現れいでし 由縁は知らなく |
神理教管長 巫 部 健 彦 お互いには両親があり、その子として生まれ、現に只今を生きている事は、まぎれもない事実であります。 又、それぞれの環境や志向に相違はありながらも、それぞれなりに、もっと暮らしやすい生活環境!を求めつつ努力しているのも、間違いのない所と思われます。 尤も、お互いは自分の意志で生まれた訳ではなく、従って目的意識のないまま生まれたという事であります。即ち、お互いが現在の時点で意識している目的・目標は、生まれた後に得た知識により、銘々なりに選び求め考え定めたもの!と申す事が出来ます。 その様に、お互いが意識している目的・目標は、銘々なりに選び求め考え定めたものであるため、相互間に摩擦や衝突が生じるのは寧ろ当然の所であり、成り行き上、不穏な生活環境や険悪な社会環境が招来される事にもなっている、という始末であります。 それにしても、もっと暮らしやすい生活環境!を一致して誰もが求めているのは奇妙な所でありますし、それにも関わらず摩擦や衝突が生じ、不穏な生活環境や険悪な社会環境が招来されているという成り行きも、思い合わせるほどに不思議に感じられます。 恐らく、摩擦や衝突が生じるのは、もっと暮らしやすい生活環境!なるものが、自己中心の狭い範囲と短期間に限られている故の事と考えられますし、もっと高い視点から配慮を広範囲と長期間に及ぼさぬ限り、解消できがたい所かと考えさせられます。 又、もっと暮らしやすい生活環境!を一致して誰もが求めているのは、意識する以前から生まれながらに備わったものであり、それは共生共存と向上発展に不可欠なものとして、生かされるものに与えられた資質!と受け止めるべきかと感じさせられます。 我々としては、そうした資質が備わっているという認識を基点として、何故に生まれ何故に生きているかを考察し、どの様に生きゆくべきかを模索し、誰もが暮らしやすい環境!の醸成と拡張を志向しつつ努力する事になれば、生き甲斐が実感できる場面の展開が可能となるに相違なく、そうした人生の開拓に協調尽力いたしたいものと願っております。 |
幸 彦 |
理想の親・教師・社会人像 |
ホームページを御存じですか。 知らせたい情報をパソコンと電話回線を通じて公開すれば、誰からでも見て頂くことができる、というものです。 本教は昨年一月にホームページを作って、写真入りで神理教を説明していますし、最近は英語版も作りましたので周囲の方へも御紹介下さい。 またリンクといって本教に関連した団体や、神理雑誌の内容を紹介するボランティア(自主的な奉仕)のホームページにつなぐことができます。 インターネットを開いて『神理教』で呼ぶか、本誌の最後に記載してある アドレス(インターネットの中での住所)を入力すれば、画面が出てきます。 未来委員会の提案で開設以来、まだ少ないものの二千件のアクセス(見て頂くこと)があります。 ここからは、郵便ポストのマークをクリック(押す)すれば神理教へつながり、御質問や御意見を送って頂くこともできます。 筆者の家もパソコンをリース(借りる)契約しましたが、子どもが神理教のホームページを見つけ連絡をくれることがあります。 昨年末は今と季節違いですが、クリスマスを前に小学校三年の筆者の子どもから質問がきました。 『お父さんは、サンタを信じてますか?』ですが、宗旨も違うので難しい問題ですよね。筆者は、 『神様と同じで、いないと思えばいないのだけど、それはお父さんやお母さんの愛情をないと思うのと同じで、とってもさびしい心の持ち方だよね。あなたがお父さんお母さん、また友達のことを優しく思う気持ちが有る限り、神様もサンタクロースも、きっとあなたのことを見守っているのだよ』と答えましたが、分かってくれたかどうか。 ただ、子どもには教えるつもりで随分考えさせられるし、ということは自分が教えられることなのかな、と考えます。 ここでやっと本題に入るのですが、神理教の教師また学校の教師、仕事上の教える立場また家庭での親の立場について考えることがあります。 最後の“家庭での親の立場”からいうと、子どもというのは実にいろいろなことを親に考えさせてくれるものだ、ということです。 子どもは私たちより純粋な気持ちで聞くのでしょうが、私たちにしてみると問われるまで思いも考えもしなかった新鮮な疑問です。 あるいは、子どもの時には考えていたかもしれないけれど分からなかったことを、大人の頭で考えさせてくれるものです。 言ってみて後で反省もします。 『神をサンタといっしょくたにして“…いないと思えばいない…”などと言ってしまったものの、もう少し正確な言い方はなかったのかな。 訂正する機会はないかな』など、結構頭を使わせてもらうものです。 親にとって子どもは、教える対象というよりも、共に育つことにより自分にとっての先生でもあるといえます。 神理教の教師にしても始めから偉いわけではなく、信者さんの悩みを聞き神に祈ると共に解決への糸口を探してゆくうちに、段々と教師としての実力がつき人格が高まり、信者さんを一層の安心に導く力がついてゆくのです。 神理教の教えを説かれあるいは神術に救われ、目から鱗の落ちるように神と祖先と人との関わりが理解でき、真実の一端が心に掛かり人生の幅が一度に広がるような思いをさせて頂いた時、その先生は恩師となります。 次に、その教えを世の為・人の為に活かし使うことが、損得抜きで私たちの本来の役割と考えることができるならば、信者さんというのはただ与える対象のみでなく、また教師の生活の為だけのものではない、ということが分かります。 神理教の教師にとって信者さんは、救う対象というよりも、苦しみや悲しみを共感することにより、自分を高める先生でもあるといえます。 学校の教師にしても、難しい就職試験に通ったからいきなり優秀な教師というわけでもなく、教える技術が上手になったといって、それで十分ということはありません。 教えるものは知識だけでなく、優しさや他人の心を汲み取る柔軟な心などの人間性もあることに気が付けば、自分自身の成長ということは常に心掛けておかねばならないことです。 生徒の求めるものは、知識のみでなくそれを自分の人生に活かす考え方、身の回りの社会生活の処し方と多様ですから、正面から生徒に向かうことになれば、広くて深い人格を養わねばなりません。 学校の教師にとって生徒は、教える対象というよりも、知識と人生の基礎が分かる喜びを分かち合うことにより、自分を高める先生でもあるといえます。 社会においても、仕事や顧客は社会の状況に常に変化をするのものですから、常に柔軟な考え方をもって自分自身を変革していかなければ、たちまちのうちに生活に行き詰まることになります。 しかし、生活の為に仕事をしているように思っていても、社会に必要な仕事というものは必ず社会の役に立っていることも忘れてはなりません。 社会人にとって仕事や顧客は、要望に応え生活をする為の対象というよりも、知識を取り入れながら流動する社会情勢を機敏に活用しなければならないことを考えると、自分の意識や技術を高める先生でもあるといえます。 子ども・信者・生徒・顧客と、皆それぞれの興味や不可欠の願いや知識や要望をもって真剣に問われるのですから、それに真摯に応えようとすれば、そこには学ぶ姿勢が必要になります。 成果や上司や周囲の人を気にし過ぎると、知識の植え付けや物品の売り付けに終わってしまい、自由な心を忘れ本質を見失ってしまいます。 理想の親・教師・社会人像というのは、単に教えてあげる、救ってあげる、売ってあげるというのではなく、子ども・信者・生徒・顧客から学ぶ意欲 のある人ではないでしょうか。 |